まも 2 よう。生みだされている以上は、心を洗って来源の声に、新しい快活の人生を積み上げたい。衛 こんりゅう り、戦うて、新しい自分の建立の上に乱舞してみたいのですよ。どれほどの私の生活が導き得る ゃぶうぐいす か。あわれであっても、毎朝が新しく待たれるのです。今日は、御蔭で、この谷に来て藪鶯 の声を聞きました。舌足りぬ幼ない啼きざまでしたが、あれでいい 。光を存分に浴びているでは ないですか。まぎれないで、自分の来由を正しく知るということは大層にむすかしい。天造の大 きな意志を自分に知り得るかどうか、果して、疑問です。でも、私なりに見えてくる世界を、 くても、一歩育てていって、生活にしてみたいような気がしきりにするのです」 すすりなき 死不意に歔欷の声がはじま「た。老父が葡萄酒に酔いきをはしめたようたった。葡萄酒の瓶を そかかえて、おいおい泣きながら、私のグラスにつぐ。 「先生。先生に裁いて貰わんならんことの、あるとだすやなあー」 子 とびら ッ老父は手放しで泣いたが、その先は続かなかった。突然扉を押してかけだしていった。可也君 き・つか は黙って千鶴子に眼くばせした。しかし、千鶴子はうなだれたまま動かない。静子が、気遣うふ やかま うに太郎と立上って、戸口のところまで、出ていったが、やがて、ガアガアと一斉に喧しい家鴨 の声がした。 がちょう まるで群集を引っれて海底を歩きわたってくるモーゼの姿のようだった。二十羽近い鵞鳥と家 鴨の群が、声を上げ羽搏きつつ、よろめきながら、老父の後ろについてきた。 「ほーら、坊っちゃん。ポッポたすやなあ」 あひる
リッ子・その死 「静ちゃんが迎えに見えるとでしよう ? 懍さん一緖についていって、海胆を取ってきておやり ないや」 「大丈夫ですか ? リッ子」 と私は喰べ物のことをいうとも、悪化の状况を憂うるともっかぬようなあいまいな問いをし 「食べたあーい」 とリッ子は、又眼を見開いて唇を顫わすのである。 母が言葉を足して、 「良いとですよ。精分のつくとですよ」 「よし。取ってきてあげよう」 と私はうなすいたが、静子との幸福を先にする後ろめたさでとまどった。 母は大福をタンスの上に置き、乂しばらく窓際に手をもたれて、海の方を眺めていた。 「まあ静ちゃんが、牛車に乗ってくさ : : : 」 そういって私とリッ子の方を等分に振り返った。なるほど、ガラガラと牛車の音だ。窓の方に 急いでゆくと、 「先生、居なさす ? 」 と、先ず静子のよく徹る声が上ってきた。 おん とお
さかすき と老父は云い足りなさそうにグラスを挙げた。私も盃を乾す。コメカミに浸み徹るほどの酸味 せいれつ ・こっこ。シェリーに似通うている。谷の清冽の味がしばらく喉を刺すふうたった。 ビースは甘く煮られていた。黒砂糖の味である。が、この葡萄酒には、よくかなった。 「先生。奥さんの御加減な、どうあります ? 」 しんし 可也君の真摯な表情に、 しいようですが : : : 」 「はあ、 死としばらく云い澱んだが、酔いから急に真実をぶちまけてみたい衝動にかられていった。 の「もう二十日はもちますまい」 そ 、、、、医師の宣言が真相か ? 私は言葉をすべらせていって、自分で脅えるのである。間違って おちい 子 いた。人生の放棄と頽から、投げやりな運命論に陥入るのは危険である。 私の声は、酔いにつれてちょっと顫えた。 「可也さん。おいしい葡萄酒をいただいて、すこしのぼせあがったのですが、私は、こう思う。 ぶき 私はキリストを知りません。仏陀も知らない。然し、私を生んだ来源の、大きな楽しいカの息吹 のようなものを感じますね。これが神かどうかは知らない。然し少くも邪悪な底意はないようで す。あくどい道化の役がふりあてられているとは思わない。たちの悪い計略が、この造物のある じの胸のなかにかくされているとは思いません。生涯を徒労のことだとも思わない。みじめでは ありますが、自分の足取をどんなに快活な歩調にも導き得るでしよう。とめどないといえば、と めどない。けれども、私はこの人生をむなしいこととは思いません。既に生みだされているでし 111 よど
