といーいと 果 , 第 2 次産業命後は , 先進国イギリスを凌する程の 生産高を示すに至った。ウィリアム 2 世 * 邸位後は , ドイ ツ帝国主義はその政策が露骨となり 1 ついに , 1914 年には 第 1 次大戦、ドを惹起し , その敗戦の結果 , ドイツ共和国が 成立した。しかし列国のドイツに対する制裁が苛酷に過ぎ たこと , 共産主義抬頭のおそれをはらんでいたことなどか ら , 1933 年にナチス * が政権をにぎってから , ドイツはイ タリアや日本とともに反共の旗をかかげて , 全体主義に徹 底し , ヴェルサイユ体制 * 破壊の方向に努力した。こうし て 1939 年 , 第 2 次世界大戦 * に突入し , 1945 年にはついに 無条件降代をおこなった。その後しばらくドイツは , 米 , 英 , ソ , イムの 4 国の共同管理下に人ったが , 1949 年ドイツ 共和国 ( 西 ) , ドイツ民主共和国 ( 東 ) の両国に分かれ , 冷い 対立の尖端にあって , 民族統一への悲願に苦しんでいる。 Zollverein 19 世紀前半に , ドイツ諸 ドイツ関税同盟 邦の経済的統一を冂標として設定さ ドイツは中世以来諸領邦国家の聞の経済的統一が れた機関。 なく , 近代に人ってからは相互に関税障壁を設けて , 資本主 義の発達が阻止されていた。 1819 年から 1840 年頃に至るま で , 北ドイツ , 中部ドイツ , 南ドイツのそれぞれの地方で関 税の撤廃 , 税制の統一がなされて , 関税同盟が結成された。 こうして , 1833 年には , オーストリアを除き , フ。ロシアを中 心としたドイツ関税同盟が結成され , ドイツ統一 * への難関 の一つが排除された。 中世以来 , ドイツは分割相続制 , イタリア ドイツ統一 干渉などで国内の統一への努力が少なく , アウグスプルグの和議 * や , ウェストファリア条約 * などで , ますます分裂への傾向を助長された。しかも , ウィーン会議 * は分裂した諸邦の連邦制をつくり上げ , 統一への前進は阻ま れた。しかし , フ。ロシアを中心とする , ドイツ関税同盟 * の 結成は , 速かに統一への機運を増大し , ウィーン会議 * 後のメ ッテルニヒ * などを中心とする保守体制が崩れ始めると , 自 山主義運動が次第に積極化した。 2 月革命 * の刺激をうけて , ウィーン及びベルリンには 3 月革命がおこなわれ , 1848 年 5 月にはフランクルトに国民議会 * が召集され , 小ドイツ主義 ( フ。ロシア中心によるドイツ統一 ) と大ドイツ主義 ( オース トリア中心によるドイツ統一 ) との論争が展開された紗 、一 0 1 局 , 小ドイツ主義が勝利をおさめ , フ。ロシア王をドイツ皇帝 とする決議が成立したが , フ年シア側の辞退で , 統一は不成 ↓ 53
といーとい ーマ帝国 * が成立した , , この帝国は , 1806 年まで続いた が , 諸の力が強く , イタリア干渉などのために統一困難 で , 帝国という名称も , 殪ど空名になってしまった。 15 世紀以後 , オーストリアのハプスプルグ家の勢力が強大と なり , 16 世紀のチャールス 5 世 * の時代には極盛期に人っ た。しかし , ドイツ分裂の動きは , 1356 年の黄金文書 * , 宗教改革後の 1555 年のアウグスプルグの利議を 30 年戦争 * によるドイツの荒廃後のウェストファリア条約气 1648 ) な どによって , ますます助長されるに至た - ・つ、一 0 〔プロシアによるドイツ統一 ] 16 世紀頃から急速に抬頭 したフ。ロシアは , 、オーストリア継承戦争 * , 7 年戦争 * によ ってオーストリアに対し優位を保つに至り , 1815 年のウィ ーン会議 * 後のドイツ連邦 ( 35 国 , 4 自山市 ) 形成の後は , フ。