むろに一つ一つの病室に入り、薬や籠った空気の匂い、それに患者たちの体臭でむせかえるよう ふんいき な雰囲気に包まれて、狭い通路にぎっしりと立ち並び、お互いに場所を譲り合い、それからお互 いの肩ごしに覗きこなのだらた。そして一つのべッドをぐるりと取り囲んた七人は、一分あるい は三分あるいは五分のあいたに、ちょうど病室の重苦しい雰囲気の中へ入って来たときのように、 その一人の患者の苦痛の中へ入って行かなければならなかった。その苦痛、その感情、その既往 症、病歴、治療の進行状況、今日の病状など、理論と臨床実務の許す限りのものの中へ。 もしも回診のメンパ 1 の数がもっと少なければ、そしてその一人一人が自分の仕事にかけては 巻最優秀の人間であり、ただの月給目当ての人間ではないとすれば、そしてまた一人の医者が三十 ーの頭が埃に覆 人もの患者を受け持たなくても済むのであれば、あるいはまた、これらのメンバ われていて、まるで検事が調書でもこしらえるように、カルテになんとか格好をつけることしか 考えていないのでなければ、そして更には、もしもこれらのメン・ハーが人間ではないのならば、 あんどかん 下っまり、自分たちはこれらの苦痛とは関係がないのだという安堵感が皮膚や骨や記憶や存在感覚 もしもこれらの条件が満たされているのであれ にまでも染みこんでいるのではないとすれば ば、こういう回診は恐らく最良の方法であるに相違ない。 けれども、それらの条件は一つも満たされていなかったにもかかわらす、回診を全面的にやめ てしまうことも、ほかの方法に変えることもできなかった。そこでレフ・レオニードヴィチは慣 行通り、部下たちを引き連れて歩きまわり、おとなしく目を細めて、一人一人の患者のデータを 担当の医者から聴くのだった ( 担当の医者はそれを暗記しているのではなく、カルテを読みあげ るだけなのである ) 。患者の住所、入院年月日 ( 古顔の患者についてはとうに分っていたことた し こも にお
との噂だと、戦争に行って、そのあと収容所にいたんだね ? 」 「そのほかには、大学に入れませんでした。それから将校になれませんでした。それから今は永 久追放の身分です」オレークは淡々と列挙した。「おまけに癌です」 「いや、癌はお互いさまだ。ほかの点について言うならばだね、お若いひと : : : 」 「 : : : 若いなんて、とんでもないー それは・ほくがまだ惚けていないということですか。それと も見かけがまだ子供つ。ほいということですか」 うそ 「 : : : ほかの点について言うならば、きみは嘘をつくことが少なくてすんだ。分るかね。屈服す きみは逮捕されたが、私らは集会 巻ることが少なくてすんだ。そのことを考えなきゃいけないー に呼び集められて、きみたちを叩くことを要求されたんだ。きみは判決を受けたが、私らは読み かっさい あげられる判決に拍手喝采することをやらされたのだ。拍手だけじゃない、銃殺を要求すること をね ! 覚えているかね、新聞はこんなふうに書いた。『未曾有の卑劣きわまる悪業を知って、 下全ソビエト人民はあたかも一人の人間のように動揺し : : : 』。この一人の人間のようにというの がどういうことなのか、分るかね。私らはみんな一人一人が異なる人間なのに、突然『一人の人 間のように』とくる ! だから、あたりの連中にも、議長団にもよく見えるように、なるべく手 を高く挙けて拍手しなければならない。命の惜しくない人間がどこにいるだろう。だれがきみを だんがい たとえば産業党事件で逮捕され だれが弾劾した ? その連中は今どこにいる 弁護した ? た人たちの銃殺を投票で決めたとき、ジーマ・オリーツキーという男が棄権した。反対投票じゃ ない、棄権したのだ。するとみんなが騒いだ。『釈明させろ ! 釈明させろ ! 』オリーツキーは 立ち上がり、かすれた声で言った。『革命十二年目の現在、有害分子を根絶するにしても、何か 207 うわさ みぞう
