るーーなどを慎むのは、当然のことです。 かし、近所というものは、夫婦や友人のようれる、地域の活動や行事に参加することはで と きないでしよ、つ。 に、お互いに選び選ばれた関係ではない、 マイベースの暮らしのうえに こういう社会のしくみがけしからんといっ いうことを考えて自重すべきです。 日本の家族はますます小人数になって、や第二に、わが家がマイベースの、自信と個てしまえばそれまでですが、だからといっ がてほとんどが、夫婦と子どもだけの核家族性をもった暮らしをしていることがたいせって、周囲の主婦へ負担をかけてあたりまえと し、つことにはなりません。 になるといわれます。一家の人手が少なくなです。よく、たいへん近所の人の気をつかっ ーしさこざに巻き込まれる主婦できるだけ負担をかけないような処置をと ればなるほど、急病人など緊急のとき、家をているくせこ、、・ るすにするとき、近所の人に頼る比重は大き があります。そういう人は、よく見ると、自ることはもちろんですが、それ以上に必要な くなります。そうなると、「近所づき合いは分の暮らし方に自信がなく、周囲の生活ぶりのは、周囲の主婦への感謝と、こちらから協 がいつも気になり、動揺したり、嫉妬したり調しようとする心構えです。緊急の場合の連 煩わしいからイヤだ」ではなくて、「煩わし 絡先などは、自分からすすんで知らせておき くないような新しいっき合い方」をわたくし しているようです。 たちで創り出すべきです。 マイベースの私生活を、夫とともにしつかましよう。 第一に、平凡なことですが、相手の私生活り築き、そのうえでみんなと協力する態度を隣の主婦が、門前を掃いている姿などを見 に立ち入らないこと。人間としてほんとうのつくりましよう。 親しい関係は、立ち入らなければ成立しな 共かせきと近所 とい、つこともいえるかもしれません。し もし、共かせぎの主婦が「わたくしは昼間を 惑家にいないから、近所と関係ない」と思って 所 いるとしたら、それは大まちがいです。残念の 近 ながら日本の社会は、主婦が家庭にいること の なを前提として、動いているようなところがあや ります。だから、主婦がるすの家庭が一軒あ か 声ると、その分、近所の主婦たちに、仕事がシ惑鬢 , ~ えワよせされてしまいます。ごみ集め、電気やに 0 ガスのメーター調べと集金、品物の配達など近 は るで、近所の主婦に負担をかけていないでしょ せす の うか。もし、諸料金は銀行から直接支払い かれ 共忘 郵便物は局止めにしたとしても、昼間行なわ しっと
場が広がります。これらは、親同士、親と先役員の選出にいざこざがおこったり、問題が多くなったといわれます。ほんとうに、煩わ しい近所とのいざこざはまっぴらです。でき 生が仲間をつくり、経験や意見を交換しなが少なくありません。 際 ら、少しでも「よい親」に成長するための場学生時代、集団活動をじゅうぶん経験したれば近所とかかわりなしに、家族だけの平和 な暮らしを満喫したい、という気持ちはよく交 です。 わかります。でも、わたくしたちの楽しい家 ところが「親自身が成長しよう」という姿 性 庭生活は、果たしてわが家だけのカで守りき 勢を置き忘れて出てくるママが、このところ 社 - れるものでしようか ? 目だって多くなりました。たとえば、新一年 生の授業参観のとき、後ろで見学しているは 住みよい地域の建設 、る ずのママが、われがちにわが子の席へ来て助 しった よく考えてみると、現代の家庭の周囲に、 言したり、叱咜激励している姿をよく見かけ 一軒の家だけではどうしようもない問題が、 ます。教室のルールも、他の子どもや先生の 迷惑も忘れて、自分の子のことしか念頭にな ~ 気 ( 庭なんとたくさん山積していることでしよう。 公害は愛する家族の健康を脅かし、ハエの いのです。これでは、子どもは進学しても、 女性も、家庭という城で一人天下の生活を送発生するごみの山、ぬかるむ道路など、生活 親は「落第ママ」になってしまいます。 