ロシアは新興工国として , オーストリアは老帝国として 対立するに至った。しかし , フ。ロシアとオーストリアのい ずれがドイツ統一 * の課題をになうかについては , 所謂 , 大ドイツ主義 , 小ドイツ主義の 2 案がネ張されたが , 結局 フ。ロシアが実力をもってドイツ統一をなしとけた。即ち , 普墺戦争 ( 1866 ) 及び普仏戦争に勝利を占めて , フ。ロシア は , 1871 年ドイ・ツ帝国となり , プロシア王がドイツ皇帝に 即位した。外見上は帝国議会をもち , 立憲君主主義のよう に見えたが , 事実は宰相と皇帝の独裁的傾向が強く , 連邦 制も全面的に否定することは困難であった。 [ 現代のドイツ〕統一後のドイツは産業保護政策によっ て急速に従来の経済的な立ちおくれを取り戻そうとした結 ドイツ史関係年表 ( ドイツ統一まで ) 843 870 962 1024 1138 1241 1256 1356 1438 1517 1524 1555 1664 1724 ヴェルダ冫条約 メルセ冫条約 神聖ローマ帝国成立 フランケン王朝始まる シュタウフェン朝始まる ハンザ同盟生まる 大空位時代始まる 黄金文書発市 ハフ。スプルグ王朝確立 ルターの宗教改革始まる 農民戦争おこる アウグスプルグ宗教和議 オーストリア . ト . ルコを 破る チャールス 6 世の相続文 1740 1756 1806 1807 1819 1833 1848 1849 1866 1870 1871 書発布 オーストリア継爪戦争始 まる 7 年戦争始まる 神聖ローマ帝国崩壕 チルジットの第勺シュタ インの改革 ド決議 カールスノヾー 関同盟の成立 3 月革命 ( ウィーン , べ フランクフルト国民議会 普墺戦争おこる 普広戦争 ドイツ統一 外リン ) 152
まに一まら しくは手工業制。近代の工場制 マニュファクチュア Manufacture 工場制手工業 , も 工業 ( 産業革命後の資本主義時代の生産方法で機械を用い分 業がおこなわれている ) に先行する生産方法。 ファク チ = アの段階では , 労働の商品化 ( 手工業者が賃銀労働者と なる ) がおこなわれ , 労働者が同一の作業場で協業をおこなっ た。しかし , その技術の基礎はなお手工業の段階であって , そ の点で , 近代の工場制工業と区別される。マニ ュファクチ アには , 産業資本家の抬頭による自生的マニ ュファクチュア と王室や国家が経営する特権的マー ーユファクチュアがある。 Manet ( 1832 ~ 1883 ) フランスの画家。司法 マ不一 官の子に生まれ , 親の反対をおしきって絵に志 し , 1861 年サロンに入選し , 以後「草上の食事」 , 「オランピア」 などをえがいて , 豊富な色彩と明るさを出し , 印象派の重鎮 の一人である。 Mahomet ( 570 ? ~ 632 ) イスラム教 * の マホメット 創立者。メッカの名門に生れたが , 当時は 没落していた。 12 オごろから行商として各地を歩き , 25 オ で富裕な寡婦と結婚した。旅行中にユダヤ教やキリスト教の 影響をうけ , 40 オごろ新宗教を開いた。この宗教は唯一神ア ラーの神を信ずるもので , 従来の多神教と対立し , メッカを 追われ 622 年メジナにうつった ( へジラ * ) っここで多数の信 徒を得 , 宗教布教と共に征服をはじめ , アラビアの統一を完 成した。さらにシリアへのびようとしたが途中病歿した。 マホメット教一→イスラム教 Maräthäマラータとは , ヒンズー教を マラータ同盟 奉ずる中部インドの民族の名。 17 世紀 に一時 , マラーダ族は統一されたが , その後は分裂を続けて 18 世紀に入って , マラ・一タ族の 5 国が同盟を結び , ムガール帝国の衰退の時期に , 次第に強大となった。