明書とか、仕事の上の訓令とか、政令とか、そんなものが読書内容だった。『ソ連邦共産党小史』 も第四章までしか読んでいない。本のために金を遣ったり、わざわざ図書館へ通ったりするのは、・ こつけい 滑稽なこととしか思えなかった。遠い旅に出たときとか、何かの待ち時間のときなど、そ「らに みいだ ころ 転がっていた本を二、三十頁読むことはあったが、とくに生活の役に立っことは何一つ見出せ ぬまま、いつも中途で放り出してしまうのだった。 この病院でも、床頭台や窓ぎわに置いてある本に、エフレムは手を出そうともしなかった。た から、あの金文字の入った青い表紙の本もきっと読ますに放り出したに違いないのたが、コスト むな 巻グロートフにその本をむりやり押しつけられた昨夜は、なんたかひときわ不愉快な、空しい感し まくら のする夜だったのである。エフレムは背中の下に枕を二つあてがって、漫然と目を通し始めた。 これが長編小説だったら、やはり読む気にはならなかったかもしれない。だがこれは一編がせい 。せい五、六頁どまりの、時には一頁で終ってしまうような短い話を集めた本たった。目次には題 ふんいき じゃり 上名が砂利のように固まっていた。ポドウェフは題名を読み始め、すると何かしら実際的な雰囲氛 おきて がただちに伝わってきた。『労働と死と病気』『第一の掟』「泉』『組末に扱った . 火は消せなくな る』『三入の隠者』『光あるうちに光の中を歩め』。 なるべく短いのを選んで、エフレムはその頁を開いた。その話を終りまで読んた。するとなん となく考えてみたくなった。エフレムは考えこんだ。その話をもういちど読み返したくなった。 読み返した。と、ふたたび考えてみたくなった。ふたたび考えこんだ。 もう一つ、別の話を読んだが、そのあとも同し状態になった。 そのとき消燈時刻になった。本をだれかに持って行かれないように、あすの朝、探さなくても 151
気持になるのだが、作家はものすごく大勢いる。その大勢の作家たちの本をぜんぶ読むことは、 だれにもでぎることではないだろう。どれか一冊を読んだとしても、なんだか読まなくてもすん リン賞を だのではないかという気持になってしまう。全く無名の作家はとっぜん現われ、スター とり、その後は永遠に消えてしまうのだった。前の年に出た、多少なりとも分厚い本は、たいて い何かの賞をとった。賞をとる本を合計したら、毎年、四十冊から五十冊にもなるたろう。 ジョームカの頭の中では作品の題名もごっちゃになっていた。たとえば『大いなる生活』と 『大いなる家族』という二つの映画のことが盛んに論しられていた。なんでもその二つのうち、 巻どちらかが非常に有益な映画であり、どちらかが非常に有害な映画だというのだが、ジョームカ はどちらがどうなのか、何度読んでも覚えられなかった。どちらの映画もまだ観ていないのだか ら、なおさらのことである。それから文学作品の理解の仕方も、評論を読めば読むほどますます つまり物事をあるがままの 分らなくなった。たとえばジョームカが客観的な描写というもの 上姿において見るということを覚えたか覚えないかのうちに、ある女流作家は「いたすらに不安定 かいじゅう で晦渋な客観主義の泥沼に入りこんだ」と非難される始末である。 それにしても、なるべくたくさん読んで、理解し記憶するようにしなければー よど ジョームカは『生ける水』を読み始めたが、その淀んだような、はっきりしない感じは、 たい作品そのもののせいなのか、それとも自分の精神状態のためなのか、どうもよく分らなかっ 消耗と孤独が次第にジョームカを圧迫し始めた。だれかに相談したらいいのだろうか。それと もだれかに愚痴をこ。ほせば気がすむのか。あるいは、ただ入間らしい話のやりとりをして、だれ
