上屋敷 - みる会図書館


検索対象: 二つの山河
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1. 二つの山河

近代的砲戦の準備をととのえていったのである。 それを受けて庄内藩は、各藩および旗本兵の持場を定めた。 薩摩藩七十七万八千石は屈指の雄藩だけに、その江戸上屋敷の敷地面積は三万五千坪 以上ある。南側にむかって凸字型に張り出しているその敷地の東側には田中稲荷と大垣 藩中屋敷、北側には苗木藩、柳本藩の両上屋敷と自藩の中屋敷が建ちならび、西側には ちから 幕臣大久保主税邸と徳島藩中屋敷、南側には鹿野藩上屋敷がひろがっていた。 南北に走る四国丁と綱坂の二本の通りをへだてたさらに西側には、その支藩佐土原 藩の上屋敷があるが、これも東側を伊予松山藩中屋敷、北側を久留米藩上屋敷、西側 芝高輪の二ノ橋寄りを柳本藩のもうひとつの上屋敷、南側を会津藩下屋敷にかこまれ ている。 薩摩憎しの念を燃え立たせた市中取締側は、薩摩藩上屋敷をその黒瓦の土塀ぞいに庄 内、出羽松山、旗本の兵で包囲。さらに外側の大名屋敷町に、庄内、前橋 , 、鯖江、上ノ 山、旗本の兵によって、佐土原藩上屋敷をもつつみこむ第二の包囲網を布いたのである。 その総兵力は、庄内兵一千に諸藩と旗本兵の一千を加えた計二千。 の 「その方に、もう一度奮発してもらわねばならぬ時が参ったようだ」 甘もう寝ようとしていた甘利源治のもとに、柏崎才一のことばが伝えられたのは二十四 日夜半のことであった。

2. 二つの山河

「南部坂」 と呼ばれる坂道は、江戸麻布のうちにふたつある。 ひとつは、広尾町の南部藩下屋敷前を東にのばる道。もうひとつは赤坂門外、谷町の 松代藩中屋敷の門前を東南から北西へとのばる坂である。混同を避けるため、後者は赤 坂南部坂と呼ばれることもあった。 この赤坂南部坂をのばりきり、ふたつめの角を北に折れて少しゆけば、右側には下総 ゅうき 結城藩一万八千石の上屋敷がひろがる。約二千五百坪の敷地の正面をおおう表門の左右 のには、家格に従い、出窓のような格子出しの番所がもうけられていた。 はさみばこ 臥馬のロ取り、槍持ち、挟箱持ち、草履取り各ひとり、若党ふたりを従えて騎乗した どき 小柄な武士が、この門前で手綱をひかえたのは慶応四年 ( 一、六 ノ / 八 ) 一月十日暮六つ刻

3. 二つの山河

「これは、薩摩びいきの奥女中の誰やらが薩摩藩邸の不逞浪士を手引きして火つけさせ、 幕府にひと泡吹かせようと企んだに相違ない」 こうして薩摩藩邸の浪士たちに猜疑の目が向けられた半日後には、この見方を裏づけ るような事件も発生した。 どうばうちょう 庄内藩の屯所のひとつは、三田四丁目の同朋町に置かれていた。夜半、それぞれが 銃で武装した暴徒三十人以上がこの屯営に腹背から接近、一斉射撃を浴びせるという露 骨な挑発をおこなったのである。 小袖の下に鎖かたびらを着こみ、白鉢巻和装で詰めていた庄内兵も、すぐさまこれに 応射。二段、三段の攻めを見せすに退却しはじめた暴徒たちを追尾してゆくと、かれら はことごとく芝新馬場の薩摩藩上屋敷と、それにほど近い薩摩の支藩、佐土原藩の上屋 敷へと吸いこまれて行った。 それと報じられた庄内藩主酒井忠篤は、ただちにこの両屋敷を襲撃すべし、と老中た ただまさ ちに申し入れた。もともと対薩長開戦論者である勘定奉行小栗上野介忠順も、即刻これ に賛同する。 しかし、この十二月九日に渙発された王政復古の大号令、それにつづく小御所会議の 結論として慶喜に辞官納地が通告された現状にかんがみれば、老中たちには自分たちだ けの決断でこれを許すだけの度胸はない。

