一人 - みる会図書館


検索対象: ガン病棟 下巻
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1. ガン病棟 下巻

そんなわけで、レフ・レオニードヴィチはいつも会議の前に、習慣的に、自分の手術した患者 のぞ の容態を覗いてみるのだった。あすは手術日だから、今日は長時間にわたる総回診がある。それ までの一時間半のあいだ、胃の手術を受けた患者の容態や、ジョームカの容態を知らずにすごす ことはとてもできなかった。そこで胃の手術を受けたほうの患者を診たが、容態は悪くなかった ので、何をどれだけのませるかを看護婦に指示した。それから、ジョームカのいる隣の小さな二 人部屋に寄ってみた。 あおじろ おお もう一人の患者は回復して退院したので、蒼白い顔をしたジョームカだけが、胸まで毛布に覆 なが 棟われ、仰向けに寝ていた。少年は天井を眺めていたが、その目つきは穏やかではなかった。目の まわりの筋肉を緊張させ、天井のあたりの何か細かいものを懸命に識別しようとしているように 病 見えた。 わず レフ・レオニードヴィチは両足を僅かに開き、ジョームカにたいして僅かに斜めの位置に、無 ガ言で立ちどまった。両手はだらりと垂れているが、右手はほんの少し体から離れ、なんとなく険 しい目つきで少年を見つめているところは、今その右手でジョームカの顎に一発喰らわせたらど うなるだろう、とでも考えているようだった。 ジョームカは頭をまわして医者の姿を認め、笑顔になった。 いかめ 威嚇的で厳しい外科医の表情も少しゆらいで、笑顔らしきものに変った。そしてレフ・レオニ ードヴィチはまるで心の通じ合う仲間に逢ったときのように、ジョームカにウインクをした。 「じゃ、大丈夫たね ? ノーマルなんだね ? 」 「ノーマルだなんて」ジョームカには訴えたいことが山ほどあった。しかし男対男としては、愚 えがお からだ あご

2. ガン病棟 下巻

大変不幸な事件が起りました。 ジュ、ークが殺されたのです。 かりゅうど 村役場が野犬狩りのために二人の狩人を雇いました。その二人は通りを歩きまわって、鉄砲を 撃ちました。トービクは隠しおおせたけれども、ジュークは飛び出して行って狩人に吠えかかっ たのです。ジュークはカメラのレンズまでこわがる敏感な犬でしたからね ! 目を撃ち抜かれた か・ル、い ジュークは灌漑用の水路の縁に倒れ、水面に頭をだらりと垂らしました。私たちが駆けつけたと けいれん き、まだ痙攣していました。あんな大きな体が痙攣しているのを眺めるのは恐ろしいことです。 さび 棟家の中は淋しくなりました。ジュークに済まないと思いつづけています。しつかり繋いでおけ ばよかったのです。 あずまや ジュークのなきがらは庭の四阿のそばに埋めました : : : 』 ン オレークは横たわったまま、ジュ 1 ・クの姿を思い浮べた。殺されたジューク、目から血を流し、 ガ水路に頭をたらりと垂らしたジュ 1 クではなく、オレークの小屋の窓にぬっと現われな二本の前 足と、熊のような耳をしたやさしい巨大な頭を。早く戸をあけろと催促しているその姿を。 あの犬も殺された。 なんのために ? 178 ソビエト

3. ガン病棟 下巻

ガン病 256 断書の日付はあさ 0 てにするのですね。複雑なのね、あなたというひとは ! 」 はんざっ だが女医の目はこの煩雑さを嫌がる風はなく、依然として微笑をたたえていた。 「複雑なのは・ほくじゃありませんよ、ガンガルト先生 ! 制度のほうですよ ! それに診断書は 普通の人は一通で済みますが : ほくには二通必要です」 「なぜ」 「一通は旅行の理由を説明するものとして監督調査局に取られてしまいます。もう一通は自分用 です」 ( 監督調査局には、一通しかないと言い張 0 て、たぶん渡さないだろう。予備に残してお かなければならない。診断書のことでは今までにさんざん嫌な目にあ 0 ているのだから : : : ) 「じゃ、鉄道に提出するのにもう一通必要ですね」女医は紙切れに何か書きつけた。「これが私 の住所です。道順を説明しましようか」 「いや、探して行きます、ガンガルト先生 ! 」 ( やつばり本気なのだ。本気で招待してくれたの 「それから : : : 」すでに用意してあ 0 た細長い紙片を女医はアドレスに添えた。「これはドンツ ォワ先生がおっしやっていた、例の処方です。分量が減っているだけで、今までの薬とほとんど 同じですけど」 例の処方か。例のー それはどうでも、 しいと言わんばかりの口調だった。住所を教えるついでに、ちょっと教えてお くといった感しである。二カ月間オレークを治療したあいだに、ガンガルトはこの一件を遂に一 度も口に出さなかった。 いや

