レンスさんは、ベルシャのチャーになった時は、あの上の簟笥にある、見事な黒いひげをおつけ になったんでしようね ? 」 「ひげをおつけになりましてございますよ、旦那さま。」にこにこしながら、ドーカスはこたえ た。「それはよく、わたくしおぼえております。だって、あの方は、わたくしの黒いウールの糸の 東を二つも、それを作るのに貸せとおっしゃいましたんですものね ! それこそ、遠くからでは、 すばらしいほど、たしかに本物に見えましたんですよ。ひげが、あの中にあるとは、ちっとも、 わたくし存しませんでしたよ。きっと、ごく近い中に入れたものにちがいございませんでしよう 件 ね。赤いかつらのあることは、存じておりますが、ほかには髪の毛の物はございませんてしたが の ね。燃やしたコルクを、たいていはお使いでーー・もっとも、取るのが大変てございますがね。一 度、ミス・シンシアが黒ん坊におなりで、まあ、おこまりになりましたことといったら。」 「すると、ドーカスは、あの黒いひげのことは、何にも知らないんてすね。」またホールへ歩み出 ス て来ると、ボアロは、思案顔ていった。 「例のやつだと、あなたは思うんですか ? 」と、わたしは、懸命にささやいた。 ボアロは、うなずいた。 「思います。きちんと手入れがしてあったのに、気がついたでしよう ? 」 「いいえ。」 「そうだ。イングルソープ氏のひげの形とそっくりこ、 ー刈りこんだんですよ。わたしは、一本か ました。ヘイスティングズ、この事件は、田 5 っ 、こトり・ : ・冰ト」一ま、リ J. 192
214 イルズ壮の怪 ス 「ボアロが ? かれが思っているって ? どうして、きみは知っているんだ ? 」 わたしは、バウエルスタイン博士が、あの事件の夜、スタイルズ荘にいたということを聞いた 時の、ボアロの烈しい興奮の様子を、かれに話して聞かせた。それから、こうつけ加えた。 「かれは、二度もいったんですよ。『それて、万事が変って来る。』って。それで、わたしは考え ていたんですよ。あなたは、イングルソープがコーヒーをホールにおいたといったのを知ってる でしよう ? ね、ちょうどその時たったんですよ、パウエルスタイン博士が着いたのは。イング ルソープが、かれをホールへ通した時、通りがかりに、博士がコーヒーの中へ何かを入れたとい うことも可能ではないでしようか ? 」 「ふうん。」と、ジョンはいった。「非常に際どい仕事だったろうな。」 「そう、でも、不可能じゃなかったでしような。」 「だが、どうして、母のコーヒーだと、かれにわかったろう ? ならないと思うね。」 しかし、わたしは別のことを思い出した。 「あなたのいう通りですね。これじゃ説明になりませんね。ねえ、ちょっと。」と、そこで、わた しは、ボアロが取って米て、分析をさせたココアのことを、かれに話した。 わたしがいい終わるとすぐに、ジョンは、さえぎっていった。 「だが、ねえ、・ハウエルスタインが、もうすでに、分析したんだよ。」 いや、大将、そいつは当てに
スタイルズ荘の怪事件 よ。たしかに、どういう意味だか、きみにはわからないんですね ? 」わたしは、懸命に、かれに かれは、首を振った。 「いいや」と、かれは、物思いにふけりながらいった。「わからないね。わかればーーーわかればい いがね。」 ホアロは、昼 っしょに中へはいった。。、 家から銅羅の音がひびいて来たので、わたしたちは、い 食まで残っていてくれとジョンにいわれていた。それで、もうテープルにすわっていた。 暗黙の同意から、悲劇に関する話はすべて、禁物になっていた。わたしたちは、戦争のことや、 その他の当り障りのないトピックを話し合った。