安部 - みる会図書館


検索対象: 二つの山河
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1. 二つの山河

という名でこの屋敷内の糾合所にしばらくお世話 「拙者は豆州韮山浪人、原宗四郎 に相なった、屯集隊のひとりでござるよ。わが甲州組の隊長上田修理は、無事八王子か ら帰り着きましたかな」 安部が押しかぶせるように後を引き取る。 「その上田とやらは、八王子の青楼で女郎にうつつを抜かしている間にこれなる原にピ ストルと同盟簿とをふたつながら奪われ、いの一番に行方を昏らましたのだ。その同盟 簿は、すでにわが藩の手に落ちたと思え」 先ほどまで能弁をつづけていた篠崎も、こうなっては絶句して身を震わせるばかりで あった。 「やっと分って下さったようですな」 安部は、すっかり余裕を取りもどして宣言した。 「ではあとは、門外にまで出張ってきている藩兵たちに不逞浪士どもを受け取らせるの み。御免」 入 あしど 山高帽をかむった安部は、甘利源治を促すと足迅に表門をめざした。 の 「しばら / 、」 甘背後で篠崎が呼ばわったが、もはや問答は無用である。 新「しばらノ、」

2. 二つの山河

214 を下に達すべき者はいないのだから、老中が尊藩にさようなことを命するとはとても思 えぬ」 「わが庄内藩は、市中取締を命じられている。その藩の求めに応じられぬとおっしやる 「だから、幕府にはもはや、さようなことを尊藩に命する職務などはなくなった、と申 しておる」 ああいえばこういう、である。 ばくろん さらに安部が駁論するうち、いっか半刻 ( 一時間 ) 近い時が流れた。篠崎がまた話を すらそうとした時、安部は右手を上げてそれを制した。 「どうも尊公は、この屋敷内に火つけ、押し借り、強盗、人斬りの類が多数潜伏してい ることを認めたくないようですな。ならばやむを得ぬ、証拠をお見せする」 思わず篠崎がまばたきすると、それまで安部の背後で沈黙を守っていた男が進み、ふ たりの間に割って入った。篠崎の目を真っ向から見据えた男は、 「お久しいな、御留守居役殿」 と親し気に呼びかけながら宗十郎頭巾をかなぐり捨てる。 その下からあらわれたのは、髷を大たぶさに結い、特徴ある太い眉をそなえた浅黒く も精悍な顔だちであった。男はその眉尻を下げ、笑みをふくみながら篠崎にいった。

3. 二つの山河

212 やがて足音が門の内側に近づき、野太い声が通った。 「安部殿に、弊藩の篠崎が御目にかかりもす。暫時、待たれい」 まもなく内側に排されたのは、両びらきの正門ではなくその脇の通用門であった。 ついて来い、と目で背後に合図した安部は、宗十郎頭巾の男に自分のうしろ腰をつか ませるようにして、急いで通用門に身を入れる。 やりとりを遠巻きにして見守っていた庄内の槍隊も、つづけて乱入すべく門前に走っ た。しかし通用門は一瞬早く鎖され、かれらは門前に取り残されてしまう。 そえやく 「これは、僕の添役です」 くつきよう 安部が門内に身がまえていた究竟の薩摩藩士に宗十郎頭巾の男を紹介すると、薩摩 藩士はその頭巾から覗く両眼を一瞥したが、表情を動かしもせす門径へと身をひるがえ ときわぎ 両側を背の低い常磐木の植えこみにかこまれた門径の先には、薩摩屋敷本殿の建物が 重々しく口をひらいていた。その玄関式台上にたたすむ小柄な紋羽織姿の男が、薩摩藩 江戸留守居役篠崎彦十郎であった。 篠崎の背後には肥後拵えの質朴な大刀を左手につかんだ侍がふたり、うっそりと突っ ′」しら

