たちが部屋へはいってからはじめて、ボアロが口をさしはさんだ。 「わたくしがですか ? 」 「そうです。わたしたちは、昨夜、イングルソ 1 プ夫人が、あなたに手紙を書かれたと聞きまし た。今朝、それをお受け取りになったはずですが。」 「受け取りました。が、別に何も書いてはありませんでした。ただ、今朝、訪ねてくれるように、・ 重大事について、わたしの助言がほしいからという、短いお手紙でした。」 件「その重大事がどんなことかは匂わしてはなか 0 たんですね ? 」 「あいにく、ありませんでした。」 荘「そりや残念だな。」と、ジョンがいった ズ 「大変残念です。」と、沈痛に、ボアロも相づちを打った。 イ ホアロは、しばらく考えにふけっていた。 やがて、かれはまた、・ 誰も、ものをいわなかった。。、 ス 弁護士の方を向いた。 「ウエルズさん、一つお聞きしたいことがあるんです。ーーこれは、もしかすると、職業上のエチ ケットに反することかもしれませんが。イングルソ 1 プ夫人の死によって、どなたが、かの女の 財産を相続されるのですか ? 」 弁護士は、一瞬ためらっていたが、やがて、こたえた。 「それにつきましては、もうすぐ公表されることですから、カヴェンディッシュさんさえご異議 がなければーーー」
「最愛のイヴリン。 ただ、昨夜の予宀 何も連絡がないので気を揉んでいることだろう。好調に行っています が、今夜になっただけです。分っているね。婆さんが死んでいなくなってしまえば、また楽 , い時がやって来るのだ。わたしの犯行などと立証し得る者などありつこないよ。臭化物につ、 だが、われわれは、非常に真重にしなくてはいけ亠 ての、きみの考えは、天才の一閃だね ! いよ。一歩つまずくとーーー」 事 の「皆さん、ここで手紙は切れています。疑いもなく、書き手に邪魔がはいったのでしよう。し「 し、その書き手の正体には、問題などあり得ようはずがありません。われわれはみんな、かれ ( わ筆跡を知っております。そしてーー」 ス まるで絶叫に近いうめき声が、沈黙を破った。 「畜生 ! どうやって、そいつを手に入れたんだ ? 」 ホアロは、素早く飛びのいた。かれの動きの方が素早くて、襲いか , 和子が引っくり返った。。、 った人間は、ばたりと音を立てて倒れた。 「紳士、淑女の皆様」と、大袈裟な身振りをして、ボアロはいった。「犯人、アルフレッド・イ ) グルソープ氏をご紹介申し上げます ! 」 295
ような風采をした人間が買うとしたら、それもむずかしいことではなかったのです。ねえ、この メイスという若者は、イングルソープ氏と実際に話をしたことは一度もなかったんですよ。どう して、かれの服を着て、かれのあごひげ、かれの眼鏡の男を、かれではないと疑えるというのて しよう ? 」 「そりや、そうかもしれませんが、」ボアロの能弁にうっとりとなっていたわたしはいった。「し かし、それなら、何故、日曜日の夕方六時に、どこにいたか、かれはいわないんてしよう ? 」 「ああ、まったくどうしてでしよう ? 」と、ボアロはいったが、平静に帰って、「逮捕されたら、 事恐らくはいうでしよう。しかし、わたしは、そこまで行ってほしくないのてす。わたしは、かれ の の立場の重大さを、かれにわからせなくちゃならないんです。もちろん、かれの沈黙の陰には、 何かいかがわしいことがあるんでしよう。夫人を殺さなかったとしても、それでも、かれは悪党 イ で、殺人とはまったくかけはなれているが、何かかれ自身だけのかくさなければならないことを ス 持っているんですよ。」 「何でしよう、それは ? 」わたしは、さし当りボアロの考えに引きつけられて、そういった。と いっても、まだあの明白な推理こそ正しいのだという、かすかな信念は持っていた。 「想像が出米ませんか ? 」そうたずねて、ボアロはにつこりした。 「わかりませんね、あなたは ? 」 「ええ、出来ますとも。しばらく前に、ちょっとしたことを思いついたんですーーーそして、正し いということがわかりましたよ」
