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検索対象: 万灯火
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1. 万灯火

満足だった。 花見は雨にたたられて伸びのびになっていたが、あきらめて家の中で済ませた。雪乃と喧嘩別 れをしたこまには幸いだったかもしれない。 つわり しのぶは身籠ったらしく、桜の花の咲いた頃が悪阻の最中だった。浮かぬ顔の東吾から酒代を 貰った若勢達は、それそれ遊びに出掛けたようだ。 雨の中でも桜は咲いたが、淋しくはなびらを散らした。 うつうっと楽しまぬ雪乃を見ていると、りんは無性に腹立しくなる。なんの腹立ちか自分でも よくわからなかった。わからないのではなく、わからなくなってしまうのだ。少なくとも表面で はなんの変化もない芦原だったが、何かじりじりと変りつつあるような不安が募ってくるのだ。 田畑で働く以外になんの楽しみもない自分が、仕事が出来なくなったら、老後はどうなってゆく のだろう。来年はどうなっているのだろう。久雄は弘前の高等学校へ入り、小学生になった鶴代 の背丈も目立って伸びたし娘らしい動作をするようになった。鶴代の父似がときおり、りんの心 に暗い翳りを落すが、咎めることではなかった。 満されぬ思いで己を責めつつ、りんはがむしやらに働く。東吾も同じ思いではなかったろう か、何も考えたくないのだ。おそくも六月はじめには田植を終えなければ秋の収穫にさしつかえ さなぶり る。早苗振舞はまた雨になった。 土間に莚を敷いて酒盛りをしたが、例年にない冷えで、飲む片つばしから酔いがさめた。

2. 万灯火

白い森 のことはすっかり忘れよう、極楽極楽と、こまは言った。 白い闇に閉された極楽もあるのた。 三日経っても濃霧は晴れず、三日も湯小屋に閉じ込められると、さすがに息が詰った。晴れた かと思うとすぐに又白い霧が流れる。寝ているとゴザ枕の下で、かすかな瀬音が聴えた。 「ねえ母さん、川はどこにあるの」 退屈をもてあました鶴代は外へ出たがり、雪乃が止めるのに苦労した。視界の利かぬ白い闇の 中を歩き廻るのは危険である。 「母さん、もう家さ戻るべョ 、つばい咲いているど 「直きに晴れる。もう少し辛抱しなさい。晴れればこの辺りには花コがし し、花コ摘むのだべ」 雪乃は優しく娘の耳へ囁くように繰り返し、こまと顔を見合せてはころころと笑う。何がおか しいのだろう。雪乃は日に幾度となく髪を梳き、娘の髪もていねいに梳いてやった。 はやく早ぐ長くなれ 島田に結って 丸髷結って 雪乃の唄声は細くて甘く、髪を梳く手から伝わって心地よい眠りを誘う。 寝あきて愚図ると雪乃は根気よく、子守唄をうたってくれた。そんなときのこまの眼は、早く

3. 万灯火

「ごめんしてたもれ 激しい寒さで雪乃は幻想に襲われる。 「どうしたの母さん、泣かないで」 鶴代は必死で、坐り込む母の手を引張った。去年の秋以来、雪乃の健康はまだ恢復していない のだ。紫のお高祖頭巾の中の、円らな両の眼に、容赦なく吹きつける風が、雪乃の長い睫に雪を 積らせる。まばたきを忘れている。たたら峠を下ると嘘のようにばたっと雪は止んだ。空も次第 に青さを取り戻した。 下田平は吹雪の溜り場と言われ、芦原よりずっと雪が深い。見渡すかぎりの田圃だ。雪の多い ところは米の出来がよい。阿仁川は此処で米代川へ合流して、麻生へ出る。 母娘は互いに体を庇い合いながら麻生橋を渡った。 「鶴うこ、あっちが小繋だえ」 左を指差した。なぜ母は指差してまで娘に集落の名称を教えようとしたのだろう。 ななくら 「川の向うは七座と言ってなんし、あの山を見だんせ、峰が七つ並んでいるなだえ。大昔は八つ 並んでいだと、なして七つになったか鶴うこは知っているしか 鶴代は首を振った。 「一つ流れたのしー たたら峠で、母の表情は苦渋に満ちていたが、橋を渡ったいまは解放されたように晴々と明る 124