しかし、チーズやビスケットがぐるっと渡っ て、 ドーカスが部屋から出て行ってしまうと、ボアロが、不意に、カヴェンディッシ = 夫人の方 へ身を乗り出した。 「失礼ですが、奥様、不愉快な記憶を思い出させてすみません。しかし、ちょっと思いついたこ とがあるものですから。」ーーボアロの『ちょっとした思いっき』は、完全にお笑い草になってい 「一つ二つおたずねしたいと思うんですが。」 「わたくしに ? どうぞ。」 「あなたは、本当にご親切ですね、奥様。わたしがおたずねしたいというのは、こういうことな んです。マドモアゼル・シンシアのお部屋から、イングルソープ夫人のお部屋へ行くドアに、閂 カかかっていたとおっしゃいましたね ? 」
となど、誰にも思い浮かびもしません。しかしーー・そして、ここが意味深長なところですが 夫人が別棟から出ておいてになるのを見たという人が、一人もないということです。」と、かれは、 メアリ ・カヴェンディッシュを見て、「わたしの申す通りてしようか、奥様 ? 」 かの女は、頭を下げて、 「ほんとに、その通りですわ、ムッシュウ。あなたはおわかりくださることてしようが、その事 実を話してしまった方が、夫のためになると思っていましたら、きっと、わたくし、そう申し上 げたことでございましよう。ところが、それが夫の有罪か無罪かの問題を支配するとは、わたく 事しには思えなかったのでございます。」 の 「一応ごもっともです、奥様。しかし、そのおかげで、わたしの心にあった沢山の思い違いがは ・つきりとして、その他の事実を本当の意味で、自由にわたしにわからせるようにしてくれたのて ス「遺言状だ ! 」と、ローレンスが叫ぶようこ ( いった。「じゃ、あなたたったんてすね、メアリ 遺言状を焼いたのは ? 」 かの女は、首を横に振った。。、 ホアロも首を振った。 「ちがいますわ」と、かの女は穏かにいった。「あの遺言状を焼いたと思われる方は、たった一人 イングルソープ夫人ご自身ですわ ! 」 「とんでもない ! 」わたしは大きな声ていった。「あの日の午後、夫人は作ったばかりなんてす よ」
メアリーは、声を立てて笑った。 門から出て行っておしまいになるわ。今日は、もう帰っていらっしゃいま 「まあおかしな方 ! せんの ? 」 「わかりませんね。かれがこの次、何をやり出すのか、考えるのはやめにしましたよ。」 つむ 「本当にお頭が変じゃありませんの、ヘイスティングズさん ? 」 「正直なところ、わたしにもわかりませんね。時々、確かに、かれは大変な気ちがいだという気 件のする時があるんです。ところが、その気ちがいぶりが絶頂に達した時、その気ちがいぶりに筋 怪道が立 0 ているような気がするんです。」 荘「わかりますわ。」 声を立てて笑っているのに、今朝のメアリーは、考えあぐねているような顔つきだった。沈み タ切って、ほとんど悲しそうな様子だった。 シンシアの問題で、かの女にぶつかるにはいい機会だという気が、わたしに浮かんだ。わたし は、如才なく切り出したと思 0 たのだが、たいして話を進めないうちに、かの女は、厳然とわた しをとめた。 「あなたは、すばらしい弁護人ね。確かにそうだと思いますわ、〈イスティングズさん、ても、 そのことでは、あなたの腕もす「かり無駄ね。シンシアは、わたくしに辛く当たられるような心 配をすることなんかありませんわ。」 こーーーしかし、 わたしは、そんなふうにとらないていただきたいと、おどおどとロごもりかけオ 234