4. ガン病棟 下巻

には何もない、 この惨めな生活を感謝するように、背中の痛みにもかかわらず、シブガートフの 倦み疲れた目は回診のたびに光り輝くのである。 ドンツォワは思った。自分の普段の物差しを棄てて、シブガートフの物差しを採用すれば、私 などはまた仕合せな人間ではないだろうか。 シブガートフは、ドンツォワが今日限り病院をやめることを、すでにどこからか聴いていた。 無言で二人は見つめ合った。どちらも打ちひしがれてはいるが、お互いに味方同士である。ま むち もなく勝利者の鞭に追われて、離れ離れにならねばならないのたが。 巻『分ってね、シャラフ』と、ドンツォワの目は語っていた。『できるたけのことはしてあげたの よ。でも、私も傷ついて、倒れてしまった』 『分ります、お母さん』と、タタール人の目は答えていた。『私を産んたひとも、あなた以上の ことはしてくれなかった。でも、今の私にはあなたを救うことはできないのです』 アフマジャンの結果はすばらしかった。病気の発見が早かったので、何もかも理論通りに行わ れ、理論通りの効果が現われていた。治療に用いられた放射線の総量を計算してから、ドンツォ ワは申し渡した。 「退院です ! 」 婦長に頼んで制服を保管所から出して貰うには、朝一番にこの知らせを伝えなければならない。 まつば・つえ 今はもう少し遅かったが、それでもアフマジャンは松葉杖も使わずに、階下のミータの所へ飛ん で行った。もう一晩たりとも、ここですごすのは嫌だった。旧市街に友達がいるから、今晩はそ こに泊れる。 下 もら

5. ガン病棟 下巻

小さな毛皮帽子を取り出し、むりに頭にかぶせた。雑嚢は片方の肩にひっかけた。それから顔の 筋肉に命令して、レフ・レオニードヴィチのメスの下、手術台に横たわっていたときから、また 二週間経っていないような表情を作った。そして疲れぎった目つきをしながら、行列のあいだを 通って、出札ロへ近づいた。民警が立っていたので、出札ロの近くで嘩している者はなかった。 うやうや オレークは一見きわめて弱々しい仕種で上着のポケットから証明書を取り出し、恭しく民警に 差し出した。 くちひげは 民警は、ロ髭を生やした若いウズベクの青年で、若き日の陸軍大将といった感じたったが、む ( 巻ずかしい顔をして証明書を読むと、行列の先頭の人々に言った。 「この人を入れなさい。手術を受けたばかりの病人だ」 そして先頭から三人目の場所を指した。 オレークはぐったりした目つきで行列の人々を眺め、自分から割りこもうとはせずに、うつむ わき 下いて脇に立っていた。皿のように大きな鍔のついた褐色のビロードの帽子をかぶった、中年の肥 満体のウズベク人が、オレークを引っ張って列に入れてくれた。 出札ロの近くに立つのはいい気分だった。出札係の女の指や、投げ出される切符が見えた。旅 うちぶとこ 行者たちは内懐ろや・ハンドの内側から少し余分に出した金を、汗ばんた掌でしつかり握りしめて いた。旅行者たちの遠慮がちな声や、出札係の女の高飛車な返答が聞えた。事はてき。はきと進行 していた。 番が来て、オレークは窓口にかがみこんた。 「すみません、ハンタウまで三等一枚下さい」 335 しぐさ かっしよく