レしつか社会性を失っていくのでし環境の悪さは、わが家の生活をゆううつに 子どもの世界の広がりに合わせて、親も勉るうちこ、、 させます。こうした問題の解決には、まず、 強する気で、活動に参加しましよう。何ものようか 公開の席上で納得がいくまで話し合うこ地域の住民みんなの協力が必要です。害虫の かを学ばうという態度があれば、に行 くときの服装などにも、おのずから節度がでと、自分の役割は、責任をもって果たすこと駆除ひとつにしても、一斉にしなければ効果 は上がりません。子どものために、遊び場 こうした集団活動のルールを身につけ きてくるはすです。 いを、保育所を新設しようと思えば、地域のマ て、お母さん同士がよいイ間になり、楽し 集団活動のルールを守る 集いに育てていきましよう。 マたちの粘り強い運動が必要です。 住みよい地域をつくるために、まわりの家 のような場所では、集団の一員とし この連帯感こそ、こ 庭同士が手をつなぐ て、社会性をも 0 た行動をすることが、エチ隣近所 れからの近所づき合いに、最も要求されるも ケットの基準になります。 しんせき のです。 戦後っ子の若いママたちは、会議の進め方昔から「遠くの親戚より近くの他人」とい ですから、地域全体の住みごこちを悪く って、わたくしたちの祖先は、隣近所の人間 や発言のテグニックなど、ずいぶんうまくな りました。それでも、会議の席上では沈黙し関係をたいせつにしてきました。しかし、最するような行動ーーーたとえば、ごみを隣家の ているくせに、陰で決定をくつがえしたり、近は「隣近所に縁はない」という主義の人があき地に捨てたり、深夜に騒音を出したりす
この事実を肯定することが、親子のエチ 母のこづかいを送っている、という投書があがれ、妻のあり方が、夫への評判を、大なり 小なり支配していることは事実です。とくにケットの出発点です。 りました。長兄の負担を少しでも軽くしよう ですから、わが子に対するエチケットの表 という、弟嫁の発案で、息子も娘も、配偶者〃長。と名のつく夫をもった妻は注意が肝要 現は、年齢とともに変えていかなければなり です。 と相談して、毎月の会費の金額を決めたとい 夫の出世は妻のよろこび、つい頭をもち上ません。「子どもの人格を尊重する」とい うことです。 げ、誇りたくなる気持ちはわかります。でもても、生活習慣の自立さえできない幼児と、 新しい親戚づき合いの知恵が、そこここに 芽ばえている様子です。だれも仲間はずれに夫が、部下を指示して仕事の能率を上げるた高校生の息子とでは当然、方法が違います。 百・ハーセント親に頼って生きている赤ちゃ とんなに職場の人間関係に気をつかっ こんな親戚づき合めに、・ ならず、負担は公平に ているか、考えたことがあるでしようか。とんにとって、プライ・ハシーはゼロ同然です いは、どんなに気持ちがよいことでしよう。 が、高校生の子どもへ来た私信を、勝手に開 このような、家族ぐるみ集団でつき合えるきには若いオフィスガール、新入社員にも、 封することは、もうエチケット違反というべ 場を、夫側も妻側もそれそれつくりたいものさまざまに心をつかっているはずです。 です。そうすれば「夫側の ( あるいは妻側の ) 部下はみんな夫の家来などと思ったら大まきでしよう。 親戚ばかりたてる」などといういざこざもなちがい。上に立つ人間はど、下の人間から批 というところ くなって、明朗な新しい人間関係が生まれる判され、アラを捜され、その家庭にまで視線 が注がれているのです。そこへ、「上役の夫子どもが幼稚園、小学校へ進むと、親のほ と思います。 人でございます」という態度を妻がとった うも < 、母の会など、新しいっき合いの ら、夫の努力はぶちこわしです。格別へりく 職場と家庭 子どもでも人格は尊重して だったり、過剰サービスする必要はけっして ありませんが、控え目に地味に、職場の上下 夫の部下、後輩に対して 関係を離れて、一人の人間として謙虚に対し アメリカでは、重要なポストにつける人物ましよう。 を選考するとき、本人の能力ばかりでなく、 妻の人柄がきびしく評価されるといいます。 子どもの親として 幸か不幸か、夫婦単位の交際があまり発達し ていない日本では、妻の人物によって、夫の わが子へのエチケット 昇進が直接左右されるということは、少ない 「子どもは年とともに成長するものだ。そし かもしれません。 しかし、機会あるごとに職場の目は妻に注て成長とは、親との距離が遠くなることだ」