4. 二つの山河

分で馬装をととのえているところを見つけられ、本殿につれ戻された。 すると五日の八つ刻 ( 午後二時 ) 、結城藩上屋敷とは溜池をはさんだ北側にある永田 馬場の二本松藩上屋敷から、同藩江戸家老丹羽丹波がきて兵馬に告げた。 「いや、日向守さまが彰義隊への加盟を申し出られ、尊藩には日向守さまのすみやかな る御帰国を願う声が日に日に昂まりつつあること、弊藩にも聞こえてきており申す。そ れがしは日向守さまがまだ弊藩に部屋住みでおられた時代、なにくれとお世話申し上げ た者。それがしのロより尊藩有志のかたがたの意に従うよう日向守さまにお願いいたし たく存じ、身のほどもわきまえす参上した次第にござる」 ふたかわめ その総髪の大たぶさに結った髷の下には、怜悧そうな二重瞼と通った鼻筋がつづいて いる。悠揚として迫らぬ口調には、十万石の家の江戸家老をつとめる者ならではの落着 きが感じられたから、 「なにさま、よろしゅ , つお願いいたす」 兵馬は出合いの間の下座に筋張った両手をつき、深々と頭を下げた。それを見た丹羽 虜丹波は、浅黒い顔にほほえみをたたえながらつづけた。 城「されど日向守さまは、おみさまも御承知のごとくなかなか鼻っ柱の強い御気性でござ 臥る。このお屋敷内にあって実家の家老ごときから指図を受けたとあっては、まとまる話 もまとまらなくなる恐れがござろう。一度わが藩邸にお越し願った上で、懇談させてい

5. 二つの山河

たのである。 「すると甚四郎一派は、今ごろすでにこの大江戸に入っていることになるな」 鈴之のことばを受け、兵馬はうなすきながらいった。 「いえ、それどころかすでに二本松藩邸に入り、殿および又兵衛らと合流を果たしてい ると考えて間違いござるま、 し。かくなる上は小川さまに急ぎ御帰国いただきまして、殿 の念書にもとづき、禊之助君の家督相続をすすめていただくしかありませぬ」 「うむ、もはやそれしか手だてはないな」 鈴之は、きつばりと答えた。 七 あけて三月十日は、新暦の四月二日に当たる。朝がたから強い雨が降りしきっていた が、その雨に打たれる藩邸内の老樹や植えこみにも春の気配が感じられた。 八つ刻 ( 午後二時 ) 、老公勝進が黒うるし塗り無紋の忍び駕籠の輪郭から白いしぶき を上げて、下屋敷からやってきた。 あるじ 兵馬は主の消えた本殿の書院の間で、用人近藤七右衛門とともに勝進に挨拶した。か れは昨日までの国許と上屋敷との動きを伝えたあとに、 「しかしなんとか、殿の彰義隊参加の件だけは免じてもらうことに成功いたしました」

6. 二つの山河

近藤家は禄高八十石、柳田家は , ハ十石。その差は役職にも如実に表れていたが、まし の婚約がととのった時、兵馬はましにも衣裳、持参金その他たての場合とおなじだけの 仕度をしてやろうと考えた。 が、そう告げると、やすは日頃のおとなしさに似ないきつばりとした口調でいったも のである。 しいえ、近藤さまと柳田さまとでは、家禄に二十石のひらきがございます。ましはそ の家格になじまねばならぬのですから、仕度はたての時より三割方控えめでよろしゅう 」イ、いましょ , つ」 このような気配りにもかかわらず、元来ねんねの質のましは、まもなく家風に合わぬ という理由で柳田家から返されてきた。 するとやすは、 「この子には、なによりも鷹揚な気性の殿御が似合いなのです」 と実家のってをたどり、半年後には関宿藩士山路玄之進の許に再嫁させることに成功 きんしつ 虜した。ふたりはその後、琴瑟相和して暮らしているから、やすの目に狂いはなかったわ 城けである。 牛 臥そのおかめ顔の妻が、青筋の浮いたたわわな乳房の片方を出して、生まれてまだ八カ 月の金作に乳を与えていた。江戸上屋敷内にある家老屋敷の十畳の茶の間。ようやく荷 、、、たち

7. 二つの山河

に薩長勢は錦旗をひるがえし官軍を名のっている、と聞いて江戸詰め会津藩士たちは一 気に騒然とした。 それから二月中旬にかけて、源治はこの混乱に巻きこまれてほとんど不眠不休の日々 を送った。京都守護職屋敷詰めだった者たち、紀州から海路引き揚げてきた藩兵たち約 二千をどこに収容するか、同時に運ばれてきた多数の傷病兵をどうするか、という問題 で、会津藩は猫の手も借りたいありさまとなったからである。 やがて京都詰め藩士の家族たちは国許へ先行することになり、二月十六日には容保自 身も若松へ旅立った。なおも会津藩は薩長の出方を見守るかまえであったが、薩長は容 保の謝罪嘆願を聞き入れようとはしない。 やむなく一戦を覚悟した会津藩は、まず江戸詰めの老幼婦女から順次若松に帰国させ る一方、藩兵たちを連日江戸城に通わせてフランス軍事顧問団からナポレオン流の洋式 戦術を修得させることにした。 「汝は韮山代官所で銃砲術と洋式の陣立てを学んだそうではないか」 とこれに参加することを求められ、源治も毎日調練に狩り出された。 の ひと通り洋式調練を身につけたあと、会津兵主力も三月三日に若松へ出立したが、こ 甘の時もまだ源治は上屋敷から動けなかった。 江戸残留組は、もはや二十九名のみとなっていた。それを束ねるのは美男で知られる

