言う - みる会図書館


検索対象: 万灯火
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1. 万灯火

アメリカ軍の攻撃が激しく、マリアナ諸島の基地から四が飛び立つようになると、東京は言 うに及ばず、日本国中の都市が襲撃されているのに、鶴代達の住む坂の下の家が無事なのは不思 議なほどだった。 「ねえ東さん、戦争が終ると土地がものすごく値上りするんだってよ」 「戦争は終るのか ? 」 「終るでしよ。百年戦争だなんて馬鹿ばかしい。出来っこないじゃないの。沢山の人が死んじゃ って、食べるものも着るものもないのにどうやって続行するの、もう直きお手上げよ」 茶の代りに水を飲みながら、鶴代は確信めいたロの利き方をした。コップは汚れでくもり水は 不味かった。 「新聞だって、四分の一べらになってしまったじゃないの。資源涸渇で、もう長くはないって、 うちの局長さんも言っていたわ。いまはみんな逃げ出して空家も多いし、土地だって捨て値同様 だって、でも、戦争が終れば途端に地方へ疎開した人達がどっと戻ってくるでしよ。家だとか土 地とかが先ず値上りするんだってよ 「局長が言ったのか」 「そう、家を買いましようよ」 「どうやって買うんだ。金もないのに」 「私いま考えているの。東さんが闇物資を求めて小田原だの沼津方面へ出掛けるでしよ。千葉や 182

2. 万灯火

の顔はだんだん遠く小さくなって、何もない、真っ白な、のつべら・ほうの女が長い髪をたれてま た笑った。いつまでそうやって笑うのだ。ああ、私の眼はどうかなってしまった。ここで倒れた ら私の負けである。生きなくちゃ、夢中でその白い顔に突進した。両手を振廻したが、手が届か ず、空をむしって私はいたずらに喚めくしかない。 「あんたが嘘つきだってことぐらいは、知ってますからね。私の病気は、検査の結果、慢性胃炎 だと診断されたんですよ。相憎、あんたが考えるような業病とはちがいますからねー のど 息が切れて喉がぜいぜい鳴る。 「わかってますわ。そのとおりでしようたぶん。でもね、万がいちと言うことだってあるでしょ う。母さんだって、医者の診立てちがいってこともあるからと言っていました。こんな大きな病 院で、まさかそんなこともないでしようけど、ただーーー」 やっと加那子の眼と口がはっきりと動き出した。 「ただどうだというんですか 「ええ、先生は人嫌いだから困るんです。それに忙しすぎました。いつもゆっくりお話なんかす る暇がなかったでしよう。わたし、いまこそゆっくりお話すべき時ではないかと思って、早く家 を出て来たんです。母さんが一緒だと何もかもぶちこわしですから、私、どうしても先生のお耳 へ入れて置ぎたいことがあって、それに先生だって私に話して置きたいことがある筈ですわ。わ たしはどんなことを聴いても驚いたり、取乱したりはしませんから、なんでも聴きます。ちゃん

3. 万灯火

十歳は若く見えた。二人の子供を産んだとは思えないほど体つきも瑞々しく、少しの間に、都 会ふうに磨きがかかって、もう以前の雪乃ではなくなっている。乱れて落ちる鬢のおくれ毛を小 指にからめ、掻き上げる仕ぐさも変になまめかしい。 「三十六にもなった芸者がいるものか」 「あら、いくらでもいるわよ。五十になったってきれいなら、年なんか訊かないものよ。女に年 齢を訊くのは野暮でしよ」 「芸なしでもか」 「だから困るんだわ。せめてお三味線とか、踊りぐらいは出来なくてはね。何も出来ないから仲 居ふぜいがって、言われるんだわー 「当り前だ」 「あら、何を怒ってんの、馬鹿にされたって私は平気だわよ。芸事は習おうと思えば、これから だって出来るんだもの」 だわよ、だわよと蓮っ葉な東京弁を使うのも気に入らない。東吾は黙ってしまった。田舎にい ゅ た頃の雪乃は控え目なおとなしい女であった。しかし今は違う。少しの間にどうしてこんなに変 生 ってしまったのだろう。東京の水が女を変えてしまうのだろうか。怖しいことだ。本気で芸者に れなりたいと雪乃は思っているふうだ。真面目なのか不真面目なのか、見当もっかないほど浮かれ 気分で東吾に身をすりつける。東吾に会えたのがうれしくて浮かれているとは、どう考え直して ー 43