が、どんなに・ハカ・ハ力しいものか、この一事イグに事を運ぶのに、罪悪感をもっているの ではないでしようか。「親戚たから安くして を考えただけですぐわかります。 際 くれるはす」という甘え、そして「親戚から 結婚後もきようだい仲よく過ごすために は、皮肉なようですが、「きようだいは他人は高くとれない」という義務感。結果として交 のはじまり」を当然のエチケットと心得るこ双方に不満が残るばかりです。 、こよ、もっとビジ とでしよ、フ。 これからの親戚づき合し冫。 間 で こちらもわが家第一であるならば、あちらネスはビジネスとして、割り切る態度が必要 です。「親戚だから安くする」にしても、き だ の家庭を、向こうの夫婦の結びつきを、たい ちんと明細を示して請求し、そのなかから せつにすることです。そして細かな心づかい は としては、手紙を出すときあて名を夫婦の連「〇割引します」という程度にしたいもので 名にしたり、用件や頼み事を、配偶者を通しす。そのほうが結局、明朗に長続きするつき 結 て伝えるなど、相手の、「夫婦」という立場合いを楽しめます。 を尊重した方法をとることです。 新しい親戚づき合いの知恵 血縁とビジネスの谷間 ある新聞の投稿欄で「それそれ世帯をもっ 切っても、いざ自分のきようだいとなると、 そう簡単には割り切れないものです。とくに戦争中、住まいを焼かれた家族は、親戚へて離れ住むきようだいが、ノートを回覧して 親しかった兄などには、いつまでも甘えたい疎開したり、同居したりしたものです。そん消息を伝え合っている」という記事を見たこ 気持ちが残り、″身びいき〃の常で、配偶者な場合、うまくいったという話を、ほとんどとがあります。ノートには本人ばかりでな く、配偶者も近況を記したり、各地の名物料 への採点が辛くなりがちです。「お嫂さんの聞いたことがありません。他人同士なら、一 こじゅうとめ あのやり方は : : : 」などと、小姑根性が頭応正常な人間関係が保てたのに、親戚の同居理の作り方を紹介したり、子どもの作品や写 をもたげます。 は、例外なくなんらかのトラブルを引き起こ真を添えたりして、楽しく豪華な「手紙」が ーレか 1 し、 いくら仲のよかったきようだいでしていました。 つくられている様子でした。 なるほどこれなら、大ぜいのきようだい も、お互いに結婚したら、もっと親しい人間「血縁の間で、経済的利害がからむとこじれ ができたわけです。ちょうど夫にとって、ある」 に、手紙を書く手間が一度ですんで合理的で この原則は、戦後二十余年を経た今 なたがいちばんたいせつな人間であるようも通用するようです。親戚に下宿したがうます。しかも親しいきようだいだけにかたよら 、、よ、つこ、戚こ物を売るとかえってず、みんな仲間入りできるよさがあります。 に、きようだいも、それそれいちばん愛するくしカオカオ辛。 また別な新聞では、長兄の家で老後を養う ものを、別の世界から見つけてきたのです。損をする , ー。ーこんな話をよく聞きます。 どうも親戚の間では、お互いにビジネスラ母へ、他のきようだいが毎月会費を集め、老 自分のきようだいへの一方的な愛情や干渉 わえ
