祝 りんに長々と悔み言を述べてから、雪乃の方へ向き直った。 「足すべらせて、タネ池さ落ちだってしか。まずう、それだば 。したども、あなだが間違っ て突いだのでねしべな」 蒼白んで腑向く雪乃へ、なおも押し被ぶせるようにこまはまくし立てた。 , ~ 後こつづく弔問客 はっと聞き耳立てるのをりんが見咎め、 「こまさん。冗談を言っている場合でねえし、なん・ほ親しい仲でも、言って許されることと、な んぼ喧嘩仲間でも言ってならねえことだってあるのだし、雪乃さんは久道を助けようとして、自 分もタネ池さ落ち、やっと這い上ったのだしー 「したら蹴飛ばしたのだしかー こまは平然と笑った。仏の前で不謹慎なことだ。男なら、りんも張り飛ばしたい。 「そんただことってあるのしか」 低いがりんの声は強く、座敷の外まで聴えた。無低抗の雪乃が泣き伏してしまったからだ。こ まの傍若無人ぶりに、他の弔問客も眉をしかめた。 「雪乃さんはあっちへ行ってなさい。ゅんべ寝てないから気が細っているのだし、鶴うこも一緒 に、向うの炬燵で少し横になりなさいー 雪乃を庇うりんの見幕が気に要らず、こまはすぐに帰ってしまった。
りで持って出はしたが、雪乃も鶴代も着のみ着のままである。少しでも働きたいと思う。果して うまく仕事口が見付かるだろうか。正月が過ぎたら勤め先を探がしてみるつもりだが、さてその うろた 仕事となると何も出来ない自分に雪乃は狼狽える。 松がとれるとさっそく職を求めて上野辺を歩き廻ってみた。結局、料理屋の皿洗いぐらいしか 出来そうもなく、勇気がくじけた。 皿洗いも重労働である。てきばぎとやってのけなければ一人前とはいえまい。動作の鈍い雪乃 には、 かなり辛い仕事となるだろう。夜おそくまで毎日勤めに出るとなれば、鶴代のことも心配 。こっこ。 考えるとだんだんに、鶴代の学校のことも心配になった。やはり連れて出たのは軽率だった。東 吾は本当に自分の許へ来てくれるのだろうか。信じないわけではないが、己の無謀が悔まれる。 家主の老人夫婦は親切であったが、何もかもあからさまに相談にのって貰うわけにはゆかない 」プっ一つ - 0 部屋を借りるとき、夫はあとから来ますと言って置いたが、何か事情があると察してか、老夫 婦はその理由など何も訊かなかった。 都会の人間はもの解りがいいのかもしれない。それとも冷淡なのだろうか。他人ごとには関心 を持たずに生活しているようにもとれた。先祖代々住む村とはどこかちがう。各地から集まって 来て見も知らぬ人間が仲良く暮してゆくためには、他人ごとを詮索しないのが礼儀なのだろう。 リ 2
それでも生きてゆく 鶴代は近くの小学校へ就学の手続きが出来、だんだんに自分の住む街の様子もわかると、雪乃 も真剣に仕事を求めなければならない。 昼の勤めロは、雪乃の年齢では無理であった。旅館か料理屋の下働きでもするしかない。距離 的に近い上野界隈をひっしになって探し歩いた。 黒塀の廻った料亭の勝手口にぶら下っている求人広告を見た雪乃は往きっ戻りつ、ためらいな がら勇気を出して、くぐり戸を入ってみた。 求人は下働きであったが、雪乃を見た女将は、座敷に出て働く気はないかと訊いた。 みいり 「その方が収入も多く、体が楽だよー ゅ て どうみても雪乃は。ほっと出の農村の女とは思えない。 生 着物がなければ貸してやると言った。そう言われると、雪乃もその気になり、小さな店で働け れば気楽だとも思ったが、それだけ人目にふれやすく、故郷の人に見付かる心配があった。田舎者 そ が、こんな料亭へ来ることはまずないだろう。収入がいいと言われたことも魅力であった。金が
けにはゆかない。 午後になって弟子達が集まり、いつものように茶室へ入った私は、座に着くと途端に二度目の 発作に襲われた。もともと胃弱の質で、少し食べすぎると胸焼けがしたり、最近では慢性の下痢 症状も加わって年中薬を手放せない。貧血気味だと医師に注意されてはいたが、そのせいばかり ではない。食欲もなかった。体重が減って、鏡で確かめるまでもなく、胸許の薄さが目立ってい 依怙地な私は、それとなく人に注意されることを拒む。夏負けが恢復しないのだと言い張って 秤にも乗らない。体重のやたらに減ってくるのは耐え難いものである。たぶん四十キロを割って いるにちがいない。百六十三センチ、女としては背の高い方だから、私の年齢であれば六十キロ あって当然だ。それに、どちらかというと私は骨太い。がっちりした体格なのだ。 秤に乗ろうとしないのは、虚勢でもなんでもなく、好きな煙草や酒を止めたくなかったから だ。医師の手を拒む気持が強いのだ。 酒も煙草も不味かった。倒れても当然だろう。周囲の誰しもそう思って私を見ていたにちがい しかし、頑くななようでも、内心私は怯えていたのだ。病気とわかっても、病気と宣言される のが何より怖しい。私はひとりぼっちで闘って来た女である。身寄りらしい者は、この世に誰ひ とりとしていないのだ。一寸逃れの愚さとわかっても、私は私の体を診てくれる医者の手を拒ん おび
