「でも、もう先生。はっきりと決めたことだあす」 私は信じなかった。いや信じてもそれをつき破らねばならないと、胸がふるえ上ってくるよう 。こっこ 0 もどかしいままに、しかし何の手たてもかなわないのである。ただ、狂暴にわめいてみたかっ 「駄目です。神様でも、そんなことを許しやしない」 私は逆に山の方へ歩きはじめた。静子は立止っている。 死 「太郎。お姉ちゃんを呼び」 そ「お姉ちゃん。お姉ちゃーん」 静子がしばらく答えないからか、太郎も恐怖に駆られるようで大声を上げはじめた。 「はい。太郎ちゃん。もう帰りまっしよう」 「駄目です。太郎のお母さんになってくれるとはっきり云ってくれるまで、お姉ちゃんを連れて ゆく。ねえ、太郎」 「うん、うん」 こうふん と太郎が肩の上で昻奮するようだった。 「お姉ちゃん、お姉ちゃーん」 静子が歩みよらないからだろう、太郎は歸ぶって泣きはじめるのである。 「あら、泣きなさすと。いけまっせんが。困りますが。じゃ、お姉ちゃんが、しばらくおんぶし
「まあ、よかにおい。何処へ行ってきなさした ? 「お山、ねえ」 太郎が私の顔を呼ぶようだから、 「薪取りでした。明日又福岡に廻るので」 「先生ですと ? うなす 私が一つ肯くと、 「しや、太郎ちゃんまた来るね。明日お餅が出来るとよ。草のお餅が」 死 「しよっちゅうお餅のようですね。今度は何の餅 ? 」 の そ静子は頬を染めながらしばらくためらうようだったが、 やくばら 子「年違えですたい。私十九。檀さんも三十五でつしよう。年が悪いけん厄払いに搗こうとおばあ ちゃんの云いますとたいー 「私のも ? 」 と驚いこ。静子は黙って肯いている。 ありがた 「有難いけど、私のなんかはりませんよ」 「でもおばあちゃんがつけと云いますと。一つずつ年よりふやして搗きますとたい。喰べよう ね、お餅を。太郎ちゃん」 太郎が嬉しそうに肯いた 「明日は来るね ? お姉ちゃんとこへー っ
し杉の蔭まで後返って、 「太郎、黙っとくとよ、静子姉ちゃんをびつくりさせるのだから」 「うん、うん」と太郎が嬉しそうにうなずいている。 流れを飛んで森の横から土堤の後ろに抜けてでた。薪を置き、太郎を抱えて、跣足になり、そ れから、 「ワッ」と太郎を静子の肩におぶらせた。 驚いて跳ねあがるのである。 死 「まあ、たまがらせなさすと。太郎ちゃんは」 の そそのまま私を見て真赤になっていた。 子「何をしてるの ? 」 「蓬取りですたい」 鬢の髪がほっれ下っている。 「蓬で何を作るの ? 」 もち 「お餅よ、太郎ちゃん」 と云って静子は小刀と籠をおき、太郎をしつかりと抱き上げた。 「まあ、きれいなレンゲ。お母さんに持ってゆきなさすと ? 」 「うん、、 ( にお土産」 と太郎がゲンゲの花東を静子の鼻に押えつけるのである。 びん みやげ か・こ
思いがけず太郎が眼を醒したようだった。 「あら、・・ー・太郎ちゃん。おっきしなさしたと。寒うは無いとだすな ? 」 「ここ、どこ ? お姉ちゃん」 「峠だすたい。もう夜になりましたとだすよ。今日はお姉ちゃんのお家に行きま「しようか ? 」 「うん、うん」 死と太郎は肯いたが、いぶかしそうに闇の中を見つめていた。 の「まあ、可哀想にだすな」 そ 静子は肩から前に抱えとると、太郎に何度も頬ずりをくりかえしている。 子 「お母様が、きっと見てありますよ。天から」 と太郎は空を見上げたが、それからそっと私の方に手をさしのべた。 「よし、おいで」 私は太郎を静子から受取った。 「負いなさる ? 「ああ、負わせて下さい」 静子が太郎を私の背に抱え上げている。自分のコートと羽織をその上から覆ってくれた。 期「駄目ですよ。静子さん。よその結納を受けたりしては」 おお