「お隣のご主人、ポーナスが六か月分ですつです。お互いに協力して " わが家式。のエチわが子に対して一種のゆとりをもっていま ケット、 " わが家流〃の暮らし方を創るーーーこす。今は体力、経済力とも、親をしのぐ子ど 「同期の x x さん、もう課長さんなのね」 れが家庭の個性となり、新しい意味での家風もに対しても、かって幼子をいつくしみ育て た記憶が、そのゆとりを支えているのです。 それにひきかえあなたはーーといわれになるわけです。 たいせつなことは、出発点で夫婦ががっち義理の親と肉身の親を比べた場合、いちばん なくても、夫の胸にはこたえます。みんなけ んめいに働いているのですが、彼一人のカでり連合軍を組んで、新しいなにものかを創り大きな差は、この精神的ゆとりのあるなしで はないでーレよ , つか はどうしようもない問題なのです。 出そうという姿勢です。これが、エチケット このほか、容姿や身体上の欠点、家柄、財以前の夫婦であることの前提条件だと思いま嫁と姑という義理の間柄は、ふつうの老人 と若者でしかありません。老人は、若い人の 産など、自分自身の努力や意志で解決できなす。 心の動きが気になり、関心を示されなければ し問題も、タブーのうちにはいるでしよ、つ。 さびしく思います。ゆとりがないから虚勢を だれにでも「アキレスの腱」ともいうべき 夫の親族・妻の親族 張ったりもします。 弱みがあるはずです。エチケットの精神は、 「ウチの嫁は、一度〃ご飯ですよ〃と呼ぶ 相手の立場になって考え、相手の迷惑や心の「喜びは二倍に、悩みは半分に」と、結婚へ 痛みを思いやって行動することだと思いま祝福のことばが寄せられます。ところで、結と、二度と呼びに来ない」と嘆いている老人 す。ふつうの人間関係にさえ、この精神は要婚と同時に、確実に二倍になるものがもう一がありました。お嫁さんの身になれば「なに か用がおありかしら ? 」と遠慮しているので つあります。それは親戚づき合いです。父と 求されます。ましてや夫婦。愛すればこそ、 しゅうと しゅうとめ 相手を傷つけぬ心づかいは、い、 っそう細やか舅、母と姑、きようだいと小姑・ : というすが、老人はそれを「冷たい」と感じている ように、これまでの家族に「義理」という名のです。 であるはずです。 いずれにしても、むずかしいのが義理の仲 のつく人間がかぶさってきます。 新しい家風を創る 結婚につきものの、この二倍の人間関係をですが、老人側のゆとりのない心情を理解し 家庭も一つの社会、夫婦も一個の人間関係どう保つかで、新しい家庭の楽しさは微妙にて、こちらからことばをかけ、関心を示し歩 であるからには、エチケットの基本的な精神影響されるでしよう。それらは、夫にとつみ寄るべきです。この際、ゆとりがあるのは は、ここにも当然必要です。しかし、その表て、妻にとって、ついきのうまで、いちばん若いあなたの側だからです。そして、こうし 際 現方法となると、社会一般の人間関係で要求たいせつな人たちだったのですから。 た態度は、義理の親ばかりでなく、なにより交 も夫に対する心づかいであるはずです。 されるような、事細かな決まりは、夫婦の間 義理の親に″関心〃を にはなにもありません。 きようだいとの間隔をあける 肉親の父母とは生まれて二十年来、ともに 選び選ばれた夫婦という私的な社会には、 夫のきようだいとは、もともと他人と割り 自分たちでその決まりを創る権利があるから暮らした歴史があります。だから実の親は、 けん
に せ は 行をつづけるうちに誤解が生まれ、気がつい表 夫と妻と たらお互いの心にすきま風が吹いていた、と情 い、フ」とにもなりかねません。 の 目を見かわすだけで、もうお互いの意志が とくに男性は、持ちまえの無精さに一種の婦一 通じ合うーーー「夫婦」とは、なんとありがたみえが手伝って、妻へのことばや、やさしい い間柄でしよう。激動する現代社会、一歩外表現を惜しみがちです。いたわり合う心、感 おく へ出れば、次から次へ、気を張りつめてつき謝の気持ちは、てれず臆せず、堂々とことば第一のタブーは、相手の親、きようだい、 合わねばならぬ相手ばかりです。だからこや態度に示しましよう。 親戚の悪口。たとえ悪口でなく、公正な批判 そ、相対してすわれば、自然に心がなごむ なにもアチラ流に「—ー 。。」