この場にしては、恐らく、懸命すぎるくらいに、たずねた なんですね ? 」わたしは、懸命に 「それは、もちろん、何ともいえませんが、しかしーーおたし自身のひそかに考えている意見を いいましようか、ヘイスティングズ ? 」 「ええ ? 」 「そう、それはこうです。カヴェンディッシ = 夫人は、バウエルスタイン博士のことなど、ほん のぼっちりとも、気にかけたこともなかったし、今も気になどしてはいないということです ! 」 「ほんとに、そうお思いてすか ? 」わたしは、自分の喜びをかくすことが出米なかった。 事「わたしは、そう信じていますよ。そして、その訳をお話しましよう。」 の 「それで ? ズ 「その訳は、かの女は、他の人のことを愛しているからですよ、あなた。」 イ ! 」どういうつもりでいったのだろう ? 思わず知らず、気持のいい暖かみが、わたしの 内部にひろがった。わたしは、こと女に関しては、決してうぬぼれの強い男ではないが、わたし は、確かな証拠を思い出した。恐らく、その時には、ほんのかるく気づいただけだったが、しか し、確かに、そうだといえるような わたしの楽しい思いは、ミス・ハワードが不意にはい 0 て米たのてさえぎられた。かの女は、 あわただしく、ぐるっと見まわして、誰もほかには部屋にはいないのを見定めてから、急いて、 一枚の茶色の古い紙片を取り出した。これを、かの女はボアロに渡しながら、謎のような言葉を つぶやいた。
ソディッシュ夫人は、そうしてよ。あの人、あたしを憎んでいるんてすもの。」 「あなたを憎んているって ? 」驚いて、わたしは、叫ぶようにいった。 シンシアは、うなずいた。 「そうなの。何故だかわからないけど、かの女、あたしに我慢が出来ないらしいの、それに、か れもそうなの。」 「そりや、あなたの間違いですよ。わたしは、暖かくいった。「それどころか、ジョンは、とても あなたを好いていますよ。」 第「ええ、そうよ ジョンはね。あたしのいうのはローレンスのことよ。もちろん、ローレンス が、憎もうと憎むまいと、あたしは、気になんかしないの。でも、誰にも愛してもらえないなん ・ k て、おそろしいことじゃなくって ? 」 イ「だって、みんな愛しているんですよ、シンシア。」わたしは、心をこめていった。「あなたは、確 ワー・トこ それから、ミス・ハ スかに誤解しているんですよ。ねえ、ジョンがいるでしよう シンシアは、むしろ陰気にうなずいた。「ええ。ジョンは、あたしが好きだと、あたしも思う わ。それから、もちろん、エヴィも、あんなぶつきら棒だけど、誰にだって不親切じゃないわね。 でも、ローレンスは、用がなければ、決してあたしにものなんかいわないわ。それから、メアリ ーは、あたしに仲よくするなんてことは、ほとんど出米ないらしいの。かの女は、エヴィにはず っといてもらいたいって、かの女に頼んでもいるわ。でも、あたしにはいわないの。それて それでーーーあたし、どうしたらいいかわからないの。」不意に、可哀想な子供は、泣き出してしま 221
ボアロは、肩をすぼめた。 「そんな気がしたんです。それだけですよ。おはいりになりませんか ? 」 わたしたちは、リーストウェイズ・コティジに着いていた。 「ありがとう。帰ろうと思うんです。森をぬけて、遠まわりをして行きます。」 スタイルズのまわりの森は、非常に美しか 0 た。広々とした大庭園をぬけた後では、涼しい林 同の空地をぶらぶらとさまようのは、、い気持た 0 た。そよ吹く風さえもなく、小鳥のさえすり 件 もかすかだった。わたしは、小道をぶらぶらと歩いて、やがて、堂々たる樵の古木の曼 羽元に身を 毳横たえた。わたしの人間としての感情は、やさしくなごんてした。。、 。、 ' ホアロの馬鹿げた秘密主義さ 荘えも、今は、許していた。実のところ、わたしの心は平和だった。そこで、わたしは、あくびを イ わたしは、事件を考えたが、ひどく現実離れがして、遠いことのような気がした。 ス わたしは、またあくびをした。 恐らく、あんなことは、実際には二度と起こらないだろうと、わたしは考えた。もちろん、あ れはすべて、悪夢だったのだ。事の真相は、クリケットの打球槌でアルフレッド・イングルソー プを殺したのは、ローレンスだったということだ。・こが、 オそれをそんなに騒ぎ立てるなんて、 ジョンも馬鹿けているじゃないか。そこで、『そんなことはいやだと、ぼくがいってるじゃない か ! 』と、どなり立てようとした。 208
わたしは、じっと考え込んだ。 「イングルソ 1 プ夫人は、ミス・ハワードのためになるように、遺言状が作れなかったでしよう ボアロは、首を振った。 「でも、あなた自身が、その可能性について、ウエルズ氏に考えをい 0 ておいでだ 0 たでしょ う ? 」 ボアロは、につこりして、 事「あれには理由があ 0 たんです。名前はいいたくなか 0 たんですが、実際は胸の中に一人の人が のあ 0 たんです。ミス・ ( ワードも同じような意味で、非常に心の中にあ 0 たので、それで、代り ・ k にかの女の名前を使ったんです。」 和「それても、イングルソープ夫人は、そういう遺言状を書いたかもしれませんね。そうですよ、 ス死んだ日の午後に作った遺言状は、もしかするとーー」 しかし、ボアロの首の振り方があまり強か 0 たので、わたしは、ロをつぐんだ。 「いいや、あなた、その遺言状について、わたしは、ちょ 0 とした、ある思いっきがあるんです。 しかし、そのことは、うんとお話が出来ますよー・ーあれは、ミス・ハワードのためになることは 書いてなかったと。」 わたしは、かれの確信を承認した。も 0 とも、どうして、かれがその問題についてそれほど確 信があるのか、ほんとうにはわからなかった。