「信太さん、お客さんですよー 階段の下から何度も呼ばれて、雪乃はやっと目を覚した。お客だなんて、誰だろ。客など来る 筈がない。時計は十時を廻っていた。 もしかしたら、そうだ。東吾だ。雪乃はばっと飛び起き、慌てて蒲団を片付けはじめた。寝間 たたき 着を脱ぐ間も惜しくすべり落ちるように階段を降りると、雨に濡れた東吾がしょんぼりと三和土 に立っていた。やつばり東吾だっこ。 「東さん ! 」 人が見ているのもかまわず、雪乃は東吾の肩に両手を掛け、懐ろへ顔を押しつけた。 東吾は小さな風呂敷づつみを一つ持ったきりであった。見てはならぬものを見たように階下の 老婆はそっと暖簾を掻き分けて店へ姿を消した。 引っ張り上げるように、雪乃は東吾を二階に上げた。 「逢いたかったよ東さん」 寝間着の胸のはだけているのもかまわず、東吾の手を把って放さない。 ゅ て傘もささずに東吾は街中探がし廻っていたのだろうか、冷たい手をしていた。 生 「脱いだら」 、も れ女物の浴衣を着せられた東吾は、恥しそうに身を縮めた。 そ 「すぐ乾くから、ゆうべはろくに眠ってないんだろう。少し横になったら、床とろうか 139
根負し、尚子のおだてにのった。尚子のいう成功者だと思ったら奢りであったろう。奢りの心地 良さに、みごと敗北した。私は生来打算にたけた女である。何かとそろばんをはじく。世の中の 凡てとは言わないが、大方は金銭でかたがつくと私は今でも信じている。これまでの生活経験か ら得た信条でもある。世の中に金で片付かぬものなどあるだろうか。しかし私が、これまで女中 や内弟子を置かなかったのは経済だけが理由ではなかった。自分自身の持って生れた秘密や、家 庭内のもめごとを他人に覗き見されたり、そのあげく妙に馴れなれしくされたりするのが厭たっ たからで、私は要心深い質なのだ。厭な思いをするぐらいなら、いかに日当が高かろうと、通し の家政婦を傭う方がどれだけさつばりしていいかしれない。家政婦を呼ぶには電話一本で事足り る。後腐れがなく、その女が気に入らなければ、その場で解雇も出来る。家政婦に支払う賃金を 惜しまなかったのはそのせいだ。その代り家政婦には、約束の時間ぎりぎりまで精いつばい働い て貰う。労力を時間で買うのだから、容赦なくこき使うのだ。しかし、三度の夫との死別で私の 心に何か。ほっかりと穴があいていた。 芦原へ帰ったのは何十年振であったろうか。なっかしい故郷の土を踏み、人恋しさに飢えた私 は何か大きな誤算を犯してしまったようだ。打算という大きな誤算だ。娘にはほんの少し小遣を 与えて下さればそれで結構です。その他の費用の一切はまとめてお届けします、との尚子の懇願 に負けたのは私の打算で、みごと一本とられ、加那子を引受ける破目となったのだ。それほど言 うならと、しぶしぶ加那子を手許へ置くことを承諾したのは、昔のよしみなんそというものでは
悲よなアと言った。けれども御仏の慈悲が悪魔の力に負けたとき、空が怪しくなり、雪嵐しがや ってくる。 けがっ 春彼岸に団子が凍るようならば、今年もまた饑渇だと村人は一年の豊凶を占い、ひたすらこの 日の吹雪を怖れた。しかし、どんなに吹雪こうと行事を休むということはしなかった。手足も凍 える寒気の中で、村は上下二つに分れて火を焚く準備をととのえる。 タ餉を早めに済ませて、各自が手に手に藁一把と、先祖のおじいおばあに奉まつる熱い甘茶を 土瓶に入れ、彼岸花 ( 彼岸用の造花 ) と団子を持って口々にマトビの唄をうたいながら川原へ集 まる。藁一把とは、十株の稲のことだ。 次々に藁を積み上げると、若者達が火を放つ。さア燃えたそ ! の掛け声に、待ち構える子供 達は、犬ころのように火の廻りを走る。おじいナ、おばあナと天に呼びかけるのだ。ああ、藁山 が燃え、赫々と天を染めると遠い遠い、百万億土の彼方から先祖のお精霊が村へ戻って来る。 聖火をとり巻く子供達のほっぺたも四囲の雪も真っ赤に燃えた。子供達の群にまじって、東吾 の顔も、兄の顔も見える。兄の頬も東吾の額もちろちろと火の色に染って美しい。藁山の燃え尽 きないうちに火は万灯火へ移さなければならない。何日も何日もタネ池につけて充分水を吸わせ まつやに さんばしら た桟柱に、よく乾したオガ屑とオガラを丹念にまぜ合せ、松脂を練り込んで、こねて丸めて固 め、布につつんで棒の先へ取りつけると万灯火の種が出来上る。 火はすぐにもっきそうだが、容易に點かず、子供達は息をのんで火のつくのを根気よく待つ。