であっても、いわれた相手の心は傷つきま 「夫婦」という人間関係は、、 しっそう大きなをくり返せというわけではありません。帰宅す。血縁とは不思議なもので、親、きようだ 価値をもってきます。 したときのいたわり合い、るすの間の情報の いの欠点を重々承知しているくせに、他人か 交換、そしてお互いの美点や心づかいを認めらの批判には、まるで自分が非難されたよう 以心伝心に甘えないこと 合う、そのことを表現するーーこんな日常茶に、防衛的な姿勢になるものです。 でも、この物いわず心の通う「以心伝心」飯事のなかで、愛はより強く育っていきま 身内ばかりでなく、友人、職場の同僚な の境地に、安心するのは危険です。安心はとす。 ど、相手の交際範囲にも、立ち入った批評は もすればなまけ心に通じます。夫婦というき夫婦の成り立ちが、愛情を基礎にする以避けるべきでしよう。お互いの世界、これま ずなのうえにあぐらをかいて、「わたくしの上、常にその愛を育てる努力をすることが、 での生活の歴史を認め合うところから、夫婦 気持ちはわかってくれるはず」と、高をくく 夫婦間のエチケットの基本だと思います。 の新しい歴史がスタートするのです。批判す ってはいないでしようか。よりよい人間関係 る前にます受け入れて、自分も相手の交際の 夫婦の仲にもタブーあり を育てるために、当然必要な愛情の表現や情 仲間入りをするよ、つにしましよ、フ。 報交換を、サポタージュしてはいないでしょ 世界中で最も信頼できる相手とま、、 。ししなカ第二のタブーは、月給やポーナスの比較、 ら、夫と妻の間にも、 いってはならないタブそして職場の人事。これはサラリ ーマン亭主 以心伝心に甘えて、ひとりよがりの無言の ーがあります。 の泣きどころです。 夫婦と交際
うことがわかります。そういったタイプの父 いうのは、つまらないことのように田 5 われて 教育という家庭の役割が、おおはばに学校に 。しくらきます。またそれが、人間と人間との交際に 吸収されていきました。しかしそれでも、家親は、明治時代から大正時代までま、、 だけ関係したことだと定めてしまうのも、ど 庭における親の役割が、消えてしまったわけでも見られたと思いますが、今ではもはや品 うかと思います。エチケットやマナーという ではありません。時代は変わっても、明治以切れとなってしまいました。 前の観念がつづいていたことは、事実なので太平洋戦争が大敗戦に終わって、アメリカものは、人間と物との交際にもあるのだとい す。 うことを知らなければ、話ははじまらないの 軍の占領下で、日本の「民主化」ということ たとえば、文豪の幸田露伴は、ひとり娘のがはじまりますと、多くの親たちは子どものです。 文さんの教育について、けっして自由放任で教育について、まったく自信喪失に陥ってし人間と物とのつきあいとは、要するに人間 はありませんでした。ある日、幸田家の奥座まいました。家庭においては、どんな時代がらしい物の扱い方ということに帰着します。 敷といったところに娘を呼びまして、お掃除きても両親が、最初にして最大の教育者でなナイフやフォーグだけではない、はしの持ち の仕方一式を教えています。箒、ハタキ、雑ければならないという一事が、すっかり忘れ方一つにだって、マナーというものがありま 巾、・ハケツなど、道具調べからはじまって、 られてしまったわけです。 す。そこに他人がいるかどうかは問題ではあ まるで武芸のけいこをするようです。それに しかしそろそろ、過去の記憶をよみがえらりません。子どもを育てる親たちは、はしを は、露伴が身をもって模範を示したというこせなければいけなくなっているのが、現代で右手に持っことを教え、茶碗を左手に持っこ とが、幸田文さんの随筆集に見えておりま 。力しかと思うのです。 とを教えないでしようか。 家庭こそが、 す。まき割りなども別な日に教えますが、女 最初にして最大の教育の場であることは、昔 も今も未来も、おそらく変わることはあるま は姿が美しくなければならないという。それ人間のロ明位のために こは力いつばいに割るのがよい力いつば、 いと思います。