痴をこ。ほすわけにもいかなカた 「痛む ? 」 「ええ」 「同じ場所が ? 」 「ええ」 「まだ当分は痛むからね、ジョームカ。来年になっても、なんにもないところを扨んで、はっと 気がついたりすることがあると思う。でもね、痛むときは、もう足はないんだということを思い 巻出すといい。 そうすれば楽になる。大事なのは、これで命が助かったということ。分るね ? 足 はそのための犠牲なんだ」 なんという慰めだろう、レフ・レオニードヴィチの言葉はー ほんとうに、病毒を撒き散らす 足は切り捨ててよかったのだ ! そのほうが楽だ。 下「じゃ、また来るからね ! 」 医者は会議室へ飛んで行った。もうレフ・レオニードヴィチはどんじりだったので、空気を掻 きわけるようにして駆けつけた ( ニザムートジンは遅刻を好まない ) 。白衣の前はびっちりと胴 体に密着していたが、うしろはどうしても合わさらず、まるで何かの仮装のように上着の背が露 出していた。ふたん病院の中を歩くとき、この人はいつも急ぎ足で、両手両足を大きく動かし、 階段は一段おきに駆け上がるのだった。その手足の動きを見るだけでも、この人が決してのらく らしているのではないこと、時間を無駄に費やしているのではないことを、患者たちは了解する のである。
「それはそうですね。ぼくもやっかみ半分なのかもしれない。しかし苛めてやりたくなるな」 コストグロートフは椅子に坐ると、長すぎる胴体を持て余すように、左右に体をひねってみた。 それから前置ぎなしに、いきなり話題を変えて尋ねた。 「あなたは御主人の巻添えですか。それとも御自分の事件で ? 」 仕事の一、とを訊かれでもしたように、雑役婦も即座に平然と答えた。 「家族全体です。だれがだれの巻添えになったやら、分るものですか」 そろ 「じや今は、一家揃っておられるわけですか」 棟「とんでもありません ! 娘は移住させられた土地で死にました。戦後、私たちはここへ移って 来ました。それから二度目の粛清があって、主人が引っ張られました。収容所へ」 「というと、今はお一人ですか」 ン 「息子がいます。八歳の」 ガ婦人の冷静そのものといった表情を、オレークは眺めた。 そう、事務的に話せることはまだたくさんある。 「二度目の粛清というとーー四九年ですか」 「ええ」 ラーゲ 「なるほど。収容所はどこですか」 「タイシェット気付になっていますけど」 オレークは再びうなずいた。 「なるほど。湖の収容所だな。レナ河の方かもしれないが、郵便の宛先はタイシェットというわ 268 むすこ オゼルラ あてさき
「国家の措置というものは、追放処分をも含めて、正しく解釈しなければいけない。何にせよ、 あんたは評価されているわけだ。いわば党内にとどめられたのだから」 「ええ、むろんです ! もちろん : : : 」 「党員としての仕事は以前も特になかったんだろう ? 」 「ええ、ありませんでした」 「すっと平の労働者たったわけだね」 「ずっと機械工でした」 楝「私も昔は平の労働者だったんだが、見給え、この昇進ぶりを ! 」 二人はお互いの子供のことも詳しく話し合った。フェデラウの娘のヘンリエッタは、もう地方 病 の教育大学の二年生だという。 ン 「そこだよ、あんたー ーヴェル・ニコラーエヴィチは感動して叫んだ。「そういうこと ガを評価しなくてはいけない。あんたは流刑囚なのに、娘さんは大学に通っているんだからなー 皇帝時代のロシアで、こんなことが考えられただろうか ! 今や、なんの障害もない、なんの制 限もない ! 」 ここでフ リードリヒ・ヤコボヴィチは初めて反対した。 「制限がなくなったのは、今年からです。前は監督調査局の許可が必要でした。それに方々の大 学から願書を突っ返されましてね。成績が悪いという理由ですが、調べてみるとそんなことはな し」 「しかし、それでもあんたの娘さんは大学の二年なんだろう ! 」 に 4 ひら
この国に存在していないかのように。 恥ずかしかったが、気持はだいぶ落着いていた。他人の不幸に己れの不幸を洗い流されたのだ ろう。 「その何年か前には」と、エリザヴェータ・アナト 1 リエヴナは思い出を追っていた。「レニン は グラードから貴族が強制移住させられました。やはり何万人も追い出された筈ですけど、私たち は気がついていたでしようか。あとに残った貴族といったら ! よるべない老人や子供たちばか り。私たちはそれを知っていたし、見ていたのに、平気でいました。自分たちにふりかかった災 巻難ではなかったからですね」 「ピアノは売ったんですか」 「たぶん売ったのだったと思います。