気 - みる会図書館


検索対象: 万灯火
163件見つかりました。

1. 万灯火

こまとの同行を避けたかった。りんもその気を察したらしく、自分からこまを誘いに行った。 最初は迷惑そうだったこまも、草負けのかぶれで困っていたらしく、しぶしぶながら日景の温泉 なら行ってもいいと言い出した。 「ひば ( そんなら ) 、また馬コさのるのしか」 鶴代は去年の経験を思い泛べるらしく、うきうきしたが、 「なもだえ、鷹巣から汽車さのり、陣場の駅からテトテトの、乗合馬車さ乗るのだ」 その気になるとこまはすぐに実行したくなる性分だ。留守の間の東吾と雪乃が気になったが、 しのぶがついている。 「しつかと亭主を見張ってなョ」 と、仕度をととのえ、娘にふざけて家を出た。 しのぶにその意味がなんだかわかる筈がない。去年は、何がなんでも八幡平だと意気込んで出 掛けた母が、今年はなんとなく冴えない表情をしているのは、雪乃が一緒でないからだろうか。 おっくうがるのは母もそれだけ年を取ったのかもしれない。しのぶは労わりをこめてあとのこと は心配しないでと言った。 田値が済めば百姓にも三週間の休みがあるといっても、誰にでもその休暇が自由になるわけで はない。田圃の作業を休むだけで、畑づくりも、山の見廻りも、やることは次々にあった。東吾 には休む暇が与えられていない。雨の日は納屋仕事が待っていた。

2. 万灯火

だろうか。あれやこれやと思い巡らしてはいるものの、一日伸ばせば一日増しに私の体力はなく なってしまう。不安で夜も眠れないのだ。うつらうつら夢ばかり見ている。明け方近かく、汗び っしよりになって眼を覚ますがいつもいつも追われる夢ばかりだ。昨夜も追っ手を逃がれて汽車 に乗っている夢を見た。 此処で、このまま、いのちが終るのだとしたら、私の一生は一体なんであったろう。虚しくも 過ぎ去った時でしかないのだろうか、もう生きてゆく希望はひとかけらも残っていないというの に、此処で死ぬのだけは厭だ。私は帰りたい、私のふるさとへ。 「あせってはいけませんよ。あせりは毒なんですから、あなたの病気は、気長くじっと安静にし ていれば必ず治ります」 医師という職業は、・病人の心の底の底まで見抜く冷徹な眼を持つものらしい。病人に与える言 葉はたいそう優しくて丁重たが、その言葉尻はきわめて事務的で、深入りを避けるために、平気 で気安めも言う。職務上、社交辞令のようなものかもしれない。けれども病人はどんな言葉にも 縋り着きたいのだ。気安めとわかっても信じたいのだ。私には、それがどれほど虚しいことかい へ までは手に把るようにわかっている。医師は用意した言葉を理路整然と繰り返し、どのべッド も同しことを喋べっているだけだ。私の耳にはもうタコが出来た。 ああ、飽きあきする。どのような説明を聴いたところでなんの感動もなくなっている病人に いっそのこと、もうこれでお終いにしますかと訊いてくれた方がどんなに親切かしれないの よ、

3. 万灯火

炎の花 。局長と私は親子ほども年齢がちがうのだ。このまま、ずっと局長さんと暮せたらどんなにい いかしれないと私は何度も思った。白山下の暗い家の台所とちがって東に出窓のある広い明るい 台所で食事拵えをするのは気持のいいものである。 東吾が防空壕へ隠して置いてくれた缶詰類を少しずつ運び、毎日一箇だけ開けることにした。 味噌も東吾が千葉の方で手に入れたのが貯えてあった。毎朝みそ汁をつくると局長さんが喜んで くれた。私は庭の芝生をはがして野菜を植えることを考えっき、局長さんはどこからか葱の種を 貰って来た。何事も私の思うままになった。もしかしたらこんなのを、私のようなのを押しかけ 女房というのかもしれない。 世間ていもあると思うのだが、なんと噂さされても仕方がないのだ。局長さんも私も仕合せな ら、世間の思惑など気にすることではないと私は覚悟を決めた。 ひとりの男に仕え、昼は局に勤務して、二つの仏を守ることに私はなんの矛盾も感じなかっ 三等郵便局でも、局長夫人なら正々堂々、日の当る表通りが歩ける。私は裏通りの人生はもう 真平だ。局長夫人ともなれば東吾のことで刑事につきまとわれる心配もないだろう。 浅はかにも私はそう判断し、言いわけじみるが、東吾には済まないような気もした。でも私は もう、もとの自分には戻らないだろう。そんな気もした。 下北沢の、茶室のある家は、ひそかに手を廻し、私のものになっている。現金取引きであった 199

