た。そして理性の命令に逆らって夜の時間はただぼんやりとすごし、朝はまた同じバスでせかせ かと仕事に出た。 だが今日は、ゆっくり歩いていると、無性に何かをしたくてたまらなくなった ! 考えてみれ ば、することは山ほどある。家事、買物、それに縫物、読書、それからただの遊び。べつにだれ に禁じられたわけでも妨げられたわけでもないのに、ヴェーラはなぜか今まで遊び事には近寄ら しかし急いで家 なかったのだった。だが今は、これらすべてを、一どきにやってしまいたいー に帰り、大急ぎで何かをする気にはなれなかった。ただ乾いたアスファルトを靴で踏む感覚を楽 巻しみながら、ゆっくりと歩いていた。 通りの店はまだしまっていなかったが、必要な食料品や日用品を買いに、どの店にも入りはし なかった。たくさんのポスターの前を通り過ぎたが ( どのポスターも眺めはしなかった。今はま さしくボスタ 1 をゆっくり眺めたい気分なのに。 ただゆっくりと、永いこと歩きつづけた。歩くこと自体が快楽たった。 歩きながら、ときどき微笑した。 ほんとうは杏の花を見たいのだが、また時期が早い。 きのうは休日だったが、一日中、打ちのめされたような気分だった。今日は普通の勤めの日だ というのに、なんという軽々とした幸福な気分なのだろう。 しつよう 自分を正しい人間と感じることにこそ、休日の意味がある。己れのひそかな決意、執拗な決意、 わら 人に嗤われ、認められぬそれらの決意ーー自分ひとりでぶら下がっているその綱が、突然鋼鉄の ケープルになり、その安全性が確認される。そして自分自身は経験豊かな、疑り深い、頑固な人 下 おの がんこ
いつばしの男性として女たちを眺めるこ と自分のことを思いこみ、行き来の人を横柄に見下し、 こじきずだぶくろ ともできた。だが今、もうとっくに軍隊らしさを失い、むしろ乞食の頭陀袋に近いこの雑嚢を背 中に負って、街頭に立ち、手を差し出したら、通行人は小銭を投げてくれるかもしれない。 : こんな姿で行っていいものだろうか。 ヴェガの所へ行かなければならないのに : その先には、小間物や贈物、女性のアクセサリーなどの売場があった。 ほお すずめ さえず 雀のように囀りながら品物を選びつづける女たちのなかで、頬に傷のある、兵隊とも乞食とも ぼうぜん つかぬこの男は立ちどまり、茫然とあたりを見まわした。 棟売り子は冷笑した。この土百姓は村の女の子に何を買って行くつもりかしら。そして何か盗ま れはしないかと警戒する目つきになった。 病 だがオレークは何かを見せてくれと頼みもせす、何かを手に取って眺めもしなかった。たたほ ン んやりと突っ立ち、あたりを見渡していた。 ガラスや宝石や金属やプラスチックなどがきらめくこの売場は、オレークの牡牛に似た額の前 りんこう で、燐光を放っ遮断器の横棒に化していた。その横棒をコストグロートフの額はヘし折ることが できなかった。 オレークは理解していた。一人の女のためにアクセサリーを買い、それを女の胸に留め頸にか けてやることがどんなにすばらしいかを、理解していた。それが理解できなかったあいたは、オ レ 1 クにはなんの責任もなかったのである。しかし、それを身にしみて感じた今、この瞬間から、 贈物を持たすにヴェガの家を訪ねることは不可能になった。 だが贈物を買うことはどうしてもできなかった。高価な物は初めから問題にもならないしか ガ しやだんき おうし くび
うらや 羨ましそうにこの壜を眺めに来るのだった。 「のんでいますか」 「ええ」 ガンガルト自身はサルノコシカケの効能を信していなかった。そんなものが効くということは 聞いたことも教わったこともない。ただ、いずれにせよ、これはトリカプトの根とは違って、無 害である。患者が信しているのなら、それだけでも何かの役には立つかもしれない。 きん 「コロイド金はどうなりました」とガンガル・トは尋ねた。 棟「手に入りそうです。近日中に貰えるかもしれません」と、依然として緊張した暗い表情でヴァ ジムは言った。「でも直接手渡されるのではなくて、病院を通じて送って来るんですから : : : あ きび の : : : 」青年は厳しい目でガンガルトの目を見つめた。