やがて , インドに勢力を拡大しつつあったイギリスと衝突し , 18 世紀 末から 19 世紀にかけて 3 回にわたり , マラータ戦争をおこな い , 1818 年には制圧されるに至った。 MaIacca マライ半島南端に近い西岸の港町。 マラッ、カ 古くから東アジアとインド洋をつなぐ貿易路 の仲継地で , ポルトガルがアジア進出にあたり重要さに目を つけ , 1511 年に占領し次いでオランダが 1641 年に攻略し , ナポレオン戦争中イギリスの手に入り , 以後今日に至ったが , シンガポールの植民が進んで , その地位をゆづった。 228
といーとい 功に終った。フ。ロシア王フレデリック = ウィリアム 1 世 * が 即位すると , 一 - 参謀総長モルトケ * , 陸相ローン , 宰相ビスマ ルク * などの有力人物の活躍が始まった。ビスマルクは強引 に議会を抑えて , 統一への課題をのり切ろうとし , 議会を停 止して軍備拡張にのり出した。統一のためには , オーストリ アとフランスの両国と戦火を交えることが予期された。即 ち , シュレスヴィヒ , ホルシ = タイン問題を契機に , オースト リアと戦い ( 普墺戦争 , 1866 ) , 忽ちに勝利を得た。こうして フ。ロシアは北ドイツ連邦を結成した。フ。ロシアの強大化を警 戒していたナポレオン 3 世は , 既に各地への外征が不成功で あって , や & あせりを見せていた。折柄スペインの革命の後 , スペイン王擁立のことでフ。ロシアにフランスが干渉したこと に端を発して , 1870 年 , 普仏戦争 * が始まった。準備周到なフ。 ロシアに対し , フランス軍はわずか 2 ヶ月で敗北し , 1871 年 1 月にはパリも陥落した。同月ヴェルサイユ宮殿で , ドイツ皇 帝が即位し , 帝国憲法が発 ーク王国 布されて , ド ィッ帝国が成 立した。統一 後のドイツ は , 一見 , 立 憲主義のよう に見えたが , フ豸ーグケーユ一 " ハン封リア ア . ・ ' 帝国王国 いわゆる外見 立憲政治であ って , ビスア 下ジ 21866 前プロシア領 ラ .. , ス〒ス、オ ロ 1866 北ドイ " ルクは , もっ ロ 1866 フシア耕合地 はら政治的 , 1871 フランス割讓地 1871 イ包畚測 経済的統一に イツの統一 兩ドイツ諸国 腐心した。 Toynbee ( 1889 ~ ) 現代イギリスの , ト トインビー レヴ = リアンなどとならぶ代表的歴史家。 ード大学に学び , ギリシアの古代史 , 東ローマ オックスフォ 史に造詣が深い。ロンドン大学の教授をへて , 王室国際問題 研究所長 , 外務省研究局長を歴任。古代史の深い知識と理解 を基盤に , 世界史の発展を文明の興廃という観点からとらえ , 「歴史の研究」をあらわして , 一躍名声を馳せた。「試煉に 立つ文明」や「世界と西欧」などの諸著には , 透徹した歴史 4 ベルリ
しん一しん た。秦の国力が急速にのび始めたのは B. C. 4 世紀になって からで , 孝公が商鞅 * の法家 * の策を用いてからである。つ いで列国への侵略を始め , B ℃ . 256 年には命脈を保っていた 周を滅ぼし , B. C. 230 年には韓を , つづいて六国を滅ぼして , 中国を統一した。統一の年 , 国王の政は尊称を皇帝ときめ , 自分を始皇帝とした。始皇帝は全国統一後 , 咸陽 [ かんよう ] に都を定め , 周代の封建制度を全廃し , 郡県制度 * をしき , 全 国を 36 郡 ( 後に 48 郡 ) に分け , 郡の下に県をおいた。そして 官僚組織をととのえ , 皇帝の官吏任免権を確保した。