372 「老人性痴呆なんかじゃないわ」 朝子はいきどおろしさを押えながら、つとめて無表情に冷静にいった。 「老人性恋の病よ」 「そう思うかい、お母さんも。今朝になってばくもやっとそのことに気がついたんだよ。だが、 恋をすると飯が食えなくなるっていうのは、これはどういう現象なのかねえ。ばくにはどう考え てもわからないんだ」 「そこが老人性恋の病の特徴なのよ。子供のときにはしかにかかっていなかったのよ」 「ふーん」 春生は朝子を見た。 「どうする ? お母さん」 しっと どうするといわれると、改めて屈辱感が湧き上って来た。それは嫉妬ではない。むしろ敗北感 だ。コト子に対する敗北感というより、雄介に対する敗北感だ。朝子が主婦造反の旗印を掲げて 家を出たというのに、雄介は慌てす騒がす、老いらくの恋にうつつをぬかしている。雄介の胸は コト子のことでいつばいで、朝子のことなどもうどこにもないのだ。 「どうするといわれても、返事のしようがないわ。お父さんの好きなようにすればいいのよ」 しいとお母さんはいうんだね」 「そうか。じゃあ、坂部のおばさんと親爺が一緒になっても、 「なりたければなればいいでしよ」 朝子はそっけなくいった。 「そうか。わかったよ」
「そんな、夏子ーー」 「目、むかないでよ。退学くらいで」 一夏子はこともなげに、つこ。 「夏休み前にチョンよ。ェロ狸の策動だね。タニもご同様。全部で五人よ、退学は」 「そんなことになっているのに、どうして黙ってたのよ」 「いったってしよ、つがないじゃないのさ」 夏子はいっこ。 「何か冷たいものない ? 」 「で、お父さんは知ってるの ? そのこと」 「うん、知ってるだろ。だけど、娘のことどころじゃないんだよ、お父は」 「何ですか、お父だなんて」 「いやはや、呆れたよ。恋に悩んでるんだってさ。あの招き猫のおばさんに。兄貴から聞いて笑 かわい ったねえ。実際、いいとこある。可愛いよ、うちのお父は : 「何てことを、まあ、あなたは : 「学校、チョンになったけどね、夏休みが終ったら、また行くよ。向うはクビにしても、こっち 朗はおめおめとされないからね。タニも一応、秋田へ帰ったけど、九月になったら出て来るって 夏子は大アクビをした。 「それまで、とにかく鋭気を養うんだ。お母さん、ここ気に入ったよ。夏の間、置いてくれな あき だめき
しいます」 「奥さま、娘ですの、夏子と、 「おやまあ、お嬢さん ? 」 夫人が目を瞠ったのは、夏子の風態の異様さのためである。 「よろしく」 夏子はその目に向って顎をしやくった。 「おばさん、ここへ私も置いてくれませんか。八月いつばいでいいんスよ。九月になったらまか 学校に泊るから」 夏子は馴れ馴れしくいった。 「お願いしますよ、おじさん、おばさん : : : 」 その夜夏子は十二時近くなって朝子の所へやって来た。ズダ袋に少しばかりの着がえを入れて 酒臭いゲップを吐きながら縁側を上って来た。 「いやはや、あのオッサンにや、マイったマイった」 「何ですか、夏子。その言葉づかい。その態度 : : : 」 えり 朝子は品川画伯の浴衣の最後のかけ衿をかけていた手を止めて夏子を見上げた。 「ここの家にご厄介になるときまった以上は、そんな態度では困りますよ。ここの奥さんはなて しこ会の会長をしてまして、たいへんうるさい方なのよ」 夏子は朝子の言葉にはかまわす、 「品川のオッサン、どうやら、夏子に気があるらしいんだ」 「なんですって : : : こともあろうに、そんな :
知 「なかなか個性的なお嬢さんだな。こりや面白い。お母さんとはタイプが正反対ですね」 おやじ 「母はマジメ人間ですよ。親爺に抵抗してこんな所へ来たりしてるけど、本質的なマジメさはど うしようもないからね。果してどれだけ飛躍出来るか、この問題はね、親爺や家庭に対して反抗 しただけじやダメなんスよ。自己自身に対する抵抗ね。本質的な自己革命をやらなくちゃ、ホン 彼女はそのことがわかってないスからね、中途半端 トはダメなんだ。しかし現段階じゃ、まだ、 , なところで低迷している : : : 」 「ほう、これは、なかなか鋭いですな」 たもと 画伯は縁側に腰を下ろし、浴衣の袂からタバコを取り出して火をつけた。 「夏子さんはお父さんよりもお母さんを応援しているんですか」 いま 1 一ろ 「応援 ? そうね、私は客観的に見てますね。我々を産んだこの世代がスよ、今頃になって何と 。ししカわからすに、ただ か自己自身でありたいともだえてる。