リッ子に伝えたふうである。朝の掃除の時にリッ子が云う。 「どんな人でした。その酔っぱらいさんは ? 」 話を伝えきいて感謝しているようだ。 「まんまるい赭ら顔でね、年の頃一さあ六十位かな」 昨夜の人々の話の模様から、心に火葬場関係の者ではなかろうかと私は思「たが、リッ子に云 うのはためらわれた。リッ子は何度も繰りかえし私に聞いて、好意を寄せてくれたその男の想像 わすか をたのしむふうである。病気のつれづれ、僅に心が和んでいる様子だった。 死 「ああお父様」 の 思い当ったのか、とふりかえると、 ・そ 「昨晩ね、あれから静ちゃんが見えて、桜井のあの人からお礼に味噌を一貫匁いただきましたの 「ほう、可也さんから ? 」 「それからね。もっと、 しいものを戴いているんですって。静ちゃんが濡らして納屋に掛けたまま 持ってくるのを忘れたんですって。何だとお思いになる ? 「何」 「あてて御覧なさい」 「忘れたって ? 濡らして、納屋にかけたって ? 「ええ、ええ」 あか なや
右肩にして、すぐ家を出る。 「何をかついで来るの ? 背負子など持って」 「あら、炭でつしようもん ? 」 あか 静子の言葉に私は赧くなった。 リッ子の母が、もうねだっているのである。それにしても私が 言葉にする必要のないのが有難かった。静子が太郎を負うと云ってきかないから、私はその背負 子と太郎を換えた。 「太郎ちゃん P お弁当を沢山つくりましたとよ。そうやった。ュデ卵ば一つ上げようか ? 」 死「タマゴ ? タマゴ ? と太郎が有頂天になっている。静子は私が肩にした背負子の中の風呂敷包から一つ卵を取り出 して、半分むいてそれを太郎ににぎらせた。 子 一度谷に降り、せせらぎに添うて、道を上ってゆくのである。細いながら、水は落ちたり淀ん あらわ せんかん たり、顕れたり隠れたりしながら、その光の断続につれて潺湲の音は絶え間なかった。渓流のほ とりの芝に土筆が出さかっていた。 「喜びなさすがーー」 静子は何度もそれを繰りかえしている。私はむしろ恐縮しているのである。 「何か土産でも持ってくればよかったな」 「要りますもんか。そげなことをしなさしや、可也さんが却って困んなさすが」 静子の云うがままに従うよりほかに、今は何の手だてもない。谷を渡ってしきりに小鳥が啼い よど
一歩もあとへひこうとはしない。 「日本全体が、いつのまに弱いみじめな装飾の人情に溺れこんで終ったろう。戦争 ? 一体、何 が何を撃っというのだ ? 処世の人情に陥ちこんで終った種族に果して復仇があるか ? 理想が あるか ? 」 ( 『リッ子・その愛』一一 l) 「この金銭というたわけたしれ物が、人類の生活に迷いこんでぎたのは何時のことだ ? こいっ びまん じゅ要く しさい が瀰漫していって、今日では仔細らしく徳義の規準になり、呪纒になり、あきれはてた暴戌をふ 説るっている」 ( 『リッ子・その愛』四 ) 「道徳。何の為の道徳だ。人が完全に生きることを願う為の道徳ではないのか ? 」 ( 『リッ子・そ の死』八 ) そしてそういう意味では、欟さんの作品の本質は、おそらくすこしも変ってはいない。、 みぞう むしろ、その核心に燃えている修羅の火は、敗戦を間にはさんだ未曽有の変革期に際会して、 しれつ っそう熾烈の度を加えているように思われる。 ここで念のために付けくわえておくならば、保田氏のいわゆる「放埓」という表現は、むろん自 むくむけい たんや 棄的な逸脱を意味しているわけではない。その反対に、無垢で無稽な生命の指向を鍛冶し、育成 し、拡大していくこと、坂口安吾の表現を借りれば、「自分の一切を現在の偶然に賭けて所与の 限界を超えること」をこそ意味しているのである。 だから読者は、失われた愛と美へのたぐいまれな哀歌であることが即ちさわやかでみずみす さつか しい生命への讃歌でもあるようなこの名作から、この長大な時空を擦過する旅人としてのけざや お おは しま ふつきゅう