新しい希望に満ちて、家庭を 割ろうとするときに、姿勢が美しくなるのだ もたれるかたがたに望みたいことの一つは、 新しい親の楽しい自覚 というのです。 親になるとは教育者になることだ、という自 わたくしが格別興味をもちますのは、お 自分のカで新しい人間をつくる エチケットとかマナーとかいうものは、も覚です。 掃除などのそういうやりかたについては、露ともと武士階級の品位を定めるものだったのということ、それはなんといっても、おそろ 伴先生も女中には教えなかったという一事でではないでしようか。その根底をなすものは しいまでに楽しい自覚でなければなりませ す。女中というものは当時のことですから、 なにかといえば、それは深いところで人間のん。 入れ替わり立ち替わり幸田家に来たろうと思自尊心につながるものだったと思うのです。 いますが、その女中たちには教えなかったと戦後の教育で失われたものの一つは、この いうことがおもしろい。露伴は単なる実用を人間の品位という観念です。としますと、そ こえて、自分の娘を仕込もうとしたのだとい の一点を忘れて枝葉末節のことをやかましく きん そうじ ぞう 179 家庭と交際
しつけは、家庭においてはじまるのだという つの教育の場であることを、もし忘れてしま財産の世襲制は、もちろんなくなってはおり ことを、しつかり頭に入れておきたいものと っているとしたら、それはおそろしいことだませんが、職業の世襲は一般にとぎれた時代 際 思います。 と思います。 でした。医者の子が医者になって、そのあと それは、来客というものについての一つの親というものは、子どもにとって「最初のを継ぐ。商人の子は商家を継ぐ。農家では長交 観念を、幼心に植えつけることなのです。他教育者」であるばかりでなく、「最大の教育男が農家を継ぐ。そういうことはあったにし 人に対するエチケットだの、マナーだのとい者」なのだということ。どうしたら、それをても、それは制度的に決められていたのでは なく、本人に能力があり意志があれば、どん うものの、心の芽はそこから育つべきものとわかっていただけるでしようか。子どもとい 思われます。 うものは、親のいうことは聞かなくとも、親な方面にでもすすむことができる時代になっ たわけです。そしてこの時代になりますと、父 のすることはまねするものだといわれます。 親は最初の、かっ 親の家庭における役割というものが、なんと これは親の感化力というものを、みごとに なくあやふやなものになっていったのです。 しいあてたことばです。教育よりも、感化と 最大の教育者 いうことばの意味の深さを、あらためて考え考えてみますと、職業の世襲制、身分の世 襲制というものがあった時代には、寝ても覚 させられます。 新しく家庭を営むかたがたへ 新しく家庭を営むかたがたに申し上げるこめても父親の頭から離れないことは、あとと りつば りをど、ついうふ , フに立派に育てるか、という 家庭における礼儀作法などを、いくら説いとは てみましても、現代の日本人の家庭の観念が第一に、家庭は今も子どもを教育する場でことでした。自分自身の務めを、どうやって あやふやであるかぎり、それはたいした意味あるということを、いつも念頭においていた立派に果たすかということも、もちろんあり ますけれども、おそらくそれと同じような をもたないかもしれません。 だきたいということ。 と申しますのは、家庭というのは人間が育第二に、人間教育の出発点はエチケットと比重をもって、いつも心を離れないものが、 っところであり、そのような育て方の責任はマナーの教育であるということを、しつかりあとをいかに立派に継がせるかにあったわけ です。武家だけではない。農家でも、商家で 親たち自身にあるのだ、ということがわから悟っていただきたいということ。 も、そして職人の家でもそうであったはずで なければ、問題の大きさがのみこめるものでなどです。もともと一種の動物である子ども す。