133 どこへ行っても奇数ばかり レフ・レオニードヴィチが病院に初めて現われたときから、コストグロートフは、この人物は つれ・つれ いわば仕事熱心な百姓だと独り決めしていた。回診のたびに、オレークは徒然の余りこの医者を 巻観察した。あの帽子は明らかに鏡の前でかぶったのではないだろう。長過ぎる手は、時として拳 に固めて、びっちりした白衣の前ポケットに突っこまれたりする。まるでロ笛を吹くときのよう すぼ くちびる いかめ に窄めた、あの唇のかたち。全体の力強さ、厳しさにもかかわらず、患者と話すときの、あの冗 談めかした口調。さまざまなところがコストグロートフの気に入った。この医者とは、いっかゆ 下・つくり話し合い、女医たちが答えられない、または答えたがらない質間を、ぶつけてみたいもの である。 だが、その機会はなかなか訪れなかった。回診のときのレフ・レオニードヴィチは、外科の患 者以外には見向きもせず、放射線科の患者のべッドの前は、まるで空席のように通り過ぎてしま あいさっ き・つか う。廊下や階段では、挨拶をされると軽く挨拶を返したが、その顔はいつも気遣わしけだったし、 それにこの人はいつも急いでいた。 うそ あるとき、嘘をつきつづけていた患者がとうとう白状したという話をして、レフ・レオニード ヴィチは笑いながら、「やつばり吐いたよ ! 」と言ったが、これがまた更にオレークを刺激した。 尊敬できないのである。 ひと こぶし
極地生れの熊たちは、この土地の四十度の夏をどうすごすのだろう。そう、人間が極地へ行った ようなものだ。 動物たちの幽閉生活に関しての最大の矛盾といえば、それは動物たちの味方であるオレークに、 たとえ充分の力があったとしても、檻を破ってかれらを解放してやることができないということ だった。なぜなら、動物たちが故郷から引き離された瞬間から、分別ある自由という概念は失わ れてしまったのだ。突然かれらを解放すれば、今以上に恐ろしい状態が始まることは目に見えて 巻そんなふうにコストグロートフは無意味な考えにふけっていた。頭脳を根本的に裏返されてし まったオレークは、もう何であろうと無邪気に客観的に受け入れることはできないのだった。今 は何を見ようと、そこには灰色の亡霊が見え、不吉な地鳴りが聞えてしまう。 ほかのどんな動物よりも一段と走りまわりたいのに、その空間を奪われて悲しげな鹿の檻の前 だいてんじくわずみ 下を通り、神聖なインド瘤牛や、金色の大天竺鼠の前を通って、オレークは再び坂を昇り、今度は さる 猿の檻に近づいた。 えさ 檻の前では子供と大人が一緒になって、はしゃぎながら猿に餌を与えていた。コストグロート えがお フは笑顔を見せずに通り過ぎた。。 とれもこれもパリカンで刈られたような頭をして、自分たちの 板寝床の上で原始的な喜びや悲しみにふけっている猿たちは、大勢の昔の知人たちを連想させた のである。中の何匹かはオレークの親友にひどく似ていた。今日もまだどこかに閉じこめられて いる親友たちに。 一匹だけ群れから離れ、物思いに沈んでいるチンパンジーは、むくんだ目をして、両手を膝の 309 こぶうし
お菓子箱にチョコレートが入っているから、あれを少しずつ超っていれば : たんす ひざ ヴェーラは母親の形見の簟笥の前に膝を突き、重い引出しを引っ張った。そこにテープル掛け の替えが入っている。 でも、その前に、埃を掃除してしまわなければー いや、その前に普段着に着替えなくてはー こうして次から次へと関心を移動させてゆくことが、ちょうどダンスのステップのようにヴェ ーラには央かった。・ タンスの楽しみもこの移動の面白さにほかならない。 かな・つちくぎ 巻まず要塞と糸杉の写真を移動させようか。いや、そのためには金槌と釘が要るし、男のような 仕事をしなければならない。しばらくは今のままの位置に置いておこう。 ぞうきん そこでヴェーラは雑巾を手にとり、鼻唄を歌いながら部屋中を動きまわった。 こうすいびん だが、まもなく、胴の太い香水壜に立てかけてあった色つきの葉書が目にとまった。それはき 下のう届いた葉書で、表には赤いバラと緑色のリポンが描かれ、青い 8 という数字が入っている。 