いたします。 もち よ 「非」はあらずと訓み、多くの場合、否定の意味に用います。しかし、非僧・非俗という ふうに、正と反の双方をともに打ち消す場合の非は、たんなる否定ではありません。両者 アウフヘーベン をより高い立場で統一して、新しい意味と価値づけをいたします。すなわち止揚する機 らき 能が「非」です。 ひうひむ そのよい先例に「非有非無 ( 有るのでもない、無いのでもないこと ) 」という、「非僧非 おうじようようしゅう げんしん そうづ 俗 , と同じ型の熟語が源信 ( 恵心 ) 僧都 ( 九四二ー一〇一七年 ) の名著の『往生要集』 に見えます。『往生要集』は平安中期を代表する浄土教の教典で、わが国だけでなく当時 の中国にも知られた大著です。 とら 「非有非無」も有と無とを止揚して、有無のいずれにも執われないところに真理のあるこ ーベンの機能を持っている とを示します。このように「非」には、論理学の上でアウフへ のです。 ぞうけい もりまさひろ 森政弘先生 ( 一九二七年ー ) は著名なロポット工学者ですが、仏教思想にも深い造詣を お持ちです。先生に『非まじめのすすめ』 ( 講談社刊 ) という名著があります。同書の文 庫版の「あとがきーに記されている「非ーについての先生のお話を伺いましよう。 はた
なく、固有名詞の「親鸞」で称するところに、ずしりとした発言の重さと責任感が伝わっ てまいります。この意味で「いはんや悪人をや」の悪人は、いわゆる不特定多数の一般謐 ではなく親鸞自身に外なりません。親鸞自身が往生をとげ得るよろこびを、感謝の念で叫 ぶのです。そして親鸞は言葉をつづけます。 お、つじよ、つ ぜんにん こ、まんや善人を しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いカ ( し ( しゅ ほんがんたりき いったん 本 や」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。 の 仏 ( 「歎異抄」第三条 ) 陀 弥 ( それなのに、世間の人はきまってこういう。「悪人でさえ極楽往生ができる。まして と。この発言は一応もっとものようだが、それ 善人が往生できるのは言を待たない は阿弥陀仏の本願に副うものではない ) 機 人 、こ、まんや善人をやーの考 私も親鸞の説を聞くまでは、やはり「悪人なお往生す、いカ冫し。 章え方を持っていました。親鸞のいう「世のひとつねにいはく」は、私を含めて常識や道徳 の見解にすぎないのです。常識も道徳も大切ですが、さらに常識や道徳を批判する、より
ぼんのうぐそくぼんぶおお て、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、 われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおばゆるなり。 ( 「歎異抄」第九条 ) おど ( よくよく考えると、往生は、天に踊り、地に踊りあがるほどに喜ぶべきことです。 それが喜べないことで、いよいよ往生は確実である、と私 ( 親鸞 ) は思っている。往 おさ 生を喜ぶべき心を抑えつけて喜ばせないのは、煩悩のしわざだ。しかし、仏は前々か らこのことを知っておられて、「煩悩具足の凡夫ーとおっしやっておられる。ゆえに、 阿弥陀仏の救いの誓願の力は、このような私たちのためなのだ、とわかってきて、 よいよ頼もしく思われるのだ ) 「お浄土へ往生させていただけるのは、この上ない喜びであるはずだ。それが喜べない矛 盾を感じることで、いよいよ往生は確実であるー との親鸞の言に、それこそ矛盾を感じるので、親鸞の反語であるとする説もあります。 しかし私は反語ではなく、自分の体験を親鸞は、ありのままに唯円に語っているのだと思 います。
せんじゅねんぶつ それよりも日蓮誕生の年に、またも「専修念仏ーに禁止令が出されたことが、信者に大 きな影響を与えたのでしよう。「専修念仏」というのは、法然・親鸞の教えで、「ほかの修 行は一切せず、専ら阿弥陀仏の名号を称えることーです。 念仏よりほかに往生の道はない こうした社会情勢と善鸞らの言動が、純真な門徒をどんなに動揺させ、不安をつのらせ こかは計りしれません。それは、『歎異抄』のこの条 ( 第二条 ) の冒頭に、 しんみよう じゅうよかこく おのおの十余箇国のさかひ ( 境 ) をこ ( 越 ) えて、身命をかえりみずして、たづね おうじよう′」くらく おん きたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを間ひきかんがた ( 「歎異抄」第ニ条 ) めなり。 ( みなさん方が、それそれ十以上の国境を越えて、身の危険をもかえりみずに、私を 訪ねてくださる目的は、ただ極楽に往生する道を、私に問いただすためでしよう ) とあるのを見ても明らかに知れます。 もつば 176