8. 二つの山河

124 た。月初め以来、勝知が上野山内の警備と彰義隊指揮役を買って出たと知って心を痛め かち ていた勝進は、旧知の旧幕府徒士目付小山大輔に接触。勝知を二職から解任してくれる ようかねてから頼みこんでいた。 この日午前中、兵馬が上屋敷の家老屋敷で仮眠していたころ、勝進は江戸城に使者を 登らせて、小山大輔にその結果を訊ねさせた。すると小山は答えた。 「尊藩御老公のお願いの筋はよう分ってござるが、なにぶんにも日向守殿御自身が、裏 からどうか解任して下さるなと仰せでのう」 「それは、誰を介しての嘆願でござります」 あちわゆうせん 使者が問うと、尊藩の阿知波祐仙と申す御仁だ、とかれはいった。 阿知波祐仙は、十人いる結城藩おかかえ医師のうち、十人扶持と最高の禄を得ている 江戸詰めの藩医である。 寝起きばなに勝進の使者からそれと知らされた兵馬は、ただちに祐仙の捕縛を命じた。 しかし、表長屋内のかれの居室はすでにもぬけの殻であった。家捜しすると長持の一 番下から文箱が出てきたので、藩士たちはとりあえずそれを兵馬の許に届けた。 寝不足の目でその中の書状を改めるうち、兵馬の鳶色の両眼は、とある一通に注がれ て大きく見ひらかれた。 「おのれ、祐仙」

9. 二つの山河

それからわずか二カ月たらすの間に、かれらが富商たちから奪い取った金額は二十万 オたがこれだけ派手に立ちまわったのだから、暴徒たちの巣窟は芝新馬 両以上に達しこ。、 と噂がひろまるのにさして時間はかからなかった。 場の薩摩藩上屋敷らしい そして、この動きにもっとも体面を汚されたと感じたのは、出羽庄内十七万石の十五 ただずみ 歳の少年藩主酒井左衛門尉忠篤であった。文久三年四月にその中老松平権十郎を新徴組 御用掛とし、十一月にはみすから江戸市中取締に任じられた酒井忠篤には、旗本たちの みぶ 力に前橋藩、佐倉藩、上ノ山藩、壬生藩の兵力も付属を命じられている。 庄内藩以下は次第に市中巡邏と警戒を厳にしつつあったが、これに一枚加わったのが 会津藩江戸留守居役柏崎才一であった。 かた・もり 文久一一年師走以来、会津藩主松平肥後守容保は京都守護職として朝幕間の宥和に挺身。 その手兵として藩兵一千も京に赴任したため、会津藩江戸屋敷はめつきり手薄になって ( だからといって江戸市中に尊攘派志士の暗躍を許し、京のわが公に不安を覚えさせて いちぶん は江戸留守居役の一分が立たぬ ) 際と考えた柏崎は、洋式調練と銃砲術の腕を認めて半年前に仮藩士に採り立てたばかり 甘の甘利源治に白羽の矢を立て、薩摩藩邸に潜入させることにした。 的 これは源治が藩の内外にもはとんど顔を知られていないこと、韮山の出だけに会津訛

10. 二つの山河

鈴之に説諭された時、月代を狭くし、刷毛先を散らした講武所髷に結い上げている勝 かんこっ 知は、目の吊り上がり、顴骨の張った勝気な顔だちを赤くして答えた。 「当家はいったん断絶いたしましたのに、将軍家の格別のおはからいにて再興を許され た家柄ではござりませぬか。権現さまの御生母伝通院さま ( 於大の方 ) をお出ししたこ とといし このことと、 しし、当家は譜代の大名諸侯と比べても別段の家柄と心得ており 申す。しかるに、ただちに朝命を奉じて上京せよと仰せあるは、二百年近い厚恩を忘れ 、 0 、ゝ よとい , つに同じ し力にも義を軽んずるおこないのごとく感じられてなりませぬが、い 成果なく帰国した鈴之からこのせりふを聞かされた時、兵馬にはピンと来るものがあ 「これは、殿の背後で誰やら糸を引いている者があるのかも知れませんな」 兵馬がいうと、 「うむ、それは水野甚四郎と見て間違いあるまい」 鈴之は明央に答えた。 かれが江戸上屋敷に姿を現した時、甚四郎は殿にいかような御用件で、としつこく問 「上京をおすすめにまいったのじゃ」 っこ 0