今は煙草を吸いに出るほうが差し迫った間題ではないか。そこでルサノフに渡そうと新聞を畳み かけたが , ーーふと何かの記事が目にとま「たらしく、喰い入るように読み始めた。読みながら、 緊張した声で、一つの言葉を舌の上でころがすように何度も何度も繰返した。 「こりや傑作だ : : : けえっ・さ・く・だ : : : 」 べートーヴェンの運命のテーマの四つの音符が、コストグロートフの頭上で鳴り響いた。だ。、 病室の中のだれにもそれは聞えないのたった。たとえ新聞を読ませたところで、必ず、その音が 聞えるとは限らぬ。コストグロートフはその一つの言葉を繰返す以外に何ができたたろう。 揀「なんだね、一体」ルサノフはす 0 かり興奮していた。「早く新聞をよこしなさい ! 」 コストグロートフは、たれにも何も説明しようとはしなかった。ルサノフにも返事をせず、新 聞を元通り四つに畳んだ。たが六頁の新聞は折り目が前の通りには重ならず、少し嵩がふえた。 ン コストグロートフはルサノフに一歩たけ近寄り ( ルサノフも相手に一歩近づいた ) 、新聞を手渡 ガ した。そして病室から出て行かずに、煙草入れの袋を開き、震える指先で刻み煙草を巻き始めた。 ーヴ = ル・ニコラーエヴィチも震える手で新聞を拡けた。コストグロートフの「傑作だ」と いう言葉は、まるでナイフのようにルサノフの胸に突き刺さったのたった。オグロエートにと「 て「傑作」とは一体何なのだろう。 じんそく 要領よく、迅速に、ルサノフは一つ一つの見出しを目で追 0 た。と、突然 : : : なんた「て ? なんだって ? ・ さほど大きくない活字が、事情を知らぬ者には大した意味をもたぬ文字が、紙面から叫んでい た ! 叫んでいたー ほんし」、つかー 一一「ロしられないー 最高裁、全員更迭 ! 最高裁が ! 31C
T 使用法を、それじや読みあげるから、みんな書きとってくれないか」と、コストグロートフは 大声で言った。 ーヴェル・ニコラーエヴィチは何 一同はざわめき、お互いに鉛筆や紙切れを融通し合った。パ も持っていなかったので、 ( 自宅に帰れば、ペン先が軸の中に隠れる新式の万年筆があるのだ が ! ) ジョームカが鉛筆を貸してやった。シブガートフも、フェデラウも、エフレムも、李も、 筆記の準備をした。準備ができたので、コストグロートフはゆっくりと手紙の文面を読みあげ始 なまがわ めた。生乾きのチャーガをどうやって擂りおろすか、何度ぐらいのお湯で煎じるか、どうや・つて 濾すか、何杯ぐらい飲むか、等々。 書取りの能力に差があったので、文面は何度も繰返して読みあげられ、こうして病室の中は暖 ふんいき 病 かい、友情に満ちた雰囲気になった。今までにしばしば睚み合ったのは、お互いにわかちあうも ン のが一つもなかったからではないだろうか。だが共通の敵は死なのだ。みんなが一様に死の恐怖 ガにさらされている場合、人間と人間とを本質的に引き離せるものがどこにあるだろう。 書取りが終ると、ジョームカが年齢に似合わぬ緩慢な口調で投げやりに言った。 「そう : : : でも白樺をどうする。どこにもないじゃよ、 ためいき 一同は溜息をついた。とうの昔にロシアから出て来てしまった ( ある者は自発的に出て来た ) 人たち、あるいは一度もロシアに行ったことのない人たちの眼前に、あの穏やかな、節度のある こぬかあめとばりおお 風景、太陽の炎熱を浴びたことのない土地の風景が浮んだ。茸を育てる小糠雨の帷に覆われ、春 には出水に洗われ、野原や森の中の小道がどこまでも続いているあの土地。ありふれた森の木も、 そこではこれほどまでに人間に奉仕し、人間に必要な存在なのである。そこに住む人たちは必す でみず
すむように、エフレムは敷ぶとんの下にその本を突っこんだ。くらやみのなかでエフレムは、す とぎばなし でに一度話したことのある古いお伽話をアフマジャンに話して聞かせた。アラーの神が動物たち に寿命を分配し、人間が余分の寿命を貰った話である ( だがエフレム自身はこのお伽話を信じて いなかった。健康でさえあれば、寿命が余分だなどということがある筈はない ) 。そして眠りに 落ちる前に、駕ういちど、さっき読んだ物語のことを考えた。 たた刺すような痛みが頭に響いて、考えることを妨げた。 金曜の朝、空はどんよりと曇っていた。病院生活では、たとえ戸外がどんな天気であろうと、 棟朝はいつも重苦しい。この病室の - 毎朝はエフレムの陰気なお喋りから始まるのが通例たった。た れかが少しでも希望や願望を口にすると、エフレムはただちにそれに水をさし、やりこめてしま う。だが今朝のエフレムはロをあけるのも嫌で、もつばらこの静かで安らかな本を読みふけって ン 、こ。