ひたち 「十余箇国」とあるのは、当時の彼らの住む常陸から、親鸞の居住する京都に行きつくま しもうさむさしさがみ ずするが とおとうみみかわおわり でに通過する国々、つまり、下総・武蔵・相模・伊豆・駿河・遠江・三河・尾張・伊 ・醇・山城をさします。おそらく東海道を十数日を歩いたと思われます。この旅の長 さと困難を、親鸞はいたわりながら言うのです。 親鸞は彼らをいたわりながらも、親鸞来訪の目的は、ただただ「往生極楽のみちを、と 道ひきかんがためなり」と、認めます。 そこには言外に「それに間違いはないな」との、厳しいまなざしが感じられます。遙か 」な関東から苦難の旅を続けて、休む暇を持たない門徒に対する親鸞の答えは、きわめて冷 ややかです。 ぞんじ お , つじよう ほうもんと、つ しかるに、念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等 ( 経典や註釈書 の類 ) をもし ( 知 ) りたるらんと、こころにくく ( 期待するさま ) おばしめ ( 思し 召 ) しておはしましてはん ( 侍 ) べらんは、おお ( 大 ) きなるあやま ( 誤 ) りなり。 章 ( 「歎異抄 , 第ニ条 ) ( もしも私が念仏のほかに、往生の道を知っており、あるいは経典等を私が知ってい はる 177
すなわち「念仏、は、阿弥陀仏の徳 ( はたらき ) を、つねに心に思い浮かべて忘れない ことですから、沈黙して心中に仏徳を想い続けて忘れないのをいいます。 「称名」はその文字が示すように、仏の名を口に出して称えることです。念仏は意の業 く′」、つ ′」う ( おこない ) で、称名はロの業のロ業です。 ぜんどう 中国の浄土思想の大成者であり、先に記した七高僧の第五祖でもある善導 ( 六一三 5 会 出八一年 ) は「思。「 ( 憶念とロ称は同一である ) 」と提唱します。善導の念声是一の思想 が、日本の浄土宗の開祖の法然と、その弟子・親鸞はじめ、その門下に伝承されたこと は、すでに学びました。 の確かに仏の徳を心に想い浮かべて忘れない憶念 ( 念仏 ) よりも、ロで仏の名を称えるほ のこ いちまいきしようもん うが、はるかにやさしい。法然は『一枚起請文』に次のように遺します。 ウタガイ オウジョウゴクラク タダ往生極楽ノタメ = ( 、南無阿弥陀仏ト申シテ、疑ナク往生スルゾト、オモ ( 思 ) ヒ シサイ ホカ トリテ ( 念仏 ) 申ス外ニハ別ノ仔細候ハズ 章 ( ただ、南無阿弥陀仏と念仏申すなら、間違いなく極楽に往生できると信じて、念仏申す以外 別にむずかしいことはない ) 205
ります。今も劫争いの真最中です。 人間は生きる限り、迷いを離れることは、文字どおり永劫にかけて有り得ないのは悲し いことです。 しゆい 、という阿弥陀仏の思惟の誓願もま しかし、永劫の苦悩から人間を救わずにはおかない た、永劫に、つまり五劫につながる事実を実感します。 はレ 12 リ すべての人を救えなければ、仏にならぬ おうじよ、つ ねんぶつ みだせいがんふしぎ 弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏 せっしゅふしやりやく 申さんとおもひたっこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけし めたまふなり。 ( 「歎異抄」第一条 ) ( 阿弥陀仏が発された、はかり知れない大きな誓願のおかげで、極楽に往生できるの だと信ずる心と、念仏を称えたいとの心が起きたそのときこそ、一切の人びとを救わ ずにはおかぬ、という阿弥陀仏の恵みに包まれるのである ) おこ いっさい 244
カくしよう なんとほくれい もししからば、南都北嶺にもゆゅしき ( 極めてすぐれた ) 学生 ( 学者 ) たち、お よ、つ そうろ ほく座せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよ ( 「歎異抄」第ニ条 ) くき ( 聞 ) かるべきなり。 親鸞は「念仏よりほかに往生の道や、経文の道を知りたいのなら、私にではなく、南都 北嶺にいらっしやる、有名な学者に尋ねるがよろしい」と言い切ります。 モノローグ この断言が「親鸞におきてはという独白 ( Ⅲページ ) に重さを加えています。 確固たる親鸞の信心 私は、この「親鸞におきては」の一言を注視いたします。親鸞は『歎異抄』をはじめ、 その著書において、自身のことを「私は」という代名詞を使わずに、「親鸞はーと、かな らず自分の名を称する例を先に掲げました ( ページ参照 ) 。 ここの一節は『歎異抄』の中でも、きわめて格調が高いので、原文を読んでみましょ おわ 180
( 「歎異抄」第十三条 ) ( わたしどもが、自分の心が善なら、極楽往生にとって善となり、自分の心が悪な ら、往生に悪い、と思いこんでいるので、善悪を差別することなく救いとるという、 阿弥陀仏のせつかくの本願を、わたしたちが知らないでいるのを、指摘されたのでし の き少し言葉を足すと、業縁は、現在ならともかく、自分の誕生前の行為であって、自分の 力でどうにもなるものではありません。その望みなき者に対する救いを本願とするのが阿 弥陀仏です。 この本願のあることを忘れて、現実という舞台で、善悪をあれこれと論ずることの愚か 人 さを示唆するのです。それよりもすべてを阿弥陀仏にお任せして、念仏を唱えさせてもら いなさい、との親鸞の教えに気づいた唯円が、このように記すのです。 愚 親鸞は、救われようのない者に対する救いが、他カ ( 阿弥陀仏 ) の本願 ( 本来・中心の誓 章願 ) であると教えます。 私たちが業縁を承け継いでいる限り、徹底的に悪を止め善を行なうことは不可能です。 123
ねんぶつ お一つじよう 6 章「念仏」ーー往生へのただ一つの道 みようごうおのれ 名号と己が、一体となる世界を目指して