空襲警報 - みる会図書館


検索対象: 万灯火
16件見つかりました。

1. 万灯火

炎の花 残しても仕方のないことだが、母も東吾もいなくなったいま、私はそうすることで気がまぎれ 四月二十四日午前九時に四の金属音を聴いたが、空襲警報は鳴らなかった。鳴ったかもしれ ないカ、馴れつこになって、四一機でびくついているのが馬鹿らしくなったのだ。よほどのこ とでなければ耳も馬鹿になっている。 二十九日天長節。昼近く空襲警報が三度鳴った。このところ豆カスの配給ばかりで、食べるも のがないから体がだるく、脚がむくんでいる。脚気かもしれない。味噌も醤油も尽きたがもう手 に入らない。東吾は何処をうろついているのだろう。何か持って来て東さんと、日に何度となく 呼びかけるが、勿論応える筈はない。死んでしまったのかもしれない。ご飯が食べたい。芦原へ 帰りたかった。 五月八日ドイツが降伏したそうだ。一体日本はどうなるのだろう。マリアナ群島から飛んでく る四に加わった戦闘機は、硫黄島に出来た基地から飛び立っそうだ。空母からの艦載機も 盛んに飛び廻って銃爆撃を行うらしい。何時になったら帯を解いてゆっくり眠れるのだろう。う つかり歩いていると射殺されると脅されるが、私は局の昼休みの時間を利用して時々白山下の家 へ行ってみた。もしかしたら東吾が帰って来ているかもしれないと思ったからだ。交番の横を曲 り、坂の上へ出る途中で今日は北から南へ一直線に四が一機飛んでゆくのを見た。機体が大き いので、悠々と大空を泳いでいるように見える。見送っていると実に憎ったらしい。真っ昼間、 201

2. 万灯火

炎の花 戻っても直ぐ判るようにして置きたかったからだ。そのために無駄なことだが家賃も払って住居 をそのままにしてあるのだ。決して母を捨て置くわけではない。 窓を閉め、カーテンを廻すと仄暗い部屋の中に、白い布につつんだ骨壺だけが浮き上って、じ いっと私を視ている。抱きしめてやりたいような切ない気持になりながら、私は東吾の戻ってい ないことになぜか吻っとするのだった。 山の手に大空襲のあったのはその夜で、時計の針は十時半を指していた。昨夜も空襲警報に起 されたので、またかとうんざりだが最初の警戒警報が忽ち空襲警報に切り変ったので、寝ている わけにはゆかず身仕度をした。防空壕に入らぬうちに四数十機が頭上で旋回しはじめ、筒型の 焼夷弾が雨あられの如く降った。局長に早く早くとせきたてられても恐怖で足が前へ出ないの だ。ザザザーツ、キーンキーンと耳の底まで突き刺さる金属音に耐え兼ねて私は暫く階段下に身 をひそめた。動けなかった。たとえ防空壕へ入っていたとしても、直撃を受ければそのまま焼け 死ぬだろうと私はとっさに判断した。これまでとはちがう爆撃音の凄まじさだった。此処にいま しようよと私は局長の手を引張って無理にしやがませた。同じ死ぬなら少しでも呼吸の楽な方が 、、 0 狭い防空壕で窒息死したり蒸し焼きになったりするのは我慢がならないと思ったのだが、 局長は此処は危ない。外へ出よう、逃げようと、聴いてくれなかった。 噂さにたがわず、二十七日の海軍記念日を目前に、焼け残った住宅街を一軒残らず焼き尽すっ もりのようだ。やっとのことで外へ出たが、どっちを向いても火の海だ。轟音と異様なきな臭さ 203

