「ところでおぬし、かなりうらぶれた風清だが、金ははしくねえか」 そして、なぜか三枚も重ね着していた羽織の一枚を脱ぎ、金一両を添えて源治に差し 出すと、 「これは、足の踏み賃だ」 ほうきよう と男は豊頬を見せていった。 「もっとほしくなったら、その羽織を着て芝新馬場の薩摩藩邸に上田修理を訪ねてこ それが、甘利源治が不逞浪士にわたりをつけた初めであった。相楽総三は毎夜おもだ った者たちと各地に出かけ、このような方法で使えそうな人間を駆り集めていたのであ る。 原宗四郎と変名した甘利源治が、首尾よく薩邸糾合所に寄宿するようになってまもな くのこと。相楽総三は益満休之助、伊牟田尚平、糾合所屯集隊の幹部たちとともに鳩首 謀議した結果、江戸市中ばかりでなく江戸を囲む三つの土地に武装蜂起して、幕府に最 バ終的脅威を与えよう、という点で意見を一致させた。 いずるさん 野州出流山、相州荻野山中藩の陣屋、甲州の甲府城を押さえる一方、江戸残留部隊が 甘日夜挑発行為をつづければ、幕府は堪忍袋の緒を切って武力討伐に踏み切るだろう。そ 跚うなりさえすれば薩摩、長州、芸州三藩が討幕の密約にもとづいて兵を挙げる名分も立
132 胃の腑に痛みが走るのを覚えながら、兵馬は勝進の前に黙然と端座しつづけた。 しかしこの日は、国許からは何の知らせも来なかった。 「鈴之はうまくやってくれるかのう」 目尻にしみの浮いた目を気弱げにまたたかせる勝進に、 「ト川さまが結城に御到着なさるのは本日の夜更け。藩士に総登城させるのは明朝以降 となりましょ , つから、結果が伝えられるのは早くとも明後日の夕刻となりましょ , つ」 と答えて、兵馬は暮六つ刻に家老屋敷に引き揚げた。結城ー江戸の距離は二十一里、 一泊二日の行程なのである。 大騒動が巻きおこったのは、日付も変わった八つ刻 ( 午前二時 ) のことであった。勝 くつきよう 知が甚四郎以下の脱藩者十一名に又兵衛とその供侍、究竟の二本松藩士二十余名を従 えて乗りこんできたのである。 勝知は、西陣織亀甲模様の踏んごみ袴に金糸笹縫縁、一一本松丹羽家の紋所である違い 十字の家紋を白ぬきにした黒ラシャの火事羽織姿。頭には金筋入りの火事兜をかむり、 鼻から下をシコロでおおって目だけを爛々と光らせていた。 甚四郎以下も大名火消の同心めかし、違い十字の家紋をつけた火事羽織を羽織ってい た。これは、首尾よく赤坂門を通りぬけるための工夫であった。大名火消の出動であれ ば、鎖された御門であっても随時通行を許される。
「これは、兵馬らが国許の一派と談合しおったのですな。こうなっては殿おんみすから に出馬していただき、国許を佐幕にまとめてしまうしかござりませぬ」 甚四郎に尻を叩かれ、勝知は彰義隊の織田主膳にも援軍派遣を乞うた上で、国許に乗 りこむことを決意した。 彰義隊頭取渋沢成一郎としても、いずれ新政府軍と雌雄を決する時まで勝知を抱きこ おう んでおいた方が得策だから、助力するのに否やはない。隊長織田主膳、隊外組頭相馬翁 輔、隊長付小泉高之進以下五十余名の隊士たちを赤坂南部坂にむかわせた。 あさぎ しすれも浅葱色のぶっさき羽織に白の義経袴、羽織下には竹胴か 彰義隊の者たちは、、 革胴をつけて朱鞘の大小をかんぬき差しにしている。かれらが甚四郎ら国許脱走の十一 おやまじゅく 名とともに奥州街道を下り、結城へ一里半、野州小山宿に入ったのは十六日のことで あった。 又兵衛の駕籠をつれている勝知と三十余名の佐幕派結城藩士たちは、佐幕派の雄会津 藩の協力により、古河藩から十二斤カノン砲一門、弾薬数百発分を借り出すことに成功 ままだ した。だが、この搬送に手間どったため、この日は小山の一里二十五町手前、間々田宿 までしかすすめなかった。勝知は、この地から結城に使者を出して伝えさせた。 「明十七日に帰国いたすから、そのつもりでおれ」 兵馬や鈴之ら国許の重臣たちにとり、勝知の帰城はもとより願うところである。 ポンド
