ガン抦 ネガを眺め、哀願する歪んだ目を見つめ、検査結果や書物のデータを参照し、論文を書き、同僚 と論争し、患者とやりあっているうちに、ドンツォワの経験なり物の見方なりはますます確固た るものになり、医学理論はよりいっそう理路整然としてきたのだった。病気の原因があり、症状 があり、診断があり、経過があり、治療があり、予防があり、予後がある一方、患者の抵抗、疑 惑、恐怖感といったものは、人間の当然の弱点として医者の同情を誘いはしたものの、方法的に はゼロに等しいデータであり、論理的にはどこにも場を与えられていなかったのである。 ドンツォワにとって、今まで、人間の肉体はどれもみな同し構造たった。一つの解剖図がすべ てを解き明かしていた。日常生活の生理も、感覚も、すべて一様たった。ノーマルなもののすべ て、正常でないもののすべては、権威ある書物によって合理的に説明することができた。 たが突然、ここ数日のうちに、ドンツオフ自身の肉体がその秩序立った偉大なシステムから転 げ出て、硬い地面に墜落した。そして肉体は今や、さまざまな臓器を詰めこんだ哀れな一つの袋 どの臓器がいっ発病し、いっ叫び出すか、知れたものではなかった。 数日のうちに、何もかもが裏返しになり、知りつくした筈の要素から成り立っていたものが、 突然、未知の、薄気味悪い対象に姿を変えた。 むすこ 息子がまだ小さかった頃、ドンツォワは息子の描いた絵を見て驚いたことがある。ありふれた 室内の物体 , ーー湯沸しや、スプーンや、椅子が、異様な視点から描かれ、似ても似つかぬものに 変貌していた。 自分の病気の進行状況なり、治療における自分の新たな立場なりが、今のドンツォワには、ち ようどその息子の絵のように、きわめて異様に見えるのだった。もうドンツォワは分別ある指導 なが
表情はなかった。もっと明るい感じで勢いづき、コストグロートフを説得しようと意気ごんて、 た。そして学校教師のように一語一語をはっきりと発音した。「すべての入間関係、すべての原 理、すべての法律が、道徳から、道徳からのみ発しているような社会を、全世界に示せばいいの おとな だ。すべての間題、たとえば子供をどう育てるか、子供に何を教えるべきか、大入は何を目的と して労働するか、暇なときに何をするか、というような問題は、すべて道徳の命じるところによ って結論づけられなければいけない。学間 ? それは道徳を、そして何よりもまず学者自身を傷 つけないような学問たけになるたろう。外交問題にしても同しことー ほかのどんな分野の問題 も同しことた。その行為がわれわれをどれだけ豊かにするか、どれだけ強めるか、どれだけわれ われの威信を高めるか、というふうに考えるのではなくて、その行為がどれほど道徳的であるか、 病 それたけを考える」 ン 「そりや実現の可能性が少ないな。あと二百年ぐらいかかるんしゃありませんか ! ても、待っ ガて下さい」コストグロートフは額に皺を寄せた。「またよく分らないところがある。物質的な基 盤はどうなります ? 経済の問題はやはり真っ先に考えなければならないでしよう ? 」 「真っ先に ? それは人によりけりたな。たとえばヴラジーミル・ソロヴィョフは、道徳の基盤 の上に経済を打建てられるし、打建てねばならないと、かなり納得できる論を展開している」 あっけ 「なんですって ? : : : まず道徳、それから経済ですか ? 」コストグロートフは呆気にとられた目 つきになった。 「そうなのだー しいかね、きみはロシア入たが、ヴラジーミル・ソロヴィョフは、もちろん、 一行も読んでいないのだろう ? 」 220
209 いたということになるかね ? そもそも信じるためには、どんな人間であればいいのかね」突然 シュルービンはいらいらし始めた。感情が高まると、この人の頻の造作は位置が変ったり歪んだ りして、静かなときとは似ても似つかぬ顔になるのだった。「すべての大学教授が、すべての技 術者が、突然有害分子になったと言われて、民衆はそれを信じるだろうか。国内戦時代の優秀な 師団長たちが実はドイツや日本のスパイなのだと言われて、信じるだろうか。レーニン親衛隊が 一人残らす思想的変質者だと言われて、果して信じるだろうか。友人や知人がどれもこれも人民 の敵だと言われて、信じるだろうか。