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検索対象: 二つの山河
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1. 二つの山河

高崎藩邸でも半刻近く待たされることを覚悟しておかなくてはならないから、八つ半 ( 三時 ) 過ぎに伊勢崎藩邸を出た源治は、あたふたとまた高崎藩邸へむかった。 九 今度は先はどの本殿出合いの間ではなく、黒書院下段の間に通された。同行の小者は、 ちゅうげん 表長屋の仲間部屋に待機する。 高崎藩留守居役との会見をおえれば会津藩上屋敷にもどり、ようやく千代香への手紙 を書くことができるから、甘利源治はやれやれと思っていた。 ( 千代香は平仮名しか読めないかも知れぬから、易しく書いてやらなければいけないな。 千代香はまだおれの仕官した先が会津藩とは知らないのだから、さそ驚くことだろう。 おれだとてわずか二カ月半前の薩邸焼き打ちのころには、会津へ行くことになるとは夢 にも思っていなかったのだから ) 思わず濃い眉をひらいて頬笑んだ時、背後の襖がひらいた。 バ十二畳の下段の間に控える源治に対し、六畳の上段の間に通った男は、ひろく剃った ムロさかやき 月代に白髪髷を乗せた血色の悪い老人であった。源治が作法通りに挨拶し、名を名のつ 甘ても、老人は顎をカタカタいわせているばかりで返答もしない。 ( この御仁、入歯がうまく噛み合わぬのか )

2. 二つの山河

にやにや笑っている主膳の隣の席から、小泉高之進は二通の書状を兵馬の膝元にほう り投げた。目を通すと、一通は小川鈴之に謹慎を通告するもの、もう一通は三宅武兵衛、 柳田欽之助ら十三名の勤王派藩士をすみやかに召し捕れ、と命じる達し書であった。 兵馬は無言で、これを背後に控える稲葉三鶴、光岡多治見にまわした。その間に、襖 でさえぎられている隣の二の間にどやどやと多人数の入りこむ足音がした。と思う間も なく、襖はからりと乱暴に開け放たれる。 暗い二の間には、羽織下に防具を着こみ白い義経袴をつけた男たちがびっしりと突っ 立って兵馬たちを睥睨した。かれらは口々に罵声を浴びせかけた。 「王臣だ勤王だなどと唱えるやつばらは、われらが討ち取ってくれるわ」 「このたび当地まで出張ってきたのは、その筋より内命を賜り、かつ日向守さまからも 結城鎮撫の依頼を受けたからだ。もしわれらのいうことを聞かすば、城に大砲を撃ちこ んでひとつぶしにしてやるからそのつもりでおれ」 その挑発を無視した兵馬は、主膳の坊主頭に目をむけて答えた。 「この書状は一応お預りいたすが、返答はのちほどのことにいたす」 虜 城兵馬は片膝立ちになり、稲葉と光岡を促して退出しようとした。その時、主膳の胴間 臥声が響きわたった。 れ「いや、お羊立則はここにとどまってもら , つ」

3. 二つの山河

からにほかならない。見はるかす黒土の田畑のなか、そこだけ高さ八、九間ばかり盛り 上がった台地上に縄張りされたこの城は、田の間に悠然と寝そべる牛のように見えるこ とから臥牛城の異称をたてまつられたのである。 やぐら 調練のおこなわれる場所は、この結城城の白壁塗りの三重櫓を東の高みに仰ぐ本丸広 場の練兵場であった。 そうびん 北は結城水野氏の祖、勝成を祀る聡敏神社の大鳥居、南は一一の丸との間を画する内堀 にいたる長方形の練兵場は、約三千坪のひろさである。 この本丸広場の西側には、三の丸との境の内堀を背にして小場兵馬邸と水野甚四郎邸 とが並んでいる。この二邸と向かい合うようにして水野主水邸があったのだが、同家が なら 断絶させられるや甚四郎の進言により、その跡地は均されて練兵場に呑みこまれていた。 しかし甚四郎の意気ごみをよそに、当日そこにくりひろげられたのは何とも奇怪な光 景であった。 集まった藩士約九十人のうち、越後流兵学をまなぶ者たちは戦国時代の当世兜や当世 虜具足姿、長沼流軍学の信奉者たちは陣笠陣羽織、あるいは小具足に鉢金をつけてやって 城きた。散兵戦術を仕込まれた者たちは筒袖洋袴にトンガリ陣笠形式の半首笠をかむって 臥現れたから、これはどう見ても烏合の衆である。 ( 何たるざまか ) かっしげ