裏には、黒いタイプ文字で祝いの言葉が印刷されている。地方委員会から来た国際婦人デー ( 三月 むの記念葉書である。 孤独な人間にとって、すべての祝祭日は辛いものだが、なかんずく、もはや若くない独身婦人 ・にとって婦人の祝日は耐えがたい ! 未亡人や、恋人のいない若い娘たちは、集まって葡萄酒を のんだり、唄を歌ったりするが、果して本当に楽しいのだろうか。このア。ハートの中庭でも、ゆ うべそんな騒がしい集まりがあった。一人だけ混じっていただれかの御亭主は、あとで酔った女 たちに順番にキスされていた。 ぶどうしゅ
穏やかな日の光が街路樹の枝のあいたからこ・ほれていた。遊歩道では女の子たちが石蹴りをやっ ていた。囲いのある庭の中では、家庭の主婦が何かを植えたり、蔓の添え木を立てたりしていた。 動物園の門の前は子供たちの天国たった。春休み、しかもこの天気ー らせんじよう 動物園に入って、オレークが真っ先に見たのは、角が螺旋状にねじれた山羊だった。その檻の だんがい 中には険しい岩山があり、断崖があった。その断崖の縁に前足を置いて、身動きもせす、誇らし げに山羊が立っていた。足は細いが丈夫そうで、角は驚くべきものたった。角質の細い帯を一巻 わんきよく あごひげ たてがみ き一巻き、しつかりと巻きつけたような、長い、彎曲した角である。顎鬚はないが、派手な鬣が ルサルカ 巻両膝のあたりまで、まるで水の精の髪のように垂れ下がっていた。たがそんなに長い髪があって そな こつけい も、おのずから具わる威厳のために、この山羊は女性的にも滑檮にも見えないのたった。 がんじよう ひ・つめ この橿の前に立っている人たちは、もちろん、山羊がその頑丈そうな蹄ですべすべした岩山を 下りるところを見たいのたった。すでにだいぶ前から、山羊はまるで彫刻のように、岩山の一部 下のように立ちつくしている。風がやみ、髪が全然揺れ動かないときなど、こいつは生きていない のではないか、ただの模型なのではあるまいかと疑わしくなるほどである。 オレ ! クは五分間待ってから、感嘆して立ち去った。その間、山羊は微動だにしなかったので ある ! 人間もこれだけ辛抱強かったら、人生の苦労など物の数にも入らないだろう ! こみち 別の小径の入口のあたりに、人が、殊に子供たちが大勢集まっている檻があった。檻の中では、 何者かが狂ったように一カ所で運動していた。近寄って見ると、それは栗鼠が車をまわしている ことわぎ す のだった。車をまわす栗鼠と諺に言う通りである。だが諺は言い古され、擦り切れてしまってい るから、栗鼠の動機までは想像もっかない。なぜ車をまわすのたろう。説明の立札には、本能た りようひざ こと つる おり
コストグロートフは犬が案山子を眺めるように、その本を眺めた。 「でも、なぜいつもフランス語の本ばかり読むんですか」 こじわ 婦人の目や唇の傍の放射状の小皺は、年齢を、生活の苦労を、知恵を表わしていた。 「こういうものなら、読んでいて辛くありませんから」と、婦人は答えた。その声は終始低く、 発音は柔らかだった。 「辛い本は読まないんですか」と、オレークは責めるように言った。 それにしても永いこと立っているのは苦しかった。婦人はそれに気づいて椅子をすすめた。 巻「わが国じゃ、 いっ頃からかな、もう二百年も前から、みんな、パリ ! と大騒ぎをす つぶや るでしよう。耳に胼胝ができちまう」と、コストグロートフは呟いた。「街の名前や、酒場の名 あまじゃく 前に至るまで、暗記しているんですからね。だから、ぼくは天の邪鬼じゃないけれども ( んかにはぜんぜん行きたくないな」 雑役婦は笑い、 コストグロートフも釣られて笑った。「監督調査局 下「ぜんぜん行きたくない ? のある町のほうがましですか」 二人の笑いは同じ調子だった。笑い出したと思うと、すぐ止ってしまった。 「いや、ほんとに」と、コストグロートフは愚痴つ。ほく言った。「そういうお喋りをする連中に こらしよう 限って、堪え性がなくて、すぐかっとなるし、軽薄に流行を追いかけるんです。そういう連中は なんとなく苛めてやりたくなるな。おい、きみたち ! シャベルを握ったことがあるのか。食う や食わすで働いたことがあるのか、ってね」 「それは酷ですよ。そういうお年寄り連中は、もう現場から離れた人たちでしよう」 267 しゃべ
