204 のと考えられた。 ( そういうことであれば、夜明けを待って正式に千代香を請け出し、江戸に伴ってくる こともできたかも知れぬ ) 源治はちらりと思ったが、 そんなことをしては柏崎才一にお役目をなんと心得ておる、 と叱責されたろうから、やはり叶わぬ相談だったと思い返した。 甲州組、相州組に先んじて出発した野州組は、関八州取締の手の者によってほとんど 一網打尽となり、この十八日までに野州佐野河原で一斉に斬首されたという。 対して相州組は、荻野山中陣屋の夜襲に成功。番士数名を死傷させて武器弾薬を奪い つづけて小田原城をうかがう勢いをみなぎらせた。 しかし小田原藩十二万石からすれば、荻野山中藩はその支藩だけに見過ごしにはでき ない。ただちに出兵したので相州組は江戸引き返しを余儀なくされた。 すいか かれらは甲州街道を布田、下高井戸の間まで来た時千人隊に誰何され、ひとりを捕縛 されたものの重傷者二名をかかえてかろうじて逃げおおせた。これも昨十八日のことと いうから、この者たちも今ごろは薩邸にたどりついたと考えてよい 同日、幕府が各譜代大名に布達した文書にいう。 もより 《市中強盗暴行致し候につき、銘々屋敷最寄七、八町を持場に相立て、昼夜巡邏候様致 さるべく候。廻り場相定め候上は、その段御目付へ相届けらるべく候。もっとも非常の
それからわずか二カ月たらすの間に、かれらが富商たちから奪い取った金額は二十万 オたがこれだけ派手に立ちまわったのだから、暴徒たちの巣窟は芝新馬 両以上に達しこ。、 と噂がひろまるのにさして時間はかからなかった。 場の薩摩藩上屋敷らしい そして、この動きにもっとも体面を汚されたと感じたのは、出羽庄内十七万石の十五 ただずみ 歳の少年藩主酒井左衛門尉忠篤であった。文久三年四月にその中老松平権十郎を新徴組 御用掛とし、十一月にはみすから江戸市中取締に任じられた酒井忠篤には、旗本たちの みぶ 力に前橋藩、佐倉藩、上ノ山藩、壬生藩の兵力も付属を命じられている。 庄内藩以下は次第に市中巡邏と警戒を厳にしつつあったが、これに一枚加わったのが 会津藩江戸留守居役柏崎才一であった。 かた・もり 文久一一年師走以来、会津藩主松平肥後守容保は京都守護職として朝幕間の宥和に挺身。 その手兵として藩兵一千も京に赴任したため、会津藩江戸屋敷はめつきり手薄になって ( だからといって江戸市中に尊攘派志士の暗躍を許し、京のわが公に不安を覚えさせて いちぶん は江戸留守居役の一分が立たぬ ) 際と考えた柏崎は、洋式調練と銃砲術の腕を認めて半年前に仮藩士に採り立てたばかり 甘の甘利源治に白羽の矢を立て、薩摩藩邸に潜入させることにした。 的 これは源治が藩の内外にもはとんど顔を知られていないこと、韮山の出だけに会津訛
218 月二十八日のこと。快哉を叫んだ旧幕府陸軍諸隊と会津、桑名を筆頭とする佐幕派諸藩 の勢いに押され、慶喜が「討薩の表」を起草したのは慶応四年 ( 一、 八 ) 元旦のこと であった。 甘利源治は、薩邸焼き打ちの翌日には、かねてからの約束どおり正式に十人扶持の会 津藩士に採り立てられた。 「これは、拙者からの褒美じゃ」 と柏崎才一はい、、 浪士同盟簿とともに差し出してあったコルト・ネイビー・モデル を返してくれた。実弾はもう一発しか残っていなかったが、 ( 薩邸浪士中おれの顔を見知っている者が、まだ江戸市中に潜伏しているやも知れぬ ) と考え、源治は外出する時にはこのコルトを懐中に忍ばせることにした。 しかし、その後の政情の変化にはまことにめまぐるしいものがあった。 おじけ 正月三日から始まった鳥羽伏見の戦いは、薩長側の圧勝に終始。怖気づいた慶喜は六 日夜側近たちをつれて大坂城を脱出し、旧幕府海軍旗艦開陽丸に乗って江戸へ逃げもど ったのである。 これに同行して江戸城へ入った会津藩主松平容保が、謹慎するという慶喜に失望し、 江戸上屋敷にやつれきった姿を見せたのは十二日夕刻のこと。その供侍たちから、すで