4. 二つの山河

224 面妖に思ってその窪んだ目を見つめると、老人は唇の色も失っていた。 ( なにを怯えているのだ ) 苦笑したくなるのを噛み殺してふところから書状を取り出し、その膝元へすべらせた 源治は、つづけて口上を述べようとした。 その時、上段の間の廊下側に造りつけられた付書院の障子に影を映し、小走りにやっ てきた男たちがいた。かれらは音高く襖をあけて下段の間に入りこみ、源治を背後から 半円形に取り巻いてしまう。 と叫んだ上座の老人は、源治のかたわらを擦り抜けると五人の男たちのうしろに隠れ もも 、 ) うべ た。頭を巡らせば、その五人はことごとく袴の股立ちを取り、小袖に白だすきを掛けて 腰の大刀に反りを打たせている。それと気づいて源治は愕然としたが、 ( こやつら、なにか勘違いしているな ) 、つ ) 0 という気持も動し 「会津藩士甘利源治と知っての狼藉でござるか」 左手に大刀をつかんで立ち上がり、源治は叱咤した。しかし、五人の中央に身がまえ ていた男の答えは、あまりに意表を突くものであった。 「甘利源治という名など、拙者は知らぬ」 つけ

5. 二つの山河

Ⅱに作られた営倉はがいして小さく、平均四・五メートル平方で、天井も非常に低く、ふ つうのヨーロッパ人が真直ぐ立っことができないほどだった》 《けれども彼はいくつかの収容所における過密状態を批判する一方、日本政府の、状況 を改善しようという意図をも見逃さなかった。 ( 略 ) 場所の不足する他のいくつかの収容所でさえも、ウエルズは捕虜たちと当局の間に協 同の気風を見出した。その好例は徳島で、捕虜たちの不満はただ一つ、食事の単調さだ けだった。 ( 略 ) ウエルズの目に久留米と大阪の状況は徳島とは逆に映った》 ( 林啓介訳 ) 食事の単調さ以外にはまったく問題のない、俘虜たちと当局の間に協同の気風の存在 する徳島俘虜収容所ーー とよひき、 その所長は四十四歳の陸軍歩兵中佐で、名を松江豊寿といった。 それまでの松江豊寿中佐は、徳島歩兵第六十一一聯隊附、経理委員首座という役職にあ った。それが徳島俘虜収容所の開設にともない、その所長に任じられたのである。 この俘虜収容所は、供出された徳島市富浦町の二階建ての県会議事堂とそれに隣接し て建てられたバラックから成っていた。収容人員は初め百九十五名、のち二百八名に上

6. 二つの山河

同年六月のうちにベルサイユ条約が調印され、俘虜たちは今や帰国の日を待つばかりと なっていたからである。 順次俘虜たちを帰国の旅へと送り出した松江が、青島ないし日本への定住を望むクル ト・マイスナー以下九十二名に別れを告げたのは大正九年 ( 一九二〇 ) 一月十七日午前 十時のこと。そのことばは次のようなものであった。 一日千秋の思いで待ってきたのであ 「諸君、解放おめでとう。この日を諸君は長い間、 る。諸君のよろこびを思 い、私もうれしい 諸君の中には戦前から東洋に在住していた人々が多いが、中でも日本居住の経験者は 一一一一口語にも通じ、日本の風習も知悉しておったため、われわれと一般俘虜との間のかけ橋 となってもらえて、われわれはどれくらい利便を得たかしれない。改めて、お礼を申し 述べる。 お別れにあたり、諸君の健康と御多幸を祈り、長年御苦労でしたと申し上げ、私のご とき者の命令指示をよく今日まで厳守されたことに感謝する」 対して、俘虜を代表してマイスナーが答辞を述べた。 「いよいよ、お別れの日がまいりました。かってマツェ所長どのは、有縁無縁の話をさ れました。私たちは、あなたという人と有縁の間柄になったことを衷心から感謝してお ります。

7. 二つの山河

十一時三十分昼食 ( バンとスープ ) 、午後二時から五時半まで運動、五時半からタ食 ( 肉 料理、野菜、果物など。ジャガイモは毎日大量に ) 、そして十時就寝。 収容所側では、通訳三人のほかに松江も少しドイツ語を話した。特にその女房役の高 木繁大尉はドイツ語に堪能で、俘虜たちに一目置かれていた。 俘虜たちの間にいさかい沙汰が起こった時も、松江は高木に短く告げるのみであった。 何とかしろ」 さらに、俘虜側にも日本語通が何人かいたことが、両者の間に「協同の気風」を育て るのに大いに役立った。 その筆頭は、降伏時二十九歳だったクルト・マイスナー。ギムナジウム卒業後シモ ン・エヴァース機工商会の横浜駐在員として来日し、日本で召集令状を受け取って青島 に出征した経歴の持主である。 こ、こ : 、ほば完璧な日本語 在日九年のキャリアを誇るマイスナーは初め松山収容所し を話したため川柳に詠まれたこともあった。 河 通弁の捕虜は日本に九年おり っ 松山時代のマイスナーは白地赤文字で「日語通」と書かれた腕章をつけており、かれ

