禿」の二字が彼の心中にも深く刻まれていたことでしよう。 ぐとく 最澄は「塵禿」と自分を卑しめましたが、「愚禿」の呼称は親鸞以前にはないので、こ の呼称は親鸞の造語とするのが、仏教学者の定見のようです。 しかし、親鸞が愚禿と自称し自書するいわれは、たんなる権威への反抗や、謙遶ではな ぐとくひたんじゅっかい 、深い信心からのうめきから生まれたものです。それは、彼の詠む「愚禿悲歎述懐ー ので知れます。 も じようどしんしゆき 浄土真宗に帰すれども の しん 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 人 しようじよ、つしん 清浄の心もさらになし 禿 愚 章 ( 『正像末浄土和讃』『親鸞和讃集』岩波文庫・ページ ) ここでの「浄土真宗」は、法然の説く阿弥陀仏の本願を信じて、真実の浄土に生まれる 道を教える真実の宗教という意味です。現在の教団名の「浄土真宗」をいっているのでは
きようしんしやみ ぎひょう る儀を表して、教信沙弥のごとくなるべしと云々。 うしぬすびと これによりて、「たとひ牛盗人 ( 人を罵るに用いたことば ) とはいはるとも、 ごせしゃ ぜんにん もし ( く ) は善人、もし ( く ) は後世者 ( いかにも来世を願っている者らしくふる ふるま ぶっぽうしゃ まう ) 、もし ( く ) は仏法者 ( 仏の教えを信ずる者 ) とみゆるやうに振舞ふべから ( 『浄土真宗聖典』盟ページ ) す」と仰せあり。 地 境 じよ、つ 親鸞が平素ロぐせのように言われたのが、「わたしは賀古の教信沙弥の定なり ( 如くで え 超ある ) 」であり、親鸞は自分のすべてを教信沙弥に投げこんで、教信と一体になるのです。 したた 着そして親鸞は「承元の法難」を縁として、みずから「愚禿」と認めるようになった、とい うのです。 この説は具体的で、昔から浄土真宗では、教信沙弥の徳が讃えられています。親鸞の 俗 「非僧非俗 , の理想が、教信沙弥の生き方にあることは論を待たないでしよう。 章「非」という一字が持つはたらき 私は、親鸞の教信沙弥への傾倒を信ずるとともに、「非僧非俗」の「非」の一字を重視 おお たた 165
現世の救いも説く浄土経 ど じよ、つどしんしゅ、つ こんじよ、フほんがんしん 「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとなら そ、つろ こしよ、フにん おお ( 「歎異抄」第十五条 ) ひ候うぞ」とこそ、故聖人 ( 親鸞 ) の仰せには候ひしか。 ( 法然上人の開かれた、浄土教の教えの根本は、こうです。「この世では阿弥陀仏の このように ( 法然上人か 本願を信じ、かの土 ( 浄土 ) に行ってさとりをひらく ら ) 教えを受けました、と師の親鸞は仰せでした ) 『歎異抄』第十五条の、唯円の結びの言葉です。 「浄土真宗」といっても、現在の教団名ではありません。法然の説く浄土教の真髄です。 が私が親鸞の語をここに引くのも、彼が示す浄土教の真骨頂を学ぶためです。 こんじようしんじんけつじよう 一親鸞は、ここで「今生の信心決定」をまず説きます。すなわち今生 ( この世 ) におい 鸞あみだぶつ 親て阿弥陀仏の本願を信じ、阿弥陀仏の名号を称えるなら、この世において、生きながらに 章如来と等しい徳に恵まれる、そして、命終えた後はあの世でとりを開くと説きます。 らいしよ、つ力しカく しいます。つまり「現当 これを「来生の開覚 ( 未来の浄土で開悟して仏と成ること ) 」と、 ・けんと、つ 259