何百万人ものロシア兵が祖国を裏切ったのだと言われて、 巻信じるだろうか。老人から幼児まで、ロシア国民全体が去勢されると言われて、それを信じるだ ろうか。いったい、民衆とはそれほど馬鹿なものなのかね。民衆とは馬鹿者の寄り集まりなのか ね。まさか、そんなことはあるまい 民衆は利ロなのだ、死にたくはないのだ。すべてを耐え おきて 忍び、生きながらえること、それが偉大な民衆の掟なのた。われわれ一人一人の墓の上で、後世 下の人間が、これは何者だったのかと尋ねるとき、その答えとなり得るのはプーシキンの詩句だけ なのだ。 この忌わしい世紀にあっては どこへ行こうと人間は暴君か裏切者 さもなくば囚人だ ! 」 オレークは身を震わせた。それは初めて聴く詩句だったが、そこには作者と真実とが完全に一 こも 体化したときに生れる、あの恐るべき確信が籠っていた。 シュルービンは脅すように大きな指を一本立てた。 おど
343 しかし、ヴェガ ! もし今日あなたに逢えたとすれば、私たちのあいだには何か正しくないこ とが、何かひどくわざとらしいことが始まっていたかもしれません ! あとで歩きながら、結局 あなたに逢えなくてよかったのだ、と私は思いました。今までのあなたの苦しみのすべて、今ま での私の苦しみのすべては、少なくとも名付けることができるし、告白することができます ! しかし、あなたと私のあいだに始まったかもしれぬことは、だれに告白することもできないので す ! あなたと私のあいだのそれは、何か灰色の、生気がない、しかも刻々育ってゆく蛇のよう なものです。 巻年齢的にではなく、むしろ経験的に、私はあなたより年上です。だから信じて下さい。あなた はあらゆる点で、あらゆる点で正しいのです ! 御自分の過去についても、現在についても正し 、。たたし、未来を占うことはあなたの力に余った。賛成していたたけないかもしれませんが、 私は予言します。すべてに無関心な老年に達する前に、あなたは私と連命を共にしなかった今日 下という日を祝福なさるでしよう ( 自分の追放生活のことを言っているのではありません・ーー・・それ うわさ はまもなく終るという噂さえあります ) 。あなたは御自分の生涯の前半をまるで仔羊のように生 贄に捧げてしまった。それならば後半はもっと大切にして下さい いずれにせよ、この土地を去ろうと決心した今 ( もし追放が解除になったとしても、今後の検 診や治療はあなたの病院では受けませんから、つまり、もうお別れということです ) 、告白させ て下さい。あなたと非常に精神的な話をしていたときでさえーーその話の内容に嘘偽りはありま せんが・ーー私は絶えず、絶えすあなたを抱きしめ、くちづけをしたいと思っていました 乱筆乱文お許し下さい にえ「ささ こひつじ
巻 201 下 最近、こんなふうに休息することが頻繁になっていたのである。そして連れ合いに先立たれて ' からというもの、肉体がカの回復を要求するのに負けず劣らす、精神は、外部の物音や、会話や、 仕事の予定など、この人をして医者たらしめているもののすべてから離れて、沈黙の底深く沈む ことを要求するのだった。内面の状態は、いわば清めることを、透明化を要求していた。そして 今、こんなふうに体を動かさず、押し黙って、心に浮ぶもろもろのことを考えるともなぐ考えて いると、心はおのすから清められ、充実してくるのたった。 こんなとき存在理山はーーー永かった過去から短い未来に至る自分自身の存在理由、そして死ん た妻の、若い孫娘の、一般にすべての人間の存在理由というものは、決して仕事の中にあるので はないように思われるのだった。人は明けても暮れても仕事にのみ打ちこみ、仕事にのみ関心を 示し、他人は仕事によってその人を判断するものである。だが存在理由はそこにあるのではなく 一人一人の背後に投げかけられた永遠の姿かたちを、どこまで乱さず、揺らめかさす、歪め ずに保存し得たかという点にこそ、あるのではなかろうか。 おも ちょうど穏やかな池の面に映った銀色の月のように。 市場の偶像 内部にある種の緊張が生れ、持続していた。疎ましい緊張ではなく、喜ばしい緊張てある。緊 ひんばん