このよ うな中央集権的・君主専制政治は , 貨幣や度量衡・文字の統 一から , 思想の統制までにも及び , ついに焚書坑儒 [ ふんし よこうじゅ ] * ( 医薬・農業占い関係以外の民間の書物を焼き , 儒学者が周代の政治をほめて , 秦代の政治を非難したのを怒 って , 儒学者らを穴にうめた事「 D の事件まで起した。また地 方の反乱を心配して , 民間の兵器を集めて鐘に鋳なおしたり , 国内の地方的な城壁をこわしてしまった。外に向っては蒙古 古来の遊牧民である匈奴 * [ きよう幻を討代し , 戦国時代にあ った城壁を補強してつなぎ , 有名な万里の長城を築いたりし た。さらに南方に対しても征討して , ハノイ付近にも郡をお き , 大量の移民を送った。秦の強力な国家統制も , 容易に古 い社会の伝統を破る事ができず , 始皇帝が死ぬと , 各地に反 乱がおきた。そしてこの反乱は最後に , 豪族の劉邦 [ りゆう ほう ] が統一して漢王朝を開いた。 [ しん ] ( 1616 ~ 1912 ) 満州人の支配した中国最後 工朝。女真族の部族長スルハチは 1583 年渾河 [ こん のが ] の上流で兵をあげ , 軍制 ( 満州八旗 ) をととのえて建国 し後金と称した ( 1616 ) 。これより朝鮮をしたがえ , さらに東 蒙古をあわせて大国となり , 1636 年に国号を清と改めた。 のころ中国の明朝は , 内乱に苦しみ , ついに流賊のために亡 ぼされたので , たやすく清は中国に進駐して , 1644 年には北 京に入り , 18 年後には中国を統一した。 [ 概史 ] この間 , 明朝の余勢は , 主に江南によって , 勢力 をもりかえそうとした。中でも台湾によった鄭 [ てい〕氏一 派の抵抗は 40 年にも及んだ。清朝は明の降将を利用して 内治をかためたが , 第 4 代康熙〔こうき〕帝つ時 , その中の 有力な三藩が乱を起したが , これを平定して基礎はさらに かたくなった。清朝は康熙 * ・雍正 [ ようせい〕 * ・乾隆 [ け んりゆう〕 * の父子 3 帝の 130 余年の間に極盛時代を現出し た。このころロシアが東進して北辺を侵そうとしたりで , 103
いたーいふ 中世のイタリアは , 神聖ローマ皇帝の干 イタリア統一 渉と , ローマ法王の君塩によりふるわず , ルネッサンス時代には , 商業上の繁栄を背景に多くの都市が 華やかな文化をつくりあげ スウ「ス、 1 オ - スドか 了タリア観ー図 た。しかし , なお多くの小 ロ 1 簡前のサルア ロ年壕戦物い含 公国や都市の対立に外国の フノ ロ好に仏物合 麑マ季ォ : ァ ロー復分リア 干渉が加わり , 国内の統一 が困難であった。フランス 革命後 , イタリアへの自由 主義の普及がめざましく , やがて統一運動へと発展し た。カルポナリ党 , 青年イ タリア党などがこの運動に ーガリ凡シ・一過路 努力し , マッチニなどが活 サ昇う : ニ 1 、進路 躍したが , オーストリアの弾圧もはげしかった。結局 , 国王 ヴィクトル . = エマヌエルと名宰相カヴールをいただくサルデ イニア王国が , オーストリアやフランスの勢力を北辺から追 放して統一の大業をなしとげた。イタリア王国が成立したの は , 1861 年のことである。 [ いちじようべんぼう〕明の中ごろから清の 一条鞭法 初 ( 16 ~ 17 世紀 ) にかけて行われた税法。徴 税を簡単にし国家の収人を確実にするために , 今までの田地 に対してかけていた賦 ( 土地税 ) と , 人に対してかけていた徭 役の二つをいっしょにして銀で徴収するようにしたもので , すなわち , 納税者の土地所有額と人数に応じて納税額が決め られたものである。これは納税が単一化 ' され , しかも貨幣 ( 銀 ) をもって納めるものであったので , 中国の近代化の要因 として取上げている学者も多い。 lbsen ( 1828 ~ 1906 ) ノルウ = ーの劇作家。 