故郷 - みる会図書館


検索対象: 万灯火
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1. 万灯火

真珠湾攻撃の奇襲作戦以来、勝った勝ったの日本軍の華々しさは夢のように色あせたいまは、 不安とあせりだけが日増しに濃くなってゆく。だが、日本が負けるなどとは誰も思いたくないの だ。国民はみな歯をくいしばった。 食糧は日々乏しくなり、米の代りに大豆が配給され、豆の飯に豆のおかずはまだしも、家畜用 の豆カスが配給され、・ほそ・ほそと噛んで眠る夜がつづいた。 勤めを止めた東吾は、雪乃の看病に疲れ果て闇屋になった。儲けにはならなくとも食べてゆく ためにはそうでもして働くしかない。芋を手に入れると塩魚と交換し、飢をしのいだ。故郷へ戻 れば、警察に追われる闇屋などしなくとも済むのだ。姉に謝まって故郷へ戻ろうかと何度思った かしれない。しかし、寝たきりの、中風病みの雪乃を故郷へ運ぶのは無理だった。 雪乃はひがみつ。ほくなって、ことごとに芦原へ帰ると聴き分けがない。世の中がどうなってい るのか、外へ出たことのない雪乃にわかる筈もないのだが、それでもしまいに腹が立ってつい手 の厳しいことを言ったりする。けれども東吾は早く雪乃が死ねばいし 、とは思わなかった。こうなっ さだめ 山たのも前世からの運命だと諦めている。鶴代も一緒だと思うと気持が安まり、せめて鶴代だけで も仕合せにしてやりたいと願う気持だけが強いのだ。 固く閉じた目尻からあふれる母の涙を拭ぐってやり、 いつもより優しく下の世話をしてやっ

2. 万灯火

「何が嘘なのよ。どうして嘘たなどと一一一口えるの」 嘘ばっかりとは、なんだろう。年甲斐もなく私はかっとなって眼から火花が散り、若い頃、師 匠から聴かされた和敬清寂の境地などどこかへふっとんでしまった。 「あんたは、なんのために茶道を習う気になったの」 「わかりませんー 「わかりませんですって、そんなら田舎へ帰りなさい」 怒鳴って私は驚いた。茶の湯の師匠としてあるまじきはしたなさだ。加那子は加那子で、帰っ たら母さんに叱られると泣き出した。そんなら、少しは応えたのかと思ったら、けろっとしたも のだ。さらに我慢のならぬことは自宅の稽古日にやたらと噪ぐことだ。普断は私と二人きりの生 活で外出勝の私は疲れると口を利くのも厭になるたちだから、若い娘にとってはずいぶん耐え難 い毎日なのだろう。その気持は充分判るのだが、むやみやたらに弟子達をえて喋べりまくるの も困ったことである。それに第一、誰かれかまわず故郷の話をしたがるのは不快た。私は故郷の 話などして貰いたくなかった。どちらかというと私は弟子には優しく愛想もいい方である。教え 方も丁寧で巧いと言われている。しかし、ありていに言うなら茶道も華道も私の装いにすぎな い。女は上等の着物に包まれていたいように、私の心は常に上等の空気に包まれていたいのだ。 泥臭いもの、貧乏臭いもの、貧弱なものの一切から逃れたくて私はこの道を撰んだに過ぎない。 もっとよいものがあったら私はそっちを撰んだろう。茶道も華道も生活の手段でしかないのた。

3. 万灯火

がらあせった。焦ってみてもどうにもならず、結局日傭労働者として、一番辛い市電の線路工夫 に応募した。 立秋が過ぎても酷暑は去らなかった。炎天下に鶴嘴で鉄路を叩くと火花が飛び散り目が眩ん だ。畚を担ぐと汗が滝のように流れて眼に入る。やたらに咽喉が乾き突んのめりそうになる。土 方もまた辛い商売であった。少し手を休めると人夫頭が、怠けるなと怒鳴った。働いている者の 殆んどが地方出身者らしく動作が鈍い。鈍いのは仕事に馴れてない証拠なのた。不況の嵐は日本 国中に拡がってゆくようだ。都会に出れば何かいい仕事にありつけると、殆んどが故郷をあとに した者達である。そうした者達に東京市が与えてくれる仕事の殆んどが、道普請の重労働であ る。惨めな仕事であった。 僅かな休憩時間に一服つけるとき、工夫達はみなそれそれのふるさとを恋しがった。誰にとっ ても故郷はなっかしいところにちがいない。貧しくとも平和で、いっかは帰って行くところなの だ。自慢するようにふるさとの良さ、なっかしさを語った。ふるさとを語りたがらないのは東吾 くだけだった。お前の郷里は何処だと訊かれても北の方だと答えるだけである。 て 三本鍬で田圃の固い土を掘り起したこともあったが、コンクリートのような土を鶴嘴で叩くの き 生 とちがって、ふるさとの土の柔かさが恋しい。掘っては鍬の背で砕く土の感触がたまらなくなっ れかしい。砕土機を馬に引かせるようになってからは、三本鍬の辛さは昔語りになったが、鶴嘴を そ ふるう辛さはその比ではなく、骨身に応えた。今頃は、田圃の稲に花がっきはじめたであろう。 もっこ 147