4. 万灯火

白い森 みに耐えるしかない。 りんの気持は複雑なのだ。信太家の親族がふえるなら、何人でも雪乃に子 を産んで貰いたい。だが、布れるのは久雄のことであり、鶴代が不愍でならない。 この地獄はい つまで続くのだろう。りんは自分の生涯を、早く終らせたいと思う。けれども狂った息子を嫁ひ とりに任せて死ぬわけにはゆかないのだ。嫁がこの家を出てゆくことをりんは怖れた。山の湯で 何が起ったのか、りんは知らない。狂った息子の子を次々に孕む嫁の体を恨みながら、ひたすら 世間ていをはばかり、りんは胎児の仕末をするしかなし 、。どうあっても雪乃は信太家になくては ならぬ嫁である。可哀想でも暇を出すわけにはゆかない。雪乃のわがままが、多少眼にあまって も仕方がなかった。こまの足が遠退いたことを気遣いながら訊く気にもなれず、東吾が夜分遅 く、そっと忍んでくるのはうすうす知っていたが見ぬ振をした。息子が狂人となってから、りん には一日として楽しい日がなかった。これ以上の不幸はもう沢山だ。孫息子の久雄が嫌う信太家 の家の中は、どこもかしこもおどろおどろと暗い 山の温泉へ遠出したのが祟ってか、堕胎後の雪乃に元気のないのも気になった。 この年の夏期休暇も、久雄は三日と家に居らず下宿へ戻ってしまった。ときおり、犬のように 吠える久道も音をたてず信太家はひっそりしていた。久雄には中学校の最後の夏休みであるが、 中学を出たら弘前の高等学校へ進学したい希望で、今から図書館に通って、受験にそなえるのだ という。しかし本心はちがうのだということをりんはよく心得ている。久雄は土間に寝転んでい る父を見ていると、自分も気が変になってゆくと母に言ったという。 下宿へ戻る理由の大半はそ

5. 万灯火

それでも生きてゆく 鶴代は近くの小学校へ就学の手続きが出来、だんだんに自分の住む街の様子もわかると、雪乃 も真剣に仕事を求めなければならない。 昼の勤めロは、雪乃の年齢では無理であった。旅館か料理屋の下働きでもするしかない。距離 的に近い上野界隈をひっしになって探し歩いた。 黒塀の廻った料亭の勝手口にぶら下っている求人広告を見た雪乃は往きっ戻りつ、ためらいな がら勇気を出して、くぐり戸を入ってみた。 求人は下働きであったが、雪乃を見た女将は、座敷に出て働く気はないかと訊いた。 みいり 「その方が収入も多く、体が楽だよー ゅ て どうみても雪乃は。ほっと出の農村の女とは思えない。 生 着物がなければ貸してやると言った。そう言われると、雪乃もその気になり、小さな店で働け れば気楽だとも思ったが、それだけ人目にふれやすく、故郷の人に見付かる心配があった。田舎者 そ が、こんな料亭へ来ることはまずないだろう。収入がいいと言われたことも魅力であった。金が

6. 万灯火

東吾は気弱く首を振って、部屋の中を見廻すのだ。 雪乃はかいがいしく湯を沸し、台所兼用の流し台で顔を洗わせた。話すことは山のようにあっ たが、胸がいつばいで何から話していいのかわからないといったふうだ。東吾が茶を飲み終るの も待ちきれず、いま仕舞ったばかりの蒲団を押入れから引張り出して、雪乃は誘った。そうする より愛情の表現のしようがないような気がしたからである。東吾と体を併せて以来、東吾なしに は生きてゆけないと雪乃は思い込んでいる。すぐに燃えない東吾が恨めしかった。 「昼間だろう」 仏谷では寝たくせに 「昼だって朝だっていいじゃないの」 ふくよかな胸を押しつけ雪乃はねだる。終っても馬のりになって離そうとせず、再び重なって 離れ難いのだ。 「お前、真逆こうやって殺ったんじゃないだろうねー 「何を ? ええ、東さん何のこと 「久道さんだ」 何が可笑しいのか、雪乃は突然狂ったように笑い出した。東吾が窘めると、 「たって、突然変なことを言い出すんだもの」 涙がせり上げる。東吾はずっと疑ぐっていたのだろうか。別れてからずっと、そのことだけを 140

