「才 ( も、なノいたオこ といいながら、出立期日はいつの御予定かと問うと、プイと立って奥に入ってしまう。 月がかわって二月になると、朝廷はまたしても諸侯に上京を督促してきた。それでも 勝知は、まだ煮えきらない。 「殿、もはや西国諸藩はことごとく王師に服し、東海道先鋒総督府軍は元佐幕派の雄藩 桑名、大垣まで無血開城させたのでござるぞ」 兵馬が鳶色の目から炯々たる眼光を放って膝詰め談判すると、 「では、誰か代理を上らせよ」 ようやく勝知が答えたので、一一月九日、兵馬は末席の江戸家老鈴木半之丞を上京させ → 0 ッとにしこ。 たるひと この日新政府は、有栖川宮熾仁親王を東征大総督に任じている。十二日、徳川慶喜は へいきょ 江戸城を出、上野寛永寺の大慈院に屏居謹慎。勝知も十八日には半蔵ロ門番を辞退した が、二十五日、西郷隆盛のひきいる東海道鎮撫総督府軍先遣隊は早くも駿府に到着した。 虜鈴木半之丞が朝廷にようやく嘆願書を提出できたのは、かれらが箱根の関を奪おうと 城している同月二十九日のことであった。その書にいう。 臥《私儀、上京ッカマツルベキ旨先ダッテ仰セ出ダサレ候処、病気ニッキ暫時御猶予ノ儀 願ヒタテマツリ、オ聞キ届ケ成シ下サレ有難ク仕合セニ存ジタテマツリ候。モトヨリ勤
声の遠のきはじめた階下へと駆け下りて行った。 五 会津藩二十八万石の江戸上屋敷は、江戸城の東の方角にひらいた和田倉門の門内にあ る。 その本殿出合いの間の上座に出座した江戸留守居役柏崎才一は、目の前に肩で息をし ながら平伏した汗みすくの男からの復命に色めき立っていた。 / 、王子の争乱から丸一日 も経たない、十二月十八日午後七つ刻 ( 四時 ) のことである。 「甘利源治よ、大手柄ではないか」 なんど 上級の藩士であることを示す納戸紐の羽織に白扇を持って正座し、事の仔細を聞いて から薩邸潜伏浪士たちの同盟簿を読みすすんだ柏崎才一は、よく張った顎を上げて相好 を崩した。 「その方を仮藩士に採り立て、不逞浪士を装わせて薩邸入りさせた拙者の眼力に狂いは なかったのう。それにしても、千人隊に廻状を届ける一方で、かような動かぬ証しまで 奪ってまいるとは思わなんだよ」 あずか 「はつ。おほめのことばに与り、この甘利源治、まことに光栄の至りでござります」 「 , つ、む」
218 月二十八日のこと。快哉を叫んだ旧幕府陸軍諸隊と会津、桑名を筆頭とする佐幕派諸藩 の勢いに押され、慶喜が「討薩の表」を起草したのは慶応四年 ( 一、 八 ) 元旦のこと であった。 甘利源治は、薩邸焼き打ちの翌日には、かねてからの約束どおり正式に十人扶持の会 津藩士に採り立てられた。 「これは、拙者からの褒美じゃ」 と柏崎才一はい、、 浪士同盟簿とともに差し出してあったコルト・ネイビー・モデル を返してくれた。実弾はもう一発しか残っていなかったが、 ( 薩邸浪士中おれの顔を見知っている者が、まだ江戸市中に潜伏しているやも知れぬ ) と考え、源治は外出する時にはこのコルトを懐中に忍ばせることにした。 しかし、その後の政情の変化にはまことにめまぐるしいものがあった。 おじけ 正月三日から始まった鳥羽伏見の戦いは、薩長側の圧勝に終始。怖気づいた慶喜は六 日夜側近たちをつれて大坂城を脱出し、旧幕府海軍旗艦開陽丸に乗って江戸へ逃げもど ったのである。 これに同行して江戸城へ入った会津藩主松平容保が、謹慎するという慶喜に失望し、 江戸上屋敷にやつれきった姿を見せたのは十二日夕刻のこと。その供侍たちから、すで
しかしこの帰国命令は、兵馬たちにとっては渡りに舟であった。十三日のうちに結鹹 城に入り、連判状の一件を知らされた兵馬は、 ( これで、殿の命に従わなくとも不忠にはならぬ ) と安堵して会談を重ねた。国許の決定を新政府に伝える方策を練るためである。その 結果、藩の実情を記した嘆願書を吉田豊太夫、三宅武兵衛ら五人に托し、何としても新 政府に提出することになった。 だが十四日に江戸に着いた吉田たちは、もはや江戸市中には官軍多数が入りこんでお り、中山道、東海道ともに京への道は鎖されていることを知った。この日は芝田町の薩 摩藩邸で西郷隆盛と勝海舟が会見、江戸城の無血開城を決めた当日だったのである。 やむなく市谷門外の尾張藩邸に駆けこんだ豊太夫らは、同藩の録事長水野彦三郎に面 会して嘆願書を新政府に手わたしてくれるよう依頼した。彦三郎は、かって結城藩校秉 虜彝館の館長をつとめていた水野仲四郎の実兄である。このような細い糸を頼らねばなら 城ないほど、結城藩勤王派は孤立を深めていたのだった。 臥しかもこの動きは、たちどころに勝知の知るところとなった。各藩邸の動きは足軽中 間たちの横のつながりにより、逐一外に洩れてしまう仕組になっている。