3. 万灯火

女はモンべを脱ぐ暇がなく、男もゲートルをつけたまま眠り、もう永久に目覚めなくともいし と、誰もがやけつばちになっていた。 空襲警報の鳴る度に、雪乃を抱えて防空壕へ出たり入ったりする東吾に、鶴代は腹を立て、 「もう放って置けばいいのよ。どっちにしたって駄目なとぎは駄目なんだから、私はもう芦原へ 帰る」 と言い出した。 「何を言っているんだ。病人をどうするんだ」 「放り出したらー 「馬鹿なことを、自分だけ助かればいいのか。そんなことをしたら人殺しと同じだ」 「いいえ私は母さんとちがいます。手にかけて人を殺すような真似はいたしません。母さんはた とえ死んでも自業自得でしよう 東吾は蒼ざめて鶴代を睨む。 「動けない者を捨てれば手にかけたも同じだろう [ 鶴代はちがうと動じない。 警報が解除になると、東吾は両手を突いて、どうか雪乃を捨てないでくれと哀願した。貯金は 必ずつくるからと約束し、雪乃の汚れものを綺麗に片付けて家を出て行った。二度と帰らぬ覚悟 のようにも見えた。 186

4. 万灯火

一ノ関東吾について警察はそれ以上のことは訊ねなかったし、鶴代も要心ぶかく、訊かれたこ と以外は答えなかった。それでも警察は次第に執拗になり、刑事が二三日置きに、白山下の家へ 訪ねてくるようになった。鶴代は狼狽したが、母はロが利けないので助かった。ロ裏を合せるこ とも要らず、半身不随の母が庇ったかたちになった。思えば罪深い母娘である。国民服にゲー ルを巻いた刑事は鋭い眼つきで、出身地についてもう一度訊ね直し、 「帰って来たら必ず届けろよー と言った。鶴代は落着いて、わざとあどけなく、 「何か悪いことをしたんですかー と、刑事の顔を見た。リ 廾事がじろじろ家の中を見廻したからである。 「あの人は悪いことなんか出来る人じゃありませんわ。気が小ちゃいんですー 刑事は片頬に薄笑いを泛べて、返事をしなかった。鶴代は更に要心しなければと思った。東吾 はっていない。当然警察はこの家を見張るにちがいない。 三月四日の空襲は本郷、下谷、足立区、城東豊島区を焼き、杉並を襲った。 午前十時に鶴代は職場で爆音を聴いた。上野の方から聴えて来たような気がして、直ぐ防空壕 へ入ったが、朝から降っていた雨がみぞれに変り、じいっと蹲んでいると凍えそうだった。この 日、三月四日は鶴代にとって終生忘れることの出来ない日となったのだ。 空襲警報が解除になって吻っと息つく暇もなく局長夫人が倒れた。医者が来たときにはもう息 ー 90

5. 万灯火

存在だった。何か逆いきれぬものを感じてしまうのだ。東吾からみれば目茶苦茶とも思える鶴代 の強気が不安だが、魅力でもあった。自分から裸になる女だが、私より母さんの方が好きなんで しようと拗ねることも知っている。私は子供の時分から東さんとこうなるのを待っていたのよと 甘えかかるいじらしさに負け、雪乃の見ているのもかまわず抱いてしまうのだ。そんな鶴代のた めに、東吾はどんなことでもせずにはいられない気分になってしまう。力の限り闇物資を背負 、汽車にも乗れず鉄路を、背負った荷物の重さにえっちらおっちら歩きながら、地獄のような この闇夜が永遠につづいてほしいなと思うこともあるのだ。警察に追われて逃げ廻るのはもうご めんだ。なんだって自分は暗い世界にしか生きられないのだろうと身の不甲斐なさに思わず涙が こ・ほれる。 天罰だと闇の声がささやいた。疲れた体を引摺る自分に、自分でそう言い聴かせたのだ。 空襲は激しさを増して昭和二十年はたいへんな元旦となってしまった。屠蘇も餅もない越年 に、大晦日は除夜の鐘に代って空襲警報が一際鋭く鳴り渡り、またしても江東方面がやられたと いう。五日、九日、十日も四が姿をあらわし、十日は十機ほどの編隊でやって来た。日本機も 蚊が群れるように体当りで応戦したようだが、効果はなかった。撃墜されたのは日本機だけだ。 の巨大な四は姿を見せる度に美しい飛行機雲を残してゆうゆうと飛び去った。 山たとえ自分の家の周囲に焼夷弾が落ちなくとも東京の空はどこかが赤く燃えつづけ、西風に乗 白 ってきな臭い風が吹き荒れた。もう神も仏もなくなった新年である。

