歩きながら得心のゆくまで話し合ってみて御覧、その結果を母なり私なりにきかせて下さい。で ね。大体の意向を今夜中にきめてほしいんだ」ちょっと言葉を切って、 「それだけでしたね。なにかほかに希望がありましたかね ? 」 と私は母に聞いこ。 「いえ、ありがとう。それだけです」 と母が答えた。 「そんなら、僕らはもう少しここで涼むから、二人で月の道を歩いていらっしゃい 愛そう云うと、二人は素直に肯き、 の 「じゃ」 そ と島村が先に立って歩いていった。 子 「どう、一雄さん。まとまったら、二人うまくやってゆけるでしようかね ? 」 「さあ、そいつは、誰の場合たってよくはわからない。大雑把に、神さまにまかせたつもりで、 安心するんですね , 「じゃ、安心しときましよう」 私と母は螢の息遣いを見つめながら暫時涼んで家に帰った。 帰ってみるとリッ子が色を失って私を迎えに出た。太郎の様子がおかしくなったから何度も私 を探しに出たと云っている。 「熱は ? 」 「三十九度四分もあるんですよ」
さすがに田舎の家は広くて気持がよかった。食糧不足から、母は福岡の家を手離して、一昨年 この森のなかの千五百坪を手に入れたのだが、その折、ちょうど帰省の私も手伝って、暴風の吹 き倒れの梅の古木などを買いこみ、庭を私流に急造したのが、僅か二年足らずで、庭らしく茂り まっみ 合うたのもおもしろかった。しきりに松蝉の声など聞えていた。 「太郎がハシカで」 「そうね、お座敷に温かくくるんで寝かせておけばいいでしよ」 私をはじめとして十人の子を産み、一人も病気で死なした経験のない母は、子供は自然のまま おおざっぱ 愛に放っておけば死なないものと、大雑把にきめている。 の 「それで十人の子持賞はもらったの ? 」 「いただけるもんですか」 と母が笑った。ちょうど産めよ殖やせよの頃だったから、十人以上の子を産んで育ったところ にはその母に国家賞が出ることになっていた。事実からいえば母は該当するはすである。ただし 私の父と結婚して四人、父と離別後に再婚して六人産み、後の主人に死なれている。二家にわた るものはいくら十人でも駄目なのであろう。これもまた人為の時流の政策でしかない。法律や戸 籍などもたわけたものだ。 たえ トミ女第一男一雄、第六女妙、などというふうにしたらどんなものだろう。そうして人は赴く ままに愛し、結えられ、死んでゆけはよい。愛情の深浅はその人々の自覚にまつ以外にないでは じゅんりよう ないか。醇良の風俗というものは、その自覚から自然と生れてゆくものだろう。 「でも庭が、実によくなった」
「そうね。早苗と島村さん、ちょっとお話がありますから、一緒についてきて下さいね」 「うちも」 「うちも」 子供たちが声をあげた。ついてゆきたいのであろう。 「いけません。あなたたちはお留守番」 と母がその子らを制している。 「ああ、わかった。早苗ちゃんが島村さんのお嫁さんになるったい」 愛末妹の妙が姉を「ちゃん」づけで呼んで、顎をしやくるようにしながら、くすりと笑った。み うちわ の んながどっと笑ったので、母は団扇でちょいと妙の頭を押えるのである。 そ 戸外へ出た。夏の月が明るく空に浮んでいる。母は団扇を一つ、そっと私の手に差し出した。 たけやぶ 子 二本用意してきたようである。生垣に沿って橋の方に歩いていった。竹藪の前の小川である。低 い欄干のこちらに私と早苗と母、あちらに島村が、向い合って腰をおろした。螢が二つ三つ流れ ている。 「簡単た」 と私は団扇で藪蚊を逐いながらロをきった。 「誰もが思いついて、そのまま迷っているんだけれど、島村君と早苗ちゃんのことね。ひとつ、 二人できめてみたら、どうだろう。やってゆけるという気がしたら結婚したらいいのだし、駄ロ だと思うなら、やめたらいいし。とにかくあなたたち自分のことなんだから、どちらにきめて ふらぶら も、私も母も異存はありません。ただ実行に移すだけさ。だから、ひとっ二人だけで、。 ほたる
網野君が援兵に出た。けれどもこればかりはあてにならないというふうに、 リッ子はちょっ 1 私を見上げ、それから太郎を抱きしめながら降りていった。 とり′」 急に空虚の気持が増大する。いつのまに、こんなふうの家庭の虜になったろうか、と自分が、 ぶかしく、 「行き帰りは、飛行機ですか ? 」 「さあ、そいつは」 愛と網野君が当惑している。 の 「飛行機にしてほしいなあ」 そ 変なところで我を張りたくなった。雁の巣から、見上げる太郎とリッ子を、一挙におき去り ) して翔び発ちたいのである。 それでも雑誌記者が帰った後は、リッ子はいつになくはしゃいでいる。いろいろと云う。 「ねえ、太郎。ゆっくり安息が出来ますよ」 夫婦だけの可憐な小さい隠語もあった。 「太郎さんと二人で、毎日太郎の御馳走たくさん作りましようねー 「太郎さん二人っきりで、このお家でお父さまを待ちましよか。それともおばあちゃまのとこ「 にゆく ? 」 「とにかく、意地悪お父さまがいなくて毎日ねんねよ、せいせいよ、ね、太郎」 さすがに夜はこたえるのだろう。早く床につき、何度も私の体にすがり寄る。すべすべと柔、 がん
