しかもその領袖は、自分たちの主人なのである。勝知に刃をむけることはできないか ら、かれらが押し寄せたならば困難ないくさになることは火を見るよりもあきらかであ つつ ) 0 苦悩の末に鈴之は、諸家の次、三男以下部屋住みのせがれたちから十三歳以上の者を 集めて少年隊を編成し、これを二隊に分けて城の門外を警備させることにした。 同時に鈴之は、夜があけるのを待って小山宿に使者をやり、彰義隊を江戸に返し、勝 知と結城藩士だけで入城していただきたい、 と伝えることも忘れなかった。 だが、勝知は同意しない。 こうしてかれの無血入城は、もはやまったく考えられない ところとなった。 九 このころ結城藩領武井村には、ふたりの甲賀者がいた。夏目藤内、望月玄助。日ごろ は郷士のごとく農に従事しているが、一朝ことある時には主家の命を受けて探索方をう 虜けもつ者たちである。 の 翌日、柿色の野良着に同色の輪帯をしめ、汚れた手ぬぐいで頬かむりして近郊をあら 牛 みぶ 臥ためたふたりは、鬼怒川下流、壬生藩領大町新田の野良道でふたりの侍を発見した。ま だ前髪立ての若侍は、甚四郎とともに結城を脱走した西山半三郎。もうひとりは浅葱の
面々は城中に一堂に会した。かれらは相談の上、夜陰に乗じて城から脱出することにし 。再戦しても衆寡敵せぬ公算が大きいし、藩主勝知と戦うことだけは何としても避け たいからである。 「いったん敵をして入城せしめ、おって江戸にある官軍の応援を得てお城回復を策そう ではないか」 / 川鈴之の意見に従い、聡敏神社に参拝した一同は、本丸の三重櫓、二の丸の武家屋 敷にも火を放って立ちのいていった。 元禄年間、結城水野家初代勝成の築いた結城城は、こうしてその大半が灰燼に帰した。 その猛火は夜更けになっても勢いを弱めず、夜空を時ならぬタ焼のように染めあげたほ どであった。 おおみみ かしどりおどし 両脇から馬の耳を生やしたような大耳の兜に樫鳥縅の当世具足を着け、永楽銭の藩 旗をひるがえした勝知が、馬上この城に入ったのは翌二十六日のことである。焼け残っ ていた二の丸の吉田豊太夫邸に入ったかれは、幅五間の道の向かい側にある三宅武兵衛 虜邸の一室に小場兵馬を幽閉し、水野甚四郎と織田主膳から祝勝のことばを受けた。 城初めての実戦を経験し、まだ血を昂ぶらせているかれらの間からは、異様な残虐行為 臥に走る者も現れた。さる八日夜、甚四郎とともに結城を脱走した徒士組の小谷野円四郎 が、その最たる者であった。
「小場兵馬殿は、おのれの命と引きかえに結城藩を存続させようと願うて死んだ忠臣じ ゃ。城のよう見える城南の地を選んで、墓を建てちゃれ」 あくる十五日、祖式隊は忽然と結城を去っていった。旧幕歩兵奉行大鳥圭介のひきい る伝習歩兵第二大隊四百八十が江戸を脱走して小山宿に接近してきたため、これを迎え 討っ必要が生じたのである。 このころ勝知は、ふたたび二本松藩江戸上屋敷に潜伏していた。五日の夜明け前に結 城城から逃走したかれは、結城の北、鬼怒川筋の久保田河岸から舟に乗りこみ、上総成 東の飛地をめざした。その代官陣屋でしばらく形勢をうかがったあと、江戸に立ちもど ったのである。 その後、ばつばっと集まってきた佐幕派藩士たちをかき集め、「水心隊」と命名。 「天下六十余州、徳川三百藩の大名のなかに、余のごときうつけ者がひとりぐらいおっ てもよかろ , つ」 とうそぶいて上野の山に入ったかれは、彰義隊に客将として迎えられた。 かなり疑わしい。五月十 しかしこの勝知にどこまで幕府に殉じる覚悟があったかは、 虜 城四日、明日官軍の総攻撃がはじまると知ったかれは、臆病風に吹かれて二本松藩邸に逃 臥げもどったからである。 十二月八日、新政府は勝知に隠居謹慎、結城藩一万八千石には一千石の減封を通告し、 ねご