4. 万灯火

くけ目くけ目に七ふさ下げて 結ぶところは鶴と亀、鶴と亀 まずまず一貫貸しもうしたじじばば目出ためでためでたのツルとカメ 夫婦小屋で母と娘は声を合せて終日毯を突いた。唄い疲れたのか娘の声はだんだん細くなり、 毯を放り投げて、芦原へ帰りたいと駄々をこねる。だが、こまは必ず戻って来ると雪乃は信じて いた。あれほど楽しみにしていた金勢祭りを見ずにひとりで芦原へ戻る筈がないのだ。けれども こまは戻って来なかった。 くけ目くけ目に七ふさ下げて 結ぶところは鶴と亀、鶴と亀 鶴代は思い直したように声を張り上げては毯を突く。こまが花輪で買ってくれた赤い菊模様の ゴム毯は、大きくて両手にあまった。手の平にのせて、股をくぐらせているうちに転げて毯は開 けてあった木戸の外へ出た。追い駈け外へ出ると、毯の転がってゆくその先に、東吾の姿が見え 「母さん、東さんだよ」 鶴代は息を弾ませて雪乃に告げた。東吾はこまに命じられていたらしく、三頭の馬を引いて迎 えに来たのだ。四人分の食糧が馬に積んであった。 「餅を搗いて持って来たども」

5. 万灯火

「何が嘘なのよ。どうして嘘たなどと一一一口えるの」 嘘ばっかりとは、なんだろう。年甲斐もなく私はかっとなって眼から火花が散り、若い頃、師 匠から聴かされた和敬清寂の境地などどこかへふっとんでしまった。 「あんたは、なんのために茶道を習う気になったの」 「わかりませんー 「わかりませんですって、そんなら田舎へ帰りなさい」 怒鳴って私は驚いた。茶の湯の師匠としてあるまじきはしたなさだ。加那子は加那子で、帰っ たら母さんに叱られると泣き出した。そんなら、少しは応えたのかと思ったら、けろっとしたも のだ。さらに我慢のならぬことは自宅の稽古日にやたらと噪ぐことだ。普断は私と二人きりの生 活で外出勝の私は疲れると口を利くのも厭になるたちだから、若い娘にとってはずいぶん耐え難 い毎日なのだろう。その気持は充分判るのだが、むやみやたらに弟子達をえて喋べりまくるの も困ったことである。それに第一、誰かれかまわず故郷の話をしたがるのは不快た。私は故郷の 話などして貰いたくなかった。どちらかというと私は弟子には優しく愛想もいい方である。教え 方も丁寧で巧いと言われている。しかし、ありていに言うなら茶道も華道も私の装いにすぎな い。女は上等の着物に包まれていたいように、私の心は常に上等の空気に包まれていたいのだ。 泥臭いもの、貧乏臭いもの、貧弱なものの一切から逃れたくて私はこの道を撰んだに過ぎない。 もっとよいものがあったら私はそっちを撰んだろう。茶道も華道も生活の手段でしかないのた。