を無料で治療するわが国の医療制度にはしつくりしないものてはないかしら」 「全国民は結構。しかし無料というのは必ずしもよくはない」オレシチェンコフは太い声で自説 を固持した。 「でも無料の診療は、わが国の医療制度の最大の成果ですわ」 「いや、果してそれほどの成果かな ? 無料とはどういテことだろう。医者は決して無料では働 いていない。医者に金を払うのは患者ではなくて、国家予算だ。ところが国家予算の金を出して いるのは同じ患者じゃないか。こりや無料の診療ではなくて、無責任の診療だよ。患者はたとえ 巻金が余っていたって、こんな診療じや出し惜しみするたろう。しかし本当に必要な金ならば、今 の五倍だって出すだろう」 「それでは患者の負担が大変になるわ ! 「健康でなけりや、新しいカーテンも、二足目の短靴も、ぜんぜん無意味なのだよ ! 現状はど ドうだね ? 患者は本当に親身に診てくれる医者にならば、決して金を出し惜しまないのだ。とこ ろが、そんな医者はどこにもいない。到る所にグラフ、仕事のノルマ、次の方どうそ ! 有料の 総合病院たって、診療のテンポはもっと早い。何をそんなに右往左往しているかと思えば、調査 だ、問い合せだ、労働能力審査会だ。医者は患者のべてんを見破らなきゃならない。患者と医者 かたき は敵同士だ これで医術といえるかね。薬剤の問題だってそうだ。二十年代には、わが国では すべての薬が無料だった。覚えているかね ? 」 「そうでしたかしら。そう言えば、そうだったわ。忘れていました」 「忘れたかね。すべて無料だった。しかしこの制度は廃止になった。なぜ ? 」 195
中庭はまだ目醒めていなかったが、ここで生活が進行していることは充分に感じられた。一本 おもちゃ の樹木の根方にべンチとテープルが固定してあり、思いがけなくも現代的な子供の玩具が散らは せんたくおけ っていた。その近くに給水塔があり、洗濯桶があった。すべての窓はこの中庭にむかって開かれ ていた。街路に面した窓は一つもない 再び街路に戻ったオレークは、似たようなトンネルをくぐって、もう一つの中庭に入ってみた。 ふじいろ そこも同じような風景たったが、藤色のケープを羽織り、長い黒髪を腰まで垂らした若いウズベ ク娘が、小さな子供たちと遊んでいた。娘はオレークを見たが、気にとめないふうだった。オレ 練 ークは中庭から出た。 これはロシアとはまるで違っている。ロシアの農村や都会では、主な部屋の窓はすべて街路に はちう 面している。そして主婦たちは、まるで森の待伏せ場所に隠れるように、窓の鉢植えの花やカー テンの陰に身をひそめて、今見知らぬ人間が歩いて行ったとか、だれがだれの家に何の用で入っ ガて行ったとか、事細かに観察するのである。だがオレークは東方の民族の考えをすぐに理解し、 受け入れた。つまり、あんたがどんなふうに暮しているかは知りたくない、だからあんたもうち を覗かないでおくれ ! ということである。 いつも探られ、さわられ、監視されていた収容所生活のあとで、元囚入にとって、これ以上の 生活形態が考えられるだろうか。 この旧市街がオレークはますます気に入っていた。 すでに気づいていたのだが、ところどころの家並みの切れ目に人気のない喫茶店があり、店の あるしがようやく起き出していた。今、目にとまったのは、街路よりも高い・ハルコニーのある一 284 ひとけ おも
にどんな効果的な療法があるか、等々。 よいよコロイド本当が ( 地旧 1 ) 42 最後に残っていたヴァジムも、夕方この部屋から出て行った。い びようとう ので、別の病棟へ移され、放射線技師の手に委ねられるのである。 オレークは一つ一つのべッドを眺めては、入院当時の患者たちのことを思い出し、死んだのは 何人たろうと考えていた。数えてみると、死んだ患者の数はそれほど多くないような気がする。 病室の中は蒸し暑く、戸外の空気は暖かかったので、コストグロ 1 トフは窓を細目にあけて横 たわった。窓の敷居ごしに、春の大気が流れこんできた。病院の塀のすぐ外に群がっている古い にぎ 巻小さな家々の中庭から、春めいた賑やかな物音が聞えた。それらの家々に住む人たちの生活は煉 瓦の塀にへだてられて見えないが、今、ドアをしめる音や子供の泣き声、酔いどれの大声や、鼻 声で歌う蓄音器の音楽などが、 はっきりと聞きわけられた。一しきり騒がしかったそれらの物音 しばらた が鎮まり、暫く経ってから、女の豊かな低い歌声が伝わってきた。あるときは激して、あるとき 下は満足そうに、思いきり長く引き伸ばした歌い方である。 かわい 炭鉱から可愛い若者を わたしのうちに連れて来て : すべての歌はそのことを歌っていた。すべての人間はそのことを考えていた。だが、オレーク は何かほかのことを考えなければならない。 たくわ あすの朝は早いのだから、今夜はゆっくり寝んで力を貯えるべきなのだが、オレークはなかな ささい か眠れなかった。肝心なこと、些細なことを取りま・せて、さまざまの思いが頭の中を往来した。 ルサノフと充分に議論できなかったこと。シュルービンと話し足りなかったこと。ヴァジムに指 しず きん れん
