304 「女房にはなりまっせん。たよりにならん。遊ぶだけ。遊ぶだけでも危つかしい。強盗ゃな、 と ? 」 そう云いくすくす笑って、その言葉が馬鹿に気に入ったのか、もう一度、 「ほんとに、強盗ゃないと ? 」 おいはぎ 「まあ、そんなもんだ。追剥だ。今朝方盗み取った大切の首飾りを置き忘れた」 。百飾りを ? 」 「へえ 「鹿島を知っとるか ? 鹿島組の ? 」 愛「ええ、鹿ノ子姉さんの鹿島さん ? 」 の 「知っとるなら、そう云いなさい。首飾りの追剥は、ここに現れた、と」 そ 「電話掛けようか、鹿島さんに」 子 「いやいい、この次に云うたらいい」 あんまり寒い、と美代福が障子を閉めた。 「うちぞくぞくする。風邪ひいたとやなかろうか ? 」 「飲んだらいい」 「うち減多に飲まんとよ。今日、飲もうか ? 」 ひたいわ 盃にハンケチを当てて含むように飲んでいる。その額際がいじらしい程弱々しく白かった。 いがすぐ顔にまだらに出た。ふーとやるせない息を吐いている。 「きっー い」と机にしなだれ寄ってきた。 「寝たらいい。帰るか ? 」
240 「静ちゃん、見えんけん。黙って上りこんどるとよ。御免ね」 どうしよう ? 黙って。ひょこっとおいでなさしたりして」 「まあ しゅうち 喜悦と羞恥の感動が少女の面の上に水のように明瞭に波立った。私は驚くのである。 「こちらは、主人。よろしくね、静ちゃん」 いいとえ。どうしよう ? 」 「手紙など、やっときなさしゃ 身もたえるふうに私へ向ってお辞儀をした。こんな少女があるのか、と私は走り出てきた太郎 を捉えて、何故ともなく深く頭を垂れた。 愛「こちらは坊っちゃんだすな。ほんとうに、どうしよう ? 」 の と一つしょ一つを云っている。 まだ、。 「昨日から樋の崩れて、水汲みだすと。折角来なさしたとに、留守やらして。おばあちゃんのど 子 けんたまがりまっしようか。早う上ってつかわっせえな」 「もういいとよ。静ちゃん。何も構わんどいて。こちらへ越してきましたから、ちょっと挨拶に 寄っただけ , 「疎開だすな ? 何処へおいでなさした ? 」 「小田の浜よ」 「まあ、ここの浜へ ? 嬉しさ。おばあちゃんが。ああ、ああ。早う帰って来りやいいとえ。喜 ほんとうに」 びますが、ど一つしよう ? ゅ 静子は、桶から戸口のあたりへ、往きっ戻りつした。手足が顫えている。喜びに、困惑しきっ た顔たった。 とら ふる
が、ひょっとしたら、糸島の今度の生活でリッ子を失うかもしれないぞ 「おい。 リッ子。大丈夫か ? 」 「ええ、何ともありません。ねえ、太郎」 物思いの中から浮び出すふうに、リッ子はあわてて私の方をふりかえり、稀薄な徴笑に移っ ゆく。思いがけない母の声で、太郎が嬉しそうに両手をばたっかせた。 「そう。それはいい」 しわ 私は馬車に揺られながら、波がしらの皺の模様を見つめている。まだ、手にとれるような悲 ~ 〔 の実感からは遠かった。 漠然と、リッ子の下降してゆく体力の行末のホリゾントを思うわけである。その模糊とわび 1 いホリゾントの方へ、馬車はおもむろに揺れてゆくふうだった。 ごうごう 生の松原から今宿。今宿から右に折れて、何の鉱石を掘りだすのか、切落された岩山に轟々し 岩石をえぐる音が聞えてきた。 とっさ 咄嗟にリッ子が両手で耳を蔽っている。太郎も母に真似て、同じように耳を蔽った。 「馬鹿。轟々おもしろい、おもしろい」 と私は太郎の小さい手を耳許から無理にひきはなすのである。 そこから入江の首にかかった長い橋を渡っていった。潮の中に向う岸と、こちらの岸から石」 おびただ の突堤がっき出ている。橋はその中央に架けられているわけで、夥しい貧寒な少女の群が、 の石垣の牡蠣を剥ぎ取っていた。 みぎわ やがて大原を過ぎる頃から文字通り汀の道にさしかかった。左手は丘陵、右手は一二丈の崖 (