わたしたちは、病院の取次に、うさんくさい眼で見られて手間取 0 たりしたが、ようやくのこ とてシンシアが出て来て、二人の身分を証明してくれた。かの女は、長い、まっ白な上っ張りを 着て、びどく冷静に美しく見えた。かの女は、わたしたちを私室へ案内して、仲間の薬剤師に紹 介した。何だかおそろしいような気の起こる人物で、シンシアは、『ペン先』さんと陽気に呼んて 「ずいぶん沢山の瓶だな ! 」と、わたしは感嘆の声をあげて、その小さな部屋のまわりに眼を走 らせた。「あなたは、あの中に何がはいっているか、みんな知っているんですか ? 」 事「も 0 と気のきいたことをい 0 てよ。」と、シンシアはうめくように、「ここへ来る人といえば、 のだれもかれも一人残らず、そんなこというわね。あたしたち、ここへ米て、『ずいぶん沢山の瓶 ・ね ! 』 0 ていわなかった最初の人に、賞をあたえようかと、本気に考えているところなのよ。そ れから、その次には、『これで今までに、何人の人を毒殺しましたか ? 』というんでしよう、わか ス っててよ。」 正にその通りだったので、わたしは、声を立てて笑った。 「間違って人を毒殺することが、どのくらい簡単なことかおわかりになってたら、そんな冗談な どいえなくなりますわよ。さあ、お茶でも飲みましよう。その食器棚には、あらゆる種類の秘密 の貯蔵品がはいってるのよ。そうよ、ローレンスーーー毒薬の戸棚よ。大きい方の戸棚ー・ーーそう それよ。」 わたしたちは、とても楽しくお茶を飲み、シンシアに手つだって後の洗い物まてした。最後の
「メアリーや、これは、そのこととは何の関係もないものなんですよ。」 「では、見せてくたすってもいいでしよう。」 「あなたの想像している物とはちがうといっているでしよう。あなたとは、せん、せん関係のない ことです。」 カヴェンディッシュが、きびしい調子を強めて、こたえた。「もちろん、あ すると、メアリー・ の人をお庇いになることぐらい、わたしにもわかっていましたわ。」 シンシアは、わたしを待っていて、懸命な顔つきで、 事「ねえ、え ! とてもすごい喧嘩があったんですって ! ドーカスから、聞いたわ。」 の 「どんな喧嘩 ? 」 「エミリーおばさまと、あの男との間でですって。おばさまにも、やっと、あの男の正体がわか ってくだすったのだと、いいんだけど ! 」 ス 「ドーカスがその場にいたんですか、じゃ ? 」 「まさか。『偶然、ドアのそばを通りかかった』んですって。ほんとに古くさいどたばただわ。 どんな様子だったか、あたし、すっかり聞きたいわ。」 ハワードの警告を思い出して、 わたしは、レイクスの細君のジプシイのような顔と、イヴリン・ わざと黙っていることにした。ところが、ンンシアは、あれこれと考えつくかぎりの臆測をなら おばさまは、あの男を追い出してしまうわ べ立てて、楽しげに希望をいうのだった。「エミリー よ。そして、もう二度と、あの男にものなどいわないわよ。」
訊問は終った。もっとも、検屍官がすっかり満足したかどうか、わたしは、怪しいものだと思 った。メア 1 丿ー・カヴェンティッシュがその気になれば、もっと告げられるはずだと、かれが うすうすは感づいているだろうという気が、わたしにはした。 店の助手のアミイ・ヒルが、次に証人台に立って、スタイルズ荘の下働きの庭師のウィリア ム・アールに、十七日の午後、遺言状の用紙を一枚売ったと証言した。 ウィリアム・アールとマニングが、かの女につづいて、書類の証人になったと証言した。マニ ングは、その時刻を四時半ごろといい、ウィリアムは、もう少し早かったという意見だった。 事 シンシア・マ 1 ドックが、その次に証人台に立った。しかし、かの女は、ほとんどいうことも 持っていなかった。かの女は、カヴェンディッシュ夫人に起こされるまで、悲劇について何一つ ズ知らなかった。 イ「テープルが倒れるのも聞こえなかづたんですね ? 」 ス 「はい、あたし、ぐっすり眠っていましたので。」 検屍官は、にこっと笑いを浮かべた。 「やましい心がなければ、安眠が出来るというわけですね。」と、かれはいった。「ありがとう、ミ ス・マードック、それで結構です。」 ミス・ハワードは、十七日の夕方、イングルソープ夫人が、かの女にあてて書いた手紙を提出 ボアロもわたしも、もちろん、すでにそれを見ていた。この悲劇についてわたしたちの知 っている事柄に、つけ加えるものは何一つなかった。次が、その複製である。 143