に、来世の存在を信じます。 昨日があるから今日が、今日があるから明日があるのです。過去の世があるから現在の 世があり、現世があるから来世があるのです。 私が来世の存在を信ずるのは、この簡単な理由からです。 本書中、『歎異抄』をはじめとする親鸞のことばの引用は、とく にお断わりした箇所を除き『浄土真宗聖典』 ( 本願寺出版部刊 ) に基 づきました ( 編集部 ) 。 264
そむ ただ親鸞のいう「悪人ーは、世間的なわるものでも、また法律に背く犯罪人や、倫理に える悪徳者でもありません。悪人は、親鷺の宗教的体験に基づく用語なので、学者によ きざ って多くの解説があります。しかし今も私の印象に深く刻みこまれているのは、浄土真宗 うめはらしんりゅうし 本願寺派の僧侶で宗教学者の梅原真隆師 ( 一八八五ー一九六六年 ) の「悪人説」です。 師は、水平社 ( 一九二二年に結成された部落解放運動の全国組織 ) 創立の頃から、早くも 国民懺悔の立場から融和運動を提唱し、一九二四年に結成された本願寺派 ( 西本願寺 ) の いちによ 本融和事業団体一如会の会長を務め、一九五七年には富士大学学長にも就任。この間に参議 せきがく 院議員にもなった浄土真宗学の碩学です。 峅梅原真隆師のお話を、私がはじめて聴講したのは、昭和八年 ( 一九三三年 ) 五月に、京 はなぞのみようしんじ 都花園妙心寺 ( 臨済宗妙心寺派大本山 ) で行なわれた臨済宗の高等布教講習会を受講した ときです。 ずいりようじ 人当時私は二十七歳の青年僧で、岐阜の瑞龍寺専門道場で禅の修行中でした。道場での 生活は、それまでの私のものの考え方や生き方を大きく変えましたが、親鸞の教えや思想 章を、このときの梅原師の講話ではじめて学びました。それだけに梅原師の講話の内容は私 にとって新鮮で、禅とは別な思想の面を教えられました。いまこの章を記す私の脳裏に、 ざんヂ すいへいしゃ
まり「信仰ーといいます。 仏教では信の対象は前記のように、自分の内部の仏心でありますから、信仰というより しんじん も信心 ( 仏心を信ずる ) というほうが望ましいのです。 ほんぐ 親鸞は、本具の仏心を「阿弥陀仏からたまわっている ( いただいている ) 」と平易に説き ます。よって他力の信心とは、わが身に頂戴している阿弥陀仏の本願を信ずることです。 親鸞は『浄土和讃』で、 しんじん 信心よろこぶそのひとを によらい 如来とひとしとと ( 説 ) きたまふ だいしんじんぶっしよう 大信心は仏性なり によらい ぶっしよう 仏性すなわち如来なり みだわさん ( 「諸経のこころによりて弥陀和讃九首ーより、『浄土真宗聖典』ページ ) と詠みます。 この一首は頭書に「諸経のこころによりて弥陀和讃九首」とあるように、阿弥陀仏を しよきよ、つ
げんぜりやく ( 「現世利益和讃十五首ーより、『浄土真宗聖典』ページ ) げどう 「外道」は仏教語で、仏教以外の宗教や思想ならびにその信者たちを指します。仏教は信 ないどう 会 出心の対象を自分の内側に求めるので「内道」と、 しい、仏教以外の宗教は真理を自分の外に ・け - レ」 , っ 求めるから「外道」とします。つまり念仏を称える他力の信者や他力の教えは、他の宗教 のから妨害されるようなことがあっても、真理を内に具えているから妨げられないのです。 の無碍の一道です。 ′」うほう 思想についても同じです。信心が人間の意志を強くするから、「罪悪も業報 ( 行為による むく 報い ) も苦と感じないーのです。罪悪も行為に対する報いも苦にならないというのは、罪 悪感がないとか、報いを何とも感じないというのではありません。如来の本願力に依り、 罪悪や報いというマイナス要素が、そのまま仏性に昇華することをいうのです。 章それは、念仏を称えれば称えるほど、自分の罪悪の深さに気づかさせられるのです。ま 7 た自分の能力の限界を知らされるのです。 これらの善神みなともに 念仏のひとをまもるなり さまた