くる。 太郎ちゃん」 「どうもしまっせんばい、 と下のおばさんが顔を上げた。 「そう、太郎のせてあげようか、牛モーに」 私が抱えあげると、 「いや、いや。牛モーえずい」 と私の首筋にしつかりりつくのである。 「こわいことがあるもんか、牛モーは静子お姉ちゃんよりえずうないぞ」 の そ私は無理に太郎を両手に抱えあげて、牛の裸の背に押えつけるのである。五月蠅いのであろ たび 子う。牛が後足で左に廻ったり右に廻ったりする。太郎の小さい腰がその度にぐらぐらとゆすれる のである。 「えずー 、。静子姉ちゃんより、えずーい」 と太郎は泣き出しそうな大声をはりあげるので、私は自分が云うた思いがけない言葉に自分で 驚くのである。 「檀さーん。ちょっと」 井戸端の所で、リッ子の母が呼んでいる。私は笑いながら、太郎を抱えおろして、何だろうか と寄っていった。リッ子の母は辺りを憚るような目付をする。それから急に眼の辺りをくしやく しやにさせたかと思うと、泣きはじめた。 カカ うるさ
っていた。 「可也さーん」 と静子が大声を挙げて呼んでいる。みんないぶかしげにこちらを見たが、可也君は気を付けの あぜみち 姿勢をして、その遠さのまま戦闘帽を脱ぎ、はっきりと礼をした。畔道に出迎えに立つのであ る。残った千鶴子が、真赤な着物の女の子の手をとって、まぶしげに私達を見た。 「この間は、御無礼しました」 「いいア、色んなものを戴いたりして」 「北崎さん、ちょっと前に知らせてやっときなさしゃいいとえ」 の そと可也君が静子に云う。 子「いや、突然でしたから」 私はそういって、ちょっと千鶴子を見た。千鶴子は時期を待っていたように、子供の頭を手で 押えながら、私の方に礼をした。美しく笑う。その笑顔が、泣いてでもゆくように素速く崩れる のは、私の気のせいか。静子が太郎の手をひいて千鶴子の方に寄っていった。 「千鶴ちゃん、ちょっとも見えなさっせんな。私んとこにも、時には寄んなさっせえや。あなた が見えんのでお婆ちゃんがきつう腹掻い ( 立腹 ) とりますと」 こころやす 年は六つばかり違うのに心易だてからだろう、静子は千鶴子をちゃん付で呼んでいた。 、つな十 千鶴子は黙ったままやるせなさそうに一つ二つ肯きながら、寄ってきた静子の肩に触れ、枯葉 を指で撫で落してやっている。落ちた後もその指の屈伸を、しばらく、静子の肩の上で繰り返し
「もう死んでもよか。いやーいやー」 「早く檀さん、呼んでおいでない。直ぐにですよ」 「直ぐ呼んで参りましよう」 ふすま リッ子の母は位きながら、病室に帰っていって、ビシャリと襖を閉めた。 た ・せん しきりな空腹が感じられる。私は膳の上の母の喰べさしの食器類を片附けて、太郎と二人、冷 ちゃ・つけく えた茶漬を喰うのである。 してすか」 死「太郎を置いていって、い : の「二人は見きらん。リ ッちゃんが危いとですよ」 そ と襖越しに声がした。静子のところは気がさしたし、よし、連れてゆこう、とお櫃の飯を竹の 子 皮の上に握りはじめるのである。前原まではまっすぐ歩いて山越しの二里だった。 「まあだな ? 」 と襖を開いて、もどかしそうに母が来た。 「そげん握り御飯をつくってどうするとな ? 「前原ですよ。二里ですよ」 「二里でも十里でも、御飯喰べずに 「太郎が、辛抱できません」 「タアちゃんには二つあればよかろうが。、 いくつだって、 しいじゃないですか ? 」 、くつ、つくるとな ? ひっ
