気がつい - みる会図書館


検索対象: リツ子・その愛
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1. リツ子・その愛

「リッ子さんどうでした ? 大分いいと聞いてはいるけど、もう近い処でも行けないような世の 中だから、見舞にも行けずにいるのですよ」 「大したことはなさそうだけど」 あなた 「気のせいもありやしないかしら、貴方のいない時も、気が弱すぎてね。でも、あなたが帰った んですから、きっともう大丈夫よ」 「ここへいっきました ? 」 「ついこの間ですよ。太刀洗が大変な爆撃に逢いましてね。松崎も危いというから、半分荷物を 愛こちらへ運んだのよ」 の 「ここもいいが、松崎も危いことはないでしよう。但し何しろアメリカの飛行機の考えたから、 そ 僕も断言は出来ないが。 子 母が茶を入れた。はじめてしみじみと故国の玉露の香に喉をうるおすのである。 「少しだが、砂糖と飴玉をもってきましたよー 「それは有難う」 砂糖の罐を雑嚢から抜き出した。 「それから煙草、半分叔父様に上げたらどう ? 」 「そうね」 と母は菓子鉢に飴玉と煙草を盛って立上った。しばらくすると帰ってきて、 「大変なおよろこびようよ。でも、あの叔父様には困って終うの。永いことアメリカにいらっし いくさ やったでしよう。だからね、きっと日本の敗けだって。敗け戦で、日本中がトチメン棒を振って

2. リツ子・その愛

感じられる。光線のせいだろう ? 鹿島はしばらく黙っていたが、 「おい、檀。貴様しばらく俺のところの現場にでもやとわれろ、有佐の伐現場だが」 「子連れでもいいのかな ? 「子連れか ? 何処へでも負うて歩くのか ? 」 「いや首に巻く。ショールといったあんはいだ」 ンヨ 1 ルの方は、俺の家にでも預かるか ? が、教育にはならん 「気が向いたらいつでもいい、 憂「子連ればかりではない。女房も、連れ子せねばならんかもわからんのだ」 の 「ふーむ。そこ迄やといこむ度胸はない。それじゃ、お前達親子を入れて、身代りに俺が芸者屋 そ にでも出てゆかねばならんだろう」 子 ハと二人顔をゆがめ合って哄笑に移るのである。 「貴様さえよかったら、よそで一杯やってもいいが」 「止めとこう。どうせ、息子の教育にならんことだろう。第一、女房が餓えている」 「そうか。で、例の奴は、いくら要る ? 」 「千円あればしばらく足る」 鹿島はふらふらと立上った。戻ってきて、 「じゃ、千円。 と私の前に抛り出すのである。私は黙ってポケットの中にねじこんだ。 「では、帰る」 1 訂 ばっさ

3. リツ子・その愛

受けた障子の蔭にかくれて、下の方からそっと裾をめくっているそのふくらはぎの辺り、青白く たるんで見えた。 リッ子の脚気は、今にはじまったことではない。脚気というよりも、何処か虚弱な体質の、そ れが早くからの、一つの徴候であるように思われた。 しやくじい 石神井の新居にはじめて家を持った時にも、二階の書斎に上る階段を、大層に難儀がった。 私は生来、父母何れの側からも、並はずれて健康の家系に生れついているせいか、ついぞ虚弱 者を身辺に見たためしがない。 愛「ああ、きつうーーー . 」 の と階段の中程に立ちとどまる妻の体が、無性に珍らしいのである。五尺三四寸もある大柄で、 にお 白い脂肪の層の仄うような軟かい物腰が、階段の中途に立止るから、面白い。弱いどころではな げんわくたた ッい。私達男より三倍も四倍も豊富な生命の眩惑を湛えているようで、一途に私の逆上を誘うほど だった。だから弱いのだとは気がっかす、気がついても腑におちず、こんなふうなのが、そもそ も女なのだ、と思いこんで終っていた。 後ろからリッ子を追ってパタバタとその階段を上ってゆく。 「ヨイショ、ヨイショ」 とその尻を戯れに押すのである。 「いや 1 。いや 1 」 とリッ子は、いつも階段の途中にしやがみこんで終う。すると大抵、私の狂暴な、突発的な愛 撫に終るのがならわしのようだった。

4. リツ子・その愛

と声をあげている。ョボョ玉の老婆で、こんな女が何かの用に立つのかと、部屋の中央の畳に 、リッ子の母の気が晴れれば済むのだろ 落ちるしきりな雨垂れを見つめながら、馬鹿馬鹿しいが きたなてのひらくぼ う、と念入りに交渉する。ようやく前金二百円で話がついた。穢い掌の窪に紙幣を重ねて、繰 り返し数えては拝むふうだった。手伝いは長くて、二十日間の約束である。 「今日から来てくれる ? 「今日はあなた、こげな雨じゃー」 とぶつぶつロごもるようだから、面倒でも明朝もう一度迎えに来ることにした。 愛私は家に帰りついて、リッ子に実清のままを話してきかせた。 の 「何も役には立たないぞ。あれじゃ 1 」 そ 「いいのよ。人が居てさえくれれば母の気が済むのですよ。役に立たないといったって、私が頼 子 めば、コツ。フの水ぐらいは汲んで来てくれるでしよう ? 」 「まあ、その位のもんだ」 「それで結構。私も気が楽です。お母さんはね、気が向かないと、水一杯持ってきてくれないこ とがあるんですもの」 「どうして ? 」 「意地つばりなのよ。いい時は、おかしいくらい大事にしてくれるのに」 もやもやと暖かい春の夜の雨だった。雨のせいか珍らしく警報も何もない。燈下に横たわる妻 と、こうして静かに語り合うているのは結婚以来、何度目ぐらいのことだろう ? 支那の話など 語って聞かせてやりたいと思ったが、 リッ子に興のありそうな話は何一つ思い出さぬのには自分 106