6. ガン病棟 下巻

ーを切り、数枚の写真の中から一枚を選んで、それを修整し、この手順を更に数十人の娘につい て繰返し、こうしてこのウインドウが成立したのだろう。オレークはそう思いながらも、なおか っそれらの写真を眺め、世界はこんな美女たちに満ちあふれているのだと信じてみると、なんと なく晴々とした気分になるのだった。失われた長い年月のために、失われた寿命のために、今奪 われているすべてのもののために、オレークはわざと鉄面皮にじろじろ眺めつづけた。 アイスクリームがお終いになった。紙コップを捨てなければならないが、それはいかにも清潔 で便利だったから、旅行中はこれで水をのもうとオレークは思った。そして雑嚢にしまった。箆 巻もしまった。これも何かの役に立つかもしれない。 その先には薬局があった。薬局というのも非常に面白い場所である ! コストグロートフはた だちにそこへ入って行った。清潔な売場に並んでいる長方形のガラスの箱は、一日中眺めても飽 きないだろう。ここに並べられた品々は収容所の人間にすれば何もかも珍しかった。収容所に何 しやば 下十年いても見られぬものばかりだ。そのなかの幾つかを、オレークはかって娑婆にいた頃見た記 憶があったが、その名称や用途となると、とんと思い出せぬのだった。野蛮人のように畏怖しな めつき がら、オレ 1 クはニッケル鍍金や、ガラスや、プラスチックの容器を見つめた。その奥には効能 を書いた箱入グの薬草が並んでいた。オレークは薬草というものを大いに信じていたが、それに しても例の薬草はどこにあるのだろう : : : 次には錠剤を入れたガラス・ケースがあり、これはも ためいき う見たことも聞いたこともない新しい名前の薬ばかりだった。オレークは溜息をつきながら陳列 ケースを見てまわったが、店員に尋ねたのは、カドミン家に頼まれた温度計と、ソーダと、漂白 剤のことだけだった。温度計は品切れ、ソーダも品切れだが、漂白剤の定価は三コペイカであり、 293

7. ガン病棟 下巻

が何事も知りたくないという以上、この土曜の夜、具体的な症状を数えあげる必要はいささかも ないのである。この際、ドンツォワは雑談をして気を紛らす以外にないのだが、二人の医者の雑 談の話題としては、ほかにどんなことがあるだろう。「とにかく、幼い頃からの掛りつけの医者 というものは、人間の一生において最も心暖まる存在なのだ。ところが、その心暖まる存在は根 絶やしにされてしまった。掛りつけの医者というものがなければ、文明社会において家族そのも のが存在し得ないんだよ。母親が家族全員の食べものの好みを知っているように、掛りつけの医 者は一入一人の悩みを知っている。掛りつけの医者にならば、どんなに些細な訴えを持ちこんで 棟も恥ずかしくないが、大病院の外来診察室では、まさかそうま、 。し力ない。なにしろ番号札を渡さ あげく れて、待ちに待った挙句が、一時間に九人というスピードで診察されるんだからね。ところが、 病 些細な訴えを無視されれば病気はどんどんひどくなってゆく。そう、どれだけの数の大人が ン 今この瞬間たって、自分のひそかな危惧、あるいは恥すべき危惧を打明けることのできる医者を、 ガ話相手を、血眼になって探していることだろうね。ところが、そんなふうに医者を探しているこ とは、友人にも必すしも話せないし、新聞に広告を出すわけにもいかない。なにぶん、配偶者を しい女房を見つけること 探すことのように私的かっ内密なことなんだから ! しかし現代では、 のほうが楽なんだな。好きなだけこちらに掛り合ってくれるような医者、患者のすべてを完全に 理解してくれる医者を見つけるよりもね」 ドンツォワは額に皺を寄せた。抽象論た。ドンツォワの頭には、さまざまな症状の群れが押し 寄せ、おそましい隊列を組み始めているというのに。 「そうですね、でも、そういう開業医はどの程度いればいいのでしよう。それはやはり、全国民 しわ

8. ガン病棟 下巻

やっ はヴァジムにこう言った。「いったい奴らはだれのためにコロイド金をとっておくんだ。きみの ささ お父さんは祖国のために命を捧けたんだろう。だのに、なぜきみにコロイド金をくれないんだ」 それもまた尤もなことだった。ヴァジム自身も最近はそう考え、疑間を感じるようになってい た。しかし第三者にそう言われることは腹立たしかった。一カ月前ならば、母親の奔走は余計な ことであり、父親を引合いに出すのは困ったことだと思っていたのである・。だが片足が強力な罠 てんてんはんそく に捉えられてしまった今、ヴァジムは母親からの吉報を待って輾転反側し、母親の努力が実を結 冫しいと心から願うのだった ! 父親の功績のゆえに救われるのは正当なこととは思えないが、 練自分自身の才能のゆえに救われるのは三倍も正当なことなのだ。しかし、コロイド金を割り当て る立場にいる人間に、そのことが分る筈はなかろう。まだ世間に知られぬ才能を抱いて生きるこ かか とは苦しみであり一種の負い目であるけれども、火花を発さず、放電せぬままの才能を抱えて死 はる ン んで行くことは、平凡な普通人、たとえばこの病室にいる他の患者たちの死と比べて、遙かに悲 ガ劇的なのだ。 がいないためでも 孤独がヴァジムの内部で脈打ち、震えていた。それは身近に母親やガーリヤ なければ、だれ一人面会に来てくれないためでもなく、余人ならぬヴァジムが生きながらえるこ とがどれほど重要であるかを、周囲の人たちも、医者たちも、コロイド金を管理している連中も、 っこうに理解してくれないからなのであった。 そのことが頭の中でがんがん鳴り始めると、ヴァジムはたちまち希望から絶望へ押しやられ、 読んでいる本の中身が理解できなくなるのたった。目は一つの頁の中の文字を端から端まで追う のだが、ふと気がつくと、内容は全然頭に入っていない。ちょうど山羊が山の斜面を走るように、 とら わな