「 : : : 現物が着くまでに二週間くらいか ・ン かるとすると : : もう肝臓に転移してしまいますね ? 」 〔ガ「いし え、そんなことはないわ ! そんなことはありません ! 」ガンガルトは自信たっふりに、 勢いよく嘘をついた。青年は欺されたように見えた。「どうしても知りたければ教えてもいいわ。 転移に要する時間は数カ月です」 ( しかし、それならばなぜ鳩尾を触診したのたろう。食事のあとの感じを、なぜ尋ねたりしたの だろう : : : ) ヴァジムは折れた。女医を信じよう。 信じるほうが楽だから : ガンガルトがヴァジムのべッドに腰を下ろしているあいだ、ゾーヤは何もすることがないので、 116 うそ
今日はまだたくさんの喜びがオレークを待っているー この春までオレ ] クは生きながらえる筈ではなかったのだが、今まさに、その舂の太陽が輝い ていた。そして周囲にオレークの人生復帰を喜ぶ者は一人もおらず、そもそもオレークを知って いる人はたれもいないのだが、太陽だけは知っていた。たからオレークは太陽に微笑みかけてい た。ひょっとすると次の春はもう訪れないかもしれない。 これが最後の春かもしれよ、 これすらが余分の春なのだ ! 感謝しないわけこよ、 オレークの姿を見て喜ぶ通行人は一人もいなかったが、オレークのほうはすべての人間の姿が 棟嬉しくてたまらないのである ! その入たちのそばへ帰って来たことが嬉しくてたまらないー 街頭のすべてのものが楽しくてたまらないー この新しく生れた世界に、面白くないもの、不快 なもの、醜悪なものは一つもなかった ! 人生の長の年月も、今日という日、この最高の一日と は比べものにならない。 ガ紙コップに入れたアイスクリームを売っていた。こんな紙のコップを最後に見たのはいつだっ たか、オレークはもう覚えていない。値段は一ループリ五十コペイカ、さあ、どうそ ! 焼け焦 たま げと弾の跡のある雑嚢を背負い、空いた両手で紙コップを握り、冷たいアイスクリームを小さな へら 木の箆で少しずつ掬いながら、オレークは更にのろのろと歩き出した。 ウインドウに写真を貼り出してある写真館があった。オレークは鉄の手摺に両肘を突き、ウィ ンドウの中に現われた小ぎれいな生活を、修整された顔を、特に若い娘たちの顔を、とくと眺め た。若い娘の写真はいちばん多いようである。娘たちはみんな晴着姿でここへやって来る。写真 師は娘の顔のむきをあれこれと変えさせ、十度もライトの具合を直し、それから何回かシャッタ 292 うれ すく りようひじ
tr の病気について、ヴェーラは三人の医者の中ではいちばん悲観的な診断を下し、慢性の放射線 障害に弱められたママの体がとうてい持ちこたえられそうもない、恐ろしい手術を想定したので ある。今日、ママと一緒に回診をしながら、もしかするとこれが最後かもしれないとヴェーラは 考えていた。これから先、何年も何年もヴェーラはこれらのべッドをまわって歩き、自分を医者 に育てあげてくれたひとのことを毎日のように思い出しては胸を痛めるだろう。 指の先で、ヴェーラはこっそりと涙を拭った。 ところで、今日のヴェーラは、従来のいかなる場合よりも的確に病状を読みとり、大事な質間 揀は一つたりとも忘れないようにしなければならない。 この五十人あまりの命は今やそっくりヴェ ーラの肩にかかったのであり、もうだれに教えを乞うわけにもいかないのだから。 こうして不安と放心をないまぜた回診は半日続いた。初め、二人の女医は女子の病室をまわっ た。それから階段の踊り場や廊下に寝ている患者たちを診た。シブガートフのべッドにも、もち ガろん立ち寄った。 このおとなしいタタール人に、どれだけの努力が注がれたことだろうー たが結果は、来る月 も来る月、もつばら引伸ばしに終始したのだった。この入口の間の、薄暗い、風通しのよくな せんこっ し一隅で、なんという哀れな生活が続いたことか。もはや仙骨には全く力が入らず、シブガ 1 ト がんじよう フは頑丈な両腕を背中のうしろにまわして、やっとのことで上体を支えるのたった。散歩は、隣 の病室へ行って、みんなの話を聴くことに限られていた。空気は遠くの通風口からようやく伝わ ってくるだけの量に限られ、頭上には天井しか見えなかった。 ののし だが、この惨めな生活ーー診療と、雑役婦たちの罵り合いと、まずい食事と、ドミノ遊び以外 232 こ ささ