リッ子・その死 太郎のあんよは つめたいね。 ビンビンカラカラ 。ヒンカラカラカラ おやおやお手々も つめたいね。 ビンビンカラカラ ビンカラカラカラ 台終カラカラ 四十雀。 私は太郎のその冷たい足を両手でぬくめながら静かに歌って歩いていった。 しゃ 長い砂丘の一本道は誰とも会わなかった。何か人に新しい慰藉を恵みつづけてゆくような閑寂 な道たった。砂地の上に痩せた裸麦が伸びていた。もうこんなに伸びたのか、と一月ばかりの余 裕のない生活からとき放たれたような屈託なさも感じられる。また墾植とでも云うか、人間の可 憐な成果に久しぶりで逢い、その成果がキッチリと砂地の浜に風に吹かれている心地もした。 時折太郎が小便を催すので、首からおろして、急いで吊りズボンのボタンをはすしてやる。何 まぎわ 度も注意するのだがいつも間際になって「おしつこ」を云うのである。黒ラシャの厚い服地が堅 いので、脱衣させるのに骨が折れる。間に合わずにズボンを濡らして終うのである。 れん っ
「畑の邪魔ばして、とうとうみんな呼うで帰ってきましたと、御免なさっせえな、お父さん」 静子が笑って、こう云っている。お父さんは、静子の声に、野良帰りの皆んなを、まぶしそう に見上げたが、随分待っていたに相違ない。動作のなかに、待ちごらえの出来ぬ一途な性分が、 よく見えた。きっと、何度も立って、出迎えにかかオ冫 っここ相違ない。それを今までこらえて門ロ で繩をなっていたようだった。 「よかとじゃん。麦肥えやら何時でちや出来る。それよりみんな遅いことしやったなあ」 いとぐち ぶっちょう・つら 死繩目の緒口を持ったまま、おろおろと立ち上った。急に仏頂面で黙ってしまった可也君の表情 のをしきりに気兼ねするふうたった。 ごちそう そ 「何の御馳走にしまっしようか ? 」 子 そう云って、初め可也君の表情を伺うていた千鶴子は、やがてお父さんの顔も等分に見較べて 訊ねている。 「小豆と、。ヒース豆ば炊いといたが。三郎方にきいたばって、山鳥はなかげな」 「まあ、そげな心配が要りますもんか」 静子が恐縮して声をあげている。可也君のお父さんが、接待の準備に心を砕いていたとは、気 の毒たった。 もろ 「先生方に坐って貰うてからで、良かろうが」 ふきけん 可也君が初めて不機嫌にそう云った。 「そうたい。早う坐って貰わなあ」 っ
来たとです」 もうそう とっさ 口をつぐんだが、何か急に忌わしい妄想が浮んで来るのか、青年の表情に咄嗟な険悪な模様が あふ しんし 浮んできた。けれども話は真摯さが溢れているから、自然ときき手を誘い込むだけの力がこもる。 たび 「が、先生、この頃は真暗だすやなあ。神もへちまもなか。祭壇にぬかずく度に、かえって五体 ふる の顫うごとあります」 「ほう。神に裏切られたの ? 私は努めて低い声で、青年を刺戟しないように言葉をいぶした。 力し力、 の「私に兄貴が居りました。おっ母さんが十年前に死に、兄嫁が甲斐甲斐しく家計を見て、親爺と けいけん そ兄貴夫婦、その娘、それに私と五人、貧乏だすが敬虔な百姓だったといえまっしよう。その兄嫁 ならくすべ ッ と云って、突然奈落を滑るふうな思いきった表情に移ったが、 「親爺と姦淫ば働きましたやな。兄貴の出征中だすたい。兄貴は戦死しとります。公報がありま した」 私は次第に熱をおびてゆく青年が、この告白をしたかった為に、特に私を選んだのにちがいな と、ようやくそう思った。 おうのう が、何の故の懊悩だろう。兄嫁と父の不義を憎む私憤だろうか。或いはカトリック流の正義 観 ? 一応、兄の戦死で問題は解決していはしないか。どのような醜聞に聞えようが、私は一つ てんまっ ゅわ 一つの愛情が結えられ、ほぐれてゆく顛末に、何の他意も持ちたくない。生来道徳というもの かんいん
いつも、枕の下に敷いていた。掃除の度に私はその手垢によごれた木札を見て、つまらぬもの を与えてしまったと人間の弱さと昏迷をしきりに味気なく思っていたが、それが失くなったとは しわざ 不思議だった。失くなってしまってみると、私も何か不吉な悪の仕業ででもあるような嫌な予 感にゆすぶられる。 あちこちと紛れそうなところを探してみた。が、無い。太郎が持ち出す筈はなかった。この頃 リッ子の枕近く寄ってゆくことが全く無いからだ。するとリッ子の母か私が、あやまって棄てて しまったものとしか考えようはない。それにしても二人共、リッ子の木札に対する異常な信仰を 死知っているのだ。実際、不思議なことだった。 の そ 、私は医者にリッ子の余命三十日を云い渡された 子もう一つ。これも不思議なことであるが ッ日から、ひそかに病床の日記をつけていた。日記風に悟られるのは厭だったから、第一日をロー マ数字で入れた以外は、日附を入れず、中国で使ったノートの後ろの方に、全く小説風に書き記 ほと しておいた。ただ、一日と一日のくぎり目を、二行すつあけている。記入の余暇が殆んどなかっ たから、時々掃除のあとなどはリッ子の枕許でも書いていた。リッ子はうっすらと目をあけて、 「何していらっしやる ? 」 「ああ、小説」 「何という題 ? 」 なら これには困った。平素私は題の方を先につけて小説を書いてゆく慣わしであり、それをよくリ 142 こんめい いや