とあります。 の 仏教学者は「賢者は、よきひとのことで、法然をさすーと考証します。愚禿はもちろん き親鸞ですから、親鸞のいう賢者・愚禿の表現に深い意味が感じられるではありませんか。 親鸞は「よきひと ( 法然 ) の信心を聞いて、私 ( 親鸞 ) の愚禿の心がはっきり顕示され、 開発された」というのです。 次に親鸞は、「賢者の信は、内は賢にして外は愚なりーと、信心の深さをたたえます。 もんじゅ 法然は少年時代から″智慧第一の法然房・文珠菩薩 ( 智慧を象徴する仏の名 ) 〃と呼ばれ きわ たほどの天才で、彼と肩を並べる者はありません。しかしいかに仏教学を究めても、自分 匚自身が救われなかったら智慧も学識も無意味です。 章法然は、自分の豊かな知識では、ついに救われなかったのです。彼は、知識とはまった 1 く質を異にする阿弥陀仏の他力の智慧を信ずることにより、はじめて救われたのです。 賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。 ぐとくしん 愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。 けんじゃ ( 『浄土真宗聖典・注釈版』繝ページ )
この和讃は、親鸞が多くの経典の中から、とくに阿弥陀仏の徳をたたえる経文を抽出し て詠んだ作品です。 け・こんきよ、つ すなわち「信心よろこぶそのひとを如来とひとしとときたまふ」の二句を『華厳経』 ねはんぎよう から、「大信心は仏性なり仏性すなはち如来なり」の二句を『涅槃経』から引いて和讃 に詠んだのです。 その意味は「阿弥陀の誓願を聞いて信心をよろこぶ人は、やがて如来 ( 仏 ) になる身で るあるから、如来に同じであると ( 『華厳経』に ) 説かれてある。その大 ( 他力の ) 信心は、 生仏性にめざめさせていただく縁となるのであるから、大信心は仏性にほかならない。仏性 せそのままが ( 阿弥陀 ) 如来である」というのです。 そな を信心そのまま仏性、仏性そのまま如来です。そして仏性はだれもが生まれながらに具え ている事実を、法然も親鸞もともに「如来からたまわっているーと敬虔な表現で述べてい ることは、すでに学んだところです。 章信心の篤い名もなき人びと みようこうにん 親鸞を開祖とする浄土真宗では、その信心に篤い人をとくに「妙好人」と呼んでたた あっ
、という念仏の絶対を表わすのです。 親鸞の「ただ念仏ーに相応するのが、親鸞より二十七年後に生まれた曹洞宗の宗祖・道 しかんたざ 元の説く「只管打坐」です。打坐は、坐ること・坐禅です。よって只管打坐は「ただ坐禅 する・坐禅のみ・坐禅以外にないーの意味で、親鸞の「ただ念仏して」と同じパターンで また、「ただ ( 只 ) 」は、数字の「一ーで示されます。それは「ひとっしかない・それし かない」の意味です。 そそ いっこう 一般に心を他に向けず、純粋にいちずに心を注ぐのを「一向ーといいます。その意味で いっこうしゅう 世間からは、親鸞を開祖とする浄土真宗を「一向宗」と呼んでいます。一向に阿弥陀如 来を信心する態度から、このような呼び名が生まれたのでしよう。 もっとも「一向宗」の呼称は教団外からの呼称であって、真実の内部では、このように 呼ばないようです。 しかんたざ 「一向ーも「只管」も「ただ ( 只・唯 ) 」も、みな同じで一つです。道元の「只管打坐 ( た さわき」 , っレ」 , っ だ坐禅をする ) 」を「坐禅が坐禅をする」と、みごとに表現したのは、曹洞宗の沢木興道 師 ( 一八八〇ー一九六五年 ) です。 188