に薩長勢は錦旗をひるがえし官軍を名のっている、と聞いて江戸詰め会津藩士たちは一 気に騒然とした。 それから二月中旬にかけて、源治はこの混乱に巻きこまれてほとんど不眠不休の日々 を送った。京都守護職屋敷詰めだった者たち、紀州から海路引き揚げてきた藩兵たち約 二千をどこに収容するか、同時に運ばれてきた多数の傷病兵をどうするか、という問題 で、会津藩は猫の手も借りたいありさまとなったからである。 やがて京都詰め藩士の家族たちは国許へ先行することになり、二月十六日には容保自 身も若松へ旅立った。なおも会津藩は薩長の出方を見守るかまえであったが、薩長は容 保の謝罪嘆願を聞き入れようとはしない。 やむなく一戦を覚悟した会津藩は、まず江戸詰めの老幼婦女から順次若松に帰国させ る一方、藩兵たちを連日江戸城に通わせてフランス軍事顧問団からナポレオン流の洋式 戦術を修得させることにした。 「汝は韮山代官所で銃砲術と洋式の陣立てを学んだそうではないか」 とこれに参加することを求められ、源治も毎日調練に狩り出された。 の ひと通り洋式調練を身につけたあと、会津兵主力も三月三日に若松へ出立したが、こ 甘の時もまだ源治は上屋敷から動けなかった。 江戸残留組は、もはや二十九名のみとなっていた。それを束ねるのは美男で知られる
222 この日は和田倉門内の会津藩上屋敷とは江戸城をはさんで反対側、四谷門内の小幡藩 邸から始めて赤坂薬研堀の矢田藩邸、赤坂溜池端の前橋藩邸、それより少し東寄り江戸 見坂の沼田藩邸を訪ねた。 源治は江戸の地理に明るくないし、来訪先では半刻 ( 一時間 ) 以上待たされることが つづき、六日のうちにはこの四藩しかまわりきれなかった。 ( よし、今日は近い順にゆき、帰邸したら千代香への書状を書こう ) それでも役目の半ばをこなして少し気が楽になった源治は、七日には午前中に一橋門 外の安中藩邸へ行った。それから西の丸下の館林藩邸へまわり、ここで茶を所望して弁 当をつかわせてもらってから数寄屋橋内の高崎藩邸をめざした。 しかし高崎藩邸の用人は、留守居役がタ刻まで他出しているので七つ刻 ( 午後四時 ) 過ぎに出直してほしい、 とい , つ。 疑わしくも思わす愛宕下広小路の伊勢崎藩邸にゆくと、応対に出たのが話のいやにま わりくどい人物で、顔を合わせてから文書を受け取ってもらうまでだけでも一刻 ( 二時 間 ) 以上かかってしまった。全大名には朝廷からすでに上京命令が出されていたから、 どの藩も官軍の最終追討目標とみなされている会津藩からの使者を応接するのに慎重す ぎるはど慎重なのである。 この日は新暦三月三十日に当たるから、日も長くなり、そう寒くはない。それでも、
ながみち すおうのかみ 川越藩主松平周防守康直、淀藩主稲葉美濃守正邦、唐津藩世子小笠原壱岐守長行の三 老中は、南北の江戸町奉行を召してその意見を聞くことにした。 のぶおき 時の町奉行は、駒井相模守信興と朝比奈甲斐守昌広。うち、外国惣奉行並をも兼ねる 朝比奈昌広は、こう答えた。 「すでに上さまには、続々と京に集結中の薩長芸三藩の兵力との衝突を避けるべく、二 条城より大坂城にお移りあそばされたと聞き及んでおり申す。その上さまの台慮も定か ではござりませねば、すみやかに使者を立て、台慮を拝してのち事を処するのが上策か と愚考つかまつります」 三老中はこの意見を是とし、いそぎ大坂城の慶喜におうかがいの使者を立てた。 これが二十四日昼過ぎのことだが、収まらないのは庄内藩である。中老から家老にト っていた松平権十郎みすからが、江戸城に登城して稲葉正邦に迫った。 「いっ届くかも分らぬ上さまのお指図を待ちながら、不逞浪士の巣窟たる薩摩屋敷を子 のままにしておくようでは、市中巡邏の意味などござらぬも同然。かくなる上は、弊藩 は市中取締のお役目を返上させていただく」 際精鋭一千を擁する庄内藩に手を引かれてはたまらないから、稲葉正邦は逃げを打った 甘「では天璋院さまに、おうかがしいたしてみよう」 ところが意外にも、天璋院は薩邸襲撃に異を唱えなかった。