だがオレークは、なんのためにむきになったのだろう。永久追放の身で、なんのためにむきに なるのか : 意味もなく廊下に立ちつづけるうちに、目的地を突然思い出した。 そう、そこだー ジョームカを見舞いに行くつもりだったのだ。 ジョームカは小さな二人部屋に入っていたが、もう一人の患者は退院し、新入りはあす手術室 からやって来る予定たった。今のところ、ジョームカは一人である。 すでに一週間が経過したので、足を切断された当初のみは収まっていた。手術はすでに過去 練の事実となった。たが足は依然として生きつづけ、切られなかったのと同じように苦しみつづけ ていた。もう存在しない足の指の一本一本を、ジョームカはいまだにはっきりと感じるのだった。 オレークの顔を見ると、ジョームカは実の兄に逢ったように喜んだ。以前の病室の友人たちは、 ン いわばジョームカの親戚だった。ほかに女の患者たちが持って来てくれた食べものが床頭台に置 ガいてあり、ナプキンをかけてあったが、病院の外部からは、見舞いに来てくれる者は一人もいな いのだった。 ジョームカは仰向けに横たわり、足をーーー腿の中途から切断された足の残りを、包帯をぐるぐ る巻きにされたその部分を休めていた。だが頭と両腕は自由に動いた。 「元気そうですね、オレーク ! 」と、少年はオレークと握手した。「どうそ、掛けて下さい。近 頃どうですか、病室のほうは ? 」 少年にしてみれば、二階の病室は普通の世界なのである。一階では看護婦は別の人たちだし、 雑役婦も違うし、毎日の手順も全然違っている。だれが何をしなければいけないとか、何をして 144 しんせき
こうしてハルムハメドフはもう四年間もカルテ 少数民族の要員を迫害したと非難されかねない。 もっと を、それもなるべく簡単なカルテだけを整理し、尤もらしい頻をして回診についてまわり、処置 室の仕事を手伝い、夜の当直のときはもつばら眠り、最近では堂々と残業手当まで貰っていたが、 いつもタ方にはさっさと帰ってしまうのだった。 そのほかに、今この会議室には正規の外科医の資格をもっ女医が二入いた。一人はパンテーヒ ナといい、年は四十前後、恐ろしく肥えていて、しかも気苦労の絶える間がなかった。気苦労と かか いうのは、この婦人は二度の結婚で生れた六人の子供を抱え、経済的にも苦しいし、一人一人の 揀世話もゆきとどかないのだという。そういう心労は、いわゆる勤務時間中、すなわち月給のため にこの病院ですごさねばならぬ時間はずっと、この婦人の顔から消えないのだった。もう一人は 病 アンジェリカという若い娘で、学校を出て三年目、背は低く、髪は赤毛で、器量よしだったが、 自分のことをちっとも構ってくれないといってレフ・レオニードヴィチを憎み、今や外科の中で きゅうせんほう ガはレフ・レオニードヴィチ反対派の急先鋒たった。どちらの女医も外来患者を診察する以上のこ もっ とは何一つできず、メスを持たせるなど以ての外だったが、医局長にはこの二人を決して馘にで きない何か重大な因縁があるのたった。 そんなわけで外科には五人の医者がいたから、五人分の手術がまわってくるのだが、実際に手 術をやれるのは一一人だけなのである。 この会議には、ほかに看護婦たちも出席していた。そのなかの何人かは無能の医者たちに似合 いの看護婦だったが、これまたニザムートジン・ヾ ノフラモヴィチに採用され、庇護されている連 中たった。
1 何が面白いかは人さまざま ありふれた週日の、ありふれた回診たった。ヴェーラ・ガンガルトは一人で放射線科の患者を 見に行ったが、二階の入口の間で当直の看護婦と一緒になった。 看護婦はゾーヤだった。 巻二人はシブガートフのべッドのそばに少しのあいだ立っていたが、ここでは新しい試みはすべ てドンツォワの決定に従わなければならないので、さほどシブガートフには手間どらず、まもな く病室に入った。 こうして並んでみると、二人は背の高さがちょうど同しだった。唇や、目や、帽子は、同じ高 下さにあった。けれども肉づきがいいためだろうか、ゾーヤのほうがずっと大柄に見えた。二年後 にはきっとガンガルトよりも立派な押し出しの女医になることだろう。 しばら 診察はオレークの反対側の列から始まったので、暫くのあいだ、オレークには二人の女の背中 ふさ しか見えなかった。。 カンガルトの帽子からはみ出ている栗色の髪の房と、ゾーヤの帽子からはみ 出ている金色の巻毛。 そちら側の列は全員が放射線科の患者であり、診察はゆっくりと進行した。ガンガルトは一人 一人のべッドに腰を下ろし、患部を見たり、話をしたりした。 アフマジャンの皮膚を観察し、カルテの数字と血液検査の最近の結果を読んだガンガルトは、 ′、 - いつ くちびる