4. 二つの山河

216 けいれん ふたたび叫んだ篠崎を振り返った時、源治はかれが脇差を抜き、足袋はだしで追って きたことに気づいた。その背後には、侍ふたりも白刃を抜きつらねてつづいている。あ きらかに、安部と源治をこの場を去らせす討ち果たしてしまうつもりなのである。 「安部さん、急がれい」 咄嗟に駆足になったふたりは、かろうじて通用門から外へすべり出た。 いまや門外に砲列を布きおわっている庄内兵たちは、ふたりの顔つきから談判が決裂 したことを即刻悟ったようであった。先ほど邸内に入りこもうとして門前払いを喰った 槍隊は、ふたりと入れ違いに歓呼の声を上げて通用門に殺到してゆく。 その時また通用門が内側へ排され、篠崎が上体をあらわしたからたまらなかった。 とっ ひとえみ 先頭の兵が左一重身から水平に槍を繰り出すと、篠崎は左胸を深々と抉られて五体を 痙攣させた。 世にいう「薩邸焼き打ち」の、劈頭の光景がこれであった。 戦いは明け , ハっ半 ( 七時 ) に始まり、午前四つ刻 ( 一〇時 ) すぎにはほば決着を見た。 甘利源治の奪った同盟簿にあった人数は二百あまりであったが、与太者も多数集まっ へきとう

5. 二つの山河

立っていた。だが篠崎はふたりの姓名、役職を紹介しようとはせず、安部も宗十郎頭巾 の男をかれらに引き合わぜようともしない。 玄関式台の下と上とに仁王立ちになったまま、ふたりの間に談判が始まった。山高帽 を取った安部は、油でうしろ撫でつけにしている断髪をゆらしながら単刀直入に切りこ んだ。 「一昨日の夜半、この薩邸にほど近い同朋町の庄内藩屯所に、そろって銃を撃ちかけた やから 不逞の輩がいた。追尾した結果、その者どもはこの屋敷に潜伏する浪人どもと判明いた したから、そやつらをお引きわたし願いたし」 「浪士はいるかも知れぬが、その者らのしわざとは断定できまいて」 と、篠崎ははぐらかした。 「尊公、引きわたしを拒むおつもりか」 「はたしてさようなことを仕出かした者がおるかどうか、後日調べてから返答いたす」 「弊藩は御老中より、尊藩から浪人どもを受け取れと命じられたからこそ参上いたした のだ。されば、是非ともお受け取りいたす」 の 際すると篠崎は、はう、というように血色の悪い唇を丸め、おもむろに言いつのった。 甘「徳川家は二カ月前に、京の天子さまに大政を奉還されたではないか。したがって大坂 ) きの 城におわすのは、前将軍ではあっても今日の将軍ではない。すなわち老中を介し、上意

6. 二つの山河

「日」目」、開日ー ' 、」 先頭の庄内兵が大声を張り上げ、鉄鋲を打った両びらきの門をひとしきり叩きつづけ た。それでも、なんの反応もない。 「なかには誰もいないのか」 いないはすはないので フロック・コートの男が革長靴を鳴らして背後から訊ねると、 すが応じようとしないのです、と庄内兵は寒さに震えながら答えた。 「では、僕が代わろう」 と前に出た男は、さわやかな口調で告げた。 「この方は庄内藩の安部藤蔵である。お上から折衝掛に任じられて参った次第であるか ら、そこにいる者、僕の名刺を留守居役の篠崎彦十郎君に取次いでくれたまえ」 かれが身をかがめ、門扉の下の隙間に名刺を差しこむと、なかからそれを拾い上げる もんみち 動きがあった。つづけて霜を踏み、門径を遠ざかってゆくのは篠崎彦十郎に知らせにゆ くのだろう。 入 安部藤蔵は、甘利源治と面識はなかったものの伊豆韮山の江川太郎左衛門の塾や勝海 薬舟塾に学び、よく西洋事情を心得た人物。すでに髷も落として断髪にしており、庄内藩 甘家中でも異色の藩士として知られていた。その鋭敏な頭脳と庄内訛りのない弁舌の才と を認められて、談判役の大任を仰せつかったのである。