「ポッポは ~ おじちゃん、ポッポは ? 」 太郎が老父の姿に、洗われたように蘇って、走りよった。 。ポッポな ? 坊ちゃん、今直ぐ持ってきますばい。鵞島だっしよう ? そうたい。 向うへおいでない。あっちい、おりますばい」 太郎がお父さんの後を追ったので、私も静子もそのまま太郎の後につづいていった。可也君が 気づかわしげに、私達を見送るのである。 ひだま 死裏木戸から横に抜けた。赤粘土の、膚の荒い土蔵の脇に、思いがけぬ日溜りがある。その日溜 おびた あひる のりの砂の中に、これはまた夥だしい鵞鳥と家鴨が、群をなして、羽を拇かせていた。 そ「ほら、ほら。居りましようが、坊っちゃん」 子 と老父は一羽を両脚から抱え取って、太郎に見せた。太郎は眼を丸くしているのである。 かきん けんそう ガアガアという家禽の一斉な喧騒にまぎれて、老父は有頂天のように飛び歩いた。 「卵産む ? 」 太郎が相も変らぬ質問を浴びせている。 「産みますばい。今、坊ちゃんに卵ば、山んごっいつばい、煮い煮い、しよりますばい」 こみち ごや しのだけ 長短の篠竹で編まれた家鴨小舎の脇から、ゆるい木杭の段のついた小径が、谷の方に降ってい 子ー 「北崎さん。嫁が、谷向うの畠に芋掘りい行っとりますたい。先生ば、あっちさ、気晴らしに案 内してみなさっせ。直ぐに、お茶ば用意しときますけん」
「お加減な、よござす ? 」 と静子が母の側に寄ってゆく。 「ああ、良いですよ。この二三日食慾のついてなあ 「まあ、よござしたなあーーー」 ちょうだい 「今日は良い海な。檀さんに海胆やら、あわびやらの居り場ば教えてやって頂戴ー 「まあ、おやすいことですが」 「お姉ちゃん、早く」 死 の と太郎の言葉に、静子は、 」と後がえった。 ・子可也君が牛のロを取りながら、帽子を脱いで、母の方に端然と礼をした。静子が、太郎の側に ゴロゴロと牛車がきしむ。太郎は牛の尾の旋回に気を奪われているのである。 乗ると一緒に、 ナンすると ? 」 「アレナーン ? あぶ しつな 「尻尾だすたい。虻やら紲やら追うとだすよ。可笑しゅうござっしようが、太郎ちゃん」 静子がしきりに笑っている。 しばらく私は牛車の脇を歩いていた。 「先生。お乗んなさっせえや」 きづか 気遣わしげに可也君が二度立ち止ったから、私も乗った。千鶴子が改まったようこ、 するのである。 ぐ私に礼を
113 と太郎が狂喜している。モーゼは泣き笑いの眼を酔いに皹かせながら、家禽の群と一緒に這ん ってきた。皿の豆を太郎にも与えて、それを鳥の周囲にばら撒いている。大変な暄騒だった。 太郎が鵞鳥につつかれて泣きはじめるのである。 「わあー、坊ちゃん。泣かんでちゃ、よか」 その鵞鳥の側に、老父はペッタリと転げ坐りながら、首をとらえて、抱きこんだ。 「ガアガア、ガアガア」 くちまね 死 鳥のロ真似をはじめて、老父は鳥のもがき出そうとする方向に太郎の前をころげまわった。可 の也君は、たまってその老父の姿を見守ったまま、まるで化石したようだった。 子 帰りは大変なお土産たった。リッ子の母から依頼されたままに静子が取次いでいた模様で、私 みそらけ は恥かしく断ってみたが、炭と味噌漬を静子が先ず背負子に負うた。私は太郎の手を曳いて、御 料理の貰い物を風呂敷に下げるのである。 「千鶴ちゃん。磯開きはきっとおいでなさっせえーや」 いつのまにか帰ってき、ていた、赤い着物の女の子と一緒に門口に立って、千鶴子は何度も低く 首を垂れた。斜陽が、そのうなしを白く顫わすのである。 老父はまた酔うていて万歳を繰りかえした。 「可也さんは ? 」 私は礼をのべようと思って見まわしたが、見当らなかった。 ふる しよいこ