ただちに深夜の総登城を命じた結果、脱藩したのは次の十一人と知れた。 水野甚四郎、水野雅之助 ( 又兵衛長男 ) 、水野渡 ( 甚四郎長男 ) 、有地清蔵 ( 馬廻り ) 、 有馬豊之助 ( 中小姓 ) 、西山半三郎 ( 同 ) 、青山利喜之丞 ( 同 ) 、青山隼太 ( 同 ) 、興野 文弥 ( 同 ) 、小谷野円四郎 ( 徒士 ) 、木下松雄 ( 坊主 ) 甚四郎の妻女はその夜のうちに阿知波祐仙ともども投獄されたが、甚四郎に関しては、 何者かが三の丸から堀をわたって同家裏口から忍びこみ、急を告げたのであろうとしか 分らなかった。 一カい力し だがこの日早朝、ふたたび急使として江戸をめざした柳田欽之助は、途中で境河岸に 立ち寄り、かれらの逃走径路をあきらかにするという手柄を立てていた。 江戸ー結城をつなぐ道筋は奥州街道、日光東街道の一一本だが、後者は粕壁宿で前者と たてまち もろかわ わか 岐れ、関宿、境町、諸川をへて結城城下西南にひらく立町口に通じる。境河岸とは結城 から隔たること六里弱、境町にある江戸川の船渡しのことで、ここから江戸川を下れば 一夜にして深川に達することができた。 虜結城藩も物資の江戸廻漕にはしばしば境河岸を利用していたから、この河岸にはなじ 城みの船宿が多い。それらを回った欽之助は、とある一軒で、 臥「たしかに昨晩遅く、十数人のお武家さまたちに船を一艘仕立てやした」 という証言を得、ぬかりなく結城にも使いを出してから日光東街道を駆けのばってき
くるよ , つにしていった。 「どうだ、小場殿。兵の要諦は奇兵を用いるにあり。いっぞやはよくも拙者を追い落と とくせんけ してくれたが、殿にはやはり拙者とともに、最後まで徳川家の再興に励んで下さるそう だ。ここに及んでも主命を聞かぬのであれば、いずれ断固たる処分が下されよう。家族 どもの頼る先でも考えておけ」 どれ、御老公にはあまりきな臭い動きをなさらぬようにと告げてまいるか、と高らか にしいはなち、甚四郎は大広間から大股に歩み去った。 この江戸上屋敷の凶変が結城城に伝わったのは、事件出来から二日をへた十二日の ことであった。 「江戸表の藩論は佐幕と定まったゆえ、国許もこれに従えと報じてまいれ」 と勝知に命じられた柳田欽之助と勝進づきの宮田三男が十一日午後に江戸を出発、こ の日夕刻、結城城に駆けこんだのである。 ばんがしら 江戸表激震の報を受けた鈴之は、ともに帰国した家老代稲葉三鶴に番頭の吉田豊太 夫、用人三宅武兵衛の三者を即刻まねいて協議した。 「これはまことに、暗夜に灯を失ったような事態ですな。旧年中より小藩ながら誠忠を つくし、王事に身を挺さんといたしてまいりましたのに、奸邪の徒が道を鎖すとは、も しゆったい
0 ところが、 王政復古の大号令が渙発されてから九日しかたたない十二月十八日、旧幕府から江戸 半蔵ロ門番を命じられるや、あろうことか勝知は喜んで引きうけてしまった。 すでにして朝廷は、徳川慶喜に辞官納地を通告。これに逆上した旗本御家人、江戸在 府の佐幕派諸藩士たちは、武装して次々と京をめざしていた。 このような一触即発の時期に旧幕府の一翼をにない、江戸の警備を受けもっとは、朝 廷に対して牙を研ぐ行為にほかならない。 江戸上屋敷からの飛脚便でそれと知った兵馬は茫然と天を仰ぎ、気を取りなおして小 川鈴之らと会談をかさねた。そして得た結論は、 「かくなる上は小川さま御自身の出馬を仰ぎ、直接お殿さまに上京を促していただくに しかすこ というものであった。 にわけんもっ とみより 勝知は、もとの名は丹羽監物、諱は富以。奥州二本松藩主丹羽長富の八男に生まれた。 かっとうめ ゅながや さくひめめあ 奥州湯長谷藩の前藩主、内藤政民の次女作姫と妻わされ、結城水野家第九世勝任の夫 虜おと 婦養子となったかれは、文久二年 ( 一八六一 l) 冬、勝任の死とともにその家督を継いだ 臥のである。 第七世水野勝愛の庶子、小川鈴之からみれば、この勝知は孫にすぎない。四十代で人 かつぎね かんばっ
声の遠のきはじめた階下へと駆け下りて行った。 五 会津藩二十八万石の江戸上屋敷は、江戸城の東の方角にひらいた和田倉門の門内にあ る。 その本殿出合いの間の上座に出座した江戸留守居役柏崎才一は、目の前に肩で息をし ながら平伏した汗みすくの男からの復命に色めき立っていた。 / 、王子の争乱から丸一日 も経たない、十二月十八日午後七つ刻 ( 四時 ) のことである。 「甘利源治よ、大手柄ではないか」 なんど 上級の藩士であることを示す納戸紐の羽織に白扇を持って正座し、事の仔細を聞いて から薩邸潜伏浪士たちの同盟簿を読みすすんだ柏崎才一は、よく張った顎を上げて相好 を崩した。 「その方を仮藩士に採り立て、不逞浪士を装わせて薩邸入りさせた拙者の眼力に狂いは なかったのう。それにしても、千人隊に廻状を届ける一方で、かような動かぬ証しまで 奪ってまいるとは思わなんだよ」 あずか 「はつ。おほめのことばに与り、この甘利源治、まことに光栄の至りでござります」 「 , つ、む」