国許詰めの藩士たちが、 「小場殿が、丹羽丹波とか申す二本松藩家老としめし合わせたのではないか」 と邪推したことを指していた。 しかし、それよりもひとびとを驚かせたのは、半刻ほどして小走りにやってきたやす の身なりであった。藤助に先導されて現れたやすは、早くも喪服をまとい、丸髷に結っ た元結の上には髪の毛をまきつけて毛巻にしていた。これは、後家となった者のみの結 う髪形である。 「おお、御新造は本日小場殿がお腹を召されると知っておられたのか」 十郎左衛門が、まだ動かしてはいない兵馬の遺体のある場所へと急ぐやすに訊ねた。 やすは歩みを止めずに乾いた声で答えた。 やしろ 、今朝方わたくしが厄介になっておりますお社に藤助をよこし、羽織袴と浅葱無 垢の帷子を持たせよ、と伝えられました時に」 浅葱無垢は、この時代の死装束なのである。 虜「なぜわれらに、そうと知らせては下さらなんだ」 城十郎左衛門がさらに問うと、やすは蒼白い顔にぎこちない微笑を浮かべていった。 臥「止めて止まるものなら、わたくしが止めておりました。でもわたくしには、夫が晩節 をまっとうしようとしているのが痛いほど分りましたものですから」
「それはちと、あわただしすぎはいたしませぬか」 羽織袴によく肥えたからだをつつみ、下座に正座した八左衛門は、白髪髷の下の赭顔 に皮肉な微笑をたたえて答える。 「お殿さまにはすでに御夕食をおえられ、奥にてくつろいでおられます。それくらいの ことは、御家老もよく知っておいでじやろうに」 その横柄な口ぶりに、兵馬はいつもの穏やかさに似ない険しい目つきでいった。 「よいから、拙者の申すとおりにいたせ」 いいや、」 ゆるゆると首を左右に振り、八左衛門はつづけた。 「どうしてもとおっしやるなら、それがしはこれより筆頭家老さまと相談させていただ 筆頭家老とは、結城藩江戸家老中の筆頭職、水野甚四郎のことである。 「愚か者 ! 」 兵馬が、おもわす怒をふくんだ声を発したのはこの時であった。 ししか , れ の 兵馬は結城城三の丸にある藩校秉彝館にまなんでいた青年時代、六歳はど年下の水野 いきさっ 臥甚四郎に学問の手ほどきをしてやったことがある。そのような経緯から、かれは今は筆 頭江戸家老になりあがっている男の名を呼び捨てにしていった。 しやがん
声の遠のきはじめた階下へと駆け下りて行った。 五 会津藩二十八万石の江戸上屋敷は、江戸城の東の方角にひらいた和田倉門の門内にあ る。 その本殿出合いの間の上座に出座した江戸留守居役柏崎才一は、目の前に肩で息をし ながら平伏した汗みすくの男からの復命に色めき立っていた。 / 、王子の争乱から丸一日 も経たない、十二月十八日午後七つ刻 ( 四時 ) のことである。 「甘利源治よ、大手柄ではないか」 なんど 上級の藩士であることを示す納戸紐の羽織に白扇を持って正座し、事の仔細を聞いて から薩邸潜伏浪士たちの同盟簿を読みすすんだ柏崎才一は、よく張った顎を上げて相好 を崩した。 「その方を仮藩士に採り立て、不逞浪士を装わせて薩邸入りさせた拙者の眼力に狂いは なかったのう。それにしても、千人隊に廻状を届ける一方で、かような動かぬ証しまで 奪ってまいるとは思わなんだよ」 あずか 「はつ。おほめのことばに与り、この甘利源治、まことに光栄の至りでござります」 「 , つ、む」