肌の温かさを縁どる麻の寝巻の冷やかな手ざわりが、愛撫の瞬間の陶酔を、とめどなく不安なも のにする。 「支那の幽霊はね、煙のなかを走るのだよ。塀の蔭にそって走るのだよ。俺が死んだら、上海あ たりまでは堤防の蔭にそって走ってくるけど、しかし、海は渡れんな。戸惑うね。おまえのとこ ろまでは帰ってこれん」 「お船の蔭は ? 」 「船の蔭か。いや、あんなものに附いて走るのは面倒くさい。東支那海の真中あたりで、離れて 愛しまう。それの方がよっぽど楽さ。キラキラ、サラサラの波の蔭にあっちに浮び、こっちに浮 の び、ぼんやりと仰向けになって、空を見ながら浮んどこう」 そ 陶酔の果のうつろな眼で、リッ子はあてどもなく天井の辺りを見つめていたが、 子 「いいことよ。ねえ、太郎。意地悪のお父さまなんか、もう知らない。太郎と私は、ねえ、お父 さま。ゆらりと三日月さまにまたがります。甘いい空気がいつばいに吸えるのよ。いいでしょ う。三日月さまはぶらんこのようにお空のなかをゆれて飛ぶのよ。するとほら と甘いいを方言のままに長くひつばって、くすくす笑いながら、ぐっすり眠っている太郎の頭 を一つ撫でると、 「ねえ、太郎。ほら、下の真黒い海の真中に、幽霊のお父さまが浮んでいる。波の蔭でぶるぶる ふるえていらっしやる。可哀想、可哀想。ねえ、太郎。あんまりお可哀想だから、ちょーんとひ とっ掬ってあげようか。やめようか。お紐でぶら下げてあげようか。でも、意地悪お父さまは、 カンダタのようにド。フ 1 ンとまた海のなかに落してしまおうか」 ふち ひも
123 「書籍は残りましたか ? 」 「みんな焼きました。親父の迄」 ばっ・、い それでまた、ポツンと言葉はと切れる。傾きかけた陽に大小の木杭や、煉瓦の焼け残りの壁が ひ 長い影を曳いていた。 まや 「奥さん、真矢さん達、お元気 ? 」 「ああ、有難う。元気です。あなたは、いっ帰ったの、支那から ? 「十日ばかり前でした 愛「僕も、ついて行きたかった、な、支那に。檀さん。何処迄行きました ? の 「柳州です」 そ 「広西省の ? 」 子 「ええ」 「すぐ、雲南ですね ? 」 「ええ」 うらや 「そいつは、素晴らしい。羨ましい、な」 「山はね、山は素晴らしかったですよ。鍾乳岩を切立てたような山なんです。死体がごろごろし ておりました」 「何処へでもいい。飛び出したいな、僕も。もう一度、連れていって下さいよ」 脱出を願う、切実の声が、重く響いた。 「カロンスは ? 」 れんが
コートは東京の質屋で、手違いから私が流してしまっている。むっとする。つまらぬことを云 うやつだ。といつもの通り誰にとも知れぬいきどおりがこみあげたが、 「無しでいいさ。暖かいじゃないか 「ええ、ええ」 とリッ子は私の気配に脅えながらたんねんに化粧をした。 ぜいじャく 海波からの朝陽の乱射を浴びて、そのリッ子の化粧の顔が、荒い風波にもまれるように、脆弱 愛「癒る迄は、頭など坊主のように剃ったがいい、 の そう云って、先日リッ子の髪を短く切落してやったから、どうにも結びとれぬようたった。な ふびん そ るほどこんな時には困りものた、と私は、そっとその不憫を感じるのである。 子 ようやく支度が終ってから、リッ子は私を見上げながら、 「あなたこそ、今日は、もう少し御立派な服装になさらない ? 」 「無いしゃないか、これでいい」 「藍の大島は ? 」 「も一つ、しし 支那を一年の間廻ってからというものは、実際自分の服装など、面倒なことは嫌たった。それ に太郎をどうせ途中で負わねばならぬたろう。国民服に限るのである。 松枝に後を頼んで、連れ立って戸外に出た。 「もうから、歩きのありよりますな ? 」 235 だ。
かい、ト / 、 十月の半ば頃から、時候のせいか、いくらか熱は下っている。然し恢復の方へ向っているとは 限らなかった。リッ子は熱の高下で一喜一憂をくりかえしているが、これを一二ヶ月のトータル で計算してみれば、リッ子の生命が必ずしも上昇しているとは思えない。いや、確実に徐々にで はあるが、体力は下降の線をたどっている。 それをあらわに言出しにくい。一時の気休めでも、慰撫と激励はしたかった。 「今日ね、親戚廻りをしましようか ? 「大丈夫か ? 」 愛「ええ、一度挨拶だけは済ましとかないと、早速食糧なんか、困るでしよう。それに、みんなの の 機嫌をそこなうと・・ : : 」 ふぜい そ それは、そうだ。私一人では、皆目敵地に乗りこんだ風情である。それに初めから病人を連れ 子 てきたと思われるのは、私も嫌たった。近所へも、一目だけでよいから、リッ子の通常の姿を見 せておきたかった。いや、誇示してみたかった。その後からゆっくり寝せて、間われれば、風邪 をこじらしたとでも云えば済む。 「じゃ、廻るか ? 」 「ええ、一二軒ー 朝食の後に、一時間だけは休養させて、それから支度にとりかかった。リッ子は昨日のモンペ を着ようとする。 「なるべく、いい着物が良いぞ , 「でも、防寒コートも、襟巻もありませんもの」