209 いたということになるかね ? そもそも信じるためには、どんな人間であればいいのかね」突然 シュルービンはいらいらし始めた。感情が高まると、この人の頻の造作は位置が変ったり歪んだ りして、静かなときとは似ても似つかぬ顔になるのだった。「すべての大学教授が、すべての技 術者が、突然有害分子になったと言われて、民衆はそれを信じるだろうか。国内戦時代の優秀な 師団長たちが実はドイツや日本のスパイなのだと言われて、信じるだろうか。レーニン親衛隊が 一人残らす思想的変質者だと言われて、果して信じるだろうか。友人や知人がどれもこれも人民 の敵だと言われて、信じるだろうか。何百万人ものロシア兵が祖国を裏切ったのだと言われて、 巻信じるだろうか。老人から幼児まで、ロシア国民全体が去勢されると言われて、それを信じるだ ろうか。いったい、民衆とはそれほど馬鹿なものなのかね。民衆とは馬鹿者の寄り集まりなのか ね。まさか、そんなことはあるまい 民衆は利ロなのだ、死にたくはないのだ。すべてを耐え おきて 忍び、生きながらえること、それが偉大な民衆の掟なのた。われわれ一人一人の墓の上で、後世 下の人間が、これは何者だったのかと尋ねるとき、その答えとなり得るのはプーシキンの詩句だけ なのだ。 この忌わしい世紀にあっては どこへ行こうと人間は暴君か裏切者 さもなくば囚人だ ! 」 オレークは身を震わせた。それは初めて聴く詩句だったが、そこには作者と真実とが完全に一 こも 体化したときに生れる、あの恐るべき確信が籠っていた。 シュルービンは脅すように大きな指を一本立てた。 おど
又しても不明の箇所のある一人の人間の生涯。いや、二人だ。不明の箇所はだいたい推測でき いや、そん るが。なんというさまざまの経路を通って、人はあそこへ集められたことだろう : なことではない。つまり、病室に横たわり、廊下を歩き、構内を散歩しているとき、すぐそばに 一人の男がいる。あるいは一人の男がむこうから歩いて来る。なんの変哲もない普通の人間だ。 むこうも、こっちも、相手を呼びとめて、「おい、襟を裏返してみろ ! 」などと言う気はさらさ ヾッジ ! 関係していた、協力していた、そこにいた、知っていた、 らない。襟の裏側には秘密のノ おお という印 ! そんな人間がどれたけいるのだろう。だが沈黙はすべてを覆っている。表から見た いんべい 巻だけでは何一つ推測できない。なんと巧みに隠蔽されていることかー それにしても、女に退屈するまで生きながらえるとは、なんという変り者だろう ! 人間にそ けんたい れほどの倦怠があり得るのだろうか。像もっかないー 結果は概して思わしくなかった。レノ・レオニードヴィチは、あくまでも私を信用してほしい 下というふうには言わなかった。 しま やはりこのへんでそろそろ覚悟しなければいけないのだろうか、何もかもお終いだと。 . 何もかも : コストグロートフにとっては、収容所の監視塔が終身追放にすりかえられただけのことだった。 生きながらえたものの、生きる目的が分らない。 ・ほんやり歩きつづけるうちに、オレークは一階の廊下に迷いこみ、なすところなく立ちどまっ どこかのドアが、いや、三つ目のドアがあいて、白衣が現われた。ウエストがひどく細い、す 141 えり
いる。コストグロートフは仰向いて、『中央百貨店』という文字を読んだ。なるほど、これはき っと . 何かい、 、ものの売り出しなのだ。しかし何の売り出したろう。オレークは二、三人に尋ね・て みたが、たれもが押し合うたけで、まともな返事をしてくれなかった。たた、開店の時刻が近づ いているということだけは分った。これも何かの運命というものだろう。オレークは群衆の中に 割って入った。 おび 何分か経っと、二人の男が大扉を開き、怯えたような仕種で先頭の客たちを制止しようとした が、まるで騎兵隊の襲撃にあったように、たちまち両脇へ跳びのいた。じりじりしながら待って いた男や女、それに先頭に立っていた若者たちは、猛烈な勢いで扉の中に駆けこみ、そのまま一一 階に通じる階段を、この建物が火事になったときの逃け出し方もかくやと思われるスピードで駆・ け上った。それに続く群衆の一人一人も、それそれの年齢と体力に応じた速度で階段を上った。 