雪乃はりんに腹の底まで見透されたようで怖しくなった。い っそのこと何もかも打明けてしま おうか、幾度となくためらったが、りんの悲しそうな眼つきに出会うと何も言えなくなってしま うのだ。 「ついでに下駄も買ったら、それに町さ出れば、なん・ほでもほしいものが眼につくべ、気に入っ た柄があったら新しい羽織の一枚も拵えたら」 りんも気付かぬ振をしている。 「したら預かっておばアさんの分も買って来るし」 五十円を押しいただき、雪乃は翌朝、娘の手を引いて芦原を出た。 家を出るとき、空は久し振りで真っ青に晴れていた。雪乃は何度も振返って後へ遠くなる森吉 山を仰いだ。山はすつぼり雪を被ぶり真白な稜線が光って見える。あの山の麓に雪乃の生れた村 がある。父も母もすでに亡く、久しく村へは戻ってないが、久道が死んだとき弟が来てくれた。 自分はあの村へはもう二度と戻ることはないだろう。雪乃の頬を熱い涙が走った。拭うのと鶴代 が見咎めるのが一緒だった。 「母さん、なして泣くの」 雪乃は返事の代りに袖ぼっちの紐をしつかりと結わいてやった。 「寒くねえしか」 「なも」 1 2 2
てみるのだった。 「あんたとこまさんは、刎頸の交わりだなどと評判たてられた仲でねえしか。何そ仲違えするよ うなことでもあったのしか」 雪乃は表情を固くして首を振ったが、いつもの雪乃とは違う。強情な首の振り方で、りんの眼 にも蒸けの湯以来、確かに二人の仲が変ったとしかとれないのだ。 「こまさん宅で、聟を貰うのも知らねでいたとは、そんただことってあるのだしか」 姑の声が責めているようにも聴えた。 普通なら、しのぶはもうとっくに結婚していい年齢で、結婚の遅れているのは、しのぶが蹇だ ったからである。二、三歳の、まだよちょち歩きの頃、縁側から転げ落ち、不運にも庭石で足を 打ってひどく不自由になったのだ。 体の不自由なしのぶは学校を厭がり、こまが無理やり女学校を卒えさせたものの、人前に出た がらぬ娘にこまも匙を投げ、好きなようにさせたのが逆効果で影の薄い存在になったのだ。それ でもよい縁談が見付かったのかもしれない。 内祝言だというから、いずれは日を改めて盛大な披露宴をするつもりなのだろう。そのときは 自分も出席しなくてはと、雪乃は思い直し、正直にそれを口に出した。 「そうす、そうしてたもれ。世間ていもあって二人が喧嘩でもしているように見えるのは、みつ ともね工し。これまでずっと仲良くやって来たんだもの、こまさんには並々ならぬ恩があるのだ
っても追いっかぬ重労働で、田仕事は夜明けからとりかかり、午前いつばいで終るが、一人七畝 歩が農奴のわっぱか ( ノルマ ) である。わっぱかをこなせないのはちくなしだとこまの眼は厳し く光り出す。残した仕事は翌日へ廻さず、昼食後も働かせた。わっぱかを済ませた若勢達は、当 然午後は体を休めることが出来るが、傭われ若勢の多くは、午後のあいた時間を利用して他に仕 事を求めて小遣い稼ぎをした。その自由だけは、甲斐性として認められている。 昼過ぎてもわっぱか仕事をやっているのは馬鹿もンだとこまは嘲けった。東吾の仕事は念入り だが、要領悪い弟をいましめているのかもしれない。わっぱかをこなしきれす、午後も働く若勢 の手助けも東吾は平気でやった。十七、八歳の、ようやく一人前の若勢になった頃、東吾はロシ ア人の行商人が売りにくる、赤いケットが欲しくて、信太家のりんのところへ小豆蒔の手伝いに 行ったことがあった。 「赤ゲットぐらい、あねさんにねだれば買ってくれように りんは赤ゲットをほしがる東吾がいじらしく、東吾の母はどんな思いでこの子を残して世を去 ったろうと、思わず涙をこ・ほしそうになった。小豆蒔が済むとりんは、又手があいたら手伝って おくれと、余分に手間賃をはずんだ。赤ゲットを手に入れると、東吾はすぐ見せに来た。東吾の うれしそうな顔を見ていると、気持の素直さが伝わって、りんは抱きしめてやりたいほど可愛ゅ く思ったものだ。こまと雪乃の仲違いで、東吾が犠牲になったのかもしれないとりんは察してい た。男手のない信太家ではどんなに春の田畑が忙しくても、りんが主力となって死にものぐるい