ですから総じて父親というものは、その はないからです。 を、人間に仕立てていく課程が、しつけとい うものだということです。そして、しつけの子にとって最初にして最大の教育者であった 子どもは学校が教育してくれるもの、と思 わけです。 い込んでしまっている親たちが、なんと多い場は、いまも家庭よりほかにないのです。 時代でしようか。学校が子どもたちを教育すわたくしなどは明治に生まれ、明治に育っ それと同様に娘にとっては、母親が最大の る、それは確かにそのとおりなのですが、した人間ですが、明治という時代は、だいたい 教師でありました。それが身分世襲制の廃止 かしそれと同時に、家庭というものがいま一 において身分世襲制がとぎれた時代でした。 と、近代の学校制度の普及によって、子女の
あって、「よい家庭」とはなにかと問われれ利用するのは奥羽本線の特急です。列車の中たようなしつけからはじめなければならな 赤ん坊が指をくわえるときには、それを ば、それは要するに、しつけのよい家庭とい の通路が、まるで駆けっこをする子どもたち うことです、と答えるよりほかないように思の運動場みたいになってしまうことがありまやめさせるために、その手を引き離してやる われます。 ことも必要でありましよう。いたずらざかり す。それが乗客の大きな迷惑になっているこ になってわるさをして、母親におしりをたた ところが、しつけということにもピンからとに、母親はまったく無関心のていですか キリまであるようです。よそから帰ってきてら、そんな場合わたくしは直接に、さわいでかれることもある。どういう場合かといいま いる子どもに話しかけることにしています。 すと、それは他人に迷惑をかけた場合だとい 手を洗うとか、寝しなには歯をみがくといっ それも子どもにたいするような調子ではなわれます。他人の迷惑になることは、すべて た習慣も、しつけにはちがいないのですが、 そういった習慣は要するに自分自身の保健衛く、むしろおとなにたいするような調子で、戒めるというのが、人間としてのしつけの第 生上のことにすぎないわけです。しつけとい おだやかに話しかけてやるのがいいように思一歩なのです。 います。 日本は子どもの「天国」だという説があり うことのもっともっとたいせつな他の一面は なにかといえば、それはまず他人に迷惑をか他方には、それとは反対に、感心するほどます。日本ほど子どもにしたいほうだいをさ しつけのよい子どもたちを見ることもありませる国はないといわれます。西洋では、子ど けない、という態度を身につけさせることな のです。 す。おなじ時代の、おなじ日本の社会で、こもがおとなと食卓をともにするのは、家庭に 限られた光景でありまして、いったん家庭の うも親たちのしつけがちがっているものか、 と考えさせられるわけです。こんな場合には外に出れば、子どもたちはおとなたちと同席 他人に迷惑をかけない 西洋の例をひくのがいちばんわかりやすいよすることは許されないのです。ーー・家庭に来 よ、つしつけること うに思われます。なんでも西洋のまねをすれ客があると、その席に子どもが飛び出して来 ばよいというものではないのですけれども、 て、客の前に出ている菓子をねだる。そうい 現代にはニ種の親がある 西洋に学ぶべきものがあれば、それを学ぶのった光景が、いなかに育ったわたくしの古い 家庭とはなにかという問題から遠回りをしに遠慮はいらないと思います。家庭における記憶に、にがにがしくうかぶのですけれど て、どうやら家庭における訓練の問題にもど子どものしつけということでは、欧米のほうも、現在ではどうなっておりましようか。 はんらん ってまいりました。よく汽車旅行をして感じがずっときびしいのだ、ということを知って敗戦後の日本には、「自由が氾濫した」とい 際 ることなのですが、三つか四つくらいの子どおきたいのです。 われます。その「自由」がひどく誤用され、交 もづれの母親が、子どもにしたいほうだいを子どもというのはまだ人間ではなくて、むその結果として、家庭における子どものしっと 庭 させている場合があります。東海道の幹線なしろ動物である。これが西洋人の観念であるけが滅びてしまったともいわれます。しつけ 家 にもいろいろ種類のあることは、さきに申し ようです。子どもは人間に育てあげなければ どでは、自然にそんなことは許されなくなっ ならない。それには、動物をしつけるのと似ましたが、まず他人に迷惑をかけないという 1 ているかもしれませんが、わたくしがいつも