5. リツ子・その愛

リッ子は浮かされたように、太郎の顔に頬ずりをしたり、繊い指先で撫でてみたりしながら、 とりとめもなく、そんなことを云っていたが、いつのまにか泣いていた。 出発はいっとはっきりわからなかった。しかし今日明日にも軍から通告があるかも知れない、 と連絡の社の網野君が知らせに来た。 しゅうそん 同行は土屋文明氏、加藤楸邨氏、上田広氏の四人になりそうだ、と云っている。出発前に、是 非とも一度は佐藤春夫先生のお宅までお別れの言上にまかりでておきたかった。梅雨がなかなか 愛晴れきらぬのである。 あいに、 の 旅の服装が整わないとリッ子はしきりに気を揉んでいる。生憎、私は国民服も編上靴も持ち合 そ せがなかった。 子 「亡くなったお父さまの日露戦争の時の将校服が残っている筈ですし、弟の編上靴を借りていら っしゃい。すぐ電報を打ってみましよう」戦争のさなかの旅立ち故に心さわぐのである。あわた だしくあちこちに電報した。くわしい書簡は一さい禁じられている。けれどようやく晴れ間をみ て、リッ子と太郎を伴って関口台町の佐藤先生のお宅に伺った。 べにがら しつくい 紅殻を流しこんだ部厚い漆喰の土塀の上に、相変らず蔦が青かった。門をくぐって、しばらく ぶざま 閑寂の小前庭の風情をよろこぶのである。鉢の水に夏の虫が泳いでいた。藤棚の下蔭が不態に掘 たてあな りかえされて、形はかりの竪穴防空壕が急造されてある。ガチャリと扉が開いて、 「まあま、檀さんですよ。令夫人と坊ちゃんと御一緒」 「上ったらいいねー ほそ

6. リツ子・その愛

やくしやになってゆく。 濡れ煙草を遠く撼り棄てて、それでも瞬時の幸福に酔うのである。 家屋というものが、一体どれ位有難いものか。濡れ服の体を運びこむ。兵隊は寄せ集めた焚火 をかこんで、先ず上衣を取り次に。ハンドをはずして、ズボンを巻脚絆のところ迄まくりおろし、 肌につくシャッとズボンを乾かすのである。 も・つも・フ みんな濡れたシャツから立上る、濛々たる蒸気にむれ、頬を真赤に染めて、うんうんと、生命 を乾しあげる。けれども一時間で全部は乾かない。反対に一歩行軍を始めれば、三十分にして、 も ~ 、あみ 愛再び元の木阿弥の濡れ鼠である。元の木阿弥になることはわかっていても、休止のたびに必ず乾 そ コロリと藁の上に横になる。うつらうつらとする。うつらうつらとしながら、しみじみ家とい 子 うものの有難さを思ってゆく。どしゃ降りの雨がしぶいている。壁は崩れおちて、雨洩れがはげ しいが、それでも家だ。 「どんな連中が棲んでいたろうね ? 」 と愚にもっかぬ感傷を隣の兵隊に洩らしている。まだ祭壇が残り、香立と赤い対聯が見えてい るのである。 「さあーーー」 と兵隊は眠ったような返辞である。 「逃げたのでしよう ? 」 「逃けたでしよう」 ついれん

7. リツ子・その愛

176 ある。 「いいよ。よりかかって休まないと、後でこたえるぞ - 私が云うと、リッ子はカなさそうに、眼をつむる。時間が遅いのに、相変らず腹の立つような 混雑ぶりだった。 ぎわ おごおり 月郡で降りる。リッ子が降り際に、一つよろけるようだった。電車に酔ったのか ? ちょっと 空を見る、深呼吸でもするふうで、今度はあわててハンケチでロをおさえた。それから外し、臆 したように、自分で、そっとそのハンケチをのぞきこんでいる。ホ 1 ムの上の街燈は暗かった。 愛が、やつばり黒い血がハンケチの上を匐うていた。 だざい の 「何だ。気にするな。太宰などしよっ中だぞ」 そ 叱るように、低く、声をはげまして云うのである。首の太郎は眠っているから、私の上でガク 子 リと横にのめりおちそうになる。 私は改札口を出て、木蔭の所にリッ子をかがませた。昨日預けておいたリャカーを取ってき て、三枚の座蒲団を按配し、太郎とリッ子をその上に寝せつけた。 少しの我慢だ」 「大丈夫か ? リャカーを曳く。重心が前によっていて馬鹿に重いが、位置を変えさせるのは面倒だった。 れより医者をどうしよう、としみじみ田舎の心細さを味わうのである。 それに今日はついたばかりだ。ついた夜から母に喀血の状況を知らせるのはさすがに嫌だっ た。闇夜の田圃道に、かわずの声ばかり潮のように、ひろがっている。 宝満川にさしかかった。長い橋である。ここが半道た、と私はリャカ ] の手を握ったまましば たんぽ