が、空襲による十時間以上の延着で、二昼夜の車行の間にも、状勢はどう変っているか、しれた ひとしお ものではない、と気づかっていた。辿りついてみて、さすがになっかしさは一入である。 全く無人のまま、一年の間放置していたから、近所には顔出し出来ぬくらいの迷惑をかけてい る。防空上から困る、言語道断だ、と警防団や、防護団がいきまいている。早く留守の人をだし てくれ、と大家の奥さんが、繰りかえし云ったが、もっともな話である。然し私は疎開はしたく 。リッ子が丈夫なら今日からでも、ここで、くらしたい。暮す上には他人と同居は嫌たった。 「が、それでは困ります。周りからも、うるさいし、私も大家として、全く無人で放っとかれる りさいしゃ のは、仮りに一週間でも、迷惑です。丁度ね、檀さん。夫婦たけの罹災者で、今私の処にいる、 の とってもいい人がいるんだから、この人を入れてやって下さいな。留守中の家の面倒も見るし、 そ 何しろ二人切りなんだから、後からも決してうるさいことはありませんよ。五部屋もあるんだか 子 ら、助けると思ってね・ーーー」 大家の奥さんは、そう云った。これ又至極尤もな話だが、動けるようになりさえすれば、いず れリッ子を此処へ連れてくる。特別な病人だから、人々へ気兼ねは閉ロだ。 「もう十日待って下さい。私もよく考えて見ますから」 えんきよく と婉曲に、大家の奥さんにはことわった。 庭の草木が、見違える程大きくなっている。昨年の蔬菜類は、勿論、苅り取られて跡形無い みしよう が、リッ子と播いた、あの掌の中の黒粒の実生の韮どもが、一尺近い見事な群生に変っていた。 摘み取って、タベの粥に投げ入れるのである。 かゆ もっと にら
ないのである。途中に米の配給所を廻っていった。黒米だから、ついでに静子の家の足踏み臼で 搗いて帰る心算である。 いちぼう 次第に空が晴れてきた。山の斜面をのぼりはじめてふりかえると、残ノ島まで、一眸キラキラ なぎ さざなみ と小波立っていた。珍らしく凪いでいる。然しよく見ると、沖の船はゆられている。春の凪がし きりに待たれた。リッ子のロに魚が入らないのである。海辺に来てこの二タ月、魚が手に入った のはほんの数える程たった。 「海大きいね ? 」と太郎が声を上げている。 愛「大きいぞ , の 「海のなかにエンエンのハハがトボーンと人っとるね ? 」 そ 字のことを云っている。松枝が隣の部屋で太郎と二人所在なさから毎日教えたので、満二年に ツならないのに、漢字を百余り覚えこんだのだ。異様な覚え方である。海という字の中に、母が入 っているというのだろう。その母という字の中に点が二つあり、その点をよく泣くリッ子と思い しま 合せて、涙のしたたりだと思いこんで終ったのだ。だからエンエンの母だと云っている。母とい う字を一番先に覚え、それもエンエンの母と覚えた。首の太郎がなかなかにあわれであった。 「太郎ちゃ 1 んー と静子の澄んだ呼び声がきこえている。大きなネープルの樹の下で手を振っている。頂上の石 垣の上の角だった。太郎が足を揺ぶりながら手を挙げる。 「来たとね。よう来んしやった。太郎ちゃん。一人で、歩いて来なあ。なあー・ー」 私の首から抱え取った。抱えおろして、ネ 1 プルを一つもいでやっている。 287 っ つもり
リッ子」 「どうかしたのか ? 「いいえ」 と答えて一度、向うむきに寝返りを打ったから、私はその横にごろりと横になり、ちょっと唇 を寄せようとするとリッ子は片手を出して、そのロを蔽うのである。 「どうかした ? 」 けったん 「また血痰がはじまりました」 涙がくつきりとあふれ出た。昻奮からか、また咳が続き、リッ子は・コクンと最後の痰を口にふ 愛くむようだったが、自分で急いで枕許の塵紙を取って、それを拭うと、重ねた塵紙の上に丁度鶏 の 頭の花のような紅の模様がひろがった。 子 九 「この頃、少しふとってきたようですよ。ほら」 左の腕首のところを自分で握ってみせて、 「もう少しふとりましよう。ねえ、太郎ー とリッ子は食膳に一緒に坐り、雑煮を何杯も代えた。二月の二日のことである。旧正月であっ 一月の末に女中の松枝を帰し、二階の二間が私達三人だけのものにかえったから、急に何かほ っとした水入らずの気持にくつろいだ。炊事は一切私がやるほかは無いのである。 た。