「黒田先生 ? でももう良か。医者はいやいや。おていさんが一番よか」 りんご リッ子は甘えて、おていさんから林檎の汁を絞って、飲ませて貰っている。 「檀さん、檀さん。手紙ですばい」 と階段口に下のおばさんの声がした。何処からだろうか、と住所を誰冫 こも知らせていない私は 奇異な心地だった。 「なーん。ね ? 」 「手紙たそうだ」 死とリッ子に答えてやって、下のおばさんから受取った。黒田博士からである。私は喜んで、リ ッ子の枕許に運び、 そ 「ほら、黒田博士からだよ」 子 きせき リッ子も何か、奇蹟のような幸福を感じるのだろう。嬉しそうに黙って眠をつむった。急いで 封を切る。 あいにく 拝啓、お変りないことと存じます。拙宅にお越しになった由、生憎父の死に逢い、一月ばか り帰国いたしておりました。奥様の御病状いかがでしようか。早く伺いたいと思いつつも父 の死や、御存知のことと思いますが鹿島君の自殺に逢うたりして、取紛れて過しました。鹿 島君は誠に気の毒に存じました。或はあなたなど原因の御心当りがあったかも知れません ね。事業の方は好調だと聞いておりましたが、何しろ先代の事業の継続で、余り性分には合 210
とでした。よかったらもう一二度お目にかかりたい、先生の話を伺うと何か心の澄み徹るごとあ 、るが、と昨日も遅うまで、なあ、おばあちゃん」 老婆は声には出さす、相変らすいつもの笑顔で、その静子の声にゆっくりと肯いた。出まかせ のその場つくろいのこととて、どんなことを云ったろう、と昨日の青年との談合を思いおこしな がら、私は赤面してゆくのである。 っ 「ああ、ああ、そうだした。先生に煙草のお礼があっとりますが。納屋に吊るして、持ってゆく 死とば忘れて終いましたと」 の静子に先生と云われるのも、これまた、戸惑った。青年の言葉から反応したままに云うのたろ そ うが、くすぐったい。静子は洗い髪のしすくのしたたりを手拭に絞りながら、納屋の方に駈けた ひるがえ 子 した。素足の裏が。 ( タ。 ( タと白く飜ってゆく後ろ姿が殊更になまめいて見えるのである。帰って きて、 「あら、また乾いて終うとるが、先生」 黄ナ葉の大きい葉柄の東を二東持ってきた。 「海で沈められた船から浮んだとだすたい。浜の若い衆が小舟を漕ぎつけて拾うたとだすが、お 礼に大分配給のあった模様だす。潮気を洗いおとして、濡れたうちに拡げて、剪ると大層おいし 可也さんが自分で濡らしてみてくれましたとい、もうほら」 ゅうこざすげな 貰って手に取ると成程、いつのまにか。 ( サ。 ( サに乾いて終っている。どうしたわけたろう。納 ? そう思いながら、それでもうれしく、手 屋が何かの乾燥の為にでもっくられてでもいるのか てぬぐい とお
「可也さん、もう結構です」 な - 」うど 「そうだすな。もう一度お目にかかります。これからちょっと、仲人頼みに桜井ば廻ってきます ゃなあ」 そう云って、可也君は強いて送ろうとは云わなかった。太郎がいつのまにか静子の肩にうなだ れて眠って終っている。私は可也君から背負子を受取って、肩に負うた。 「先生。出来るか出来んか、まあ、やってみますやなあ」 死別れ際に可也君は、タ陽を浴びた逞しい青年の顔付で、そう云った。 の ここから、せせらぎに沿うて降るのである。静子はうつむいて終って、黙って歩いている。妙 せきりよう そ な寂が来た。 子 タベの山の風だった。こんな樹々の風を久しぶりに聞いたといぶかしいのである。然し、もや ッ もやと覚えのある春は、渓流沿いを匐うていた。 「気の毒ですね、可也さんとこ」 「ええ」 と肯いて静子は二三歩歩いたが、 「可也さんが、しつかり、切開きなさすが」 私を見て、はっきりとそう云った。咄嗟に私は、押えがたい静子へのきびしい思慕の心を意識 一」うま、 ぼうとく した。これが冒漬の人生か ? 私の背負子の紐を持つ手が、顫えてくるのである。勾配の山の道 せんかん に沿うせせらぎは点減し、緩急のある絶えまのない潺湲の声を立てていた。 115 とっさ ひも
「まあ、こげな : : : 」 と静子が立上ってあわてている。お父さんと千鶴子が、又大皿と重箱に馳走を積んで現れた。 「先生。山の中ば、何事も無いとたす。まあ、天なる父の思し召しで、とやこうのことだすたい」 老父の声は神の模様を口にかるとき、不思議なつやを帯びていた。可也君が、ちょっとまた、 聞きづらげに横を見た。 「どうも、大変な御迷惑をかけました」 私は面目なくなって、それたけ云った。私の前に可也君。可也君の左横に太郎、それから静 死子。静子の前に千鶴子。千鶴子から少しはなれて私。老父は食卓の右横に坐った。千鶴子の娘が 見えないのが、いぶかしかったが、何処かへ遊びにやったものだろう。 そ “ふどうしゅ 「先生。手づ くりの葡萄酒だすやなあ。まあ、天なる父の思し召しで : 子 老父は云いかけて、葡萄酒の瓶を差出したが、 ・こきとう 「御祈疇は、やめときない。先生は、信徒じゃ、なかが」 可也君の言葉は、少し私にも侭怙地に聞えた。 「そうたい。そうたい」 老父は柔和に肯いて、私のギャマンに葡萄酒を注ぐのである。透明だった。 「御粗末だす」 可也君が云う。 「そんなら」 110