もだえてるが、実際にどうすれ、ま、 むだ いたましい。それが実感ね」 無駄に右往左往してる。こりや、悲劇であると同時に喜劇スよ。 いや、これは面白い 「いや、これは正に現代ムスメだなあ。正真正銘の現代がここにある , 品川画伯はさも興に乗ったように、手の扇子を閉じたり開いたりした。 はつらっ いや、これは素晴しい 「剌たるもんだ。跳ねている。躍動している ! じゃくし あっけ 朝子は呆気にとられて夏子と画伯のやりとりを眺めるばかりである。おたま杓子型の画伯の目 尻は垂れて、その先がチョイと跳ね上っている。その跳ね上りは画伯の胸の中が浮き立って来て いることを現している。 「あなたア : : : あなたア :
「しかし、それをハッキリいうと、ますますお母さんは怒ることになるだろう ? 」 春生は冷静な白い顔を朝子に向けた。 「女というやつはこういうところが困るんだねえ。何が気に入らないのかわかっててハッキリ 一んと ) い , っ 。ハッキリいうと大さわぎになることは自明の理であるからして、男の方は沈黙してい る。その男の沈黙は女に対するせめてもの思いやりなんだ。礼儀なんだ。それをいえ、 いえと責 めたてる。したいようにすればいいでしよう、と叫ぶ。それではというんでしたいようにすると、 怒り狂う。したいようにしては本当はいけないんだよ。それなのにしたいようにしろという。今 おやじ 回の場合なんか、親爺は全く哀れだよ。帰りたくないのを、ムリャリに連れて帰らされた上に、 何とか運搬機から落っことされて起きることも出来なくなった。そうしておいて、 " しこ、 にすればいいのよ。といわれたってどうしようもないじゃよ、 「春生、あなたはお父さんの肩を持つのね」 「困るねえ、お母さん。ばくは肩を持っとか持たぬとか、そういうことは主義としてしないんだ よ。ばくはすべての現象をありのままに見るだけだ。机を見るようにお母さんを見る。風にゆら ぐ樹を見るように親爺を見る。ただそれだけのことさ。親爺が五十六歳で恋をした。なるほど、 しっと と思う。お母さんがそれに対して嫉妬の鬼になりかけている。それもまたなるほどと巴って見て ど いるだけだ」 朗「じゃあ、もし、お父さんとお母さんが夫婦別れでもするようなことになったら : : : どうするの、 気春生 : : : 」 「やむをえないと思うね」 「それだけなの ? 」 オし、よ、つ
だんす 茶簟笥の抽き出しにあったのを借用したよ」 それから夏子は言った。 「お父さん、空中漫歩機から落ちたんだって ? ュカイな人だねえ。お父さんって人は : : : それ にあの人なによ ? あの招き猫みたいなオバチャンは」 「シーツ、聞えますよ」 しゃなしか。聞えたって : : : 招き猫ってのはこれ、褒めてるつもりなんだよ。あたしが帰 って来たら、アイスクリームか何かをサジですくってさ。お父さんに食べさせてるのさ。思わす 笑っちゃったよ。なにも、アイスクリーム食べさせてもらわなくてもさ。大病人じゃあるまいし かわい てめえ : お父さんも可愛いところあるよ。それくらい手前で食ゃいいじゃん」 「夏子 : : : あなたはまた何という : 「とにかく、めし食わせてよ。お母さん、炊きたてホカホ力の飯に生卵かけて食いてえなあ、三 日三晩、夢に見た」 「じゃあ、大急ぎでご飯を炊くから、その袋をますそこへ置きなさい」 「 , っ′ル」 ふすま 夏子は茶の間へ来た。茶の間と隣座敷の間の襖は開け放されている。そこには雄介が横たわっ まくらもと ていて、その枕許に近々と坂部末亡人が坐っている。 「や、失敬します」 夏子は軽く片手を上げると、茶の間の畳の上に仰向けに寝転がった。 「夏子、いったい何をしておるんだね、お前は」 布団の中から雄介がいった。
「何ですって、もう一度いってちょうだい」 「空中漫歩機 : ・・ : 」 「空中漫歩機 ! それ何です ! 」 「人間が空を飛べたらどんなに楽しいだろうと思ってね」 雄介はいっこ。 「それはオレの子供の頃からの夢だったんだよ」 「子供の頃からの夢 ! 五十六歳になってそのつづきをみようってわけですか ! 」 朝子は叫んだ。 「三無さんにかぶれるのもいい加減にしてちょうだい ! 」 十 / 、し諸ん」 「お母さん、うるさいねえ、テレビが聞えないじゃよ、 春生が炬燵からいった。 「どうしてお母さんって、そんなに声が大きいんだろうねえ」 「どうして声が大きいかって : : : 答えてあげるわ、お父さんのせいですよ。それにあなたのドラ ムのせい。あなたたち二人がお母さんの声を大きくさせたのよ ! 」 「人間が空中を歩行するということは、人がみなもっ夢ではないかね」 雄介は誰に向っていうともなくいった。息子のドラムにまだ一度も苦情をいったことがないよ うに、朝子の大声にも平然たるものである。 朝子は叫んだ。叫ぶと同時に顔が熱くなった。 「夢ですって、夢 ! 」 こたっ