6. 万灯火

私の頭はこんがらかって、もう何も考えることが出来ない。肉親の情に恵まれなかった私は、 いつもそれにつながるものを恋しく思っている。愚かなことだ。尚子のやさしい口説き落しにま んまと引っ掛かり、しぶしぶが忽ち嬉々と、その気になってしまう性根の浅さ。頼みます、あな た以外に頼る人がないのですからと、ひれ伏す尚子の涙に騙された私が、この娘を、加那子を背 負ってしまったのだ。 加那子はもともと茶道をたしなむような女に出来てはないのだ。何をやらせてもいやいや動作 のろ をする女は、目障わりになるだけだ。鈍まで不手際で、何度注意しても教え甲斐のない娘であ る。右から左へと抜けてしまうだらしのない性情は、生れつきなのかもしれないが、わざとそう しているとしか思えない節もあっていちいち目くじらを立てて教え込もうとする私は疲れた。む きになるのは私の性分なのかもしれない。 苛ら立ちは疲労の原因だ。それでも私は根気よく箸の上げ下げにまで文句を言った。言われる 身の加那子としてもやりきれたものではないだろうが、私の叱責など、どこ吹く風とばかり、大 事な茶器を片つばしから毀して平然としている。 加那子は茶碗を割っても決して謝まろうとしない。きまってあら割れたわ、で済ませる。割れ たんではなくて割ったんでしようと窘めても、 いいえ割れたんですと、まるで茶碗が勝手に毀れ てしまったようなことを一言う。ごめんなさいと謝まらず、怒る私の顔を見てにやっと笑う。笑っ て誤魔化そうとするのだ。 たしな

7. 万灯火

土間が片付き、米俵が積み上げられた。そして大雪が降った。大根のモし菜汁をりながら村 人達は、これからやってくる長い冬暮しに思いを馳せ、諦めの表情である。 十二月のはじめの寒い朝、東吾は村から消えた。 森吉から五城ノ目街道を歩いて行くのを見たという人がいた。東吾は一体どこへ行ってしまっ たのだろう。一ノ関こまが血相を変えて信太家へ飛び込んで来たのはそれから二三日してからだ 東吾は雪乃と逃げたらしいと言いふらす人がいたからである。 しかし当の雪乃は、囲炉裡端でひっそりと縫いものをしていた。 「東吾を出せ、何処へ隠したんだ」 逆上のあまりこまは大声を出したので、納屋のりんが駈け寄った。そのりんを見てこまは喚き 声を倍にした。 「こまさん、あんたも大人げのない人だ。そんな大声を出さなくとも、この家に東さんがいるな ら家探しでもなんでもして連れて帰ればええし」 りんは静かだが本気の怒りをぶちまけた。 「その代り、弱い者苛めはもうごめんだし、今日限り、二度とこの家の敷居は跨がないでたも れ、な、こまさん」 りんは無意識だが太い火箸で炉縁を叩いた。その手が大きく震えているのを見て、雪乃も鶴代 なじる い 4

8. 万灯火

炎の花 残しても仕方のないことだが、母も東吾もいなくなったいま、私はそうすることで気がまぎれ 四月二十四日午前九時に四の金属音を聴いたが、空襲警報は鳴らなかった。鳴ったかもしれ ないカ、馴れつこになって、四一機でびくついているのが馬鹿らしくなったのだ。よほどのこ とでなければ耳も馬鹿になっている。 二十九日天長節。昼近く空襲警報が三度鳴った。このところ豆カスの配給ばかりで、食べるも のがないから体がだるく、脚がむくんでいる。脚気かもしれない。味噌も醤油も尽きたがもう手 に入らない。東吾は何処をうろついているのだろう。何か持って来て東さんと、日に何度となく 呼びかけるが、勿論応える筈はない。死んでしまったのかもしれない。ご飯が食べたい。芦原へ 帰りたかった。 五月八日ドイツが降伏したそうだ。一体日本はどうなるのだろう。マリアナ群島から飛んでく る四に加わった戦闘機は、硫黄島に出来た基地から飛び立っそうだ。空母からの艦載機も 盛んに飛び廻って銃爆撃を行うらしい。何時になったら帯を解いてゆっくり眠れるのだろう。う つかり歩いていると射殺されると脅されるが、私は局の昼休みの時間を利用して時々白山下の家 へ行ってみた。もしかしたら東吾が帰って来ているかもしれないと思ったからだ。交番の横を曲 り、坂の上へ出る途中で今日は北から南へ一直線に四が一機飛んでゆくのを見た。機体が大き いので、悠々と大空を泳いでいるように見える。見送っていると実に憎ったらしい。真っ昼間、 201