イプセン 1850 年に最初の作品「カティリーナ」を発表 , その後劇場の監督にまでなったが , ノルウニーでは認められ ず , ローマやドイツで活躍した。ローマン主義から現実主義へ , さらに社会的関心の増大というふうに近代の歩みとともに歩 いた人で「人形の家」 , 「幽霊」など著名な作品多数を残した。 lbn Batütah ( 1304 ~ 78 ) イスラム イプン = パッータ 教徒で , アフリカのタンジールで生 まれ , メッカ * からインド・中国に至る約 7 万 5 千マイルの 旅程を 30 年もかかって旅行し , 帰国後旅行記を書いてイスラ ムの当時の地理学者として有名となった。 21 フランス
しと一し 色自人を漢人 ( 北方中国人 ) の上におき , 財政方面を主にあ っかわせた。南人とは南方中国人のこと。 〔しこうてい ] ( 259 ~ 210 B. C. ) 秦 * の皇帝。 始皇帝 戦国時代の争乱を統一して中国最初の大統一国 家を建てた。最初に皇帝を称したから始皇帝という。中央集 権国家の形成にあたって , 郡県制 * をしき , 度量衡・文字・ 通貨・車軌 ( 車の直径幅 ) を統一し , 梵書坑儒 * によって思想 まで統一した。さらに外征をさかんにおこない領土を広げ , 万里の長城・阿房宮の建設などの大土木工事をおこなった。 しかし余りにも厳しい政治で , 国民の反感をかい , 帝の死後 まもなく秦は滅んだ。 [ しこぜんしよ〕清の乾隆帝の時にできた中 四庫全書 国の大文庫。乾隆 37 年 ( 1772 ) から 10 年間かか って , 古今の著述を経 ( 経書 ) ・史・子 ( 儒教外の思想書 ) ・集 ( 文学 ) の 4 部に分け , 各一庫をつくってこれを蔵した。全部 で 79 , 070 巻 , これに解説を加えたものとして , 「四庫全書簡 明目録」があって , 利用価値を高めている。 Caesar ( 100 ~ 44 B. C. ) ケーザルもしくは カエサルなどとよぶ。ローマの平民党のマリ ウスの甥で , 第 1 回三頭政治 * に加わる。ポンペイウス * とク ラッススとともに活躍したが , ガリア征討に功績を残し , の地方に勢力を占めた。求ンペイウスはローマにとどまって 元老院とくみし , シーザーのローマ入りを拒否したが , シー ザーは , 「さいころは投ぜられたり」といって , ルビコン河を 渡ってローマに入り , ポンペイウスをファルサロスの戦に破 って , B. C. 45 年にローマに帰った。後に , 独裁政治をおこ ない , 事実上の帝政は , シーザ時代に始まるといわれてい る。 B. C. 44 年にプルータスに刺殺された。著書の「ガリア 戦記」は , 原始ゲルマン人の状態を伝える重要な史料である。 シスマー→教会分裂 Naturalism 19 世紀末期のヨーロッパの文 自然主義 芸思潮 , もしくは文芸の傾向。浪漫いーマ ン ) 主義 * に対する反動と , 科学の発達による科学的なもの の見方から生まれた傾向。自由奔放な感情の流露よりも , む しろ赤裸々な現実の客観的なとらえ方が強調されている。写 実主義はこの傾向を代表するものであるが , 文学の代表的な 例としては , ェミール = ゾラ * があげられよう。 7 月革命 July Revolution ()e Ré、 , 01 。 tion de jullie) 1830 年 7 月にパリにおこった革命。フランス 87