ただちに深夜の総登城を命じた結果、脱藩したのは次の十一人と知れた。 水野甚四郎、水野雅之助 ( 又兵衛長男 ) 、水野渡 ( 甚四郎長男 ) 、有地清蔵 ( 馬廻り ) 、 有馬豊之助 ( 中小姓 ) 、西山半三郎 ( 同 ) 、青山利喜之丞 ( 同 ) 、青山隼太 ( 同 ) 、興野 文弥 ( 同 ) 、小谷野円四郎 ( 徒士 ) 、木下松雄 ( 坊主 ) 甚四郎の妻女はその夜のうちに阿知波祐仙ともども投獄されたが、甚四郎に関しては、 何者かが三の丸から堀をわたって同家裏口から忍びこみ、急を告げたのであろうとしか 分らなかった。 一カい力し だがこの日早朝、ふたたび急使として江戸をめざした柳田欽之助は、途中で境河岸に 立ち寄り、かれらの逃走径路をあきらかにするという手柄を立てていた。 江戸ー結城をつなぐ道筋は奥州街道、日光東街道の一一本だが、後者は粕壁宿で前者と たてまち もろかわ わか 岐れ、関宿、境町、諸川をへて結城城下西南にひらく立町口に通じる。境河岸とは結城 から隔たること六里弱、境町にある江戸川の船渡しのことで、ここから江戸川を下れば 一夜にして深川に達することができた。 虜結城藩も物資の江戸廻漕にはしばしば境河岸を利用していたから、この河岸にはなじ 城みの船宿が多い。それらを回った欽之助は、とある一軒で、 臥「たしかに昨晩遅く、十数人のお武家さまたちに船を一艘仕立てやした」 という証言を得、ぬかりなく結城にも使いを出してから日光東街道を駆けのばってき
いかなることでありましようとお尋ねすると、これが何とーー・」 思わずかれは絶句した。 実効を立てるとは、一 , し / 川鈴之を江戸に住まわせ、二に番頭の吉田豊太夫、用人三 宅武兵衛のふたりを下獄させることだ、と勝知はいいはなったという。 鈴之を江戸に住まわせるとは、政治総裁職として国許を押さえているかれの権限を奪 うことを意味し、吉田、三宅という勤王派藩士の処罰を求めるとは、勝知がなおも佐幕 に執着していることを如実に示している。 「罪なき者を下獄させよとは、何たる痴癡の沙汰か」 声に出してから、兵馬はハッとした。「痴癡」ということばが口をついて出た時、自 分の心が勝知から遠く離れてしまっていることに初めて気づいたのである。 ( ひそかに他家の家老とまでロ裏を合わせ、藩主が藩邸脱出を決行するとは : な前代末聞のことがあってよいものか ) 兵馬は、ますます困難な方向にむかってゆく結城藩の行末をおもって暗澹とした。 虜 の 城 牛 臥この日は、結城藩はじまって以来の激動の一日となった。 前藩主勝任の父勝進は、麻布坂上町の結城藩下屋敷に五十一歳の老いの身を養ってい
110 慶応元年 ( 一八六五 ) 三月、幕府から大坂城加番を命じられた勝知は、八月初めに着 任した。すると家老代、大坂御供総裁としてこれに同行した甚四郎は、城内でやみくも に洋式散兵戦術の訓練をおこないはじめたのである。 散兵戦術とは、歩・騎・砲の三兵からなる部隊を従来のような横隊ではなく散開しゃ すい縦隊とし、開戦となれば自由に隊をくすさせ、家、樹木、岩陰などを存分に利用し パルタイガンゲル て戦わせる方法のこと。長州人村田蔵六 ( 大村益次郎 ) の訳語にいう「巴児斧雁傑児ヲ ヲルロフ」、すなわちパルチザン戦法がこれである。 翌年二月、帰府して筆頭江戸家老に出世した甚四郎は、五月国許に帰ってくると、 「御用調練をおこなう」 と一方的に宣言。おのれの門人たる越後流兵学と洋式散兵戦術の習得者のみならす、 吉田豊太夫について長沼流軍学を修めた者まで駆りあつめた。 《諸藩士はもちろん諸有司も、御用ある者のほかは出席せざるべからず》 との布告まで出されたので、この調練は全藩を挙げての大事業と目されるに至った。 がぎゅうじよう 「臥牛城」の異名をもっ結城城は、十里四方を平地に囲まれている。その東南六里の ・也占こ、 行春やむらさきさむる筑波山 と蕪村の詠んだ常州屈指の秀峰が霞んで見えるのも、目路をさえぎるものが何もない
「大体あやつは、昔から出世欲が強すぎるのだ。ほれ、おやすも覚えておろう、二年前 のあの面妖な調練を」 「ええ、ええ、よく覚えておりますとも。女子のわたくしも、このようなことでいくさ ができるのかしらと田むいましたもの」 かね やすは金作にくくませる乳房を替えながら、鉄漿をつけたロ許を袖に隠してくすくす と笑った。甚四郎の異様なまでの出世欲が話頭にのばると、心ある結城藩士の間では、 話はかならず慶応二年の調練にいきつくのである。 小川さまなどはいつもああしておっとりと構えてい 「おなじ水野本家の庶流とはいえ、 らっしやる。なのに、あやつのようにおのれが頭角を現したいがためにがむしやらに突 っ走る男もおるとはのう」 兵馬も苦笑で応じて、凝っている首の筋をコキコキと鳴らした。 能登鹿島から結城に移る前後に、水野家では藩主の次、三男は臣籍に下す方策をとっ もんど 虜た。その結果成立したのが、代々の当主が「水野主水」「水野甚四郎」「水野又兵衛」を 城名のる三家であった。 臥うち初代の水野主水は、結城水野家第一世勝長の筆頭家老として新封土の藩政を確立 するのに抜群の功があった。ために主水家は、禄高五百三十石と家中最高の家禄を与え おな′、