4. 万灯火

情けない声を出しながら、東吾の瞳はぎらぎら燃えた。 「鶴うこ 「もっと強く抱いて東さん」 雪乃は畳を掻きむしった。口惜しさ忌々しさで、半分死んだ母の体も嫉妬に燃え上っている。 鶴代はいま自分が何をやっているのか信じられないことだったが、これはもう前から心で決っ ていたことなのた。母の号泣など問題ではないと自分に言い聴かせ、男の耳朶をやわらかく噛ん 「東さん、天罰が怕い ? 」 「怕いさ」 「そう、私も。でもどうしようもないのよ。東さんのものになるから私と母さんを捨てないで 男は黙って身を起し、女の乳房の間に頬を埋めた。 「お祖母が死んだの」 「なんだって、どうしていっ死んだんだ」 の「阿仁川へ身を投げて、あんちゃんが殺したようなものよ。兄ちゃんが反戦運動で投獄されたの 山は東さんも知っているでしよ。それから徴兵を避けて満州へ逃げたらしいよ。みんなお祖母の不 白 仕末だということで生きていられなくなったんだって」 ねー あん 179

5. 万灯火

も少なかった。 雪乃は娘に三十銭で二段重ねの弁当を買ってやり、自分は五銭安い寿司弁当にした。土瓶に入 れた五銭の茶だけは二箇買った。これからは僅かの金も節約しなければならないのだ。来年の 夏、東吾が帰って来るまで、金は出来るだけ使わないで残して置きたかった。どんなに困って も、もう何処へも助けを求めることが出来ない。娘を飢えさせるようなことがあってはならない し、頼りになるのは懐中の金だけである。 弁当を両手で抱えると、娘は嬉しくてたまらないといったふうで、ホームへ入ってくる汽車を 待った。やがて列車が入り、ステッ。フに足をかけたとき、もしかしたら、これが転落のステップ かもしれないと雪乃はためらった。今ならまだ芦原へ帰れる。 早くしろと怒鳴る後の荷物に押され、雪乃はよろめいて車内に入った。 「母さん隙いているよー 娘の声に励まされ、窓側の席に母娘は向き合って腰を降した。もうこんなに押しつまってから 東京へ行く人などめったにいないのだろう。 今日、今から日本国中、国民は喪に服さなければならないのだが、自分は故郷を捨て、今、こ れから出て行こうとしている。 上野へ着いたら一体どうすればいいのだろう。西も東もわからないのが不安だった。娘を連れ て夫を探がしに来たとでも言ったら怪しまれずに済むだろうか。とにかく、もう自分は家を出て 1 0

6. 万灯火

きなのだ。 ただもう治りたいの一念で、さまざまな検査の連続にも耐え、四ヶ月も医師や石護婦の指導に 従って来たが、いまはもうその気力も失せ、無駄に過ぎた月日を思い悔いている。夜毎に襲う不 快な寝汗で、びっしより全身を濡して目覚めるとき私はこの世のすべてに不信感を持つのだ。私 は眠れない。遠い昔の記憶の一齣一齣が重い鎖となって私を締めつけ心を石にしてしまうの 朝も昼も絶えずうとうとしているが、眠れそうで眠れないじれったさ、深かく、ぐっすり眠れ たらどんなに仕合せだろう。眠りを下さいと手を合せる私に、若い主治医は愍みの眼差しを向け る。私はそんな優しい眼つきなどは嫌いだ。決してあの優しい眼に騙されてはならないのだ。残 されたいのちの短かさを、私自身が一番よく知っている。全快などという爽やかな朝はもうやっ て来ないのだ。 いま、私は黄昏どきの暗さの真っただ中で、手探ぐりの最中である。 主治医は病気を忘れなさいと言った。 忘れられるものたろうか。自分を病気に閉じ込めてはいけないと言った。 あきら 諦めの中で、それでもひょっとしたらと、体力の恢復を夢見るのは、もしかしたら、あの若い 医師のくれる睡眠薬のせいではないかと思ったりするのだ。そうた。あの眠り薬が私の体力を弱 らせ、私の心を鈍らせているにちがいない。 , 徐々にじよしょに私の肉体は植物化しはじめてい

7. 万灯火

女はモンべを脱ぐ暇がなく、男もゲートルをつけたまま眠り、もう永久に目覚めなくともいし と、誰もがやけつばちになっていた。 空襲警報の鳴る度に、雪乃を抱えて防空壕へ出たり入ったりする東吾に、鶴代は腹を立て、 「もう放って置けばいいのよ。どっちにしたって駄目なとぎは駄目なんだから、私はもう芦原へ 帰る」 と言い出した。 「何を言っているんだ。病人をどうするんだ」 「放り出したらー 「馬鹿なことを、自分だけ助かればいいのか。そんなことをしたら人殺しと同じだ」 「いいえ私は母さんとちがいます。手にかけて人を殺すような真似はいたしません。母さんはた とえ死んでも自業自得でしよう 東吾は蒼ざめて鶴代を睨む。 「動けない者を捨てれば手にかけたも同じだろう [ 鶴代はちがうと動じない。 警報が解除になると、東吾は両手を突いて、どうか雪乃を捨てないでくれと哀願した。貯金は 必ずつくるからと約束し、雪乃の汚れものを綺麗に片付けて家を出て行った。二度と帰らぬ覚悟 のようにも見えた。 186