そう、もちろん売ったのだったわ」 改めてよく見れば、この婦人はまだ明らかに四十代だった。たが街を歩いていれば老婆と間違 下えられたかもしれない。白い三角布の下からは、老人独特の、もう縮れる力も失った髪の毛がは み出ていた。 「あなた方が移住させられたのは、どういうわけですか。どんな理由をつけられたのですか」 ソッィアールノ・オバーススイ・エレメント 社会的危険分子というのかしら。 「理由ですか ? 有害分子というのかしら。 O 裁判も何もないのですから、呼び名はどうとでも言えるわ」 「御主人はどういう方だったのですか」 「どういうって、ごく普通の入です。オーケストラのフルート吹きでした。でもお酒をのむと議 論が好きになって」 おの
言葉がよく聞えなかったようなふりをした。チャールイは確かにいい奴だが、生活環境が違うし、 考え方も違う。あまり付き合わないほうが利ロというものだ。品のいい拒絶の言葉をルサノフは 探した。 一行は正面入口の階段に出たので、チャールイはすぐにモスクヴィチに目をとめた。ラヴリク はもう車のエンジンをかけていた。「きみの車か」とも訊かずに、チャールイは値ぶみをする目 つきになって言った。 「もう何キロぐらい走った ? 」 巻、「まだ一万五千キロにならないんじゃないかな」 「その割にタイヤが参っているな」 「悪いのに当ったんだ : : なにしろ粗悪なタイヤが多くて困る : : : 」 「じゃ、優秀なのを手に入れようか」 下「ほんとか ! マクシム ! 」 「お安い御用だ ! 簡単さ ! じゃ、おれの電話番号を控えといてくれ ! 」チャールイは指でル サノフの、胸を突いた。「退院したら一週間以内に手に入れてやるよ ! 」 拒絶の口実を考える必要はなかった ! ーヴェル・ニコラーエヴィチは手帳の頁を裂いて、 勤め先と自宅の電話番号をマクシムに書いてやった。 「よし ! じや電話するからね ! 」マクシムは手を挙げた。 マイカは前の座席に跳び乗り、両親はうしろに乗りこんた。 「元気でな ! 」とマクシムは叫び、軍隊式に敬礼をした。 247 やっ
くちびるうい】め コストグロートフは唇を蠢かした。 「しかし名前ぐらいは聞いただろう」 「収容所で聞きました」 「クロポトキンは一頁ぐらい読んだかね。『相互扶助論』でも ? : : : 」 コストグロートフの動きは同じだった。 : じゃ、ミハイロフ 「いや、クロポトキンは正しくないのだから、きみが読んだ筈はないな , スキーは ? ああ、そうか、彼も反論が出てからは禁書扱いで絶版だった」 巻「読な暇がありませんよ ! 本もなかったし ! 」と、コストグロートフは怒ったように言った。 「こっちは労働の連続なのに、まわりからは、読んだか、読んだか、って苛めるんだから。軍隊 チェクメン じゃ、年がら年中シャベルを握ってたし、収容所でもシャベル。今は追放の身で作業服でしよう。 本なんか、いっ読んだらいいんです ? 」 だが、目は丸く眉は濃いシュルービンの顔には、遂に肝心な所に達したという興奮の色が輝し ていた。 「とにかく、道徳的社会主義とはそういうものだ ! 人間は幸福を目指すのではなくてーー幸福 という奴もまた市場の偶像だからーーーお互いの思い遣りを目指さなければいけない。獲物を喰ら これこ う動物だって仕合せなのだ。お互いを思い遣ることができるのは人間だけじゃないかー そ人間にできる最高のことだよ ! 」 「いや、幸福は残しておいて下さい ! 」と、オレークは激しく言った。「たとえ死ぬ前の数カ月 いったいなんのために : 盟間でも、幸福は残しておいてもらいたいな ! でなきや、
大変不幸な事件が起りました。 ジュ、ークが殺されたのです。 かりゅうど 村役場が野犬狩りのために二人の狩人を雇いました。その二人は通りを歩きまわって、鉄砲を 撃ちました。トービクは隠しおおせたけれども、ジュークは飛び出して行って狩人に吠えかかっ たのです。ジュークはカメラのレンズまでこわがる敏感な犬でしたからね ! 目を撃ち抜かれた か・ル、い ジュークは灌漑用の水路の縁に倒れ、水面に頭をだらりと垂らしました。私たちが駆けつけたと けいれん き、まだ痙攣していました。あんな大きな体が痙攣しているのを眺めるのは恐ろしいことです。 さび 棟家の中は淋しくなりました。ジュークに済まないと思いつづけています。しつかり繋いでおけ ばよかったのです。 あずまや ジュークのなきがらは庭の四阿のそばに埋めました : : : 』 ン オレークは横たわったまま、ジュ 1 ・クの姿を思い浮べた。殺されたジューク、目から血を流し、 ガ水路に頭をたらりと垂らしたジュ 1 クではなく、オレークの小屋の窓にぬっと現われな二本の前 足と、熊のような耳をしたやさしい巨大な頭を。早く戸をあけろと催促しているその姿を。 あの犬も殺された。 なんのために ? 178 ソビエト