その前に。ハーヴェル・ニコラーエヴィチは電話で自宅に連絡し、ユーラに靴とコートと帽子を持 たせてよこすよう頼んであった。愚劣な連中がいつもべッドにごろごろ寝そべって馬鹿げた会話 をかわしている病室には、もう飽き飽きしていたし、待合室も負けず劣らずわしい。それにパ からだ ーヴェル・ニコラーエヴィチはだいぶ体が弱っていたけれども、戸外の新鮮な空気を吸いたかっ たのである。 事はその通りに運んだ。まず腫瘍をマフラーで簡単に覆い隠した。腫瘍はまだ頭を動かすとぎ 多少邪魔になるが、前よりはずっと小さくなっている。構内の並木道では人に逢う心配はほとん みとが ーヴェ 棟どないが、もし万一逢ったとしても普通の服装をしているから見咎められないだろう。 ーヴェ ル・ニコラーエヴィチは気兼ねなく散歩できるたろう。ューラは父親に腕を貸した。パ かわ むすこ ル・ニコラーエヴィチはしつかりと息子にまった。乾いたアスファルトを踏んで歩くのはたい そう快かったが、それよりも喜ばしいのは、こうして歩いていると退院の日の間近いことがひし なっ ガひしと感しられるということだった。退院したら、ます懐かしいわが家で休息し、それから愛す よど ーヴェル・ニコラーエヴィチは、治療ばかりではなく、淀んだような病院独 る職場へ戻ろう。 特の無為の生活にもうんざりしていた。自分が大きな重要な機構の欠くべからざる一員であるこ とをやめると、途端にすべての精力、すべての存在理由が失われたように感じられてならない。 自分がみんなに愛される場所、自分がいなくては何事も成り立たない場所へ、一刻も早く帰りた カ . ′ 寒さと雨に襲われたこの一週間たったが、今日からまた暖かさが立ち戻って来たようだった。 ーヴェル・ニ 建物の陰では空気がまだ冷たく、地面は濡れていたが、日向はたいそう暖かく、・ハ 156 しゅよう おお ひなた
いろいろな水着のモードを思い浮べただけで、アーシャは耐えきれなくなったのである。吊り 型、現在の、未来の、さまざまな水着 紐のある型、吊り紐のない型、ワンピ ] ス型、セパレート しまもよう のモード。オレンジ色の、青の、真紅の、海の波の色の、無地の、縞模様の、縁飾りのついた、 まだ着たことのない、また鏡の前で見たことのない水着のかずかず。それらすべての水着を、ア ーシャは二度と再び買うこともなければ着てみることもないのだ ! そして生活のその側面 再び海水浴に行くことができないということが、今のアーシャにはいちばん辛い、恥すべきこと ほかならぬそのことだけで、生きる意味がすべて失われてしまう のように思われるのだったー ジョームカは大きな枕の上から、何か見当はずれな、場違いのことを呟いた。 「ね、もしも、だれもきみと結婚しなかったら : : : 今の・ほくはこんな状態たけれども : ン ったら喜んで、いつでもきみと結婚するよ : : : 約束してもいし」 ガ「そうたわ、ジョームカ ! 」又しても新しいことを思いついたアーシャは、いきなり立ち上がり、 涙の涸れた目で少年を凝視した。「そういえば、あなたが最後の人だわ ! これを見たり、キス ジョームカ ! せ したりできる最後の人だわ ! だってもうだれもキスできなくなるでしょー あなたが ! 」 めてキスしてちょうだいー えり 少女は白衣の胸元をはだけ、泣き声とも呻き声ともっかぬ音を立てながら、下着の襟を開いた。 そこから、死すべき運命にある右の乳房が零れ出た。 それは直射日光のように輝いた。部屋全体が突然光り輝き始めた。パラ色の乳首が ( それはジ ヨームカが想像していたよりも大きかった ) 少年の視野に飛びこんできた。それは目には耐えが 154 ひも つぶや