8. 万灯火

六月が過ぎて、新暦で行う東京のお盆はむやみに暑かった。 東吾はまだ帰らない。 とっくに帰っていい筈だ。二ッ井の局止めで出した手紙は受取っただろ うか。心変りして芦原へ戻ってしまったのではないだろうか。 りんからもあれつきり便りがなく、もし東吾が戻っていれば知らせてくれるのではなかろう か。そら頼みと思っても、そう思いたかった。 りんから便りがないのは、縁を切ったつもりなのかもしれない。縁を切られても文句の言いよ うがないのだ。 久雄はどうしているのだろう。久雄を思うとき、雪乃の美しい眉が曇った。あの子は私を恨ん でいる。言いわけの出来ない疚しさが時折雪乃の心を襲い締めつけた。まぎらわすために、雪乃 は陽気に振舞うしかない。過去のことは綺麗さつばりと、みんな忘れてしまうのだ。いくら思い 返してもどうしようもない。 夏の暑さも盛りだというのに、雨のしとしと降る朝だった。 朝寝坊した鶴代は、遅刻だ遅刻だと何やら愚図ぐず言いながら学校へ行った。母が起してくれ なかったことを不服に思うらしい。それとも昨夜遅く戻った母への面当てなのかもしれない。近 頃鶴代の文句がやたらに多くなった。 二日酔いの雪乃は鶴代が出て行くと又蒲団を被ぶって寝た。眠りが足らないと、頭がずきずき して夜の勤めが辛いからだ。 やま

9. 万灯火

「母さん、もう大丈夫よ。いまご飯の仕度をするからね」 押入れの下段に眠る母に声をかけ、ラジオをかけて食事の仕度にとりかかった。ラジオは江東 区の被害を告げたが十万人もの焼死者が出たとはまだ発表してない。 敷蒲団ごと押入れから引張り出された雪乃は、どうしたことかころんと転がった。 「母さんーー」 鶴代は慌てて母を抱き上けた。だが雪乃はううっともすうとも言わない。死んでいたのだ。 「母さん、母さんーーー」 鶴代はどう家を飛び出したかもお・ほえてない。 とにかく医者だ。医者を呼んで来なくてはと夢 中で駈け出したのだ。一息に坂を駈け登り、道を間違えたかと鶴代は自分の眼を疑った。医院の あった辺りは殆んど燃え尽き、棟が落ちてもまだぶすぶすと燃えている家もあった。どこが医院 とこへ の玄関か、見分けもっかない有様だ。勿論医者もその家族も焼け跡になどいる筈がない。。 行ってしまったのだろう。町ぐるみ、みな逃げて仕舞ったのだ。坂の上は全滅だった。たまらな く熱い風が吹いて、眼をあいていることも出来ない。蓬莱町、肴町も浅嘉町の家並もなくなって しまっている。 の諦めて坂を下りかけると、追い駈けるように雨が降り出した。家を出るときから空は曇ってい 山たのかもしれない。鶴代は気が付かなかった。腰に提げていた防空頭巾を真深く被ぶったが、雨 白 は驟雨のように激しくなって四囲が見えなくなるほど暗くなった。真黒な雨が降っているのだ。 ー 93

10. 万灯火

考えていたのだろうか 「勝手に死んだのよ。タネ池さ嵌って」 「本当のことを言ってくれ。お前が突き落したんだって、姉が言っていたよー 東吾は、それが不愍で、それゆえに村を出る気になったのだ。だが、雪乃はそれを迷惑だと言 っこ。はっ」りと、 「人はどうとも言うものなのよ。自分の都合のいいように」 都合のいいように だが真実は一つしかない。おとなしいが、雪乃は外見に似ず負けず嫌い だ。東吾がはね退けると唇をきゅっと歪めた。白い歯が覗く。綺麗な歯並びだった。唾液で光っ ている。 「旅で女を買ったんだろー この女は何を考えているのだろう。東吾は呆れて雪乃の顔を瞶めた。 「だってさ、あんた欲しがらないじゃないの、もう沢山なの、もっと上げたいのに 雪乃は薄い夏掛け蒲団の中で脚をからめた。細くて撓やかな脚だ。 ゅ て「そんなところへ行く筈がないじゃないか」 生 一銭の金も無駄には出来なかった。この女が待っているから辛抱が出来たのだ。仲間に誘われ れても、酒は飲めないと断わった。 そ 「でもあんた痩せたみたいよ」 141