7. 二つの山河

「南部坂」 と呼ばれる坂道は、江戸麻布のうちにふたつある。 ひとつは、広尾町の南部藩下屋敷前を東にのばる道。もうひとつは赤坂門外、谷町の 松代藩中屋敷の門前を東南から北西へとのばる坂である。混同を避けるため、後者は赤 坂南部坂と呼ばれることもあった。 この赤坂南部坂をのばりきり、ふたつめの角を北に折れて少しゆけば、右側には下総 ゅうき 結城藩一万八千石の上屋敷がひろがる。約二千五百坪の敷地の正面をおおう表門の左右 のには、家格に従い、出窓のような格子出しの番所がもうけられていた。 はさみばこ 臥馬のロ取り、槍持ち、挟箱持ち、草履取り各ひとり、若党ふたりを従えて騎乗した どき 小柄な武士が、この門前で手綱をひかえたのは慶応四年 ( 一、六 ノ / 八 ) 一月十日暮六つ刻

8. 二つの山河

宗四郎が梅ケ枝と名のった年増女にささやくと、梅ケ枝はむっちりした手で大きな握 り飯をこしらえはじめた。 先ほど千代香と密談した奥の八畳間に入った宗四郎は、梅ケ枝と差しむかいで番茶を すすった。 「あれ、こなたさん、もうお酒はいいのかえ」 「うむ、もう充分過ごした。あとはお前が飲んでくれ」 「だったら、き、あ」 しなだれかかってくる女の白枌に噎せたかれは、あわててその肉づきのいいからだを 押し返した。 「いや、まあそれはとにかくとして、さっきの握り飯をひとっくれ。あとは全部お前に まかせた」 「あら、 , つれしい」 かゆ 梅ケ枝が手を打ってはしゃいだのは、客がっかないかぎり飯盛女たちは粥しか食べさ せてもらえないためである。客の夕食の茶椀に飯を食べきれないほど盛りつけるのも、 残ればそれが女たちの翌日の朝食となるからだ。 持ちこんだ蝶足膳の前に梅ケ枝がいざり寄り、握り飯とおかすとを交互に頬張っては

9. 二つの山河

に指名されたのだろう。 こう眺めてきた場合、徳島・板東のドイツ人俘虜たちに対する松江の武士の清には、 亡国の臣として流浪と屈辱の歳月を経験した会津人の思いとともに、つとに指摘されて いるように韓国を亡国の道へ導いた帝国軍人としての「贖罪」の念もこめられていたか と思われる。 戊辰戦争の官軍に対する賊軍、軍隊内部の長州閥に対する会津出身者とつねに少数派 の立場に身を置いてきた松江は、国を奪う日本対亡国の道を強いられる韓国という図式 においては、後者にこそ同清を禁じ得なかったはすである。 そのような胸の痛みを曵きすっていたからこそ、松江はドイツ俘虜を迎える立場にな った時、思わず語ったのではなかったか、「かれらも祖国のために戦ったのだから」と。 陸軍部内にあって主流となり得なかった松江豊寿は、俘虜中の少数民族に対しても充 分な配慮を見せた。 河 山ポーランド人のベルトンとワルセウスキー、ロシア人バホルチック、ルクセンプルク 二人コッホ、ドイツ人ながら日本人妻を持ち日本への帰化を求めて白眼視されていたトロ イケーーこの五人は主として経済的理由から青島のドイツ軍に身を投じた者たちで、収

10. 二つの山河

大正三年 ( 一九一四 ) 八月二十三日、日本は同盟国イギリスの要請に応え、ヴィルへ ルムⅡ世治下のドイツ帝国に対して宣戦を布告、ミクロネシアのドイツ領南洋諸島の占 チンタオ 領を急ぐ一方、中国山東省の膠州湾に面したドイツの租借地青島の攻略をめざした。 「東洋の真珠」 とその繁栄を謳われていた青島の、ドイツ守備軍はアルフレッド・フォン・メイヤ ・ワルデック総督以下五千たらず。 かいらん 対して八月二十八日に長崎を解纜し、九月一日竜口に上陸した日本軍は、神尾光臣陸 軍中将以下、久留米の第十八師団に第三、第四、第十師団の一部を加えた約三万であっ 天津からきたイギリス軍一千と合して神尾中将を総司令官とした日英連合軍は、青島 っ要塞に籠城して抵抗するドイツ軍にむかって十月三十一日から総攻撃を開始。十一月七 日に至ってついに青島を陥落させたのである。 っ ) 0