6. 万灯火

が、局長夫人になった私を疑ぐりの眼で見る人はいないと思う。局長の、前夫人が残してくれた 数々の立派な茶道具も私のものとなって下北沢へ運ばれた。 四月一日の午前七時半頃、一機が淀橋と豊島区に投弾し、被害家屋は五十戸あまり、四十 名もの死修者が出たそうだ。その翌日の四月二日、午前二時頃に今度は中島飛行機工場が、爆弾 と時限爆弾の混投を受けたらしい。こうなれば、焼ける、焼けないは賭けのようなものだ。下北 沢の家も私にとっては運を占う一種の賭けとなった。 四月四日も午前一時から空襲警報が出た。敵機は立川飛行機工場とか中島飛行機工場などの軍 需工場を狙い出し、その死者千五百人と発表された。 四月十二日は午前九時二十分から四百七機が東京上空に襲来、十三日も午後十一時から十四 日の午前二時二十分まで、三月十日の空襲と同様の手段で三時間あまりも低空から焼夷弾攻撃を かけて来た。足立、荒川、王子、滝野川、本郷、牛込、淀橋、板橋、神田、四谷、小石川に杉並 区を加え、逃げ場のない混乱状態に陥すことが狙いのようだった。死者も二千四、五百名を越 え、負傷者を入れたらおびただしい数にの・ほるだろう。市内は殆んど焼けて丸坊主になった。た てつづけに四月十五日午後十時から翌午前一時まで、さらに四は数を増し二百機で襲撃をはじ めた。十八日は十二時から、そして十九日は午前十時から、四はまるでとどめでも刺すかのよ うに、という新手を引き連れているという。明日のことはもう何もかもわからなくなり、私 は、自分の見聞きしたことをなるべくくわしく、こまかに手帖に書きしるそうと覚悟した。書き 200

7. 万灯火

運ばれた。火葬場は死骸の山だという情報が入ったからだ。遅れればそれだけ後廻しになる。 昆布巻のように毛布でつつんだ遺骸を、土管屋で借りたリャカーに乗せ、局長が引いてくれ た。それでも家を出る前に局長夫人の実家から坊さんが来てお経をあげてくれたのがせめてもで ある。近所の人々も寄り集って見送ってくれたが、誰もリャカーの後押しをしてやろうかと言っ てくれる人はなかった。 棺が出るとき、本当によかったです。あなたもこれでやっと救われましたねと、低い声で鶴代 の肩を叩いてくれたのは煙草屋のおばさんだった。近所の人達はみな鶴代を愍れんでいたのかも しれない。 夜中の十一時に白山下の家を出たが、途中何度もリャカーの後を押す鶴代がへばったので火葬 場へ着くまでに夜が明け、受付けて貰うのに昼までかかった。火葬料は二十円で、骨を渡すのは 一週間後だという。カメがないからポール箱か、風呂敷を忘れないで持ってくるようにと注意さ れた。たまり兼ねた局長は、これは心づけですからどうかみなさんでお分け下さいと手早く十円 札を四、五枚掌の下に忍ばせるように渡してくれた。一週間もかかるというのは、順番が廻るの にそれだけかかるということだろう。空襲があれば勿論途中でも火は消さなければならない。だ が一週間も放って置いたら遺骸は腐ってしまうだろう。文句は言えなかった。持って帰れと言わ れたら困るのだ。局長の差し出した心づけが効を奏したのか、それでは明後日の夕方ではどうで しようと受付が言った。何分にも混雑しているものですからと四囲をはばかる低い声だった。地 196