冊ウエルズ氏が咳ばらいをして、冷やかにいった。 「たしかに偶然だとお思いですか、カヴェンディッシュさん ? 」 「どういう意味です ? 」 「あなたのお母さんは、はげしい口論をしたと、あなたは、わたしにおっしゃいましたね かと、昨日の午後ーーー」 「どういうことなんだ ? 」と、またジョンが叫んだ。かれの声は顫えていて、かれは、まっ青に なっていた。 事「その口論の結果、お母さんは、ひどく急に、急いで新しい遺言状をおっくりになっているので 」のす。その遺言状の内容は、わたしたちには、決してわからないでしよう。その条項については、 以奥様は、誰にもおっしやらなかった。今朝、疑いもなく、その問題について、わたしとご相談な イ さるおつもりだったのでしよう だが、その機会をお持ちになれなかった。 遺言状は消滅し ス て、ご自分といっしょに、その秘密を墓場へお持ちになっていらっしやる。カヴェンディッシュ さん、これは偶然でも何でもないでしようね。ボアロさん、あなたも、この事実が非常に暗示的 だというわたしの考えに、きっとご同意くださるだろうと信じます。」 「暗示的であろうと、なかろうと」と、ジョンが口を挾んだ。「わたしたちは、この間題を明らか にしてくだすったことに対しては、ボアロさんに、心から感謝いたします。しかし、氏には、こ ういう遺言状のことを、決して知らせるべきしゃなかった。こんなことを伺っちゃいけないんで
わたしは、さっきから頭の中で一つの考えを、くり返し考えていたが、今こそ、それを口にす る時が来たと感じた。しかしまだ、いうのを控えていた。ジョンは、どんな種類のことでも、こ んな事件が世間に知れわたるのをおそれていて、決して厄介なことにはかかわり合おうともしな い、呑気な楽天家だということを、わたしは知っていた。 わたしの計画の好い加減なものでない ことを、かれに納得させるのはむずかしいかもしれない。反対にローレンスの方は、それほど因 襲的でもないし、多分に想像力も持っていたので、味方としてあてになるたろうと感じた。もう、 進んて口を切る時が来ていることは疑いもなかった。 「ジョン。」と、わたしはいった。「あなたに、頼みたいことがあるんですがね。」 「何だね ? 」 「わたしが、友だちのボアロのことを話したのをおぼえているでしよう ? ここにいるべルギー 人の ? あれは、とても評判の探偵なんてすよ。」 「うん。」 「かれを、ここへ呼んだらどうだろう この事件を調べるために。」 「何たってーーー今かい ? 解剖の前に ? 」 「そうです。早ければ早いほど、有利なんです。もしもーーもしも・ー。ー犯罪がからんでいるとし たら。」 「馬鹿な ! 」ローレンスが腹立たしそうにどなった。「ぼくの考えじゃ、一切、・ ( ウエルスタイン の妄想たよ ! パウエルスタインが、大将の頭に吹きこまなけりや、ウイルキンズは、あんなこ
出したクイーンとカ】の近年の作が、既にして情熱を失いつつあるのと思い合わせれば、一層こ の事がは「きりする。これに気づいた時、私は驚嘆を禁じ得なか 0 た。この老婦人は実に驚くべ き作家てある。」 ( 江戸川乱歩著『続・幻影城』中の「クリスティに脱帽」より。 ) この言葉はしかしながら、この「スタイルズ荘の怪事件」が、後期の作品より劣るということ ではない。なるほど代表作といわれる「アクロイド殺人事件」 ( 一れ二六年 ) や、「三幕の殺人」 ( 一九三四年 ) 、「予告殺人」 ( 一九五〇年 ) には及ばないかもしれないが、これはまた、処女作だ けが持 0 ている輝かしい新鮮さがある。瑞々しい力が溢れている。今日、探偵小説の女王と呼ば れて、英米ばかりか、世界中の探偵小説ファンの人気を一身に集めている大作家、アガサ・クリ スティの蒻芽が、はっきりと感じられる作品である。 いや、そういう史的な意味を抜きにして、これは面白い作品である。最後まで一気に読ませる が、それが、この「スタイルズ荘の怪事 これこそ探偵小説の一番大切な要素だ 面白さ 解件」にはある。是非、一読をおすすめする所以てある。 能島武文 説 321