9. ガン病棟 下巻

にんじんしつすが を信しちゃいけないよ ! 直すも医者、殺すも医者というくらいだ。おれたちは人参の尻尾に縋 ったって生きなきゃいけないんだからね ! 」 鼻が赤らんで大きく、唇は厚くて肉感的な、いかにも好人物らしいチャールイの顔には、確信 みなぎ と友情が漲っていたー 今日は土曜なので、治療はすべて月曜まで持ち越された。灰色の窓の外では雨が降り、その雨 がルサノフを肉親や友人たちから遠ざけていた。新聞には追悼のための写真も載らす、漠然たる 腹立たしさは心にわだかまっている。永い夜に先立って、もう明るい電燈が輝いている。この愉 棟快な男と軽く一杯やり、肴をつまみ、それからポ 1 カーをやるのも悪くあるまい ( 。ハーヴェル・ ニコラーエヴィチの友人たちにとってもポーカーは全くの新風なのだ ! ) 。 病 まくら チャールイはもう要領よく枕の下に酒壜を忍ばせてあった。コルクを指で巧みに引き抜き、膝 っ のあたりでコップに半分ずつ注いだ。二人はただちにコップを打合せた。 ーヴェル・ニコラーエヴィチは、まことにロシア人らしく、最近の恐怖も、医者の、 しいつけ も、禁酒の誓いも、たちまちにして無視した。今はもう一刻も早く悩みを忘れ、人間らしい暖か みを感じたい一心たった。 こつけい 「生きようぜ ! あくまで生きようぜ、 ーシャ ! 」と、チャールイは言った。その多少滑檮な きび おれたちはあくま 顔が一瞬、厳しく、残酷にすら見えた。「死にたい奴は勝手に死にゃあいし で生きようぜ ! 」 この言葉をきっかけに、二人は酒をのみ干した。ルサノフはこの一カ月間ですっかり体が弱り、 のど あかぶどうしゅ 度数の低い赤葡萄酒しかのんでいなかったので、たちまち喉が焼けるような感しに襲われた。そ さかな ばくぜん

10. ガン病棟 下巻

行列の中から同情の声が起った。 「乗せてやりやいいじゃよ、 オしカ ! 病人なんたから ! 」 おおまた そこでオレークは列から離れ、大股に歩いて近寄ると、興奮した男の耳に口を寄せ、相手の鼓 膜のことはぜんぜん考慮せすに大声で言った。 「おい、静かにしろ ! おれもあそこから来た男たぜ ! 」 興奮した男は耳を抑えて跳びのいた。 「あそこって、どこた」 棟今、搬み合いをやるだけの体力がないことは分っていたが、もしそうなったとしても、オレー クは両手が空いているが、男のほうは片手に籠を持っている。そこでオレークは男にのしかかる ような姿勢になり、今度は逆に低い声で、だがはっきりと言った。 ン 「九十九人が泣き一人が笑う所たよ」 行列の人たちはわけが分らなかった。気違いは突然冷静になり、外套を着たひょろ長い男にウ ガ インクをしたのである。 「分ったよ、おらあなんにも言わねえよ、あんた先に乗りなよ」 だがオレークはその男と車掌のそばに立っていた。せつかくここまで出て来たのだから、ここ から乗らなければ損になる。たが、苛立った人々は列を乱し始めた。 「みなさん ! 」と、男が叱った。「順番に願いますよ ! 」 籠やバケツを持った人たちは順番に乗りこんだ。かぶせた袋の陰からは、薄紫色や桃色の少し のぞ 長めの二十日大根が覗いていた。乗客の三人に二人はカラガンダ行きの切符を持っていた。オレ 346 しか ムいーこ′ )