218 児玉家の大門脇のくぐり戸にいつもはかけてある鍵がかかっていなかった時も「甘った れ ! ーと思った。数子は修次が来ることを予想して鍵を外しておいたのだ。もしかしたら、 まだ死んでいないかもしれない、と思う気持があった。ヒステリイ女の狂言かもしれないと 思った。 しかし数子は本当に死んでいた。・ カスの充満している二階の寝室の床に仰向けに倒れてい た。青黒いその顔は苦しそうに口から吐瀉物を出して右下にかしいでいた。 急いで窓を開け階下へ駆け降りて、一一〇番をしたあと、修次は応接間の長椅子に腰を下 ろして煙草に火をつけた。無性に腹立たしかった。自分の死によって我が子がどうなるか考 えることができなかった女。考えたがどうにもならなかったのか、考えもしなかったのか。 この長椅子で修次に取り縋って、「抱いて」といった時の数子の赤い目が思い出された。お ぞましさに思わず立ち上りながら、死んだ方がよかったんだと呟いたが、すぐ思い直した。 あんたはそれでいい、 これで楽になったからいいよ。だがあんたが楽になった分まで、 これからしよって生きていく郁也はどうなる : いてもたってもいられない怒りに駆られて思わず煙草を投げ棄てた。その時パトカーのサ イレンが聞えてきた。 母親の死を何といって郁也に報らせればいいのか。 警察から出た修次は、河合花子の家に向いながら、考えを纏めようとして纏めることがで きなかった。数子の死を見つけたのは日暮れ時だったが、今はもう夜更けである。 すが としゃ
203 雪の夜 「何という週刊誌ですか ? 」 「週刊新流っていってました」 「間に合うかなあ、取材に来たのは三日前ですね ? ご主人は何ておっしやってましたか。 ご主人の方で抑えられる伝はないんでしようか ? 」 数子は黙って首を横にふる。 「奥さん、ほうっておいてはいけませんよ。新流がやれば必すあちこちでやり出します。テ レビも黙っちゃいない。そんなことになったら、郁也くんはどうなるんです : : : 」 「ああ、私 : : : 」 突然、数子は立ち上って叫んた。 「私 : : : どうしたらいいのかしら : : : どうしたら : : : どうしたら : : : ああ、もう、気が狂い 、とだけ : : : 主人はそういって : : : 離婚し そうなんです : : : お前の好きなようにしたらいい このままでいたいというのな たければしてやる、その男と一緒になるのならなってもいい。 ら、家政婦代りに置いてやる : : : オレの生活さえ乱さなければ、一生、飼い殺しにしてやる 「いったい郁也くんのことをどう思っておられるんですか、ご主人は」 数子はそれには答えず、広い応接間をグルグル廻り、修次が腰を下ろしている長椅子の横 すが にくすおれて、腕にとり縋った。 「加納さん、助けて : : : どうしたらいいか、教えて : : : 立川先生に逃げられたら、私、生き
204 ていられない : 「そんな : : : 奥さん、何をいってるんです。そんなことより、郁也くんのことの方が大事じ ゃありませんか。しつかりして下さいよ、奥さん 「私はダメな女なの。。 タメになってしまったの。立川先生がダメにしてしまったの : : : 寝て も醒めても立川先生のことばっかり思ってる。アタマにこびりついて、剥がれないんです。 いくら剥がそうとしても剥がれない : 数子は顔を上げ修次の耳へ唇をさし寄せて囁いた。 「加納さん、私を可哀そうだと思って : : : 抱いて : : : 」 「何をいってるんですか、奥さん」 修次は殆ど本能的に立ち上った。数子は長椅子からすべり落ち、修次の腰に両手を廻して あえ 喘いだ。 っときでいいから忘れ 「恥をしのんでいってるんですわ : : : 立川先生のことを忘れたい。い たいの : : : ねえ、お願い・ : ・ : 」 数子は修次の腰に顔をこすりつけた。 「お願い、お願い : : お願い : 修次は数子の手を抗ぎ取った。厚手のウールの長スカートに包まれたぶ厚い腰の、横のチ ャックが下っていた。手を抗ぎ取られた瞬間、修次を見上げた赤い目と、喘いで大きく開い たロ腔の、怖ろしい赤さが目に残った。