8. リツ子・その愛

いるという意志の、盲目の昏さにのめりこんで終ったような自分のあわれを感じつつ、輪形に自 く打寄せてくる真下の波の模様を眺めおろしていた。 「ダンナサマ 1 と下から松枝の声がする。私は太郎を負うて、その勾配の険しい石段を降りていった。 「済んだ ? 「はい」 とリッ子がさすがに嬉しそうに云って、 愛「ほ 1 ら」 の 泥つきの大根を二本握って見せている。 そ 「早速晩のおにいいでしよう」 馬車が又動きはじめると、後ろから十二三の少年が走ってきた。 「お乗り、さあお乗り」 としきりにリッ子は云っている。やつばり知合いの家ででもあったのか、と私は別段怪しまな かった。少年は直ぐリッ子の脇に飛び乗ると、ちょっと私の方を眺めなおした。 かおなじみ 人見知りするわけではないが、私は余り顔馴染でない者と同伴したりするのは好きではない。 それが少年であろうと何であろうと、同じことだ。だから、黙った。少年も私に対しては気ます そうだった。 それでもリッ子と土地の方言でしきりに喋り合っている。こらえてた小便を済ませてしまって 気分が爽快になったのか、それとも幼時を過した汀の辺りにたどりついたとなっかしいのか。少 くら

9. リツ子・その愛

137 なぎさ 一夜は、その渚で明かし、庭に爆弾が落ちているというので次の夜は漁師の家にとめてもらっ てごろ寝をし、食事も米をかりて、炊いた話。 「もう、えずうして、と云っておばあさんは荷物も持たないで、翌朝渚からまっすぐ、自分の家 に帰っていって終いましたのよ 「じゃ、何の役にも立たなかったね。でも、よかった。有難い。みんな助かってーーー・。家が焼け 残ったのは不思議たな」 「ほら庭の岩をおはずしになったでしよう。丁度あそこのところへ大きな不発弾が落ちてきて、 なわ 愛みんな大型爆弾だと云って騒ぎ、この家にも繩を張って近寄らせませんでしたが、焼夷弾の何十 の 本か詰っている大型のものだそうでした。昨日ようやく警察が運び出してくれたのですよ」 そ 「運がいいね。そいつが空ではじけていたら、この家は確実に燃えていた」 子 「あの岩を、あなたがはずしておいて下さらなかったら、岩に当って、きっとはじけていました のよ。お母さんが欟神様と人に会う度に話してまわっているのです」 嬉しそうにリッ子の声がうわずっている。私は苦笑した。リッ子だけが大まじめである。けれ どもその頬が赤く発熱の様相を呈していた。 「体の方は大丈夫 ? 」 「ええ、ちっとも。汀まで半分走るように行ったのですよ。でも何ともありませんー 気が立っているようだった。昂奮が醒めきれずに、体のことを忘れている。ばかにお喋りにな ったのに気がついた。打明けるのが私だけなのだろう。 私に話したいと待ちに待っていたに違いない。かえって私が励まされているあんはいた。 しやペ

10. リツ子・その愛

「夏の花木を入れるのを忘れたものですから、百日紅まで、今がなにも無くて淋しいけどね。春 はそれは、それは と母は晴れた明るい庭をつくづく見て、 「先す梅でしよう。この梅もお蔭でついて、少しでしたが咲きました」 真中に据えた梅の巨木である。 びやくれん 「表の紅梅が美しくてね。それから桃、スオウ、コゴメ、白蓮でしよう。石楠花がまた美しくて ね。どうして来ませんでした ? たびたび 愛春のはじめに、度々庭を見に帰って来いと母の便りが来ていたのである。 の 「帰りたかったが、四五月は仕事が忙しかったのでー さなえ それから妹の早苗の結婚の話に移っていった。実は私の友人の島村が家族同様に、家に来てい て、そんな話がはじまっているのである。 「今ね、私も迷い迷っているのですよ。結婚させて、まあ養子みたいに、二人、この家にいても らおうかとも考えるのですが 「いいじゃないですか。それが一番よろしいねー 「じゃね、はっきり本人たちの気持を聞いて頂戴よ。一雄さんがいる間に話だけでも決めておき たいから」 「すると今晩ということになりますよ。島村を下宿から呼んどいたらいい」 「そうしてもらうとありがたいけど」 梅の木の根元のあたりにうつろがあるらしく、さきほどからその穴のロを小鳥が出たり入った さるすべり しやくなげ