寄りかかったまま頭を上げ、明るい空を見つめて言った。 「メスの下で死にたくない。恐ろしいよ : : : あとどれたけの命であろうと、どんなに惨めな余生 であろうと、やつばり : ・ : こ 二人は待合室に入った。籠った空気、悪臭。ゆっくりと、一段ずつ、二人は大階段を上り始め オレークが尋ねた。 「さっきのことですが、あれは二十五年のあいだに考えたことなのですか、屈辱を嘗め、悔い改 巻めながら : 「そうだ。悔い改めながら考えていた」と、低い声で、空虚に、無表情に、シュルービンは答え た。「本をベチカに投げこんだときも考えていた。でなきや、私はあまりにも惨めだろう ? あ れだけ苦しみ、あれだけ裏切った私だもの、多少の考えをまとめる価値がありはしないだろう 223 裏側から 幾度となく繰返し、縦にも横にも知りつくしている筈の事柄が、こんなふうに突然全く新しい へんぼう 見も知らぬことに変貌しようとは、ドンツォワにはいもよらなかった。なにしろ三十年間、他 人の病気にかかりあい、そのうち二十年は x 線スクリ ーンの前に坐って、スクリーンを観察し、 こも はず
またた 「国家予算の関係でしようか」ドンツォワは努力してそうい、大げさに瞬きをしてみせた。 「それだけじゃない。制度そのものが無意味だったんだ。無料たとなるとい患者はなんでもかん でもやたらに薬を持ち帰って、あとで半分以上捨ててしまうんだ。しかし私は何も、すべての診 療を有料にせよと言っているんじゃないよ。しかし初診料を取ることは絶対に必要だ。そのあと 患者が入院し、治療が軌道に乗った場合は、無料であることが正しいと思う。あんたの病院にし たって、手術をやる外科医は二人だけで、あとの三人は・ほんやり見ているだろう。なぜだ。つま り、何もしなくとも月給を貰えるから、心配する必要がないわけだ。もしも患者から直接、金を あわ 棟貰うようになって、患者が一人も来なくなったら、ハルムハメドフは慌てるたろうよ ! でなき ハンテーヒナは ! 要するにだね、リュードチカ、医者は自分が患者に与える印象に左右さ れなければいけないのた。自分の人気にね。ところが、わが国ではそうじゃない」 ン 「患者といってもいろんなひとがいますわ ! たとえば、スキャンダル専門のポリーナ・ザヴォ ガ ーチコワなんか : : : 」 「そう、そういう女にも左右されなければならない」 みじ 「それしや医者があんまり惨めしゃありませんか ! 」 「医局長の顔色に左右されるのは惨めじゃないのかね。役人のように毎月会計から給料を貰うの は恥しゃないのかね 「でも、しつこい患者もいますよ。ラビノヴィチとか、コストグロートフとか。理論的な質問で 医者を苦しめるんです。そういう患者の質問にも答えなければいけませんか」 しわ オレシチェンコフの秀でた額には当惑の皺一つ寄らなかった。老医師は昔からドンツォワの実
ってみようか。たぶん、注射器の中の液体は、血管に空気を入れないためであり、血液を注射器 に逆流させないためなのだろう。 てぎわ 針を血管に突き刺したまま、上膊を縛っていたゴム管はほどかれ、注射器の本体は手際よくは ずされた。看護婦は水盤の上で輸血セットの先端の接続部分を振って、血液の初めの部分を捨て ささ た。ガンガルトはすぐさまその接続部分を注射器の代りに針にとりつけ、それを手で支えて、 -= のねじをひねった。 輸血セットの太いガラス管の透明な液体の中を、ゆっくりと、一つまた一つ、透明な気泡が立 棟ち昇り始めた。 その気泡の動きにつれて、疑間もまた次々と涌き起った。なぜこんなに太い針を使うのだろう。 病 なぜ血液の初めの部分を捨てたのだろう。これらの気泡は何のためなのか。だが一人の馬鹿が好 ン きなだけ質間したら、賢者が百人かかっても答えきれないというではないか。 ガ尋ねるなら何か別のことを尋ねたい。 部屋の中のすべてはなんとなく花やいで見えた。天井の白っはい光の斑点は特に。 針は永いこと突き刺されたままたった。アンプルの中の血液のレベルはほとんど下がらなかっ ぜん・せん下がっていない。 「あと何か御用はございますか、ガンガルト先生」と、自分の声に耳を傾けるような例の猫 . なで 声で、日本人の看護婦が尋ねた。 ・しいえ、何もありません」とガンガルトは静かに答えた。 「でしたら・ : : ・三十分ほど出ていてよろしいでしようか」 じようはく ねこ