ガン病棣 しぐさ なかった。今度はあなたの番ですということを知らせるための必要最低限の仕種として、ちらり とコストグロートフに目をやっただけである。だがその一瞬の視線からも、コストグロートフは 相手のよそよそしさを充分に感じとることができた。輸血の日に発散されていたあの独特の明る・ こころ・つか さと喜ばしさも、その前のやさしい心遣いも、更にその前の細心な思いやりも、すべては跡形も なくその目から消え失せていた。その目は虚ろだった。 「コストグロートフさん」と、むしろルサノフの方を見ながらガンガルトは言った。「治療は同 じですね。でも変ね」ーーー女医はゾーヤを見た 「ホルモン療法の反応がなんだか弱いわ」 ゾーヤは肩をすくめた。 「体質のせいじゃないでしようか」 医学生である自分に、女医ガンガルトは助言を求めているのだと、ゾーヤは解釈したようだっ だがガンガルトはゾーヤの意見を聞き流し、明らかに助言を求めているのではない口調で尋ね 「注射はどの程度正確になされていますか」 頭の回転の早いゾーヤは、ちょっとのけそるような姿勢になり、目を見開いてーー突出ぎみの しんそこ 黄褐色の目には心底からの驚きが浮んでいたーーまっすぐに女医を凝視した。 「何を疑ってらっしやるのでしよう : ・ : 決められた処置は : ・ いつもきちんと実行されていま す ! 」もう少しで本当に腹を立てそうな様子だった。「少なくとも私の当直のときには : : : 」 ほかの人間の当直のときのことを尋ねる筈はないのだから、それは当り前のことだった。だが うつ はず
。四分の三ぐらい切り取っても平気だそうでね」 まわ そして掌で自分の腹を切る真似をしてみせて、いたずらつ。ほく目を細めた。 「そりや大変だ」とルサノフは驚いて言った。 「なあに、すぐ馴れちまうさ ! 酒さえのめりや文句はない ! 」 「でも、あなたは大した人だ、よくそんなに落着いていられますね ! 」 「いや、なあに」正直そうな目、赤らんだ大きな鼻のチャールイは、人がよさそうに頭を振った。 せんさく 「気の持ちょうさ。あれこれ穿鑿しなけりや、悩みも少なくて済む。あんたものんきに構えたほ 棟う力ししょ ! 」 トのあいだに掛け 病アフマジャンがべニヤ板を持って来た。それはルサノフとチャールイのべッ 渡して、ちょうど具合よく収まった。 「少しばかり文化的になった」とアフマジャンが喜んだ。 ガ「電気をつけてくれ ! 」とチャールイが命した。 ふんいき あかりがついた。雰囲気は更に楽しくなった。 「もう一人だれかいないかい ? 」 四人目はどうしても見つからなかった。 「じゃ、とりあえず説明たけしてくれないかね」ルサノフはたいそう張りきっていた。健康な人 間のように両足を床に下ろして坐っていた。首をまわしても、痛みは前よりずっと弱まったよう だった。・目の前には、べニヤ板とはいえ、天井の電燈に明るく楽しく照明された小さなゲーム用 のテープルがある。つやつやしたカードの白地に、赤や黒の印はくつきりと浮き出ていた。ほん
345 人目に並ぶことができた。もちろん、あとから駆けつけた人たちがくつついて、みるまに三十人 にもなった。これでは荷物棚を二つ取ることは無理たが、足を引っこめて寝れば済むことた。籠 を投げこんだら、払い落してやる。 だれもが似たような手籠を持っていた。バケツを持っている者もあった。春の野菜が入ってい るのだろうか。チャールイが言っていたように、当局の供給の誤りを訂正するためにカラガンダ あたりへ持って行くのかもしれない。 白髪の老車掌が、車輛に沿って並んで下さい、まだ乗らないで下さい、みんな坐れますからと 巻叫んでいた。たが、その最後の点についてはどうも自信がなさそうで、オレークのうしろの行列 はますます伸びていった。そしてオレークは心配していた動きが始まったのに気づいた。行列を しか 破って前へ出ようとする動きである。