小声でいった。 「男なのよ、男 : : : 」 「まさか , と , っしてよ ? ・」 「だって、飯、食うんだとか、奮発しろよ、とか : 「でも女でもそんなこというのよ、この頃の女子学生は : : : 週刊誌に出ていたけど、先生に向っ て、ジジイ引っこめ工なんて叫んだ女子大生がいるのよ」 「ホントに混乱するわねえ」 「お湯屋の番台も見分けるのがたいへんねえ : : : 」 「でもやつばり女よ、あの人。ッケマッゲだもの」 ノド仏、ノド仏 , 「でも見てごらんなさい、 「あーら、ホントー 二人はふり返りふり返り、残り惜しげに歩いて行った。 しオし毎日、何をしているのよ」 「春生、、つこ、 朝子は歩きながらいった。 ど れ「お父さんが怪我をしたっていうのに、見舞いにも行かないし、ちっともうちへ寄りつかないて 朗いったい何をしているの」 ーバーだなあ、お母さん。うちへ寄りつかない、なんて、そんなことないよ。お母さんこ挈、 天 ばくが帰ってもお母さんはいないし、腹が減るので飯ル この頃、よく外へ出ているじゃないか 食いに友達の所へ行くんだよ。そうしたらつい、引きとめられて、泊ってって、泊ってって、
高学府へ行った人間の考えることですか ! ホストクラブのホストになってみたり、美容師にな るっていってみたり、春生、あなたは本当に情けない人間になったのね : : : 」 「情けない人間 ? 」 ゅうぜん 春生は朝子が食卓に並べたチャーハ ンを食べながら、悠然といった。 「ど , っして ? : 春生は小首を傾けた。 「だってさ、お母さんはよくいってるだろ。お父さんは最高学府を出て、信用金庫の次長で終っ た、情けないってさ。ばくも大体に於てその意見に賛成なんだな。ばくはもっと実質的に生きる よ。ばくはこのことを考えてから、ます第一歩としてホストクラプへ行った。そこで女客という ものの実体を大体つかんだ。この女たちを踏み台にして人生を築いて行くことがオレに出来るか 出来ないか、考えたよ。ところがどうやら、出来そうなんだなあ。ばくは自分で思ってたより女 にもてるんだよ。しかも年上の女にもてるんだ。これは美容師として強味だ。若い女にもてても しようがない。若い女は金がないからね」 朝子は言葉を失った。この頃、息子や娘と議論をすると、たいてい二回戦あたりで言葉を失っ てダウンしてしまう。 「でも、お父さんはゼッタイ、許しませんよ」 朝子は仕方なくいった。普段は役に立たない夫だが、こういう時だけはまだ利用価値がいくら か残っている。 ・ : ただそれだけをたの 「お父さんに申しわけないと思わないの ? あなたの卒業をたのしみに : しみにして、今日まで来られたのよ。こんな話を聞いたら、どんなにショックを受けられるか
青葉は帰りぎわに朝子に小声でそういって、明けがた近い町へ出て行った。雨はまだ降ってい 「ありがとう、青葉さん、ごめんなさいね」 朝子の最後の言葉に、青葉はにつこりとふり返って、玄関を出て行ったのだ。 とういす 翌日はまだ小さな雨の残っている一日だった。朝子は縁側の古籐椅子に腰をかけて、ばんやり と庭に目をやっていた。それにしても何という夫だろう。妻が怒って家を出て行ったのに、ど で何をしていたとも聞かない。いった言葉はただ、「たいしたことがなくてよかった」だた 古籐椅子のそばに夏子がやって来ていった。 「お母さん、昨夜の肉、すごい上等だったわねえ、高かったでしよう」 夏子はいっこ。 「お母さんが怒って出て行ったキモチ、あの肉食べたらよくわかったわ。一年に一度か二年に一 度の大フンバツをしたのに、お父さんは丸薬三粒のんで、三無さんとオダ上げてたからでしよ」 夏子はいった。 「だけど、お母さんが、青葉さんと一緒だったとはねえ : : : 」 夏子はカラカラと笑った。 「お母さんらしいわね。あんなつまんない男とお酒飲むなんてさ : 「青葉さんとは偶然、会ったんですよ」 朝子は思わず頬を染めていった。 「わざわざ誘ったんじゃないわよ」 あか 「いいのよ、お母さん、そんなに赧くならなくても :