8. 二つの山河

ら浅川に架かる浅川橋をわたれば、もう八王子であった。太鼓橋に造った浅川橋の西詰 めには、川岸に沿って低いが頑丈な石垣が築かれている。 いわみ 「これは石見土手といいましてな。八王子は西のはじの千人町まで、かような石垣に囲 まれておるのです。いわば砦のような町でござれば、かまえて油断は禁物ですそ」 先頭の男のことばに、九人の男たちは口から白い息を流しながら無言でうなずいた。 「では、こちらへ」 韮山笠の男は、道の両側から葉のない枝を差しのべている山桑の梢をくぐるようにし て新町へと進んでいった。その辻を左に折れ、次の辻を右折すればもう八王子十五宿の 東はじ、横山宿の入口であった。 しつび 間ロ四間 ( 七・三メートル ) の家並が両側に櫛比し、たいらかな街道はその間をまっ すぐ西へ走っている。 原よ」 二番手を進んできた深編笠の肥満漢が、先頭の男に呼びかけたのは最初の旅籠が目に 入った時であった。 ひら 際「おれは平旅籠には泊らねえぞ。飯売りつきの宿が所望じゃ」 甘平旅籠とは、食事を出すだけの普通の宿屋。飯売りつきとは、飯盛女という名目の遊 女を置いた宿をいう。 はた′一

9. 二つの山河

116 兵馬もこれに賛同したので、鈴之、兵馬ら八人は、ただちに本殿書院の間をめざした。 しぶしぶ上段の間に出座した勝知に対し、開口一番、鈴之はいった。 みち 「今や諸侯は朝命を拝して上京するか、帰国するかの途を選び、ほとんどこの江戸に残 ってはおりませぬ。一方、官軍は日に日に関東に迫っており、わが藩としては、いっ何 時上京いたさざる罪を問われるやも知れぬ現状でござる。もしそうなった場合、いかに して陳弁なさるおつもりか。 先に拙者どもが御上京をおすすめいたした時、殿は拙者どもの意見を容れては下さら す、ためにもはや上京の時機は失われましてござる。かくなる上はすみやかに帰国なさ れ、おりを見て新政府に哀訴嘆願いたすよりほかに策はありますまい。われら一同、死 をもって二職よりの辞任を極諫いたす」 ぐろ その顔は蒼白を通りこして蒼黔くなり、語尾はふるえて肺腑の言であることを示して チ気刀ナ′」 水野沢瀉の家紋を打った黒縮緬の羽織に仙台平の袴をつけて聞き入っていた勝知は、 不満そうに唇を尖らせた。 「余は大恩ある旧幕府より、二職を任せられたのだ。これらの職にありながらそれを投 げ捨て、帰国いたせばひとは何というと思うか」

10. 二つの山河

提出したので、西郷らは振り上げたこぶしの持ってゆきようがなくなってしまった。討 幕の名分が立たなくなってしまったからである。 そこで西郷は、策によって幕府に憤怒の情を燃え立たせようと企図。薩摩藩士益満休 さがら 」、つ。も、つ・ 之助、伊牟田尚平に、相楽総三と変名した下総相馬郡出身の草莽の志士小島四郎を添え て京から芝新馬場の薩摩藩江戸上屋敷へおもむかせた。 その檄に応じ、十月下旬までの間に四方から集まってきたのは、玉石混淆の浪士約五 百人。相楽総三はかれらを通用門にほど近い糾合所の建物に寄宿させると、みずから糾 かくらん 合所屯集隊総裁と名のり、かれらに命じて江戸の治安を攪乱させることにした。浪士た ちを二十人ないし三十人の小隊に分け、隊士たちには銃を、その長には馬を与えて、夜 な夜な思い思いに出動させたのである。 かれらは市中に侵入すると隊士たちの一部をふたつの木戸に貼りつかせ、ひとびとが その木戸と木戸との間二、三町の町屋に入ることを禁じてしまう。 「お役人でもねえのに、。 とうしてこんなことをしやがる」 といいつのる木戸番や町の者に対しては、 「この先で斬り合いがあるから行ってはならんといっておるのだ。あえて行くというな ら、覚悟を決めてもらおう」 と銃口を向けさせたから、これに逆らう者は絶えてなかった。 ますみつ