伊藤 - みる会図書館


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1. 天気晴朗なれど

それから夏ちゃんのことも : 「夏子が ? 新聞に ? 」 「タ刊で見たわ。ストライキの大将ですってね。教室の窓から乗り出して、・ハケツの水を学長の 頭の上からぶつかけている写真が出ていたわよ : : : 」 古漬けタクアン 排気ガスに汚れた桜が、貧弱な花を咲かせている町中の神社の境内を、朝子は急ぎ足で歩いて 行った。朝子の手には一枚の紙片が握られており、それには社会評論家伊藤久子の住所が書いて ある。 伊藤久子というのは近頃、新聞や雑誌で名前を見かける新進社会評論家で、朝子も二、三度テ レビで見たことがある。年は朝子とほば同年配だが、その意見は若者のように斬新て現代若者の よき理解者であるのが特徴である。 春生がウェディングドレスのコンクールで一等になったとき、伊藤久子は、 「ここに登場した青年は、ある意味における現代のパイオニアといえましよう : れ などと新聞で感想を語っていたのだ。 ししかかって来たいろいろな 朗朝子は昨夜、まんじりともしないで考えた末、このところ朝子こ襲、 気怪奇現象について、伊藤久子の意見を求めることを思いついたのだった。朝起きるなり新聞社に 電話をかけて伊藤女史の住所を聞いた。そのときついでに訊いたところによると、伊藤久子は朝 子より二つ上の四十六歳で、二十歳のときから今日まで三度結婚して三度離婚し、今は独り暮し ちかごろ ぎんしん

2. 天気晴朗なれど

伊藤女史はタクシーを止めた。倉庫とかガレージとかが並んでいる裏通りである。伊藤女史は 歩きながらいった。 「ここで下りると、丁度二百十円なのよ。もうちょっとのところで二百三十円になる。あの電柱 のところでストップするとギリギリで二十円もうかっちゃうの」 宇宙人の王様でも、やはり素性は大正女だ。二十円の金に節約心を働かせる。朝子は少しほっ とした。伊藤女史は裏通りを通り過ぎ、次の通りのとっかかりにあるビルの階段を下りて行った。 厚いガラス扉に金で、何やら横文字が書いてあるが、どうやら英語ではなさそうだ。朝子には英 語以外の横文字は読めぬのである。ポーイがうやうやしく扉を開ける。 「あ、伊藤先生 : : : 」 奥から急ぎ足で、蝶ネクタイの三十歳余りの男が現れた。 「よ , っこそ、いらっしゃいまし」 「しばらくね、芹沢さん」 どうやら芹沢と呼ばれる男はこの店のマネージャアらしい 「このところ、お見限りで : いっそやの失礼、もうお許しいただけないのかと心配しておりま ど しったい、私を何と思っ 「当り前ですよ。私のところへ勘定の催促よこすなんて、無礼ですよ。 朗ているの」 気「はあ、申しわけございません。会計が新しく変ったものですから、何も知らずに、ああいうこ とをいたしまして、マスターも大へん恐縮しておりました」 川「とにかく伊藤久子はね、払うときは払いますよ」

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朝子は思わす立ち上って後すさりをした。なぜです、と詰め寄られても、すぐには返事が出来 おもかげ ない。後悔が黒雲のように取り巻いた。まさに虎定に入った心境てある。一瞬、雄介の俤が浮 かんだ。それを慌てて打ち消して、青葉の顔に置き変えた。 「では、あのちょっとお電話を」 朝子はおすおすと伊藤女史の顔色を伺いながらいった。 「ご主人にかけるんですか ? ゴーゴーへ行く許可を求める ? 」 あぎわら 嘲うようにいうと伊藤女史は突然、罵声に近い声を放った。 「奥さん、そんな微温的な根性では、とても若者を理解することは出来ませんよ ! 夫が何です。 なぜいちいち夫に意見を聞くんです ! 大正男のフヌケのウスラハゲ。ニャニヤ笑って頭かいて、 いやア、オレはもうダメだよウ、そういってごま化してる。そんな連中に相談なんかしてるから、 中年女はちっとも進歩しないんですよッ しようぜん 朝子は悄然と伊藤女史の後ろから桜の散っている神社の境内を歩いて行った。 「そのへんで食事でもして、イッパイ飲んで、それからゴーゴークラプへ出かけましよう」 伊藤女史はもう勝手にきめてしまっている。 「それから、そうだ、レズビアンバ ーへ行って、それから男色酒場を覗きましよう。男色酒場と いってもイロイロあるのよ。絶対、女が入れないところ : : : でも私なら入れるところが、そう、 都内に二、三か所あるわね」 まさに屠所の羊とはこういう心境をいうのであろう。神社の境内を抜けると人通りの多い商店 街に出る。道行く人がふり返ってジロジロ見るのは、伊藤女史の風態があまりに変り過ぎている