「大矢さんって人からだけど、坂口さんを捜してるんたけど、心当りはないか、って」 「大矢 ? ・ルボライターの ? ・」 坂口が抑えた声でいった。円は旭と代った。 「もしもし、円ですけど」 「あ、円さんですか、おくつろぎのところすみません。大矢七郎です」 「あら、大矢さんーーこんばんは」 円はそういって坂口に目を向けた。 「坂口さんに至急、伝えたいことがあって捜してるんですよ。どっか、彼の行ってそうなと ころ、知りませんか ? 」 「心当りはないことはないけど」 坂口を見ながらいった。 「今、大矢さん、どちらにいらっしやるの ? 心当りの電話番号調べてお報らせするわ」 「そうですか、じゃあ、頼みます。自宅です」 彼は番号を教えてから、 乱「児玉数子が死んだんですよ」 と、つこ。 混 「児玉数子 ? あの、郁也の : : : 」 「母親ですよ。自殺したんです」
202 「わかりません : : : 」 「週刊誌の人はただ、行って来ましたよ、といってヘンなふうに笑っただけでした」 「先生からは ? 」 その質問を待ちうけていたように、数子は泣き声を上げた。 「何もいって来ないんです : : : 何も : : : こちらから電話をかけても、出ないんです : ・ 「立川先生はひとり者なんですか ? 「独身です」 ふる 逃げてるんだな、と修次が思うのと同時に、数子の慄え声が叫んだ。 「逃げてるんでしようか ? 先生はワ : : ・ : それとも何か事情があるのか : : : 」 「さあ : : : 」 「どうお思いになります ? 「わかりません」 修次はいった。そんなことより、もっと大事なことがあるじゃないか。郁也のことをどう しし / 、刀ュノ 考えているんだ、と、 「で、週刊誌のことですが、これは何としてでも抑えなければいけませんね ? 」 修次は数子の頬を流れる涙を無視していった。 「奥さんやご主人のためではありませんよ、郁也くんのために抑えなければ」 修次はいった。
216 そういうと、大矢はじゃあ、待ってますから、といって、電話を切った。 円は坂口を見た。坂口はもう立ち上っていた。 「児玉数子が死んたんです。自殺ですって」 坂口は電話の前に立って、ダイアルを廻した。 「少し間を置かないと、怪しまれるわよ」 「なに、大丈夫だ : ・ 「でも : : : 早過ぎるわ」 円はいったが坂口はかまわず、もしもしといった。 「あ、大矢くん、坂口だ。児玉数子が死んだんだって ? 」 「訪ねて行った人間が見つけたらしいんですよ」 「やったのは何で ? 」 「ガス。見つけた時はもう駄目だったそうですよ。それがね、もと・にいた加納修次っ て男なんですー 「加納が ! 」 坂口は大声を上げた。 「加納が見つけた ? 」 「ぼくの弟が警視庁詰の新聞記者でしてね、今しがた報らせてくれたんです。委しいことは 追って報らせて来ると思いますがね。明日の『円の朝』に間に合うようにと思って : : : 」
200 「ほくは信じます : 修次はいった。 「今、郁也くんに一番必要なことは、信じる人間がいるってことなんです、奥さん」 修次は熱つぼくいった。 「奥さん、信じてあげて下さい。電話をして、誰も信じなくてもお母さんだけは信じる、と いってやって下さい そろ 数子は膝の上に揃えた手を見つめている。見つめたまま唐突にいった。 「週刊誌の人が来ました : : : 」 「いつです ? 「三日前ですわ」 数子はいった。 「それで主人はホテルに泊るといって、出て行ってしまいました」 「週刊誌は何を訊きに来たんです : : : ? 「立川さんとのことです : : : 」 かんだか 急に甲高い泣き声になった。 「なぜお会いになったんです。決して誰にも会わないようにつてあれほど申しあげたでしょ 「郁也の上級生の、畠山って人について聞きたいとおっしやったもんたから : : : その人が新
