224 面妖に思ってその窪んだ目を見つめると、老人は唇の色も失っていた。 ( なにを怯えているのだ ) 苦笑したくなるのを噛み殺してふところから書状を取り出し、その膝元へすべらせた 源治は、つづけて口上を述べようとした。 その時、上段の間の廊下側に造りつけられた付書院の障子に影を映し、小走りにやっ てきた男たちがいた。かれらは音高く襖をあけて下段の間に入りこみ、源治を背後から 半円形に取り巻いてしまう。 と叫んだ上座の老人は、源治のかたわらを擦り抜けると五人の男たちのうしろに隠れ もも 、 ) うべ た。頭を巡らせば、その五人はことごとく袴の股立ちを取り、小袖に白だすきを掛けて 腰の大刀に反りを打たせている。それと気づいて源治は愕然としたが、 ( こやつら、なにか勘違いしているな ) 、つ ) 0 という気持も動し 「会津藩士甘利源治と知っての狼藉でござるか」 左手に大刀をつかんで立ち上がり、源治は叱咤した。しかし、五人の中央に身がまえ ていた男の答えは、あまりに意表を突くものであった。 「甘利源治という名など、拙者は知らぬ」 つけ
源治を贈々し気に睨みつけている男は、腹から声を絞り出した。 「貴様の名は、原宗四郎。庄内兵どもを薩摩屋敷に手引きした幕府の狗であろうが。非 命に斃れた同志たちの仇、もはや逃れ切れぬそ」 、 , とう名のって 罵声を浴びながら、源治は顔から血の気が引いてゆくのを覚えてした。。 いたのかは忘れたものの、その男はたしかに薩摩藩邸の糾合所で見かけた顔であった。 源治は知らなかったが、高崎藩からも尊王の志を立てて薩摩藩邸に入っていた者があ ったのである。さる十二月二十五日、他出していて助かったこの男は詫びを入れて帰藩 を許されたが、幕軍鳥羽伏見から敗走と知って高崎藩が佐幕藩から勤王藩へと急変する や藩内に擡頭。この日午前中に来訪した甘利源治を遠目に見て、初めて原宗四郎の正体 を知った。 八王子から逃げもどった上田修理たちから原が密偵だったことは告げられていたし、 薩邸焼き打ち当日、原が談判役のひとりとして乗りこんだことも聞いていたから、かれ は同志たちの復讐を決意してその再来訪を待ちかまえていたのである。 入 ( そうか、高崎藩はいち早く勤王に鞍替えしやがったのか ) 際上段の間の違い棚にむかって後ずさりながら、源治の脳裡は絶望に暗く翳った。 甘 ( ここがおれの死場所となるのか、千代香にはもう会えぬのか ) さまざまな思いが去来し、同時に背筋が冷たくなった。その時あることに気づき、源
227 甘利源治の潜入 だが、抜けない。尖った撃鉄が、小袖の裏地に引っ掛かっていた。再度引き抜こうと すると、裏地が破れて小さな悲鳴のような音を立てた。 ( 済まぬ、千代香。もう会えぬよ ) 源治が胸中に叫んだ時、刃風を立てて撃ちこまれてきた五本の白刃が視界をおおいっ 甘利源治は、会津藩が火急の際に急遽採用した藩士であったため、会津の土を踏んだ こともなく藩士名簿に記載されることもなくおわった。 薩邸潜伏浪士たちの暴状が、幕府側から戦いを仕掛けさせるための挑発だったとは、 源治には最後まで想像もできなかった。天領に生まれ佐幕の心篤かったかれは、薩長に 対する佐幕派最後の反撃となった薩邸焼き打ちを、成功に導くためにのみ生まれてきた ような男であった。
台は急に生気を取りもどした。 ( いや、うまくゆけば同時にこの五人を倒せるかも知れない。そうすればこの屋敷を脱 出できるかも知れぬし、千代香とまた会えるかも知れない ) いまや五人は一斉に抜刀し、青眼にかまえている。かれらがじわじわと足を送りはじ めたのを眺めながら、源治は左手の大刀を足許に捨てた。 「どうした原、ナマスに切り刻んでもらいてえか」 その声には答えす源治は左一重身にかまえて腰を割ると、静かに右手を懐中に入れた。 膚で温まっていたコルト・ネイビー・モデルの銃把がしつくりと掌になじむ。会津兵 にまじって江戸城で洋式調練を受けた時、かれは弾薬庫の番人から弾丸を頒けてもらっ ていた。 「さあ、かかって来いよ」 まなうら このピストルを差し出した時の、千代香の切迫した顔だちが眼裏に浮かんでくる。そ の薄いおとがいの線を思い出しながら、源治は乾いた声を出した。五発の弾丸で五人を 仕留めるには、あの扇撃ちに賭けるしかない。 「やれ ! 」 という合図と、五人が畳を蹴るのははば同時であった。源治は息を止め、懐中からコ ルトを引き抜こ , っとした。