それと知った祖式は、館林藩に二小隊の出動を要請。四月四日、須坂藩一小隊と岡田 将監の半隊、砲二門を合わせて百五十人からなる支隊を編成し、結城をめざすことにし 五日七つ刻 ( 午前四時 ) 、日光街道小金井宿から進撃したこの祖式隊が、二里半の道 のりを南下して結城の北の入口、神明口に達したのは明け , ハっ半 ( 七時 ) 前のこと。こ こで三手に別れた祖式隊は、追手門、北門、 西館門にむかって縦隊ですすんだ。 追手門、西館門にむけられた四斤山砲は、はば同時に砲火をひらいた。後装施条式の スナイドル銃、あるいは七連発のスペンサー銃を支給されている歩兵たちも、負けじと 一斉に連射を加えはじめる。 しかし城内からは何の応射もない。焼け残った本丸の三重櫓が、ただ朝空に巨大な墓 きつりつ 標のように屹立しているばかりであった。 とき 前日までに織田主膳ら彰義隊の五十余人は、決戦の秋近しと知って上野に引き返して いた。残る五十の結城藩士たちだけではとても抵抗できない。そうと悟り、官軍接近と 虜知るや勝知以下はいち早く城を捨てて近郊に身を潜めたのである。 城拍子ぬけした祖式隊は、それでも念のため城内をくまなく改めた。 臥すると二の丸に焼け残っていた屋敷のひとつに、衰弱しきった小柄な武士がひとり発 見された。木ロの真新しい座敷牢のなかに、 こけた頬をばうばうたる髭でおおい、月代
祖式は、的はずれなことを答えた。かれが兵馬のいいたかったことに気づいたのは、 それから七日目のことであった。 七日のうちに川村与十郎から結城城奪還を報じられた小川鈴之、吉田豊太夫、光岡多 法見らは、 《早々帰邑致シ、ソレゾレ鎮撫ノ上ハ勤王ノ儀尽力コレアリ候様》 とーもさだ と板橋在陣の東山道先鋒総督兼鎮撫使岩倉具定から親しく命じられ、帰国準備に入っ た。十日に禊之助とともに江戸を発ったかれらは、翌日結城宿本陣に到着して、正式に 祖式金八郎から城を受け取ったのである。 「やあ、小場殿。やっとまた会うことができましたな」 祖式のうしろから現れた兵馬に、この時日ごろ親しく交わっている千種十郎左衛門が 呼びかけた。 虜「聞けば新政府軍がお城に大砲を撃ちかけ、甚四郎どもを逃げ走らせた時、城内に捕わ 城れておったとか。いや、怪我もなくてよろしゅうござった。けど、後継ぎの兵八郎殿に 臥は惜しいことをいたした、いまだ春秋に富む若者であったのに」 「いや、討死は武士の本懐といたすところ。このたびのいくさに落命した方々はほかに もののふ
「これは、兵馬らが国許の一派と談合しおったのですな。こうなっては殿おんみすから に出馬していただき、国許を佐幕にまとめてしまうしかござりませぬ」 甚四郎に尻を叩かれ、勝知は彰義隊の織田主膳にも援軍派遣を乞うた上で、国許に乗 りこむことを決意した。 彰義隊頭取渋沢成一郎としても、いずれ新政府軍と雌雄を決する時まで勝知を抱きこ おう んでおいた方が得策だから、助力するのに否やはない。隊長織田主膳、隊外組頭相馬翁 輔、隊長付小泉高之進以下五十余名の隊士たちを赤坂南部坂にむかわせた。 あさぎ しすれも浅葱色のぶっさき羽織に白の義経袴、羽織下には竹胴か 彰義隊の者たちは、、 革胴をつけて朱鞘の大小をかんぬき差しにしている。かれらが甚四郎ら国許脱走の十一 おやまじゅく 名とともに奥州街道を下り、結城へ一里半、野州小山宿に入ったのは十六日のことで あった。 又兵衛の駕籠をつれている勝知と三十余名の佐幕派結城藩士たちは、佐幕派の雄会津 藩の協力により、古河藩から十二斤カノン砲一門、弾薬数百発分を借り出すことに成功 ままだ した。だが、この搬送に手間どったため、この日は小山の一里二十五町手前、間々田宿 までしかすすめなかった。勝知は、この地から結城に使者を出して伝えさせた。 「明十七日に帰国いたすから、そのつもりでおれ」 兵馬や鈴之ら国許の重臣たちにとり、勝知の帰城はもとより願うところである。 ポンド