安藤美加が訊いた。 「誰も住んでいないようです。児玉教授は数子夫人が亡くなる前から、もうここには住んで いませんでしたからね。麹町の方のマンションに住民票は移されています。しかし、事件以 来、そこには時々帰るだけみたいでしてね、ぼくも是非、コメントをとりたいと思って頑張 ったんですが : : : 」 「じゃあ郁也くんはどこにいるんでしよう ? 」 し、刀十 / し 。、、たくない力いわないわけこま、 円はいった。すべて台本の指定通りである 「そのことなんですが、今のところ、郁也くんのいるところはわかりません。学校は転校し たということですが、学校当局は教えてくれません」 「お父さんとはご一緒じゃないんですね ? 」 「一緒じゃないようですね」 そういった後、大矢の目が不意に光った。 「実はねー いいかけて大矢は、ちょっとわざとらしくためらってみせた。 乱「実は郁也くんは、児玉博道氏とですね : : : つまり生さぬ仲だという噂があるんですがねー それは打ち合せの段階では出ていなかったことだ。大矢はスタンドプレーをねらったのだ。 混 円が黙っているので安藤美加が口を出した。 「生さぬ仲といいますと ? どういうことですの ? 数子夫人の連れ子、というような ? こ うわさ
228 「いや、博道氏と数子夫人は初婚同士ですから、連れ子ということはあり得ないんですが 「では養子 ? 」 「ええ : : : まあ、そのへんのことは、軽々にいえないんですがね : : : しかし数子夫人が結婚 生活六年目に日赤病院に入院して産んだ子供であることは確証があるんですー 「とい、つと : 「これは伝聞なんですが、郁也くんが生れて間もなくの頃から、児玉夫妻の仲は冷え切って いたというんですが : : : 」 つや 艶のない、煤けたような大矢の顔が、特ダネをバラす喜びに明るんでいる。 「事件後、児玉博道氏は父親として家族に対して冷淡だったという非難を浴びていましたね。 しかし、児玉氏にも同情すべき点があったということなんですよ : : : 」 わざと沈痛にいってはいるが、内心の得意は隠せない。それは大矢が事件の半年前にやめ た家政婦の杉田を買収して漸く取ったネタである。このネタを取るために大矢は、杉田の甥 の就職の世話までしたのだ。 「では、郁也さんのお父さんは誰なんです ? 」 安藤があっさり訊いた。 「さあ ? それは : : : 」とロごもる大矢に、円はいっこ。 「我々はみんなそれそれの事情を抱えて生きているんです。外側を見ただけで簡単にああの すす
175 雪の夜 「ふだん勉強してないから、疑われるんだって。疑った方が悪いんじゃない。疑 ~ え ~ ー . , , = なことをしていたのが悪いって : ・ : ・」 「でもお父さんは信じたんたろ ? 」 「けど同じことなんだ」 投げやりに郁也はいった。 坂口は郁也の母、数子の情事を追及しようと決心した。親しいルボライターの大矢七郎が、 週刊誌が近々、それを取り上げようとしているらしいことを報らせて来たからである。 週刊誌がやるのを黙って見ていることはないよ、と企画会議の席で坂口はいった。それに この問題は単なる醜聞ではなく、現代の解放された主婦への警告を含めた問題提起として、 大いに意味がある 「そんなスキャンダルをほしくって何の意味があるの」 といった円に、坂口はそういって応酬した。 「女が解放されて三十年余り経ったわけだがね。その三十年の間に家族制度が崩壊して核家 族になり、今度はその家庭が崩壊しかけているのではないか。主婦は男と同じように自由を 得た。少くとも家事の奴隷ではなくなった。それは結構なことだよ。ところがその結構が過 かす ぎて、夫の目を掠めて愛人を作るという、この数子のような現象が増えて来てる。それでい て、その一方では教育ママなんだ。教育ママがなんで浮気するんだ、と我々は思うが、しか