りがまったくないこと、万一正体が暴かれて薩摩藩から抗議されても、源治にまだ藩籍 しら がないことを盾に取って白を切り通せると踏んだことから行なわれた人選に過ぎない。 だが幕府天領に生まれ、佐幕の心篤い源治は指名されて奮い立った。 ( 長州大討ち込みの失敗、十四代昭徳院さま〈家茂〉の御逝去、十五代さまの大政奉還 と退潮いちじるしい徳川さまのお役に立てるとは ) と意気ごんだ源治は、会津藩の甲賀者に教えられて、薩邸潜伏浪士とおばしき者たち がよく遊びにくるという品川宿に、着流しの喰いつめ浪人風を装って通いつめた。 そしてある夜、遊里の喧騒を背にして裏通りを歩いてゆくと、道のかなたからいやに 着ぶくれた羽織袴姿の男が提灯も持たすにゆっくりと近づいてきた。源治が所在なげに 溜息をつきながら擦れ違おうとした時、右手に鉄扇をつかんでいるその男は、かれの足 の甲をわざと踏みつけた。 「なにをしやがる」 源治は叫び、反射的に大刀の鍔に左拇指を掛けた。すると、男はにやにやしながらい っこ 0 「いや、すまん、すまん、ちいと試してみたのさ」 「なんだと、なにを試そうってんだ」 しいつのる源治を、男は物慣れた口調で躱した。
に薩長勢は錦旗をひるがえし官軍を名のっている、と聞いて江戸詰め会津藩士たちは一 気に騒然とした。 それから二月中旬にかけて、源治はこの混乱に巻きこまれてほとんど不眠不休の日々 を送った。京都守護職屋敷詰めだった者たち、紀州から海路引き揚げてきた藩兵たち約 二千をどこに収容するか、同時に運ばれてきた多数の傷病兵をどうするか、という問題 で、会津藩は猫の手も借りたいありさまとなったからである。 やがて京都詰め藩士の家族たちは国許へ先行することになり、二月十六日には容保自 身も若松へ旅立った。なおも会津藩は薩長の出方を見守るかまえであったが、薩長は容 保の謝罪嘆願を聞き入れようとはしない。 やむなく一戦を覚悟した会津藩は、まず江戸詰めの老幼婦女から順次若松に帰国させ る一方、藩兵たちを連日江戸城に通わせてフランス軍事顧問団からナポレオン流の洋式 戦術を修得させることにした。 「汝は韮山代官所で銃砲術と洋式の陣立てを学んだそうではないか」 とこれに参加することを求められ、源治も毎日調練に狩り出された。 の ひと通り洋式調練を身につけたあと、会津兵主力も三月三日に若松へ出立したが、こ 甘の時もまだ源治は上屋敷から動けなかった。 江戸残留組は、もはや二十九名のみとなっていた。それを束ねるのは美男で知られる
この主張が受け入れられたため、源治はまんまと八王子に上田修理以下を引き入れ、 煮売居酒屋「しらぬひ」の老爺を使って千人隊に夜討ち依頼の廻状を届けることに成功 したのだった。 一夜明けると、会津藩江戸上屋敷の長屋にいる甘利源治のもとには、十七日夜の千人 隊のその後の動きが伝わってきた。 「千代住」にいた植村平六郎と堀秀太郎は、一度は囲みを破って裏手の畠地へ逃走した が、浅川をわたろうと大和田河原というところまで行った時、千人隊に追いっかれて斬 死を遂げた。 「壺伊勢」にいた神田湊、牛田静之助、水村吉三郎、今大路藤八郎のなかには、誰かは 分らないが上田修理同様ピストルを持っている者がひとりまじっていた。 たまたま日野宿から千人隊の加勢に来ていた農兵がこれに撃たれて即死し、千人隊の 腰が引ける間に四人は血路をひらいて逃走した。しかし、そのひとりは後頭部を二寸五 の 分ほど斬られた上、素槍を右胸に受けて血まみれだったという。 甘上田修理も源治の発射した初弾によってどこかに負傷したはすだが、その後縛に就い たという話はない。かれをふくむ五人は、潜行してふたたび薩邸入りをめざしているも