172 下心のあらわなその注文にも、原と呼ばれた韮山笠の男はあっさりと応じた。 うけたまわ 「それは昨晩、府中宿でも承りました。まあ、お任せあれ」 しかし横山宿にあるのは平旅籠ばかり。飯売りつきの宿はこの先の八日市宿に固まっ ているから、もう少し歩きましよう。そう告げられると、深編笠の肥満漢は納得したよ うに歩みを速めた。 原が立ち止まったのは高札場のある四つ辻を越え、八日市宿へ入ってまもなくのこと であった。 「ます、ここで寸酌いたす」 原が指さした小体な店は、軒の右手に「煮売居酒屋」、左手に「しらぬひ」と書いた あんどん 縦長の掛け行灯を掲げていた。その灯が、早くも薄闇におおわれた店先をばんやりと明 るませている。 煮売居酒屋とは、一般には食事も出す酒亭のことである。だが八王子十五宿ではこれ ひきて が引手茶屋を兼ね、客から相応の引手銭をもらって懇意の飯売りつき旅籠に送りこむな らいなのだ。 原からふたたび説明されると、 「おぬし、さすがに詳しいの」 深編笠を外した肥満漢は、羽織の両肩をはたきながら大股に「しらぬひ」の軒をくぐ
思わず胸墻陣地のなかに立ち上がった兵八郎は、縛されてつれてこられた男をまじま じと見つめた。髷はざんばら髪になり、ロのまわりは不精髭におおわれているが、父兵 馬にまぎれもない。 兵馬をむりやり地面に正座させた甚四郎は、 「大痴」 と大書した紙を取り出して、そのぶっさき羽織の胸前に貼りつけた。 「さあ、さっさと陣地から出てこぬか」 甚四郎にいわれ、兵八郎は唇を噛みしめて高さ五尺の胸墻を乗りこえ、甚四郎の視野 さら に五体を曝した。 「よし、ムフだ」 この時、甚四郎が叫んだ。半首笠のふたりがミニエー銃を発射すると、かれ自身も素 ハンと連射する。 早く陣羽織の下からピストルを取り出してバン、 「兵八郎 ! 」 虜兵馬が血を吐くように叫び、身悶えして走り出そうとしたのは、兵八郎のからだが背 城後の胸墻に叩きつけられた瞬間であった。 臥「それ引け」 甚四郎はその兵馬の縄尻を捕えてたぐり寄せる。そしてその陰に隠れたかと思うと、
その時、兵馬の鋭い気合がふたりの耳朶を打った。ふたりが驚いて目を瞠ると、兵馬 は中輪に星梅鉢の家紋をつけた羽織の背をまるめ、荒い息を吐いている。 「日一那・さま ! 」 藤助があわててその両肩に手をかけ、上体を引きおこした。兵馬のいつの間にかはだ けられていた腹部から鮮血が散って、兵八郎の墓標の根かたを朱の色に染めあげた。か れは叩頭すると同時に脇差を抜き、逆手に持ちかえるや一気に腹に突き立てていたので ほと・はし ある。一瞬のちに血が迸ったのは、真一文字に斬り裂かれた疵口が藤助の動きによっ て口をあけたからであった。 「と、藤助よ」 かれは左掌でその疵口を押さえるようにしながら、五体を支えてくれている家僕に顔 をむけた。 「お前は今日に至るまで、よく忠節を尽くしてくれたな。その殊勝さを、わしはいつも かたじけないと思っていた。わしはお前の見るとおり、今日ここに自裁する。わしの亡 き後もますます奮励して将来の立身を図るのだそ、よいな」 その間に青年僧は、仰天して本堂に急を知らせていた。小Ⅱ ー鈴之、稲葉三鶴、光岡多
118 鈴之が畳みこむようにいったのに、兵馬は二度驚いた。 しかし勝知は、もうロをひらかない。筆硯が差し出されると、黙々と念書を書いて奥 に入っていった。 五 兵馬はその後ただちに留守居役ふたりを御年寄部屋に招き、旧幕府に対し、勝知の役 儀赦免願いを提出してくるよう命じた。 ところが旧幕府首脳も和戦両派に割れて論議は混沌としているから、一小藩のこのよ うな願書などいちいち取りあげてはくれない。その間に、勝知に奇異な行動がめだちは じめた。 四、五の両日の間に勝知は、みずから本殿の玄関式台に現れて馬と供侍の仕度を命ず こがね ること三度に及んだのである。ぶっさき羽織に馬乗り袴姿、腰には水野家重宝、黄金造 かねうじ ちくべんにらやま りの志津兼氏を帯び、手には竹鞭と韮山笠をたずさえていた。 「しばらノ、、しばら / 、」 このことあるを予期し、玄関前の玉砂利の庭を警備していた藩士たちが押し止めたの で、勝知は厭な顔をして奥に戻っていった。 うまや しかし、かれは諦めない。四度目には台所ロより忍び出、邸内北の隅の厩に行って自