230 井戸端ではもう松枝が炊事に余念のないふうだった。流しの脇に一人中かがみで忙がしそうに ( タついている。私は後ろからその大きい尻を眺めながら、 「ここ気に入った ? 」 「ええ、良かとこですばい」 松枝があわててふりかえって肯くから、私も、この村への静かな帰依を保証されたようだっ リッ子は眠っているだろうか、とそっと二階に上ってみた。が、泣いている。 愛「どうした ? 何かあったのー の 「いいえ、さっきの子供ね ? 」 そ 誰だったろう ? とちょっと私は思いおこせなかったが、ああ、あの少年かと気がついて、 子 「馬車を追いかけてきた少年か ? 」 「ええあの子供ね、お父様。少し変態よ。ここへ坐っていると思って、ちょっとうとうとしてい たら、お蒲団の中に入りこんできて : : : 」 「早く帰さないからさ」 「おかえり、おかえり、と何度も云ったのよ。お藷が食べたいのだと思って、そのままほっとい たら、私が眠っているお蒲団の中にいつのまにかはいりこんで、私に抱きついてきたりして」 私もちょっと意外だった。が、どんな貌附の少年だったか、それは思いおこせない。妙に機敏 にちょろちょろと小走りする少年のようだった。その前かがみで走るふうの体の恰好だけが眼に とが 浮んだ。まだ、肉感も何も伴わぬ、トンゴ柿とでもいったように頭が尖って、何かを嗅ぎあさる た。 かおっき
と母は頬の筋肉をこわばらせて蒼ざめた。面をかえている。 「何かしら ? きっと最後の戦いよ。皆な死んでくれと仰言るんでしよう。もう、死んでもいい ことよ。でも着物だけは着て来なくちゃ そう云い残して母はあわてて部屋の中にかけこんだ。そうかも知れぬ、と私も、そう思った。 サイ。ハンが陥ちてから、このかた、もう全く行衛の知れぬ戦いだ。暗鬱な焦慮たけが、誰の胸に も巣喰っている。どうなるのだ ? 本土決戦といっても、何を私達はすればよいというのだろ う。正確な対処法の知れぬ人生というものほど、味気ないものはない。選び取る道が、失われて きつね 愛いるではないか ? 死ねと云われれば死ぬより外にないだろう。が、狐につままれたような、味 のけない死にざまだ。 そ 私は黙って庭添いに病室の方へ歩いていった。リッ子は蒼ざめて、北窓に垂れ下った八ッ手の 子 葉々を見つめている。生死の分岐路をでも、みつめているふうだ。私には気づかない。気づいて も、物憂いのか ? 「リッ子。天皇の重大放送があるそうだ」 チラと私の方を見て、それから肯いた。 「聞くか ? 茶の間まで行って」 たん いやいやとゆっくりつむりを振った。軽い咳である。喉の痰を一つ飲みこんで、 「どうぞ、聞いて下さいな。太郎は ? 」 そこまで云って、又声がかすれる。一しきり、その障害と争うように、カのない咳が続く。 「熱、出そう ? 」 187
「沸しましようか、お母さん。私がお風呂を 2 「いえね、誰も入りませんから、もう何ヶ月も放ってあって、汚くて、大変ですよ。すぐそこの 銭湯にいらっしゃいません。済みませんけど うなす とリッ子が困って答えている。私は肯いて立上った。一二丁離れた銭湯の湯気に、むせかえる しんき のである。浴室の客の会話は、何かじめじめとよごれて、暗かった。今先迄の旅が、まるで蜃気 ろう 楼のように崩れてゆく 警戒警報のようだった。ボーツと長く警笛が浴室のガラスをふるわした。私は急いで上ってい 愛って、家の方に走るのである。 の 蒲団はリッ子と並べて敷かれていた。 そ 「警報が面倒たから、失礼させていたたきます」 子 私はそう云ったが、母ももう寝巻に着換えているようだった。 灯りを消して、しばらくじっと黙りこむのである。淋しいが、しかしかけがえない幸福にたど かたわ りつけたと、側らのリッ子の息遣いをしっと聞く。空襲警報がつづいてはげしく断続した。しば らく警防団の怒声がわめいて過ぎる。後はシンと鎮まるふうだった。 「待ちながかったろう ? 「はい。でもお帰り迄に起きられなかったら、死のうと思っていましたのに」 「馬鹿。結核なぞというのは、神経衰弱と一緒たぞ」 「でも、太郎が : : : 」 「なんだ。いつも親元はかりで甘えている子なぞ、どうにもならん。あちこち転々と武者修業 わか