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で社会評論のはかに、ときどき小説なども書いているという。 朝子が伊藤久子の意見を聞こうと思い立った理由は、何といっても彼女が朝子と同年配である ということにある。戦前から戦争中にかけての教育を受けた者が、現代若者の理解者であり得る というその驚くべき ( と朝子には思われる ) 事実のよって来るところを知りたい。出来れば伊藤 春生や夏子を正常な人間と見なしていいの 久子によって古い殻を捨てて新しい視野を開きたい。 カ怪物化しつつある人間として注意した方がいいのか、それさえ朝子にはわからぬのである。 伊藤久子の住んでいるマンションは、神社の境内を表から裏へ抜けたところにある四階建の殺 風景な建物である。朝子はエレ・ヘーターを使わすに三階へ上った。階段を上ったところの、とっ かかりの部屋が三〇三号室だ。伊藤久子はそこに住んでいる。 のぞ 朝子がブザーを押すと、声もなくいきなりカタリと覗き窓が開いた。切の長い大きなャプニラ とびら うなず ミの目が現れ、にこりともせずに大きく肯くと、目は引っこんでガチャリと重い扉が開いた。何 ふんいき ろう 1 」く やら一七世紀の牢獄を思わせる重々しい雰囲気だ。 「青本朝子さんですね ? 」 扉を開けた女性はセメント袋のような・フラウスとも上衣ともっかぬものを着て、足にびったり くつついているズボンともモモヒキともっかぬものをはき、麻繩を腰に巻いてその端を長く垂ら いしよう している。彼女はどうやら牢獄的雰囲気を愛する人物らしく、その衣裳もまた十七世紀の囚われ 人を思わせるのである。 「伊藤先生でいらっしゃいますか、今朝ほどはお電話で勝手なお願いを申し上げまして : : : 」 としいかけるのを皆まで聞かず、 すわ 「入って、坐って下さい」 あさなわ きれ とら

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伊藤女史はそのヤプニラミの大きな目でジロリと朝子を見て、急に調子を変えた。 「奥さん、これからゴーゴーへ行きましよ、つ」 「ゴーゴークラプへ踊りに行きましよう。見に行くんじゃない。踊るんです」 「ゴーゴーを : : : 」 「そう、やるんです ! 」 伊藤女史は朝子の前に立ちはだかり、教祖のように人さし指を立てて、おごそかにいった。 はだ 「まず行為すること。参加すること。それによって現代を肌から知ることです。 : : : 若者を知ス には、彼らの中に解け込むことです」 「でも・ : ・ : あ、あのう、私はゴーゴーなんか : 「踊れないとはいわせません。ゴーゴーは本来ダンスというべきものではない。ただの身ぶり「、 す。動きです。人間が本来持っていて、いっか見失ってしまった原始の歓喜を取りもどす本能 な動きです。さあ、行きましよう。奥さん・・・・ : 」 「あ、あのう、 、今ですか」 ひらめ 「勿論ですよ。私は頭に閃いたことは即座にやる主義です」 ど れ「けれど : : : けれど、私の方は困ります」 朗「何が困るんですか ? 奥さん、奥さんは悩みの解決を求めてここへ来られた。なのに今、その 気解決を拒もうとする」 伊藤女史はカッとヤプニラミの目を開いた 「なぜです ? 」

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「いや、面白い。気に入りました。その娘さんを紹介して下さい。是非会いたしな : 「はあ : : : では先生、今日はゴーゴーはやめてこれから、学校の方へご一緒に行っていただけま せんでしようか。何とか私、娘を説得していただきとうございます」 「説得 ? 」 伊藤女史はおうむ返しにいっこ。 「いや、説得じゃない。激励ですよ」 「激励ですよ、奥さん」 伊藤女史は怒ったように叫んだ。 ふるづ ですか、奥さん、あなたは自分が古漬け 「奥さん、あなたはダメだ。古漬けのタクアンだ。いい のタクアンであることを認識なさい。ますその認識から始めましよう。それを認識するために、 今日はゴーゴークラプへ行く : 伊藤女史は立ち止るやいなや、さっと手を上げてタクシーを止めた。 「さあ、奥さん、乗って下さい」 「はあ、でも : : : あの、私 : しいカら、一米りなさい : まるで手術場へ運ばれて行く連搬車にムリャリ縛りつけられたような気持だ。朝子は後悔した。 ゝ、、こっこ。夏子や春生を宇宙人だと思 同年配の女性評論家ということで親しみを持ったのが違したオ っていたが、その宇宙人の王様が朝子と同じ大正生れにいるとは夢にも思わなかった。 「ストップ。ここでいいわ、下ります」