初めにその動きを起したのは、ひどく興奮した顰めつ面の 男で、事情を知らない人が見れば精神病者と間違えそうな感じの人物たった。気違いなら列を乱 下しても大目に見てやらねばなるまい。たがオレークはその気違いにまつわる微光のようなものと、 独特の威嚇癖とを認めた。その男のあとからは、案じていた通り、普通のおとなしい人たちが前 に出て来た。こいつが許されるなら、われわれだっていけないことはなかろう。 もちろんオレークもその動きに便乗し、さっさと自分の席を確保してもよかったのだが、過去 あこぎまね の生活を思い出させるそのような阿漕な真似はしたくなかった。老車掌の命じる通り、公正に、 秩序を守っていたかった。 老人はまだがんばって、興奮した男を車輛に入れなかったが、男のほうは老人の胸をしきりに 小突きまわし、まるで普通の日常語を使うように、あとからあとから罵倒の言葉を浴びせかけた。 かご
オレーク』 まるで留置場と同じだ。上申書を書く日にも、ちょうどこれと同じような組悪なペンやインク が与えられたのだった。紙ときたら葉書よりも小さく、インクが滲み、裏に透けてしまう奴たっ た。そんな紙やペンで、だれにでも好きなことを書けというのだ。 オレークは読み返し、便箋を畳み、封筒の中へ入れて、封をしようとしたが ( 手紙を入れる封筒 を間違えたことから事件が起る探偵小説を、子供の頃読んだことがある ) ーー肝心の糊がなかっ た。国家規格の封筒には糊がつくべき箇所に黒い印がつけてあるが、糊はもちろんついていない 棟三本のべンの中からなるべくよさそうなのを選んで、オレークは最後の手紙にとりかかった 病今までは机の前にしつかりと立ち、顔には笑みさえ浮べていたのに、今は何もかもが揺れていた。 出だしは「ガンガルト先生」と書くつもりが、手はひとりでにこう書いていた。 『やさしいヴェガー ガ ( あなたをいつもこう呼ぼうと努力してきました。今もこう呼ばせて下さい ) 。 率直に書いても構いませんか ? あなたと私はロにこそ出さなかったが、同じことを考えてい たのではありませんか ? だって医者に部屋と寝床を提供される人間は、たたの患者ではありま せんからね。 今日、何度かあなたの所へ行きました ! 一度は部屋の前で行きました。あなたの家にむか って歩きながら、もう淫らなことを知っている中学生のように興奮しました。興奮し、ためらい おび はしゃぎ、怯えました。神の賜物ということを理解するには、相当の人生経験が必要なようで す ! 342 みだ のり
奴というのはいるものなのだ。たとえば、ここに説明してあるが、アメリカ豹は一昼夜に百四十 ラーゲ キロの肉を食うという。いや、これは驚いた ! 収容所に送られてくる一週間分の肉だって、そ れよりは少ないだろう。それをアメリカ豹は一昼夜でー えんばく 護送を解かれた御者たちが自分らの馬の餌を奪った話を、オレークは思い出した。燕麦を食っ て、その御者たちは生きのびたのだ。 とら どうもう お次は威張った虎だった。その獰猛さは鬚に、もっ・ばら鬚に現われていた ! そして黄色い目 : 頭の中が混乱してきたオレ 1 ・クは、突っ立ったまま憎しみをこめて虎を見つめた。 棟その昔トウル ( ンスク ( イ河中しの流刑地にいたことのある老政治犯は、収容所でオレークに 逢ったとき、虎の目の話をしてくれた。・ ヒロードのような黒い目というのは嘘で、虎の目は黄色 いのだと言ったー つな 憎しみに繋がれたように、オレークは虎の檻の前に立っていた。 ガそれにしても、ほんの出来心なのだろうか。いったいどうして : オレ。ークは気分が悪くなっていた。もうこの動物園はたくさんだった。ここから逃げ出したか った。もうライオンの檻には近づこうともせず、オレークはあてずつ。ほうに出口を探して歩き出 しまうま 縞馬の姿がちらりと見えたが、そっ。ほをむいて通り過ぎた。 きせき そして突然 ! 奇蹟の前で立ちどまった。 かもしか 血に飢えた奴らのあとでは、なんという奇躋的な精神性だろう。それは羚羊だった。明るい褐 おび 色の毛並、すらりと伸びた脚、表情は注意深そうだが、怯えた感じは少しもない。羚羊は金網の