いたーいた で繁栄した。帝国崩壊後は , 東コ・一ト族 , 東ローマ帝国 , ランゴバルト , フランク , ノルマンなどの侵人をうけ , 分 裂の状態が続き , しばしば , 神聖ロ マ帝国 * の干渉があ って , 国家的統一は困難となり , ローマ法王庁の存在も統 ーを阻害する要囚の一つであった。十字軍の派遣以来 , そ の地理的好条件によって商業が発達し多くの都市が発達し た。特に , ヴェニス , ヒ・サ , フローレンスなどは 15 , 16 世紀 に繁栄期を迎えて , 文化の上にもルネッサンス * 時代をもた らしてイタリア史上の華やかな一時期をつくった。以後 , 神聖ローマ帝国やフランスの干渉多く , 統一はなお困難で あり , 封建的色彩も多く残っていた。 [ 近代のイタリア ] 18 世紀末にナポレオンのイタリアへ の遠征以来 , 次第に自山主義的傾向が強くなリ , 特に北伊 のサルディニア * は , 19 世紀に , フランスの影響をうけて , 政治及び経済の諸点で進歩的であった。サルディニアに , ヴィクトル = エマヌエル * , カヴール * が出て , 統一・の機運 が増大し , 北辺からオーストリアの勢力を追い出して , 18 61 年にイタリア統一 * が完成しイタリア王国が成立した。 [ 現代のイタリア ] 第一次大戦には , 連合国側に参加し たが , 結果的には得る所が少なかった。世界恐慌後 , 不況 打開の策に苦しみ , 既に進出していたファシストの権力の 増大めざましく , ムッソリニ * を中心・に全体主義 * 国家とし てヴ = ルサイユ体・制の破壊にのり出した。 1935 年のエチオ ビア遠征以来 , 連盟からも脱退し枢軸側に立って第二次大 戦に参加し , 第二次大戦に中途で敗北 , 戦後は困難な道を 歩み , 一応キリスト教民主覚が政界をリードはしているが , 共産覚の力も強大であおことは見のがせない 0 イダリア関係年表 B. C. 510 27 A. D. 476 843 961 1071 1429 1521 1820 ローマ共和政に入ると伝 えらる ローマ帝国成立 西口一マ帝国減亡す フランク王国 3 つに分割 独王オットーがイタリア 王を気ねる ノルマン人 , 南イタリア・、 コシモ = デ、イ = メディチ , アローレンスを支配 イタリア戦争始まる 炭燒党の結成 1831 : 部 0 1861 1922 1928 1935 1937 1943 1946 青年イタリア党活躍 がリバルディが , シシリ ーとナポリをサルディニ ア王に献上 イタリア王国成立 ローマ進軍 , ファシスト の政権獲得 ファシストの独載 工チオヒ。ア遠 連盟退 イタリア . 連合軍に降伏 イタリア , 共和国となる 20
ふろーふん Florence 原名は , フィレンツ = フローレンス renze) である。中部イタリアの内陸都・ 市。 15 世紀に繁栄の絶頂期に達したが , 毛織物工業によって 栄えていた。都市貴族のメディチ家はこの都市に憎主的存在 として君臨したが , 文化の保護 , 奨励に努力した。ルネッサ ンス * の多くの著名な文学者 , 芸術家がフローレンスから輩 出した。メディチ家では , 特に , コシモ = ディ = メディチ , ロレンツォ = ティ = メディチが有名である。 KuIturkampf ピスマルク * が , ドイツ統一 文化闘争 後おこなった対カトリック教会対策。統一後 のドイツは , なお諸種の間題が残されていた。中でも対カト リック教会の問題は , その主なものの一つであった。本来 , 南西部方面では , 旧教信奉者が多く , フ。ロシアが主として新 教を信奉していたため , 宗教的には統一がなされていなかっ た。これが , 政治統一とも密接に関連し南部の旧教徒を中 心として , 中央党とよぶ政党が結成されていた。ビスマルク こ & に , 宗教と政治との完全な分離を策し , 5 月勅令を は , 発して , 教会の財産への課税 , 教会の学校監督権のはく奪 , 僧侶の国家による養成などの諸条令を公布した。しかし , 反 対運動もさかんにおこなわれ , 解決はなかなか困難であっ た。