や託児所でも育つなどといわれるかもしれま 6 やはりこの一つの問いから出発し、これに正 人生の幸福 せん。それも確かにそのとおりです。しか しく答えることからはじめるのがよいと思い ます。 し、それにもかかわらず、家庭が人間の生命際 の生まれてくる本源的な場所である、という 現代の家庭というのは、夫婦とよばれる一 交 家庭になにを期待するか ことは少しも変わっていないのです。 組の男女を中心とした人間の結合体であり、 また、子どもを育てるという役割の大きな この夫婦のあいだには、子どもが生まれるの もちろん、それ以外の答もすべてまちがっ が原則です。とうとう子どもの生まれない夫ているというのではありません。現代の男女部分が、幼稚園や学校に移っていることは事 婦もありますし、生まれてもその子を亡くしが、家庭というものになにを期待するかは、実ですけれども、教育という教育のなかで、 いちおう自由ですから、家庭なんてつまらなおよそその基本をなすものこそが家庭におけ てしまった不幸な夫婦もありましようし、 と考えるのもいいでしようし、家庭は人る教育であるということは、これも否定しょ 「子もたず」という夫婦だってあります。も うのないことだと思います。 ちろん、新婚早々は夫婦だけの家庭です。し間の自由を拘束するもの、うるさいものだと かし、やがて子どもが生まれるというのがふきめてしまうのもいいでしよう。またそれと つうのことですから、それを原則だと申し上は反対に、人生の幸福はほとんどすべて家庭 家庭は人間形成の場 の中に求めることができる、などと信じてい げるわけなのです。 さて、生まれた子どもは育てなければなりる人もないとはかぎりません。家庭生活とい 「育ちのよさ」と「よい家庭」 ません。そして、それを育てるのが夫婦であうものは、当事者にとっていろいろの目的を もったものであって、またその役割がいろい 人間が人間らしく育っためには、その環境 ります。 などと申しますと、あまりにも として、家庭も学校も、そして社会も、それ わかりきったことでして、わざわざそれを筆ろであることも事実です。 しかし、人間のあらゆる種類の営みの中ぞれ必要です。ことに人間を形成するうえに にする必要はないようですけれども、実はこ れがたいせつな点なのです。家庭とはなにかで、もし家庭の営みだけがもっている、たぐ最も大きな作用をもっているものは、その職 いない仕事があるとすれば、それは子どもを業であり、職場であるといわれております。 いにたいしては、ずいぶんい という一つの しかし、人間がそこに生まれ、そこで育っ場 ろいろの答があるわけです。しかし、当事者育てるという仕事ではないでしようか。 もし、そういっただけではたりないとすれ所である家庭というものほど、よいにつけ悪 である男女がめいめいどう考えていようと、 いにつけ、人間の形成に決定的な作用をもっ いわばこれを高いところにいて、全体を大きば、家庭の営みというのは、子どもを産み、 く見渡す立場 ( それが科学の立場 ) から申しまそして育てるのを原則としているというべきているものはほかにないのではあるまいか。 と申しますと、いや、赤ん坊「育ちのよさ」というのは、必ずしもゆたか すと、家庭というのは、子どもを育てるとこでしよう。 ろであるということに帰着するというわけでは産院や病院で生まれるじゃないか、といわな家庭に育ったということではありません。 れるかもしれませんし、子どもたちは乳児園それは、「よい家庭」に育ったということで す。