7. 万灯火

祝 りんに長々と悔み言を述べてから、雪乃の方へ向き直った。 「足すべらせて、タネ池さ落ちだってしか。まずう、それだば 。したども、あなだが間違っ て突いだのでねしべな」 蒼白んで腑向く雪乃へ、なおも押し被ぶせるようにこまはまくし立てた。 , ~ 後こつづく弔問客 はっと聞き耳立てるのをりんが見咎め、 「こまさん。冗談を言っている場合でねえし、なん・ほ親しい仲でも、言って許されることと、な んぼ喧嘩仲間でも言ってならねえことだってあるのだし、雪乃さんは久道を助けようとして、自 分もタネ池さ落ち、やっと這い上ったのだしー 「したら蹴飛ばしたのだしかー こまは平然と笑った。仏の前で不謹慎なことだ。男なら、りんも張り飛ばしたい。 「そんただことってあるのしか」 低いがりんの声は強く、座敷の外まで聴えた。無低抗の雪乃が泣き伏してしまったからだ。こ まの傍若無人ぶりに、他の弔問客も眉をしかめた。 「雪乃さんはあっちへ行ってなさい。ゅんべ寝てないから気が細っているのだし、鶴うこも一緒 に、向うの炬燵で少し横になりなさいー 雪乃を庇うりんの見幕が気に要らず、こまはすぐに帰ってしまった。

8. 万灯火

敷へ入ってしまう。一体久道はどこであんな声を出しているのだろう。獣のような、絶叫の声 だ。思い巡らすりんは、まるで金縛りにあったように身動きが出来ず、下腹から棒が突き上って くるような恐怖で、声も出ない。 次第に意識が呆んやりしだした。雪乃を呼・ほうと気ばかりあせる。それからどのくらいの時間 が経ったのであろうか、いや直ぐに立上ったような気もする。這って障子を開け、りんは廊下へ 出た。 土間の通路を隔てて蔵座敷があった。りんは燭台に灯りを入れて覗いてみたが、久道はいな 。雪乃の部屋だろうか。雪乃は鶴代と寝ている筈だ。 雪乃の部屋には蒲団が二つ、敷きっ放しで誰もいなかった。鶴代はどこへ行ったのだろう。り んはこんがらかった頭を整理しようと燭台を置いて眼をこすった。 「鶴うこ みんな何処へ消えてしまったのだろう。 「鶴うこ、鶴うこ 返事はなかった。襖も開けっ放して一体どこへ行ってしまったのだろう。息が詰ってりんはう ずくまった。茶の間から、不意に時計の鳴る音が聴え、ポンポン時計は幾つ鳴ったのだろう。数 えているうちに数も判らなくなった。まだ宵のロだろうか、それとも夜明けだろうか 「おばあ」 104

9. 万灯火

祝 日暮に、人目をはばかりながら東吾はそっと信太家を訪ねた。りんも鶴代もいない信太家は空 気まで死んだように静かだ。裏木戸から入った東吾は足音を忍ばせて雪乃の姿を求めた。土間に 寝ている男のことが気になったが、東吾はかまわず雪乃の名を呼んだ。 「雪乃さあん」 風呂の焚き口にしやがんで火を燃やしていた雪乃は、手にした薪を持ったまま立上った。少し やっ 見ぬ間にすっかり窶れてしまった雪乃に、東吾は眼を瞠った。不意に立上って眩暈でもしたの か、足をすべらせ、薪を捨てるとそのまま駈け寄る東吾の胸に抱きついた。 「ひどいし、ひどいし、東さんはひどい」 こぶしを振り上げ、無茶苦茶に東吾の胸を叩いた。 「どうしたんだ」 どうしたんだもないものだ。あふれる涙が際限もなく東吾の胸を湿らせる。 「なぜ結婚したの東さん」 「仕方がないだろう。あねさんはきついから、怒らせたら何をやらかすかわからないものなあー 雪乃は激しく咽んだ。 「したども、うちのおばアさんだって心配しているのだし、叔父と姪の結婚は法律でも禁じられ ているのだし」 そうにちがいないのだが、家のためと、この村では例のないことではなかった。東吾はわが身

10. 万灯火

炎の花 母が死んた三月十日後からは、東京には暫く大規模な空襲はなかった。寒さがゆるみ、間もな く万灯火の里に生れた者には忘れることの出来ない春彼岸がやってくる。亡き父、亡き母の供養 をするのが、子のっとめではなかろうか。だが、新しい仏となった母の骨を風呂敷につつんで抱 き帰った私は、白山下の家へ戻る気にもなれず、ずるずると局長宅へ泊り込んでいた。七日七日 の夜、局長夫人の実家から片手の無い若い坊さんがお経をあげに来てくれた。私は局長さんにお 願いして、母の供養を一緒にして貰った。 片手の坊さんは透き通るいい声で、お経も上手だった。お骨の風呂敷包みはおかしいというの で、味噌ガメを丹念に洗ってそれに詰めたが、背の高かったわりに骨の量は少なく、これが母の 遺骨だろうかと疑ったほど僅かだった。局長さんは、あとがっかえているからざっとひろったん だろう、量が少なくとも骨はめったなことで間違える筈がないからと、慰めてくれた。局長さん こんな気 の側にいると私の心は妙に和んだ。頼りない私を愍れんでいてくれるのかもしれない。 持は私にとって生れて始めての経験である。決して女が男を愛するといった生々しいものではな