辺りが寝鎮まった後で床の中から母が訊く。 「どうって ? 」 「リッ子さんですよ。あなた達の暮し方ですよ」 「漢口からね、送金小切手を五千円送ったのですよ。それが着いてから処置しようと思っている んだけど 「いっ ? 」 「三月のはじめに」 愛「そう。でもね、一体どこでお暮しのつもり ? 」 の 「東京で暮したい。でも、今、東京へ連れてゆくのは無理でしよう」 そ 「何処でだって、病人と太郎を抱えてはくらせませんよ。太郎は預かってあげますから、リッ子 子 さんは、やつばり先方のお母様から介抱して戴きなさい。そうして、自分の御仕事をしたらいい じゃない ? 」 かゆ 「が、向うは、預かれそうもないふうです。大豆と麦の粥を食べている」 「思い切りが悪いのよ。もう、こんな戦争ですもの、着物などさっさとお米に換えて生きてゆか なくちゃ 「そうですね。昔の夢が、抜け切らないのでしよう。ところで、子供達はどうしたの ? 」 弟妹達のことである。松崎にも、ここの家にもいなかった。 「元一は召集。博多にいる筈よ。そのうち会ってやって頂戴な。いっ何処へやられるかわからな いそうですから。新次はね、学生のまま八幡の工場に動員されています。弾丸つくりですって。
「檀さん、サイ。ハンをどう思う」 「さあ、今度は大丈夫でしよう。こちらから近いのですから , 「いや、危い。二十数隻の大型艦がぐるりと島をとり囲んで、こちらからはまったく近寄れない のですよ」 嘘を云う人ではなかった。どこか確かな筋の情報を得ているのだ。背筋を流れるような冷たい しゅんじゅん 不吉が感ぜられた。こんな日に妻子をおいて千里に旅立っとはーーーと、しきりな逡巡も感じられ る。が三月なら大したこともあるまいと考えていって、また、旅の魅力に抗しがたいのである。 愛「帰れるかな、三月で 2 の もう一度誰にともなくつぶやいてみて、人から、その三ヶ月の旅の完了を予約してもらいたか そ った。が、誰も答えてはくれないのである。自分でもなるべく短期間がよいと思ったが、出かけ - 子 たら、それでは終らぬような予感がする。旅立ったら自分でも抑制出来ないところで、次々と新 しい旅程が私を誘引する。きまってそうだ。未見の風物の幻がたぐりよせる力は執拗だ。 「まあ、半年にはなりますね」 その半年にも自信がない。あぶなくすると一年になりかねないな、と私は思ったが、網野君が 云ってくれる三ヶ月を妻への唯一の保証にした。 「三月だそうだ」 「でも、せつかくいらっしやるなら、ゆっくりでもよろしいことよ 上ってきて、茶をさし更えるリッ子が云う。 「大丈夫ですよ。奥さん。今度はかりは太郎さんに会いたくて、檀さん、すぐに舞い戻りでしょ
リッ子・その愛 ふるヘつつより添ふいのち ありといふかぬばたまの 夜眼暗くしていきどほろしも そうしふ そとうば るたく 丁度、昨年の晩夏のことだった。蘇東坡の流謫の地に近い倉子埠の河柳の揺るるを見て、はス かに郷家の柳河を思い、あわせてしきりに妻の体を恋うた日があったが、 女子どもは毛梳きてをらむ 河明る柳の影も そよぎてあらむよ あの日の恋情のもどかしい行衛なさを覚えている。そのあらわな激情に耐えつつ歩き、さて く寄ってきて、今、かえって妻の体を手にしがたいのは、自分ながらあわれであった。 リッ子も眠りつかれぬ様子である。時折こっそりと、私に気遣うてひきつめたような吐息が れてくる。 ふる わずかに、リッ子の指頭をさぐり寄せて、自分の蒲団のなかに引入れてみる。かすかに顫えイ いるのは、一年の悲喜が、この一点に集約されているとでも云うのか。いたすらに暗いばかり ある。
愛犬である。私が芳賀氏の家に寄食していた頃から馴染んでいた。 「死にました。身のほどを、よく知っているー そうい 傷口はここにも開いていると、氏の満身創痍の面持を見つめるのである。氏はしばらく黙って いたが 「この戦争を、どう思う」 丁度一年前も、同じような間いだったが、まだサイ。 ( ンをどう思う ? と氏が云ったように記 憶する。その折も問いながら絶望を嚥みこむような表情だったが、私は新聞の報道のままに、大 ナンキン 愛丈夫でしよう、とししカ 、、ロ減に答えていた。サイバンの陥落は南京で聞き知って、芳賀氏の表情が の 真先に眼に浮んだ。 そ もう、今度は、私の答えも期待していないふうの、暗い、なげやりな、間いである。が、勝て 子 る、とは私も云えなかった。 「薔薇がね、檀さん」 と、氏は言葉を変えるふうである。 「少しは生き残っているようですよ」 芳賀氏は立上って、崖の縁の薔薇園に案内した。昨年の、丁度今、この辺り赤白黄、ビロ 1 ド のような薔薇が咲き誇って、蜜蜂の唸る羽音がしきりに顫えていたことを覚えている。太郎を負 はなばさみ うたリッ子も一緒に案内され、氏が花鋏で薔薇を剪り、見事な一抱えほどの花東を貰ったことが ある しん 勿論、あの折り取ってその芯をカリカリと食べたくなるような、しなやかで伸びの長い花木の 124 ふる