ほとんど頬にまで包帯がかぶさっているから、洗面は無意味である。朝食はべッドでとれ それに外科医の回診は今日はない。そこでゆっくりと、その本のざらざらした厚手の頁 をめくりながら、エフレムは無言で読みつづけ、かっ考えつづけた。 めがれ 放射線医の回診が始まり、金縁の眼鏡をかけた例の新入りが医者に噛みついたが、じきおとな しくなり、注射された。コストグロートフが権利を振りまわし、病室から出て行き、また戻って おさ 来た。退院と決ったアゾーフキンがみんなに別れの挨拶をし、体をかがめ腹を抑えて出て行った。 ほかの患者たちも >< 線照射や輸血に呼ばれて行った。だがポドウェフはべッドのあいだの小道へ 散歩に出ることもなく、依然として本を読みつづけ、沈黙を守った。今やこの男の話相手は、ど んな人間とも違う、この本たったのである。 152 あいさっ しゃべ からだ
20 し 地質学者は、黒板に教師が次に何を書くかを正確に知っている優等生のように、冷静な批判的 な表情で耳を傾けていた。そして肯定的な意見を述べた。 「オプチミズムの生理学だ。アイデアは悪くないな。とてもいい」 むだ そして時間を無駄にしたというように、ふたたび本を読み始めた。 ーヴェル・ニコラーエヴィチも、ここでは反対しなかった。オグロエー , トはなかなか科学的 にるではないか 「だから」とコストグロートフは話をつづけた。「あと百年くらい経って、良心に疚しいところ のない人間の体内にはセシウム塩か何かが分泌され、苦労の多い人間ではそれが分泌されない、 病というような事実が発見されたとしても、私は驚かないだろうと思う。そのセシウム塩の存在い かんによって、細胞が腫瘍に変化するか、あるいは腫湯が消滅するかが決るのだと判明したとし ン てもね」 ためいき ガ エフレムがかすれた溜息をついた。 「私は女を何人も棄てたんた。子供をかかえた女は泣いたよ : : : 私の腫瘍はなくならないだろう な」 「それとなんの関係がある ! 」とパーヴェル・ニコラーエヴィチがいきりたった。「そういう考 まご え方は、紛う方なき坊主のお説教じゃよ、 オしカ ! ポドウェフ君、きみは下らない本を読みすぎて、 イデオロギー的に堕落したのたー たから道徳的向上というようなことをくどくどとわれわれに お説教するのだ」 「あんたはなんでそんなに道徳的向上にこだわるんだ」とコストグロートフはみついた。「道 やま
ックのシャープペンシルで歯をかちかち叩いた。 「まあ、この本を読んでみろ、びつくりするぜ ! 」依然として胴体を動かさず、ザッイルコを見 ずに、ポドウェフは醜い爪で青い表紙の本をばちんといた。 「その本ならもう読んださ」と、ヴァジムは間髪を入れす答えた。「ぼくらの時代にふさわしい 本じゃないね。輪郭があまりにも曖昧だし、元気がなさすぎる。ぼくらに言わせれ、は、もっと働 け ! だ。ただし自分の利益のためにではなくね。それだけの一、とだ」 うれ めがね ルサノフは身震いし、嬉しそうに眼鏡を光らせて大声で尋ねた。 巻「若いひと、あんたは党員ですか」 あわ ヴァジムは少しも慌てす、率直にルサノフを見つめた。 「ええ」と穏やかに答えた。 「だろうと思った ! 」ルサノフは勝ち誇ったように甲高い声で言い、指を一本立ててみせた。 上その姿は学校の先生にそっくりだった。 ヴァジムはジョームカの肩を叩いた。 「じゃ、もう自分のべッドに帰んなさい。ぼくは勉強しなきゃならない」 そして、細かい文字や、感嘆符、疑間符がたくさん書きこまれた『地球化学的方法』の頁を拡 げた。 滑らかな黒いシャ—プペンシルは青年の指に挾まれて、ときどきびくびく動いた。 青年はまるでその場から消えてしまったように書物に没入していたが、青年の支持を得ていく らか元気づいたルサノフは、二度目の注射を前にして自信をつけたか 0 たのたろうか、エフレム・ たた はさ