この間題が未だに解決を見ないうちに , ドイツには社会 主義運動が盛んとなり , 結局 , 未解決のまま , 1880 年にこの 諸条令は廃止された。 文芸彳夏興ー -- - ー ) ルネッサンス 〔ふんしょこうじゅ ] 中国の古代王朝である 焚書坑儒 秦朝で , 始皇帝が , 思 . 謡元ーの目的のために おこなったもので , 焚書は医薬・占い・農業の本以外の書物 を焼いたことで , 坑儒は儒学者 ( 孔子学派の人 ) が周代の徳 治思想をたたえて , 時局を非難したので , これを怒り , かれ らを穴にうめた事件である。 Huns 中央アジアの草原地帯に住む遊牧民で , フン族 蒙古系を主流とし , 西に征服していくにしたが ってフィン人 , イラン人 , スラヴ人も含むようになった。フン と匈奴 * の関係については定説がない。 4 世紀にヨーロッ , 、 : に移動しゲルマン民族の大移動の一大要因をつくった。国王 アッチラの時代 ( 5 世紀前半 ) は , 最も勢力が強大であった。 世界で文明が早く起ったのは , エジプト・ 文明発祥地 メソボタミア・イングス河流域・黄河流域 の 4 地域で , 世界の 4 大文明発祥地とよんでいる。黄河をの 208
ちゅう一ちょう ア , 南ドイツの諸都市は , 地理上の発見 * を機に , 新大陸 の発見 ( 新大陸ーの距離 , 銀の流人などによる ) の前に屈 伏し , 衰退の一路を辿った。 (MEDO) 中近東へのソ連勢力の接近及 中東防衛機構 びイギリスのスェズからの撤退にかんが みて , アメリカとイギリスが中心となって計画した中近東の 防衛機構。もちろん , 北大西洋条約機構 * ( NATO ) と結びっ けて考えられるものてあるが , 中近東諸国 ( エジフ。ト , イラ ン , イラク , トルコ , イスラエル , シリア , レバノンなど ) に米・英・仏・濠・南阿連邦などを加えてのこの構想は失敗 に終った。すなわち , アラフ・連盟諸国は米ソの対立の余波を うけることをおそれ , インドやビルマなどの諸国は反対した ため , この機構の構想は , 可能な一国への軍事援助という形 に堕してしまったのである。 1950 年 2 月中国 , ソ連間 中ソ友好同盟相互援助条約 にモスクワで調印された 条約・。両国の友好関係のとりきめと , 中国が日本またはその 同盟国から攻撃を受けた場合 , ソ連が援助する。また対日講 和条約の早期締結 , および経済に関する取きめをした。附属 の協定として長春鉄道・旅・大連を 1952 年までに中国に 返すこと , また中国に借款を供与することなどが決定された。 Chang Hsueh-liang ( 1898 ~ ) 満屮日軍閥張作 張学良 霖の子。満州で陸軍の教育をうけ , 父の爆死後 1928 年以来 , 国民政府と連携 は満州での主権をにぎった。 し , 政府委員 , 東北軍総司令 , 東北政務委員会委員長に任命 された。その閻錫山や馮玉祥の如き反蒋軍閥を征討した が , 日本軍の満州進出により , 満州を放棄した。やがて , 中 共の抗日戦線統一の線に共鳴し , 1936 年には西安におもむい た蒋介石を監禁して , 戦線統一を強要するという西安事件 * をおこした。その後はすべての職を解かれ , 現在は台湾に監 禁中といわれている。 [ ちょうきよういん ] ( 927 ~ 976 ) 中国の宋 * 朝 趙匡胤 の創始者で , 太祖とよばれた。河北の出身で , 節度使であった。五代の周の時代 , 契丹の侵入を撃退する命 令を受けて出征した途次 , 帝位について , 960 年に宋朝を開 いた。当時の洋京 ( 今の開封 ) に都し , 地方の勢力を滅ぼし て , 全国の統一を進め , 中央集権制を確立した。唐衰退の原 因が , 地方勢力の増大であった点にかんがみ , 文治主義政策 をおこなって , 統一の基礎をきずいた。かれの事業を完成し 140