七月五日。雨である。警報下の東京を出発した。太郎が一昨夜から発熱して、三十八度五分前 後、リッ子もまた昨朝から下痢がつづいており、かたわら荷造りで疲れ果てているが、二人だけ では残らぬという。下関乗船が七月八日と決められている以上、恢復をまつわナこま、 ら、二人を連れて梅雨のなかを駅頭へ急いでゆく。十一時二十分前に東京駅へたどりついたが、 二等車は軍人で超満員、結局三等にはみ出され、ようやく座席を二つ、一ところに譲り合せても らった。 太郎の発熱はハシカらしい。熱は幾分下ったようだが、マシンが手足、顔に現れた。近くに赤 まわ 愛子がいないかと、気がかりの様子で、リッ子は何度も囲りをたしかめているのである。太郎を膝 かんけっ の にしたリッ子の横には、遺骨を抱えた三十前後のヒステリックな未亡人が腰をかけている。間歇 的にくしやくしやっと頬の筋肉がひきつるが、涙を嚥みこんで泣いているようだ。けれども涙は 子 ノ外には現れない。時々太郎が遺骨の箱にじゃれかかろうとするので、リッ子はしきりに気を揉ん でいる。ハシカの割に、今日は元気のようだ。 「風にあてぬがいいですよ」 おやじ と隣席の好人物らしい親父さんが云ってくれている。それにしても暑い。どの窓も開放されて いて、太郎の衣服が、風にヒラヒラとめくれるのである。雨は大阪辺りからすっかり上って須磨 なぎさ あかし 明石の周辺の月が出た。松と渚と月の海を清し、と眺めながら、旅心を鎮めようと願うのだが、 その度に太郎の衣服が風にひるがえって、妙に浮足立ったような不安定の焦慮がっきまとった。 前の旅までは車窓から売られていた弁当が、今度は車内だけで発売されている。気がついてみ ると、私たちの車は食堂車の改造で、料理窓からなにかと売っている様子だから私は物珍らしく
せたらどんなに驚くか、と私は残念たった。それでも全部は食べ切れない。半分残すのである。 「折角ですけど、もう昼食は済みましたので、全部いただけませんけど 「あら、お重はおいときますが 1 。後から、ね、また食べるもんね。太郎ちゃん」 うんうんと太郎が肯いている。 「水筒だけ、あけときまっしよう」 その茶を静子はサイダ 1 瓶に移していった。瓶のロ許から溢れだすのである。それを見て太郎 が水筒の残りの茶を又飲んだ。 愛立上ると三人で、竈の周りを廻ってみる。 の 私は大体の竈の模様を説明した。静子もしきりに珍らしいらしく、 そ 「土かぶせの時は手伝いますがあー 子 と云っている。 間もなく静子は帰っていった。お重だけ残し、今度は山道の方に抜けるのである。 太郎と静子がしきりに手を振りかわしていた。 私も煙出しに就ては慎重だった。いってみれば、これが竈の生命を決するのである。ラッキョ たてみぞ ウ型の一番奥に、煉瓦一枚分の幅に縦溝をつけ、竈とその溝の境に平たい石と粘土を交互に積み 重ね薄い壁を作らねばならぬ。その壁の最下部に丁度指二本の高さに煙のロを残さねばならぬ。 幸い石はすぐ横の小川に無際限にころがっていた。私は太郎と二人ョイショョイショとその石 を運んでゆく。 大体これだけで、私の第一日目の作業は終った。自分の仕事の区切りに満悦する。扇型の、例 274 れんが あふ
よれよれの国民服を眺めながら、おかみが云う。誰でもいい、と云おうと思ったが、 「美代福」 舌がもつれた。 「新券の ? 馴染だすな ? 」 「いやーーー」 酔いざめであろう、火鉢を抱えてもどうにも寒かった。それですぐ酒を頼んだ。女中をかえし て一人で飲む。こんなことは何年振りかと、自分でもしきりにいぶかしく思われた。 愛女はなかなか来なかった。 : カそれと知れるなまめいた足音が玄関に立って、廊下に上ったので のあろう。やがて、おかみに、 「だれだすなー 後は聞えず、くすくすと忍び笑いだけ洩れていた。 「コンバンハ」と手をついて、 「まあ・ーー・」と記憶を掻きさぐるふうたったが、勿論知っている筈はない。おずおず火鉢の脇に いざり寄ってきて、 「戦地から帰って見えたと ? 」 坊主頭への挨拶だろう。 「いや、美代福を女房にもらえとすすめてくれた友達がいたから、会いに来た迄だよ」 「チャーーー・誰だすな、その人 ? 」 「いや、男じゃない。女だよ」 02