230 井戸端ではもう松枝が炊事に余念のないふうだった。流しの脇に一人中かがみで忙がしそうに ( タついている。私は後ろからその大きい尻を眺めながら、 「ここ気に入った ? 」 「ええ、良かとこですばい」 松枝があわててふりかえって肯くから、私も、この村への静かな帰依を保証されたようだっ リッ子は眠っているだろうか、とそっと二階に上ってみた。が、泣いている。 愛「どうした ? 何かあったのー の 「いいえ、さっきの子供ね ? 」 そ 誰だったろう ? とちょっと私は思いおこせなかったが、ああ、あの少年かと気がついて、 子 「馬車を追いかけてきた少年か ? 」 「ええあの子供ね、お父様。少し変態よ。ここへ坐っていると思って、ちょっとうとうとしてい たら、お蒲団の中に入りこんできて : : : 」 「早く帰さないからさ」 「おかえり、おかえり、と何度も云ったのよ。お藷が食べたいのだと思って、そのままほっとい たら、私が眠っているお蒲団の中にいつのまにかはいりこんで、私に抱きついてきたりして」 私もちょっと意外だった。が、どんな貌附の少年だったか、それは思いおこせない。妙に機敏 にちょろちょろと小走りする少年のようだった。その前かがみで走るふうの体の恰好だけが眼に とが 浮んだ。まだ、肉感も何も伴わぬ、トンゴ柿とでもいったように頭が尖って、何かを嗅ぎあさる た。 かおっき
「今頃、家があるかな ? 疎開で大変だぞー 「お部屋ならきっとありましよう。前のように、お家一軒はとても見附からないかも知れないけ ど」 「お母さんのいる草場という処と、どの位離れているの ? 」 「いえ、すぐ側ですよ。唐泊から一里も無いでしよう。裏の山の中ですから」 「食糧の方は大丈夫 ? 」 愛「ええ、ええ。それで思いついたのですもの。あそこはね、お魚が生きたままですよ。鯛やら、 の鰰やら。買わんでもねお父様、網で曳いたのを、三人分ぐらい、笊さえ持ってゆけば、投げて分 けてくれますよ」 子 「ほんとうか ? 」 「私ね、小さい時、いつも籠一杯もらってきて、悪くなるほど沢山ありました。それから、草場 のお母さんも、あんなことを云っても、行けば喜んで、きっと面倒を見てくれますよ。きっと、 お米なんか持ってきます。こちらのお母様にお縋りしているから、やき餅で今はあんな意地を張 ってるんですよ」 或はそうか、と私も思い直すのである。それに唐泊や西の浦は何か因縁の地にも思えてくる。 そんな適当の家があれば、いって見たい気持もあった。然し、ふっと暗い予感もした。部屋借り しかないとすると、病人を連れこんで、それを黙過する、田舎の家があるだろうか。それに自 たびと 分の身辺が、旅人の悲痛な生涯と、次第に酷似してきたことに気がついた。リッ子を失うなら 218 た ざる
「まあ , ーー・、飲みなさしたが、坊っちゃんな。一杯、二杯、ねえ、キ = ーツと」 太郎がその静子の顔を見上げながら、相好を崩して肯いた。 「さあ、上ってつかわっせえや。穢のうして、何事も無いとだすが。ねえ、坊っちゃん。お藷だ けはありますとよー そう云い、土間つづきの部屋の障子を開け放って長火鉢を引きよせた。 - 「早う、上って下さっせん」 「いいとよ、も一つ、うちは」 愛「まあ、困りますが。そげなところに坐って貰うたら。奥様 , の と急に奥様に変ったのは、私への顧慮のようだった。リッ子は先程のように上り框に腰を下ろ そ している。私は土間に立ったままだった。 子 静子が全く当惑し切った顔である。太郎一人チョロチョロとその火鉢の脇に上っていった。 「手土産も持たずに、上られんとよ。静ちゃん。御免ね」 なる程、何によらす心づくしの手土産を携えて来るのを忘れていた。リッ子は貧窮の我家を考 えた上で止めたのだろうが、私は、全く思いっかなかったことである。 「まあ、お土産やら、恥かしさ。そげなものがいただかれますもんか。 恥かしさとは、何の意味の表現だろう。この土地の云いならわしか。しばらく、不思議な云い 廻しに私は驚いた。けれどもその言葉のふしぶしが、素朴な感動のまま、きびきびと私の心に伝 わった。 「ちょっと上らせていただきましようか ? てみやげ