4. 万灯火

白山下の家 太平洋戦争の始まった年、鶴代は二十五歳になっていた。 雪乃は二十六歳で鶴代を産んだ。故郷を出奔した旅の途中で大正が終り、昭和と改元になった ことが昨日の出来ごとのように思い出される。 都会の片隅で十六年の歳月が埃りのように積み重なったのだ。 改元は何を意味するのか、雪乃は考えず、過去を葬れと言ってくれているように受け止めて勇 気の湧いたことだけが思い出される。新しい御世が始まるのだ。自分は生れ変るのだと、怖れの 中にもかすかな希望に燃えていたのは、若さというものであったろう。十二月八日の宣戦布告の ニースは、雪乃の脳天を叩いた。何やら得体の知れぬ重たいものが、どしんと天から降って来 たのだ。 「戦争がなア 山と何度も呟き、腰が抜けたように動けず眼の前がゆえ知れぬ怖さで真っ暗だった。世の終りが 5 来たような気分に陥ちた。これでもう自分は郷里へは戻ることが出来ないだろう。二度と帰るま

5. 万灯火

く泣けてくるのだろう。 「東さんの心が弱っているのに、母さんは酷いことをしたね、どうして、しのぶさんは病気で死 んだと言わなかったの」 「だって本当のことなら仕方がないでしよう 「仕方があるでしょ ? 母さんだって女だもの。そのくらいの思いやりがあってもいい筈よ」 娘に鋭く詰め寄られても、雪乃はどうせ何時かわかることだもの、の一点張である。けろっと カ娘の眼には、母の無神経 していなければますます東吾の気持が減入るだろうと雪乃は思った。 : としかとれず、無性に腹が立つのだ。それでも雪乃は娘に言われたことで気になるのか、東吾の 蒲団へもぐり込み、 「意久地なしだわよお前は と、ふざけた。 東吾をからかう雪乃には、過去の悲しみや辛かった記憶など、もうかけらほども残っていない くよ一つだ。 て雪乃は自分の生れた家も、村も少しも恋しくないと娘に言った。親はとっくに死んでいるし、 生 故郷を恋しいと思ったところで何になるだろう、今日を生きていられればそれでいいではないか れと雪乃は考えているようだ。思い患うことの愚さを識りつくしているのかもしれないが、淋しい そ ことだった。 159

6. 万灯火

思い出すまいとしても、眼を閉じると、緑深い野や山が鮮やかに見え、恋しさが募るばかりだ。 故郷へ置いて来た妻やまだ見ぬ子の面影が涙に霞み、天罰だと東吾は呟く。 天罰だ、天罰たと、鶴嘴を振り上げると、鶴嘴から火花が散って、馴れぬ仕事と猛暑にとうと う負けて、東吾は血を喀いた。 雪乃は勤めを休んで必死の看病をつづけたが東吾の病気は長引くだろうと医者は言い転地を奨 めた。 秋になっても東吾は起き上ることは出来なかった。雪乃も勤めを休んでばかりはいられず、鶴 代が学校から戻るのと入れ代って出て行く。 階下の老婆はたまり兼ねたように鶴代に訊いた。 「あのひとは一体誰なのよー 「東さんだし」 「とうさんて、昔から 「うん、昔から 「変だね、ちがうでしよ。あんたの父さんじゃないでしよ。母さんのこれでしよ」 「これってなによ、おばあちゃん」 鶴代は訝げんな表情で、ツバメでない、東さんだと言った。東吾は生活の疲れで老けて見えた 148

7. 万灯火

それでも生きてゆく 鶴代は近くの小学校へ就学の手続きが出来、だんだんに自分の住む街の様子もわかると、雪乃 も真剣に仕事を求めなければならない。 昼の勤めロは、雪乃の年齢では無理であった。旅館か料理屋の下働きでもするしかない。距離 的に近い上野界隈をひっしになって探し歩いた。 黒塀の廻った料亭の勝手口にぶら下っている求人広告を見た雪乃は往きっ戻りつ、ためらいな がら勇気を出して、くぐり戸を入ってみた。 求人は下働きであったが、雪乃を見た女将は、座敷に出て働く気はないかと訊いた。 みいり 「その方が収入も多く、体が楽だよー ゅ て どうみても雪乃は。ほっと出の農村の女とは思えない。 生 着物がなければ貸してやると言った。そう言われると、雪乃もその気になり、小さな店で働け れば気楽だとも思ったが、それだけ人目にふれやすく、故郷の人に見付かる心配があった。田舎者 そ が、こんな料亭へ来ることはまずないだろう。収入がいいと言われたことも魅力であった。金が