124 た。月初め以来、勝知が上野山内の警備と彰義隊指揮役を買って出たと知って心を痛め かち ていた勝進は、旧知の旧幕府徒士目付小山大輔に接触。勝知を二職から解任してくれる ようかねてから頼みこんでいた。 この日午前中、兵馬が上屋敷の家老屋敷で仮眠していたころ、勝進は江戸城に使者を 登らせて、小山大輔にその結果を訊ねさせた。すると小山は答えた。 「尊藩御老公のお願いの筋はよう分ってござるが、なにぶんにも日向守殿御自身が、裏 からどうか解任して下さるなと仰せでのう」 「それは、誰を介しての嘆願でござります」 あちわゆうせん 使者が問うと、尊藩の阿知波祐仙と申す御仁だ、とかれはいった。 阿知波祐仙は、十人いる結城藩おかかえ医師のうち、十人扶持と最高の禄を得ている 江戸詰めの藩医である。 寝起きばなに勝進の使者からそれと知らされた兵馬は、ただちに祐仙の捕縛を命じた。 しかし、表長屋内のかれの居室はすでにもぬけの殻であった。家捜しすると長持の一 番下から文箱が出てきたので、藩士たちはとりあえずそれを兵馬の許に届けた。 寝不足の目でその中の書状を改めるうち、兵馬の鳶色の両眼は、とある一通に注がれ て大きく見ひらかれた。 「おのれ、祐仙」
ただちに深夜の総登城を命じた結果、脱藩したのは次の十一人と知れた。 水野甚四郎、水野雅之助 ( 又兵衛長男 ) 、水野渡 ( 甚四郎長男 ) 、有地清蔵 ( 馬廻り ) 、 有馬豊之助 ( 中小姓 ) 、西山半三郎 ( 同 ) 、青山利喜之丞 ( 同 ) 、青山隼太 ( 同 ) 、興野 文弥 ( 同 ) 、小谷野円四郎 ( 徒士 ) 、木下松雄 ( 坊主 ) 甚四郎の妻女はその夜のうちに阿知波祐仙ともども投獄されたが、甚四郎に関しては、 何者かが三の丸から堀をわたって同家裏口から忍びこみ、急を告げたのであろうとしか 分らなかった。 一カい力し だがこの日早朝、ふたたび急使として江戸をめざした柳田欽之助は、途中で境河岸に 立ち寄り、かれらの逃走径路をあきらかにするという手柄を立てていた。 江戸ー結城をつなぐ道筋は奥州街道、日光東街道の一一本だが、後者は粕壁宿で前者と たてまち もろかわ わか 岐れ、関宿、境町、諸川をへて結城城下西南にひらく立町口に通じる。境河岸とは結城 から隔たること六里弱、境町にある江戸川の船渡しのことで、ここから江戸川を下れば 一夜にして深川に達することができた。 虜結城藩も物資の江戸廻漕にはしばしば境河岸を利用していたから、この河岸にはなじ 城みの船宿が多い。それらを回った欽之助は、とある一軒で、 臥「たしかに昨晩遅く、十数人のお武家さまたちに船を一艘仕立てやした」 という証言を得、ぬかりなく結城にも使いを出してから日光東街道を駆けのばってき
「それはちと、あわただしすぎはいたしませぬか」 羽織袴によく肥えたからだをつつみ、下座に正座した八左衛門は、白髪髷の下の赭顔 に皮肉な微笑をたたえて答える。 「お殿さまにはすでに御夕食をおえられ、奥にてくつろいでおられます。それくらいの ことは、御家老もよく知っておいでじやろうに」 その横柄な口ぶりに、兵馬はいつもの穏やかさに似ない険しい目つきでいった。 「よいから、拙者の申すとおりにいたせ」 いいや、」 ゆるゆると首を左右に振り、八左衛門はつづけた。 「どうしてもとおっしやるなら、それがしはこれより筆頭家老さまと相談させていただ 筆頭家老とは、結城藩江戸家老中の筆頭職、水野甚四郎のことである。 「愚か者 ! 」 兵馬が、おもわす怒をふくんだ声を発したのはこの時であった。 ししか , れ の 兵馬は結城城三の丸にある藩校秉彝館にまなんでいた青年時代、六歳はど年下の水野 いきさっ 臥甚四郎に学問の手ほどきをしてやったことがある。そのような経緯から、かれは今は筆 頭江戸家老になりあがっている男の名を呼び捨てにしていった。 しやがん