ジョームカはこの期に及んでもまだ逆らおうとした。 のこぎり 「骨を鋸で引くんだって。薪を引くみたいにね。どんな麻酔をかけられても、音は聞えるそうだ よ」 たがヴァジムは言葉を尽して慰めることは苦手だったし、好きでもなかった。 「なに、きみが初めてでもあるまいし。ほかの人間が我慢できたことなら、きみだって我慢でき るさ」 ほかのいろんな場合と同じく、このときもヴァジムの判断は正しかったし、冷静だった。青年 棟は自分自身にも慰めの言葉をかけてもらいたくはないのだ。慰めというものには何かしら軟弱な、 宗教的な要素がある。 病 ヴァジムは入院当初と同じように精神を集中し、誇り高く礼儀正しい毎日をすごしていたが、 ためら しわ くちびる いらだ ン ただ山の日焼けは褪めて黄色つ。ほくなり、唇が苦痛に震えることや、額に苛立ちゃ躊躇いの皺が ひんばん ガ寄ることは最近ますます頻繁になっていた。あと寿命は八カ月しかないのだとロでは言いながら あ も、馬に乗ったり、モスクワへ飛んだり、チェレゴローツェフと逢ったりしていた頃ならば、心 の底ではなんとか立ち直れるだろうと信じていたのである。だが、ここに入院してすでに一カ月 が過ぎた。それは八カ月の中の一カ月であり、もしかすると最初の一カ月ではなく、実は三カ月 目か四カ月目であるのかもしれない。とにかく日増しに歩行は困難になり、もはや馬で原野を行 くことなど想像もできないような状態だった。痛みはすでに鼠蹊部に達していた。持って来た六 冊の本のうち三冊はもう読破したが、地下水の放射能から鉱脈を発見できるという確信は薄らい でいた。その唯一の確信が薄らぐにつれて、本の読み方はさほど熱心ではなくなり、疑問符や感 さ まき そけいぶ
と書いてある。檻の中には太い木の幹があり、上方に拡が 0 た枝があ 0 たが、その枝の一本に車 輪が吊してあるのだった。それは太鼓の周辺を取り去り一そこに無数の横木を渡した仕掛けで、 いわば閉した無限の階段である。そして今、栗鼠は高い所の小枝を無視して、だれに強制された わけでも、食べもので釣られたわけでもないのに、その車輪の中に入っている。栗鼠を引きつけ たのは、たぶんその偽りの行動、偽りの運動の概念なのたろう。初めはきっと好奇心から踏段に 軽くさわってみたのに違いない。それがどれほど残酷な、果てしない遊びになるかを栗鼠は知ら なかった ( 初めは知らなくとも、何千回目かの今は知り過ぎるほど知っている筈なのに、それで 揀も ! ) 。かくて今や、車輪は狂気のようにまわりつづけている ! この狂った疾走に、桃色がか あいいろ った紡錘形の体も、藍色と桃色のまじった小さな尻尾も、全体がびんと弓なりに曲り、小さな踏 段はもう一つに溶け合って見わけがっかなくなり、全精力は心臓も破れんばかりに集中されるー だが栗鼠の前足は一段高い所へ昇ることは決してできないのである。 カ先に来ていた見物人たちがじっと見守っているので、オレークも数分間この疾走を眺めたが、 事態は少しも変らなかった。この檻の中には、車輪を止らせ、あるいは栗鼠を車輪から救い出す ような外的な力は存在しなかったし、栗鼠に「やめなさい ! 無駄たよ ! 」と教えてやる生きも のもいなかった。そうなのだ ! 不可避的な解決はただ一つーー栗鼠の死である。そのときまで この動物園は入口の右と左に 立っているのは嫌たった。オレークは先へ進んた。こんなふうに、 二つの意味深長な範例をーーーどちらも同様に可である二つの存在形態を据えて、子供や大人の 見物人たちを迎えていたのである。 銀色の雉子や金色の雉子、赤と青の雉子の前を、オンークは通り過ぎた。トルコ玉のような孔 つる おとな