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に暮すのも。最低の義務だけ遂行する : : : 」 朝子は荒木から受け取った鬼の大王との写真を、どこに隠そうかと考えながらいった。それと 同時に荒木に対して何か手を打たなければならないことも考えた。明日にでも伊藤女史を訪ねて 何とか伊藤女史のカで押えてもらう以外に方策はない 朝子は布団の中に入った。朝まで眠れそうにない。伊藤女史は朝子の頼みを聞いてくれるだみ しいじゃないスか。そんなこと : そう一言いったきり、相手にしてくれなかった場合はどうすればいいのか。朝子は隣の寝床の 雄介に相談をしよ、つか ? いや、無駄だ : : : 答がすぐ返って来た。相談するのがこわいのではな 無駄なのだ。それが無駄と知ったときの失望と怒りを味わうのがいやだ。 朝子の目の前の暗がりに一つの顔が浮かんだ。それはいつも朝子の胸の下にじっと潜んでい すきま 何かことがあるたびに意識の隙間からひょっこり浮き上ってくる顔だ。 青葉さん 朝子は胸の中で呟いた。遠い遠いところから、小波のようになっかしさがひたひたと寄せて平 初夏の光 朝子は寝不足の顔を鏡に写した。 昨夜はあれを思いこれを巴い、殆ど眠らぬうちに夜が明けてしまった。初夏の朝の光が寝不足 はとん

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「はあ、払 , っときは払っていただける ! 」 目をパチパチさせているマネージャアに向って、女史はいった。 「ところで今日は何かおいしいものある ? 」 「はい、キングサーモンのいいのが入っております。それに小豚の丸ヤキなどいかがかと思いま すが」 「あ、そう、じゃあその小豚チャンを持って来てよ」 女史は元気よくいった。 「心配しないで。今日の勘定はこの奥さんだから : : : 」 鬼の大王 しよくよく 朝子は全く食慾を失った。いや、食慾どころか、″生きたそらない気 気持でテープルいつばいに並べられた数々の料理を眺めた。 「どうしたんです。かたくならないで、どんどん召し上れ」 伊藤女史はグラスの酒を水のように飲みながら、男のような声でいった。かたくならないで、 といわれても、これが緊張せすにいられようか 心配しないで。今日の勘定はこの奥さんだから : その声がまだ耳の中で鳴っている。懐中には一万円足らずの金があるだけだ。 「やあ、伊藤先生 ! 」 どこからか声がした。 といってもよいほどの

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「ふん、なるほど」 伊藤女史は坐りダコの足を組み直し、名医のように重々しくいった。 「つまりホモですね。正確にはホモ・セクシュアル、つまりホモとはラテン語で同一という意味 しますが、正確には男性同士を。ヘデラス です。同性の性愛にふける者をホモ・セクシュアルとい、 ティといいます」 ほんだな 伊藤女史はやおら立ち上ると、本棚や椅子やテープルの間を、気取った様子で歩き出した。 「これは文明の進歩に伴って、当然起って来るべき現象で : : : 必然の上に成り立っています。何 が自然で何が不自然であるか。それは果して何によって決められるか。私はこの現象を倒錯とい う言葉で片づけること自体、間違いであると考えていますね」 「は十め : : : 」 「そこで、奥さんの悩みですが、私はます奥さんに一切の既成概念を打破して下さいと申し上げ たい。既成概念の捉われ人は、現代では生きて行く資格がないとさえいえます。私が春生くんを 現代のバイオニアであるというゆえんは、彼が何ものにも捉われない自由な精神の持主であるか らです : : : 」 朝子はだんだん頭がモウロウとして来た。概念とか必然とかいう一一一一口葉を聞くと、朝子はいつも モウロウとして来る。 しいですか、奥さん、すべての既成のものに価値があるというセンチメンタリズムをます捨て て下さい。そうして虚心に現代という時代を見て下さい」

10. 天気晴朗なれど

朝子はニャニヤと大王を見た。日本の女は理由もなく愛想をふりまくのて外国人に誤解され易 あか 、と何かで読んだ記憶がある。しかし、相手は鬼の大王だ。その図体の大きさといい、赧ら顔 の光りようといし 朝子を威圧してくるものがある。それが朝子にニャニヤ顔を作らせるのてあ る。 「マダアム」 大王は甘ったるくいった。 「これからある所へご案内したいと思います。ロマンチックな踊り場です。そこには静かな甘い ミュージックがそよ風のように流れ、人々が愛を信じていた頃の、あの美しい眼差しが溢れてい ろうばい これ以上ニャニヤしているとこの鬼 朝子は狼狽した。もうニャニヤ笑いなどしていられない の大王は本当に朝子をどこかへ連れて行きかねない。朝子の頬からニャニヤ笑いは消えた。伊藤 女史はどこへ行ったのか ? 荒木はどこにいるのか ? テープルから身を乗り出して、懸命に下 のゴーゴーの群の中に伊藤女史を探す朝子の耳もとに、鬼の大王の太い声がいった 「わたしたちは、同じ趣味を持っ二人ではありませんか : れ 大王の涙 朗 晴 からだ キクシャクしながら鬼の 気朝子は自分の身体が、まるであやつり人形にでもなったかのように、・ 大王の腕の中で、ワルツを踊っているのに気がついた。 気がついたといういい方は、まるでそれまですーっと失神でもしていたかのように聞えるかも あふ やす