「ジョームカが本棚から選んで来たんでなけりや、こりやまさしく天がわれわれに与えた本と言 いたいところだ」 「ジョームカがどうしたって ? なんの本だって ? 」と、ドアのそばの少年が自分の本を読みな がら応じた。 「町しゅう探したって、こういう本は見つからんと思うな」オグロエートはエフレムの愚鈍そう うよじ はさみ な項を見つめ ( 髪の毛が包帯の中に落ちるのを恐れて久しく鋏を入れていない ) ・次に何事かと緊 張した顔を見つめた。「エフレムー ・ほやくのはいい加減にしろ。まあ、この本でも読め」 棟 エフレムは牛のように立ちどまり、濁った目を見張った。 「読んで何になる。みんなじきくたばっちまうのに」 う・こめ オグロエートは傷跡を蠢かした。 「じきくたばるから急いで読むんだよ。そら」 ガ本をエフレムに差し出したが、相手は近寄らなかった。 「読むものはたくさんある。要らん」 「お前、字が読めねえんじゃねえのか」オグロエー・トは強いて勧めなかった。 「読めるとも。読まなきゃなんないときは、ちゃんと読めるんだ」 訳注目 オグ 0 = ートは窓の敷居に手を伸ばして鉛筆をとり、本の最終印 ( 次がある ) をあけて、ゆ 0 くり なが 眺めながら、ところどころに印をつけた。 「びくびくするな」と呟いた。「短い話ばっかりだ。この印をつけたやつを読んでみな。お前の ぼやきには、みんなうんざりしてるからさ。とにかく読め」 ほんだな
241 の生れで、今年三十四歳だが、本当に一度も結婚していない。 これはかなり異様なことである。 現住所は本当にウシ・テレクという村たった。近親者は一人もいなかった ( 癌病棟では必ず近親 者の名前を控えておくことになっている ) 。専門は地形学であり、現職は耕地整理の係員となっ ている。 これだけ読んでも身の上は明らかになるどころか、かえって曖昧になったようたった。 今日、連絡ノートを見ると、コストグロートフは金曜から毎日二ずつシネストロールの筋 肉注射をされている。 巻それは夜勤の看護婦の仕事だから、今日はゾーヤがしなくてもすむのである。だがゾーヤはふ くちばし つくらした唇を嘴のように尖らした。 朝食がすむと、コストグロートフは病理解剖学の教科書を持って手伝いにやって来た。だがゾ ーヤは病室から病室へと駆けまわり、日に三、四回にわけて服用する薬を配るのに忙しかった。 上やがて二人は机にむかった。ゾーヤは大きなグラフ用紙を取り出して、いろいろな数値をグラ フに書き表わす方法を説明し ( ゾーヤ自身も少し忘れかけていたようだった ) 、自分でも大きな 重たい定規をあてて線を引き始めた。 こういう若い独身男性の ( 時には既婚者の ) 助手というものの価値を、ゾーヤはよく心得てい た。こういう手伝いは、えてして冷笑と冗談のやりとりに変り、助手はたいていゾーヤを口説き 始め、結局は間違ったグラフを作ってしまうものである。だがゾーヤはそんな間違いを恐れなか った。たとえ月並な求愛であろうと、どんなに有益な図表よりも面白いではないか。今日もゾー ヤは、このあいだの夜の楽しかった会話を、ふたたび続けることに反対ではなかった。
182 「仕事に必要で、それとも 「仕事に必要なんです ! 」 「じゃあ、 しいや、あそこの窓ぎわのべッドを使って下さい。シーツはすぐ敷いてくれます。そ れは何の本なんですかー 「地質学ですよ」と新入りは答えた。 ジョ 1 ムカはその一冊の表題を読んだ。『鉱脈試掘の地球化学的方法』。 「窓ぎわのべッドを使って下さい、構わないから。痛いのは、どこなんですか」 棟「足」 「ぼくも足なんだ」 そう、新入りは片足をそうっと動かしていた。だが全体の姿はフィギュア・スケートの選手み ン たいに見える。 ガ べッドにシーツを敷いてもらうと、青年はまるでそのためにだけここへ来たように、すぐさま 五冊の本を窓の敷居に置き、六冊目を夢中で読み始めた。だれかに何かを尋ねるでもなく、身の 上話をするでもなく、一時間ほど読みふけり、やがて診察に呼ばれて行った。 ひろ ジョームカも本を読もうとした。ます立体幾何学の本を拡げ、鉛筆で図形を組み立てようとし とれもこれも切り取られた直線の切れつばしと、こわれたぎざぎざの た。だが本の中の図形は、。 平面との組合せであり、みんな同しように見えてしまうのだった。 丿ン賞をとったコジェヴニコフ そこでジョームカはもう少し軽いものを読もうとして、スタ , ー とかいう作家の『生ける水』という本を手に取った。ジョームカはいつもなんだかこわいような