「いいえ千鶴子さんだあす。兄さんのお嫁さんでしたが戦死なさしたとだす」 「ああ、姉さんと ? 」 しんかん しっ【う と私は震撼されて、青年との会話をいちいち執拗に思いかえしていった。するとどうなる ? ちまた 私はしばらく惑乱するのである。昨日の告白や、巻のを、静子は知らないのかフ 静子は元にかえって、またたんねんに煙草をほぐして ( ランの上に重ねていったが、 「先生の言葉で、はげましを受けた。もう決めたやなあ。と昨日も可也さんの云いよんなさした 死「僕の言葉でフ 私は、何を云ったろうと、思いおこせぬ自分の出まかせの言葉に脅えた。 「はい、側からすすめられて迷うてありましたが、昨日のタ、決心のつきなさした模様だす。 子 千鶴子さん、可也さんによう似合うた、そりやよかひとだす。美しゅうして、心の良うして、 まだ嫁入られん前から、月谷で評判の立っとりました。マリア様だすげな」 もうそう そうか、と私は自分の妄想があちこちに汚れゆがんで屈折していることに気がっき、何か救わ よみがえ れたように蘇るのである。 「静子さん。月谷というところカトリックの部落ですって ? ちょっと行ってみたいな」 「まあー」 , 行きなさす。可也さんが、そりや喜びなさすが」 「暇を見てね、リッ子のいい時に」 、え、すぐそこだすが。まあ 昨日も可也さんが、先生に一遍は月谷に来てもらいた
青年はそう云って淡泊に静子に一ッ礼をした。 「じゃ、又きます」 ひざ 静子が帰ってゆくのである。青年は部屋に這入って、キッチリと膝を合せ、病臥のリッ子に ちょう むか 重な礼をした。リッ子があわてて背をおこしながら対えている。 「御無礼しますー とそれを乂繰りかえして云っただけだった。私が茶を入れようとすると、 「先生。茶は要りまっせん。水を飲みつけとりまあすー 死 あわててそう云ったが、それでも入れて、出すと、急いで手にして、その茶を口一杯にくわえ そゴクリと喉をうるおした。その緊張の姿から、久しぶりに初い初いしい青年の純潔を感じるので 子ある。リッ子は黙って、じろじろと青年の挙動を見つめていた。 あいにく ちえ 「何の話 ? 生憎僕は何の智慧もないが」 青年から反射的に移って来た興奮を、私は鎮静しながら、ようやくそれを声にした。 青年は農士の印絆纒の下に着た兵隊シャツのポケットから一冊の / ートを取り出した。何か質 問の箇条でも書いているのだろう。それをめくっていたが、又閉じて膝の前にきちんと置く。 「先生。迷うとることの二ッありますやなあー 「そう」 「一ツは家のこと。一ツは自分のこと」 「ほう。でもごたごたは余り人に云わない方がいいよ。自分で解決するに限る。僕にも沢山あり びようが
176 リッ子・その死 「西の浦の z 先生だす」 下のおばさんの声がする。急いで出てみると地下足袋姿の z さんが玄関に・ほそ 0 と立「てい 「さあどうそ」と招じ入れた。階段を黙 0 て後からついて来た。リッ子は半眼のまま眠「ている のか動かない 「 z 先生だよ」と枕許で肩の辺りを浴衣の上から揺り動かした。・ほんやりと眼を開いて見つめて いる。 z 医師はしばらく脈をみて、眼を両指で押開けた。それから胸の辺りだけ一寸開いて、聴 診器をあちこちと当てていた。 何を思「たのかリッ子が右手でその聴診器のゴムの管をし 0 かりと握りしめている。 Z 医師は しばらくそのままに打棄てておくようだ 0 たが、やがてそ 0 とその手を取 0 て蒲団の上に押しの すそ けた。それから蒲団の裾をめくってみた。 がくん 知らなか「た。まるで仁王の足のようにふくれ上「ているのである。愕然とした。私の心の中 を今更ながら巨大な魔の影が駈けすぎてゆくふうだ「た。 z 医師は蒲団を下ろして鞄の中から注 射器を抜き取 0 た。リッ子のたるんだ二の腕にふすりと刺す。それを蔵「て静かに立上 0 た。 「お大事に」と z 医師はそれだけを云う。リッ子はそのまま眼を閉じた。終始一言も口を開かぬ き・つか こうふん のである。先程の昻奮が過ぎたのか、と私は気遣うが、黙「て眠「てしまっている。 「御手洗いを」と私は云ったが、 「いやー」と Z 医師はさっさと階段を降りてゆく。