216 けいれん ふたたび叫んだ篠崎を振り返った時、源治はかれが脇差を抜き、足袋はだしで追って きたことに気づいた。その背後には、侍ふたりも白刃を抜きつらねてつづいている。あ きらかに、安部と源治をこの場を去らせす討ち果たしてしまうつもりなのである。 「安部さん、急がれい」 咄嗟に駆足になったふたりは、かろうじて通用門から外へすべり出た。 いまや門外に砲列を布きおわっている庄内兵たちは、ふたりの顔つきから談判が決裂 したことを即刻悟ったようであった。先ほど邸内に入りこもうとして門前払いを喰った 槍隊は、ふたりと入れ違いに歓呼の声を上げて通用門に殺到してゆく。 その時また通用門が内側へ排され、篠崎が上体をあらわしたからたまらなかった。 とっ ひとえみ 先頭の兵が左一重身から水平に槍を繰り出すと、篠崎は左胸を深々と抉られて五体を 痙攣させた。 世にいう「薩邸焼き打ち」の、劈頭の光景がこれであった。 戦いは明け , ハっ半 ( 七時 ) に始まり、午前四つ刻 ( 一〇時 ) すぎにはほば決着を見た。 甘利源治の奪った同盟簿にあった人数は二百あまりであったが、与太者も多数集まっ へきとう
218 月二十八日のこと。快哉を叫んだ旧幕府陸軍諸隊と会津、桑名を筆頭とする佐幕派諸藩 の勢いに押され、慶喜が「討薩の表」を起草したのは慶応四年 ( 一、 八 ) 元旦のこと であった。 甘利源治は、薩邸焼き打ちの翌日には、かねてからの約束どおり正式に十人扶持の会 津藩士に採り立てられた。 「これは、拙者からの褒美じゃ」 と柏崎才一はい、、 浪士同盟簿とともに差し出してあったコルト・ネイビー・モデル を返してくれた。実弾はもう一発しか残っていなかったが、 ( 薩邸浪士中おれの顔を見知っている者が、まだ江戸市中に潜伏しているやも知れぬ ) と考え、源治は外出する時にはこのコルトを懐中に忍ばせることにした。 しかし、その後の政情の変化にはまことにめまぐるしいものがあった。 おじけ 正月三日から始まった鳥羽伏見の戦いは、薩長側の圧勝に終始。怖気づいた慶喜は六 日夜側近たちをつれて大坂城を脱出し、旧幕府海軍旗艦開陽丸に乗って江戸へ逃げもど ったのである。 これに同行して江戸城へ入った会津藩主松平容保が、謹慎するという慶喜に失望し、 江戸上屋敷にやつれきった姿を見せたのは十二日夕刻のこと。その供侍たちから、すで
田に城をもっ沼田藩の本拠地から沼田街道を北東に十一里ゆけば尾瀬沼がひろがり、こ れを北に越えれば会津藩領に入る。それだけに梶原は、上州諸藩に丁重に挨拶しておく 必要を感じたのであろう。 正式な会津藩士として他藩に使いするのは初めてだから、甘利源治はこの指名をこと のほか名誉に感じた。しかし同時に、うしろ髪を引かれる思いも生じた。 ( まさか門番に文書を托して次の屋敷へむかうこともできまいから、八つのお屋敷をま わるのにます二日はかかる。出港前日の八日夜までには横浜に行っていなければならぬ、 とするとーー・ ) どう勘定しても、八王子へ千代香を迎えに走る暇はない。千代香を江戸へ呼び寄せる ゆとりもないと分って、源治は歯ぎしりした。 ( だが、会津の鶴ケ城は奥羽きっての名城だという。鳥羽伏見の戦いでも、崩れ立った のは旧幕府陸軍が中心で、会津兵は死を怖れすもっとも健闘したとやら。会津藩は簡単 には負けまいから、千代香には済まないが、横浜から出港前に飛脚を立て、会津へ来る 窈ように伝えるしかないな ) 千代香が無事会津に来られるようにしておくためにも上州諸藩への使いをうまく果た 甘さなければ、と思い返した源治は、六日の朝から借物の紋羽織と仙台平の袴、白足袋雪 駄で上級藩士を装い、小者をしたがえて藩邸まわりに出た。