一階へ流れて行く流れもあったが、主な勢力は二階を目指しているようたった。この激流の中に 下あって静かに歩むことは全く不可能であり、雑嚢を背負ったオレ 1 クも、黒い髪を振乱して走り 出した ( 雑踏の中でオレークは「兵隊野郎」と罵られた ) 。 二階に着くと、人の流れはたちまち分散し、滑りやすい寄木細工の床の上で注意深く方向転換 をした人々は、三つの方角に流れて行った。一瞬、どちらへ行くべきか、オレークは迷った。し かしオレークが判断できる筈はないー あてずつ。ほうに、いちばん自信ありげに走る人にくつつ いて、オレークは再び駆け出した。 行手に現われたのは、メリャス製品売場の行列だった。・ : 、、 たカ青いお仕着せを着た女の売り子 期は、まるでこの押し合いへし合いが全然目に入らぬように、そして今日もまた退屈な一日が始ま 巻 おも
「それよ、必要なのは ! それが必要なのよ ! 」と、やたらに振りまわす二人の腕をみながら、 ガンガルトは仲裁した。「医者の責任感を高めることはもちろん必要ですけど、そのためには仕 事の量を今の半分にしなければいけないわ ! 今の三分の一にー 一時間に九人も外来患者を診 察して、一々覚えていろと言うほうが無理じゃないかしら ! もっと静かに患者と話し合ったり、 ものを考えたりする時間がなければ。手術たって、外科の先生一人につき一日一回でたくさんよ。 三回なんて無茶たわ ! 」 棟 だがドンツォワとレフ・レオニードヴィチはなかなか意見が一致せす、暫くのあいだ大声を出 し合った。それでもヴェーラはなんとか二人をなだめてから尋ねた。 「それで、結局その裁判はどうなりました ? 」 ン レフ・レオニードヴィチは目を細めて微笑した。 ガ「その医者は擁護されましたよ、結局 ! 裁判だって、まるつきり無意味というわけでもない。 しま カルテの記入法の間違いが確かめられただけでね。いや、待って下さい、これでお終いしゃな 判決のあとで、市の衛生局の役人が演説をした。それはまあ、医学教育の欠陥だとか、患 者教育が不充分だとか、組合の啓蒙活動が不充分たとか、そんな話たったんだが、最後に外科医 師会の会長が演説をやった。その会長がどういう結論を下したと思いますか。なんにも分っちゃ いないんだ。会長日く、同志諸君、医者を裁くということはいい傾向である、たいへんいい傾向 である、だとさー しばら
様子は、真夜中に一人・ほっちの部屋のドアをいきなり叩かれ、何事だろうとべッドから飛び起き たところを連想させた。 「そりゃあ、もう ! 」と、ジョームカはまるで手術が半分は済んでしまったように、ますます明 るい表情で、満足そうに言った。「すてきな先生です。申し分ない人なんです ! あなたも手術 ですか。どこが悪いんですか」 「同じ病気だ」と、質問がよく聴きとれなかったように、新入りは。ほっりと答えた。その顏には あんど ジョームカの安堵の気持は少しも反映せず、大きな丸い目の表情はいささかも変化しなかった。 巻その目は凝視しているようでもあり、何一つ見ていないようでもある。 ジョームカは出て行き、新入りは新しいシーツを敷いてもらったべッドに腰を下ろし、壁に寄 りかかると、何も言わずに又もや大きな目でじっと見つめ始めた。目をぜんぜん動かさず、病室 の中のだれか一人を目標に定めると、永いこと、ただまじまじと見つめるのである。やがて頭全 かえるつら 下体を振向けて、別の目標を眺め始める。その目の前をだれが通過しようと、蛙の面に水という感 じで、病室の中の動きや物音にはぜんぜん反応を示さない。全く口をきかず、答えも尋ねもしな 一時間経 0 ても、この老人について分 0 たのは、フ、ルガナ ( 和国東南部の町 ) から来たという ことだけだった。あとは看護婦の話から、シュルービンという名前が判明した。 ふくろう まるで梟た、とルサノフは思った。あの少しも動かぬ丸い目は、まさしくそれだ。さなきだに 陰気な病室なのに、こんな梟が来たのではたまったものではない。すでに老人はその暗い視線を ルサノフに据え、腹が立つほど永いこと見つめていたのだった。まるでこの病室の全員に恨みで もあるように、一人一人をその調子で凝視するのである。病室の生活はもはや今までの気楽な流 たた