「いや、いや、あんな子からもらったものなんか」 「構わんさ」 「いいえ、もういただきません」 あまり、はっきりとその大根の皿をよけるので、松枝が不思議がっている。気を悪くはしない かと思ったが、私もリッ子もその説明まではしなかった。 太郎が早く眠ったから、私達もすぐ床についた。今迄母の家、姉の家などと、どことなしに気 苦労を重ねてきたので、自分達が主宰の生活は、気楽のようではあるが、何となく手持無沙汰で 愛戸惑った。 の しばらく波の音を聞いている。昼間はさほどにも感じなかったが、辺りが寝静まってみると、 どとう そ さながら、家を噛みつくほどの怒濤の声である。満ち潮にでもかかったのだろう。 子 「まるで、お船にでも乗っているようですね、お父様」 リッ子が、くらがりのなかでこう云っている。私は蒲団の中を探っていって、 眠れないのか、 そっとその手を握りしめてみた。 気づかっていたリッ子の熱は翌朝は出なかった。ようやく七度にとどくかとどかないところ。 朝陽が海を越えて直射しているなかで、その水銀柱をたしかめながら、 「熱、無いじゃないか」 「お父様、ほんと ? 」 手をさしのべて、半ばいぶかり半ば嬉しそうに、体温計を私から受取った。 「少しすっ、起きる習慣をつけた方がいいかもわからんね」 233
「松崎なら、天国だ」 と私は、私達の生活の目安も立って、一途に安堵するのである。 「ああ、そうそう。昨日松崎に廻ったら、野田が、瓦を運び出していましたよ。野田に、売った か、やったか、したの ? 」 「そう。たしかね、薪の代りに百枚はかりくれと云っていましたのよ」 「百枚しや無かったようでしたよ。全部持って行く様子のようでした」 「本当 ? そんな筈はないのだけど、留守にするとね、もう色んなものが失くなって、一度、一 愛緒に行って見てくれません。私もあちらが心配たけど、やつばり一人ではこわいのよ . の 私は肯いた。 そ 「行きましよう。じゃ、そのうち松崎にリッ子を移しますよ。その前にね、一度東京に行ってき 子 ッ て、社と、陸軍省に旅行済んだことを報告して来なくちゃ、なりません」 「なるべく早く済ませたい。太郎は預かっておきますから。そうそう、社と云ったらね、あな たの旅行中に Z 賞の通知がありました。何ですか、帝国ホテルで授賞式があるのですって」 「いっ ? 」 「去年の暮のことですよ。あなたに見せようと思って大切にしていましたけれど、空襲騒ぎで」 ちゃだんす と云って、茶箪笥をあちこちひっくりかえしていたが、 「何処かへまぎれて終って、今、ちょっと思い出せません。こちらへ、たしか持ってきたと思っ たのですがー 「いいですよ、もういい。でも賞金は貰ったの ? 」 まき あんど
車中から、私の郷里をよく知っていた。 「ほう、そいつは妻い。奥さんも、やつばり福岡市内に居られるですか ? 」 と中佐が訊いた。 「はあー、その筈ですが」 「そいつは、もう、あんたが一着と決ったわ。奥さん迄の早駆けは」 と、大佐は顎を崩して笑うのである。多少の不愉快も感じられたが、然し、リッ子の肉体へ「 なく結ばれる、と今迄信じ得られなかった遠い幻惑に、明確な証言が与えられる嬉しさがこぼ」 愛ていった。 の 全く福岡へ船が着くなどと、思いがけないことだった。福井近くの裏日本の小港に入ると , そ はんさ で、私は、それから一二日のもどかしい車行を想像していた。不馴れな土地の煩瑣な乗換えをに ずらわしく、思っていた。それが、一挙に福岡の港だという。余りに手の届きそうな旅の完 に、自分の体さえ頼りなく、何かしらうろたえはじめてゆくのである。 「が、あんまり喜ぶと、えてして、奥さんは赤手旗ということがありますわー もう酔ってきたのか、大佐は野卑にそう云って、中佐と顔を見合せて笑っていた。 しし、うかい プルン。フルンと哨戒の飛行機が飛んでいる。私はしばらくこの軍人達の会話から外れていたノ て、便所に立ち、それから帰ったまま酔ったふりで、べッドの中にもぐりこんでいた。酔いが あお リッ子への情愛を刻々現実的な想像に煽り立てるようだった。 やがて甲板の辺りが、何となしにざわめいて、もう九州が見えている、と呼び交わす声もき〉・ えている。危険区域も通り過ぎたから、何処でも思い通りの甲板に出てよろしいと云っている。 あご すご