8. 万灯火

も少なかった。 雪乃は娘に三十銭で二段重ねの弁当を買ってやり、自分は五銭安い寿司弁当にした。土瓶に入 れた五銭の茶だけは二箇買った。これからは僅かの金も節約しなければならないのだ。来年の 夏、東吾が帰って来るまで、金は出来るだけ使わないで残して置きたかった。どんなに困って も、もう何処へも助けを求めることが出来ない。娘を飢えさせるようなことがあってはならない し、頼りになるのは懐中の金だけである。 弁当を両手で抱えると、娘は嬉しくてたまらないといったふうで、ホームへ入ってくる汽車を 待った。やがて列車が入り、ステッ。フに足をかけたとき、もしかしたら、これが転落のステップ かもしれないと雪乃はためらった。今ならまだ芦原へ帰れる。 早くしろと怒鳴る後の荷物に押され、雪乃はよろめいて車内に入った。 「母さん隙いているよー 娘の声に励まされ、窓側の席に母娘は向き合って腰を降した。もうこんなに押しつまってから 東京へ行く人などめったにいないのだろう。 今日、今から日本国中、国民は喪に服さなければならないのだが、自分は故郷を捨て、今、こ れから出て行こうとしている。 上野へ着いたら一体どうすればいいのだろう。西も東もわからないのが不安だった。娘を連れ て夫を探がしに来たとでも言ったら怪しまれずに済むだろうか。とにかく、もう自分は家を出て 1 0

9. 万灯火

巧く逃げてほしいーー腹に胴巻をつけると鶴代は闇に消えた東吾が急に愛しくなって、たたき へ膝を突いた。うまく逃げきるだろうか、胸がどきどきしてくる。十円札で二千円の札束は大き かった。東吾のあとを追って外へ出てみたが、右にも左にも人影はなかった。 巣鴨への道を東吾はふらふらと歩いて行った。どこへ行く宛もないのだ。とにかく逃げなくて はと気持が急いた。い っそのこと、雪乃を殺して自分も死んだ方がよかったのかもしれない。深 かい渕に堕ち込んだ自分はもう助からないのだ。大罪を犯し、生きたいと思うのは間違ってい る。雪乃と死んでしまえば鶴代は故郷へ戻れただろう。鶴代にはなんの罪もない。悪いのは自分 だ。雪乃の色香に迷ったばかりに、鶴代を巻添にしてしまったのだ。鶴代を不愍だと思うが、東 吾は雪乃を憎む気にもなれず、東吾にしてやれることは、鶴代を罪人にしないことだけだった。 暴露したら大金を握った鶴代はどう言い逃れをするつもりだろう。それが心配でならない。闇 雲に東吾は歩いてゆく。何度も蹴っまずいた。真に暗い夜だった。 警察の手が廻った。 「あの人は母の愛人です」 の鶴代は取調べにも終始冷静だった。 下 しいえ。母が卒中で倒れてからは、ろくに家へは寄りつぎませんでした。たまにふらっとやっ 白 て来ては、二三日すると居なくなってしまうのです」

10. 万灯火

雨に打たれながらの飯炊きなど、夢にも考えられないことだった。故郷を捨てた天罰として受け るより仕方がないが、風の吹く日はなお辛い 「母さん母さん、大変よー 学校から戻った鶴代は玄関へ力。 ( ンを放り投げ、息を弾ませて台所へ駈け込んで来た。 「東さんがね、東さんが立ちん棒しているよ母さんー 「立ちんぼう、立ちんぼうって何のこと 「母さん知らないの、本当に知らないの。母さんは知らないふりしているんでしよう。団子坂で 荷車の後押ししていたよ」 「まア厭だ。なんだって東さんが車の後押しなんかしなければならないのさ。人違いでしよう」 本郷は高台でどっちから入るにしても坂である。坂の下で荷物を満載した荷車の来るのを待っ て後押しを手伝えば、三銭とか五銭の金になる。ただ遊んで暮す身には少しでも収入のあるのは いしが、乞食のような立ちん棒は気に食わよ、。 オし二三日前、立ちん棒でもするかと東吾が言っ くた。まさか本気でやるとは思わず、そうねと、雪乃も笑った。本当にやってるとしたら鶴代の言 て うとおり大変なことだ。 生 1 も 下宿人はいま四人に減って、三部屋あいている。もう間もなく夏休みで、残っている学生も故 れ郷へ帰ってゆくだろう。九月に入れば又新しい学生が入るとしても、四人の下宿人では食べてゆ かれない。世を忍ぶ二人が正規の職業につけるとは思えなかったが、まして体を悪くしてしまっ