「知ってるのか ? 」 しばらく考えていたが、 、え」と打消した。戦死した兄嫁とまで私は云ったのだが、可也君の例の話をリッ子は忘れ て終った様子である。それとも、やつばり眠って聞かなかったのか。幸いである。今更語ってや る気はなかった。聞かせていいような話ではない。私は黙々と煙草を巻いていったが、 「あーあ」 とリッ子の吐息が洩れるのでちょっと見た。 の「起き上って、一度だけ煙草を巻いて上げてみたいー ・そ リッ子はそう云って、ほぐし終った煙草を新聞のまま、胸から畳にすべりおろした。 子翌朝は晴れていた。私は太郎を首にして急ぐのである。弁当を持参しないから、なるべく昼ま みかんやま ッ でには帰りたかった。それにしても静子はいるかしら、と蜜柑山の坂道にさしかかるところから 石垣の辺りを何度も見た。 「よう来んしやった、太郎ちゃん。今日はお見えになると待っとりました」 「どうして ? 」 「きのう、お宅のお婆ちゃまと会いました、と」 「ああ、草場のお母さんと」 かすり みじたく 静子は、すっかり身支度をととのえていた。やつばり絣のモンべで、よそ行きの服装というの ではなかったが、普段着なれているのとは違っていて甲斐甲斐しく、身に合っていた。背負子を しよいこ
すがすが 清々しく笑っている。 「実はあなたに、もう一ッ云いたいことがあったのですが」 と、私は冗談めかして、じっと静子をみつめたが、何故かしら、素速く静子の頬が、赤らんで いった。が、やがて鎮静の表情を取戻すと、 「リッ子さんのこと、みんな嘘でつしよう。たまがらせなさすと」 キラキラと、輝きがつのってゆくふうな眼の色だが、脅える不安の面持は消えなかった。 「可哀想だが、本当ですー 死私は思いきり、静子をおびやかしてみたい衝動にかりたてられるのである。 の 「もう二三日持ちますまい。だからこんなお野菜を戴いても、本当は何にもならないのです。お そ 母さんが自分で食べたくて、あなたにおねだりしたのでしよう」 子 「まあ、そげなー」 と、そう云って、熱くほてった顔に変ってゆく。私には、その機敏に移ってゆく感情と、肉体 の結び目がいつもながら美しいものに思われた。 「が、静子さん、未だ誰れにも云ってはいない。お母さんも知らないのです」 静子はほてった顔で、棒のように立ったままだった。何か云いたげに、ただブルプルと、しま うぶげ った唇が暫時ゆれただけである。薄い産毛がロの辺りに霧を帯びていた。 「お野菜はもう要らないが、通る度に寄ってみてだけは下さいね」 「ハア、お見舞しまっせなあこてーー」 たび
しばらく泣き、それから静子は黙ってしまった。肩の辺りが時々しやくり上げているだけだっ 私は虚脱した。なまめいた海風が、何度も吹きあげてきて、私の顔を吹きすぎるのがゆっくり と感じられた。 しかし、海にはもう光は無い。しぼんでしまった太古の陥没地帯のように、時折燐光のような 思いがけない光が波の形にチロめくだけである。 「あ、お母さんのようだすが」 死 静子が低く、声をあげた。なるほど、リッ子の母と姉のような話し声が向うの窪を上ってき の はす そた。可笑しい。こんな山越えをする筈のない人達だ。するとやつばりリッ子の野辺の煙をもう一 子度眺めに廻ったものに相違ない。この親達もあわれだ、とそこのところはにくめなかった。咄嗟 とら ツに静子の指が、私の服のポケットを捉えて曳くのである。 「御堂に 何故だ ? が、私は肯いて静子の後ろを追っていった。。 キイと扉の音が幽かに鳴った。黙る。 私は身をかくすようにして、故意に静子と太郎の方へ体をよせた。 やつばりリッ子の母と姉のようだった。私達には気づかない。その足音につれて、私は静子と 太郎をきつく抱えこむのである。 「あっちへやらるるもんか」 「でも檀さん承 するかしらフ もた かす りんこう とっさ