9. 万灯火

が絶えていた。心臓麻痺だと医者は診断したが、人の生命はこうも簡単に終ってしまうものだろ うか、信じ難いことだった。母のように優しくて厳しい師であった。戦争の終る日をあんなに待 っていた夫人が、終りを見ないで死ぬなどとは、鶴代は孤児になったような頼りなさで涙も出な 局長夫人の初七日の夜、雪乃が死んだ。春三月とは思えぬ底冷のする夜だった。初七日の勤め を終えて帰宅すると、母の様子が変だった。雑炊をつくってやっても、かすかに首を振るだけ で、食べようとしない。食べなきあ駄目よと叱ったが、眼に力がなかった。冷たくなった行火に 火を入れてやり味気ない雑炊に腹を満すと、自分も母の蒲団の行火へ足を入れた。暗闇の中でま んじりとせず、東吾はどうしているだろうと思う。東吾は自分を愛してくれているのだろうか、 それとも母の方をよけいに愛しているのだろうか、もしそうだとしたら許せない。断じて許せな 母が何か言ったようだ。尿意だろうか、寝言だろうか そのままほんの少しうとうと眠 ってしまった。突然キーンキーンと鼓膜へ突き刺さるような金属音が窓ガラスを揺すった。来た なと身を起し、遮光幕を引いたが、西の空は真っ赤に染まり、四の爆音が頭上すれすれに通過 した。キラキラ光りながら落ちてくる無数の焼夷弾に、ズドンズドンと地響を立てる高射砲の音 のが入りまじって忽ち地獄の阿鼻叫喚となった。バケツを叩いて逃げろ伏せろと警護団が家の廻り 山を走った。 白 白山下は本郷台地の下になるのでそう呼ばれている。花柳界を越えて本郷通りへ出れば帝国大 191

10. 万灯火

存在だった。何か逆いきれぬものを感じてしまうのだ。東吾からみれば目茶苦茶とも思える鶴代 の強気が不安だが、魅力でもあった。自分から裸になる女だが、私より母さんの方が好きなんで しようと拗ねることも知っている。私は子供の時分から東さんとこうなるのを待っていたのよと 甘えかかるいじらしさに負け、雪乃の見ているのもかまわず抱いてしまうのだ。そんな鶴代のた めに、東吾はどんなことでもせずにはいられない気分になってしまう。力の限り闇物資を背負 、汽車にも乗れず鉄路を、背負った荷物の重さにえっちらおっちら歩きながら、地獄のような この闇夜が永遠につづいてほしいなと思うこともあるのだ。警察に追われて逃げ廻るのはもうご めんだ。なんだって自分は暗い世界にしか生きられないのだろうと身の不甲斐なさに思わず涙が こ・ほれる。 天罰だと闇の声がささやいた。疲れた体を引摺る自分に、自分でそう言い聴かせたのだ。 空襲は激しさを増して昭和二十年はたいへんな元旦となってしまった。屠蘇も餅もない越年 に、大晦日は除夜の鐘に代って空襲警報が一際鋭く鳴り渡り、またしても江東方面がやられたと いう。五日、九日、十日も四が姿をあらわし、十日は十機ほどの編隊でやって来た。日本機も 蚊が群れるように体当りで応戦したようだが、効果はなかった。撃墜されたのは日本機だけだ。 の巨大な四は姿を見せる度に美しい飛行機雲を残してゆうゆうと飛び去った。 山たとえ自分の家の周囲に焼夷弾が落ちなくとも東京の空はどこかが赤く燃えつづけ、西風に乗 白 ってきな臭い風が吹き荒れた。もう神も仏もなくなった新年である。