「まあ、ほんとうーーースコットランド・ヤードですの ? それともシャーロック・ホームズ ? 」 「そりや、むろん、シャーロック・ホームズですよ。ですが、ほんとうのところ、真剣に、わた しは、それにすごく心を惹かれているんです。いっか、ベルギ 1 て一人の男に会ったことがある んですが、非常に有名な探偵でしてね、すっかり熱中させられてしまったんてす。かれは驚くべ き小男でした。かれは口癖のように、立派な探偵の働きというものは、単なる理論的な方法の問 題たといっていました。わたしの組織的な方法は、かれの方法を基礎にしてーーといっても、も 件ちろんそれよりもずっと進んでしまったんです。かれは、奇妙な小男で、たいへんなおしゃれで、 怪だが、すごく頭の良い男でしたよ。」 荘「好きよ、良い探偵小説は、わたしだって。」と、ミス・ ハワードが口を出した。「うんと馬鹿馬鹿 しいことが書いてあるわね、でも。犯人が、最後の章で見つかる。みんな、あきれてものもいえ タない。ほんとの犯罪なら・ー・・ーすぐに、わかってしまいますよ。」 ス 「迷宮入りの事件も、非常にたくさんありますね。」と、わたしは反ばくした。 「警察のことじゃなく、事件の渦中の人。家族よ。その人たちの眼はくらませません。知ってま すもの。」 「それでは」と、わたしは、ひどく興を催してい 0 た。「たとえば、あなたが犯罪に、そうです ね、殺人事件にまきこまれたら、すぐに犯人を指摘出来ると思っていらっしやるんですね ? 」 「むろん、出来ますとも。裁判官の前では証明出米ないかもしれない。でも、たしかに自分には わかるわ。犯人がそばへ寄って米れば、指先にピリッと感じますわ。」
なたの手がふるえるのを見たのは。」 「ひどく腹を立てている時だったんでしようね、ぎっと。」と、びどく隠かに、。ホアロはいった。 「そうですよ、まったく ! あなたは、ひどくかっとなっていたんですね、おぼえていません イングルソープ夫人の寝室の小箱の鍵がこじ開けられているのを発見なすった時のことですよ。 あなたは、マントルビースの傍に立って、いつものように、その辺の物をいじっておいてでした が、あなたの手が、葉っぱのようにふるぶるふるえていましたよ ! きっと、あれはーーー」 しかし、わたしは、急に口をつぐんだ。というのは、ボアロが、しわがれた、わけのわからな 件 事い叫び声をあげて、またトランプの家をぶつつぶしたと思うと、ひどく苦悶に襲われたかのよう のに、両手を眼にあてて、前後に体をゆすぶり出したからだ。 ズ「ねえ、ボアロ ! 」と、わたしは、叫ぶようにいった。「どうしたんです ? どっか悪いんです イ タ ス いいえ」と、かれは、息を切らして、「そのーーそのーーー思いついたことがあるんて 「ああ ! 」わたしは、ひどくほっとして、大声ていった。「あなたの『ちょっとした思いっき』で すか ? 」 「ああ、とんでもない ! 」と、率直にかれはこたえた。「こん度は、すばらしい思いっきですよー 途方もない思いっきですよ ! そして、あなたがーーーあなたがです、せ、わが友、あなたが、わた しに教えてくれたんですぜ ! 」 277