下 259 になり、オレークも腕を捲って注射させるのだった。いっか運んた酸素吸入のゴムの袋のように 二人のあいだで張りつめていたものは、突然凋み始めた。そして無に帰した。残ったのは、馴れ あいさっ 馴れしい挨拶たけだった。 「あら、その後いかが、オレ . ーク」 オレークは長い両腕で椅子にまり、乱れた黒い髪を前に垂らした。「白血球は二千八百。き のうから >< 線照射は受けていない。あした退院」 まっげ 「もう ? 」ゾーヤは金色の睫毛を動かした。「よかったわ ! おめでとう ! 」 巻「なに、めでたいことは何もないさ」 「まあ、恩知らずね ! 」ゾーヤは責めるように頭を振った。「初めてここへ来て、階段の下に寝 ていたときのことを思い出してごらんなさいー あのとき、一週間以上生きられると思った ? 」 それは本当だ。 しかし、ゾーヤはなんというすばらしい娘だろう。明朗で、働き者で、まじめで、腹黒いとこ ろが全然ない。なんとなくお互いに欺き合ったような、この気まずささえ消えれば、再びゼロか ら出発して二人が友人となるのに何の支障があるたろう。 「とにかく、そういうことさ」と、オレークは微笑した。 「そういうことね」と、ゾーヤも微笑した。 刺繍糸のことは何も言わなかった。 これでお終いだ。ゾーヤは週に四回すっこの病院に通うだろう。教科書を暗記するたろう。た ししゅう まに刺繍をするだろう。町では、ダンスパ ーティのあと、だれかと物陰で抱き合うだろう。
そして次の患者に移るのだった。 回診のとき病気を診断することが困難であればあるほど、そして医者同士の相互理解がむずか しくなればなるだけ、レフ・レオニードヴィチは患者を元気づけることに意義を見出した。患者 を励ますことこそ、回診の主な目的であるとさえ考えるようになっていた。 ふめいりよう 「差異不明瞭です」と部下が言った ( これは病状が全然動いていないということた ) 。 うれ 「なるほど」とレフ・レオニードヴィチは嬉しそうに応じた。それから患者に確認を求めるよう に一一一口った。 「いくらか楽になりましたね ? 」 巻「ええ、まあ」と、女の患者は少し驚きながらも同意した。自分では楽になったようにも思えな いのだが、先生がそう言うのならやはりそうなのだろう。 「ああ、やつばりね ! これからはだんだんよくなりますよ」 おび もう一人の女の患者は怯えたように言った。 下「先生 ! なぜ背骨がこう痛むんでしよう。背骨にも腫瘍ができたんでしようか」 えがお 「そんなことはない」と、レフ・レオニードヴィチは笑顔でゆっくりと言った。「それは二次的 現象というのです」 ( これは嘘ではなかった。転移は二次的現象であることに間違いない ) 。 あおじろ くちびる かす 恐ろしいほど痩せて、顔色は死人のように蒼白く、微かに唇を動かすことしかできない老人の べッド の前では、部下はこんなふうに報告した。 「この患者は強壮剤と鎮痛剤を服用しています」 これはつまり、もう駄目た、手遅れだ、治療の方法がない、あとは苦痛を和らげてやることし うそ おも
ほはえ 必ず通るだろう。二人は微笑みをかわし、再会を喜ぶだろう。「今日はー そしてオレークは、揉みくちゃにされて萎れかけた菫の花を外套の袖口から取り出すのか。 それから二人は中庭へ入るだろう。だが、あの自信たっふりでふわふわの堡塁の前を通らなけ ればならないー そろ そこは二人揃っては通れないだろう。 今日でなくとも、別の日に、ヴェガもまたーーーしなやかな足とやさしい、いと明るいコーヒー色 棟の目をもっヴェガ、この世の滅びゆく者たちとは無縁に見えるヴェガもまた、自分の軽くて繊細 で魅力的な夜具をベランダに干すだろう。 鳥は巣がなくては生きられない。女は寝床がなくては生きられない ー。し力ないものは八 たとえ永遠の女性、この世のものならぬ女性であろうと、無視するわけこよ、 ガ時間の睡眠だ。 眠りに落ちる時だ。 眠りから目醒める時だ。 出て来た ! 真っ赤なオートバイが中庭から飛び出して来て、コストグロートフに最後の爆音 を浴びせかけた。獅子鼻の若者は意気揚々と街路を睥睨していた。 コストグロートフは打ちのめされたように歩き出した。 菫の花東を袖口から出した。もう贈物としての価値がなくなる寸前の状態たった。 同じような黒いお下け髪を電気のコードで東ねた二人のウズベクの少女が、むこうからやって 322 「それで滑な結果に : しお