8. 万灯火

一機で飛ぶのは偵察だと局長が言った。今夜もまた空襲だろう。皆殺しにならなければ日本は決 して降参しないだろう。 白山下の家は別段変った様子もなかった。鍵をはずして入ると、カーテンを廻したたたきは意 外にひんやりしている。只今、それは何時もの口癖なのだ。驚いたことに、その声に応じるよう に、母がひとり。ほっねんと坐っていた。 母さん 若いときの美しい母だった。盛装した母は両手を突いてにつこり笑った。腰の抜けるほど驚い た私は、夢中でカーテンを引張った。 形ばかりの床の間に白い布にくるんだ母の骨壺がぼつんと置いてある。母の姿はどこにもな 。ある筈がなかった。母は死んだのだ。 私はなぜあんな錯覚をおこしたのであろう。確かに母の幻影を見たのだ。母は何か私に言いた いのだろうか。 母さん なぜ母はあんなに美しくなって私の前に現われたのだろう。家の中の空気を入れ替えると、台 所の揚げ板をとって、僅かばかり残った食糧を、提げて来た篭に詰めながら私は考える。食糧は 大豆と干し大根が少しあるだけだ。 東吾の戻った気配はない。私が坂下のこの家に母の遺骨と位牌を残して置くのは、東吾が何時 202

9. 万灯火

炎の花 母が死んた三月十日後からは、東京には暫く大規模な空襲はなかった。寒さがゆるみ、間もな く万灯火の里に生れた者には忘れることの出来ない春彼岸がやってくる。亡き父、亡き母の供養 をするのが、子のっとめではなかろうか。だが、新しい仏となった母の骨を風呂敷につつんで抱 き帰った私は、白山下の家へ戻る気にもなれず、ずるずると局長宅へ泊り込んでいた。七日七日 の夜、局長夫人の実家から片手の無い若い坊さんがお経をあげに来てくれた。私は局長さんにお 願いして、母の供養を一緒にして貰った。 片手の坊さんは透き通るいい声で、お経も上手だった。お骨の風呂敷包みはおかしいというの で、味噌ガメを丹念に洗ってそれに詰めたが、背の高かったわりに骨の量は少なく、これが母の 遺骨だろうかと疑ったほど僅かだった。局長さんは、あとがっかえているからざっとひろったん だろう、量が少なくとも骨はめったなことで間違える筈がないからと、慰めてくれた。局長さん こんな気 の側にいると私の心は妙に和んだ。頼りない私を愍れんでいてくれるのかもしれない。 持は私にとって生れて始めての経験である。決して女が男を愛するといった生々しいものではな

10. 万灯火

黒くねばっく重い雨だった。腕時計は九時を指している。職場はどうなっただろう。郵便局も焼 けてしまったのだろうか、局長さんはひとり。ほっちで頑張っているにちがいない。夫人が生きて いたらどんな相談にでものって貰えたのに、もうみんないなくなったのだ。一体誰に母の死を告 げればいいのだろう。 どうしても家へは戻る気になれず坂の途中まで行って引き返した。とにかく職場へ行ってみよ う。焼けた浅嘉町を避け、遠廻りして曙町へ出た。曙町もすっかり燃えて余燼が熱い風を煽る。 ひどい熱気だ。空襲のサイレンを聴いてからまだ八時間しか経っていないというのに、こんなに も広い範囲を焼き尽してしまうとは、信じ難いことだ。焼夷弾の威力である。焼夷弾が雨あられ と降ったのだ。あの落下音は悪夢などではなかったのだ。やがてみんな灰になってしまうのだ。 死者もたくさん出たようだ。逃げ惑い、焼け焦げて死んだのであろうか、逃げも出来ず押入れ の中で死んだ母の方がまだしも仕合せだったのだろうか。 止めどもなく涙は頬を転がり落ちた。母が死んだ。あれほど母を嫌悪し、死んでほしいと願っ た自分なのに、死なれて、何一つ心の準備のないのが悔まれる。死なせるのではなかった。 局長夫人につづいての母の死だが、不意にやってくる死の怖しさに耐え兼ね、地べたにうずく まって鶴代は号泣した。通りかかった人が怪訝な表情をしたが、声もかけずに通り過ぎた。誰の 心もみな虚しくて、空つ。ほなのだ。やがて鶴代は、掌についた土を払いながらその手をじいっと 瞶めた。涙にうるんで何も見えない。喜びも悲しみも、何もないのだ。東吾はもう帰って来な ー 94