「ところでおぬし、かなりうらぶれた風清だが、金ははしくねえか」 そして、なぜか三枚も重ね着していた羽織の一枚を脱ぎ、金一両を添えて源治に差し 出すと、 「これは、足の踏み賃だ」 ほうきよう と男は豊頬を見せていった。 「もっとほしくなったら、その羽織を着て芝新馬場の薩摩藩邸に上田修理を訪ねてこ それが、甘利源治が不逞浪士にわたりをつけた初めであった。相楽総三は毎夜おもだ った者たちと各地に出かけ、このような方法で使えそうな人間を駆り集めていたのであ る。 原宗四郎と変名した甘利源治が、首尾よく薩邸糾合所に寄宿するようになってまもな くのこと。相楽総三は益満休之助、伊牟田尚平、糾合所屯集隊の幹部たちとともに鳩首 謀議した結果、江戸市中ばかりでなく江戸を囲む三つの土地に武装蜂起して、幕府に最 バ終的脅威を与えよう、という点で意見を一致させた。 いずるさん 野州出流山、相州荻野山中藩の陣屋、甲州の甲府城を押さえる一方、江戸残留部隊が 甘日夜挑発行為をつづければ、幕府は堪忍袋の緒を切って武力討伐に踏み切るだろう。そ 跚うなりさえすれば薩摩、長州、芸州三藩が討幕の密約にもとづいて兵を挙げる名分も立
しかしこの帰国命令は、兵馬たちにとっては渡りに舟であった。十三日のうちに結鹹 城に入り、連判状の一件を知らされた兵馬は、 ( これで、殿の命に従わなくとも不忠にはならぬ ) と安堵して会談を重ねた。国許の決定を新政府に伝える方策を練るためである。その 結果、藩の実情を記した嘆願書を吉田豊太夫、三宅武兵衛ら五人に托し、何としても新 政府に提出することになった。 だが十四日に江戸に着いた吉田たちは、もはや江戸市中には官軍多数が入りこんでお り、中山道、東海道ともに京への道は鎖されていることを知った。この日は芝田町の薩 摩藩邸で西郷隆盛と勝海舟が会見、江戸城の無血開城を決めた当日だったのである。 やむなく市谷門外の尾張藩邸に駆けこんだ豊太夫らは、同藩の録事長水野彦三郎に面 会して嘆願書を新政府に手わたしてくれるよう依頼した。彦三郎は、かって結城藩校秉 虜彝館の館長をつとめていた水野仲四郎の実兄である。このような細い糸を頼らねばなら 城ないほど、結城藩勤王派は孤立を深めていたのだった。 臥しかもこの動きは、たちどころに勝知の知るところとなった。各藩邸の動きは足軽中 間たちの横のつながりにより、逐一外に洩れてしまう仕組になっている。
222 この日は和田倉門内の会津藩上屋敷とは江戸城をはさんで反対側、四谷門内の小幡藩 邸から始めて赤坂薬研堀の矢田藩邸、赤坂溜池端の前橋藩邸、それより少し東寄り江戸 見坂の沼田藩邸を訪ねた。 源治は江戸の地理に明るくないし、来訪先では半刻 ( 一時間 ) 以上待たされることが つづき、六日のうちにはこの四藩しかまわりきれなかった。 ( よし、今日は近い順にゆき、帰邸したら千代香への書状を書こう ) それでも役目の半ばをこなして少し気が楽になった源治は、七日には午前中に一橋門 外の安中藩邸へ行った。それから西の丸下の館林藩邸へまわり、ここで茶を所望して弁 当をつかわせてもらってから数寄屋橋内の高崎藩邸をめざした。 しかし高崎藩邸の用人は、留守居役がタ刻まで他出しているので七つ刻 ( 午後四時 ) 過ぎに出直してほしい、 とい , つ。 疑わしくも思わす愛宕下広小路の伊勢崎藩邸にゆくと、応対に出たのが話のいやにま わりくどい人物で、顔を合わせてから文書を受け取ってもらうまでだけでも一刻 ( 二時 間 ) 以上かかってしまった。全大名には朝廷からすでに上京命令が出されていたから、 どの藩も官軍の最終追討目標とみなされている会津藩からの使者を応接するのに慎重す ぎるはど慎重なのである。 この日は新暦三月三十日に当たるから、日も長くなり、そう寒くはない。それでも、