日ー . : 青葉さん : : : 」 品川夫人は離れの縁の前の沓ぬぎ石の上に立っていった。 「いや、五分ほど前に伺ったんですが、丁度、弁論大会はクライマックスのように見受けたもの ですから、こちらで終了のときを待っておりました。丁度、こちらの奥さんに就職の話もありま 「就職の話 ? 」 「実はばくの会社の社長の義父に当る天野という人なんですがね。七十二歳で六年前に奥さんに 先立たれたんですよ。それ以来、何となく弱られましてね。どこが悪いというわけではないが、 ぶらぶらしておられます。しかし看護婦をつけねばならぬような病人でもなし、一時は後添いを、 という話もあったらしいのですが、亡くなった奥さんに操を立てられましてね、生涯に妻は一人 めと しか娶らぬというんです」 「まあ ! 何というご立派な方でしよう ! 」 品川夫人はそう叫んでから、急に疑い深い目になっていった。 「でも怪しいわね。そんなこという男に限って : : : 油断は禁物よ」 「それはともかくとしてですね、そのご隠居さんの面倒を見てくれる人はいないものだろうかと いう相談が、丁度、秘書の方にあったらしいんですよ。しかし、面倒を見るといっても、家政婦 のようなことをするのではない。手紙の代筆とか、お話し相手とか、散歩のお供とか、また新聞、 雑誌のたぐいを読んで聞かせるとか : 「なるほど、なるほど。教養ある婦人を、というわけね」 「そうなんです。それでばくは、奥さんのことがふと頭に浮かんだんです。サラリ ーが大へんい
「開けっ放してどこへ行ってらしたの、用心が悪いじゃありませんか : : : 上ってみたら誰もいな : どこを見てもゴミだらけ」 いんでしよう。それに家中の汚いこと : というロ調は、半年前のあのロやかましい丈夫で長モチする主婦の口調である。 「この板と板のつなぎ目はラチェットでつなごうと思うんだよ。風が吹くとラチェット、ロ 。、、題ま波のないときだ : 走る。波に揺れてここが動くんで走るんだカ尸。、、 雄介は照れ隠しのようにひとりでしゃべっている。 「そこで三輪車の。へタルを取りつけて、それを踏んでラチェットを廻すことを考えたんだが 「何ですか、それ」 朝子はいっこ。 「また、役にも立たないものを考えて : : : 」 一つの感情がーーー役にも立たぬ発明にウッツをぬかす夫への、あの燃 そのとき、馴染み深い え上る憤りが久しぶりで胸になっかしく湧きひろがって行くのを朝子は感じたのだった。 「同じ発明するなら、もう少し現実性のあるものを考えたらどうなのかしらねえ。空中漫歩機か ら墜落してやっと空飛ぶ夢から覚めたと思ったら、今度は水上漫歩機ーーーサルマタの前にワレ目 をつけただけで一億儲けた人だっているのよ。発明するからには儲かるものを考えたらどうなの かしらねえ : : : 」 すわ 。しいながら雄介の前に坐った。それはかって友田三無が訪ねて来て、雄介の顔がみるみ 朝子ま、 じようぜっ ひるあんどん が廻って
Ⅷ「夏子、いけません。とにかくお父さんに相談して」 「お父さんに ? 」 夏子はロ笛をやめて朝子を見た。 「お母さん、 しいじゃない。青葉さんに相談することが増えてさ : 夏子が家を出ていってしまうと、朝子は家の中にひとりになった。胸がわき立っている。心配 と怒りとそうして芳次が来るということとが、ゴッチャになってじっとしていられない。 朝子は鏡台の前に坐った。 はだ コールドクリームをたつぶり指の先にとって、丹念にマッサージをした。化粧水で肌を引きし め、乳液をつける。そんな丁寧な化粧などもう何年もしたことがない。三年ほど前に近所の奥さ んが化粧品のセールスマンになった。そのときに義理で買ったファンデーションが、そのまま鏡 台のひき出しに転がっていたのを取り出して、顔に伸ばした。婦人雑誌の記事の立体的なメーキ ャップの頁を開いてその指示通りに陰影をつけた。 青葉芳次がやってくる。五時前には来るといったから、夕飯の支度をしておかなければならな それから朝子は雄介のことを思い出した。今日も雄介は三無のところへ泊ってくれればいし : かすかにそんな思いが頭を擡げた。 ブザーが短く鳴り、玄関の格子が開く音がした。芳次がもうはや来たのか ? 朝子が中腰にな ったとき、聞き馴れたソプラノが響いて来た。 「ごめん下さい。朝子さん、いらっしやるウ ? 」 弘枝だ。朝子は思わず顔をしかめた。そのしかめた顔に弘枝の声がかぶさった。 もた
「だってしようがないだろう ? 晴天が雨になったことに対して、ことさらに何かの意見をい やっ . 奴がいつつ、刀い ? ・」 ゅうぜん 春生は悠然といった。 「ばくは自分の傘を探すだけだよ」 たた その夜遅く、朝子は表の戸を叩く音に眼が醒めた。寝巻きの前をかき合せながら時計を見る、 もう十二時過ぎている。 「青木さん : : : 青木さん : : : 奥さん : : : 」 表の声は呼んでいる。寝巻きの前をかき合せながら朝子は玄関の内側で答えた。 「どなたさまでしようか」 「荒木です。週刊流星の荒木です。遅くお邪魔して申しわけないんですが、青木夏子さんとい , 方は、春生さんの妺さんではないんでしようか」 「夏子が」 朝子は急いで玄関を開けながらいった。 「夏子がどうかいたしましたか」 もくひ ガラス格子を開けると、形ばかりの低い木扉の向うに荒木の黒いサングラスをかけた丸い顔一 こちらを向いていた。最初来たときは薄墨色のサングラスをかけていたが、その次にゴーゴー ラプへ行ったときは黄色のサングラスだった。今日は深夜だというのに真黒のをかけている。 「こんばんは、奥さん、いっそやは失礼しました」 荒木は扉の向うでいった。
ンドバックの中の手帳に出ているわ : : : 」 「。こ ~ 病人いかが ? 」 縁側で声がして、品川夫人が入って来た。 「熱ありました ? 」 「三十七度八分もありますの」 「三十七度八分ね。ちょっと高いですね、いったい何したんですよ ? 」 と、うさん臭そうに弘枝を見下ろした。 品川夫人はまだ立ったままだったのである。その手に白い封筒を握っている。品川夫人は気【 ついたよ , つに、つこ。 「青木さん、来ましたよ。来ましたよ。彼女からの手紙です」 「彼女 ? 」 いぶかしんで上げた朝子の顔の前し 」こ、品Ⅱ夫人はぬっとその手紙をつき出した。 「青木朝子さま、みもとに。坂部コト子ーー」 朝子は手紙を受け取った。クリーム色がかった華奢な和紙の細身の封筒に、 " 水茎のあとも わしく。という表現がびったりの毛筆の手紙である。朝子はそれを帯の間に挾んだ。品川夫人 ( とんなことが起きるかわかったものではない。 いる前でそんなものを開けば、・ 朗「ああ、会いたし : ・ : 会いたい : : : 早く会わせてよ、朝子さーん」 気布団の中で弘枝が上すった声を出した。 「まっ、真赤な顔 : ・・ : 」 「また、熱が上ったんじゃないかしら」 きやしゃ
「この犬、私のカレにそっくりなの ! 」 そのときキンコンカン とチャイムが・県 2 っこ。 「あらっ ! 彼だわ、まあ、早いことー ′ハ、 : っーしトつー・」 弘枝は金色の鏡台の前に走って、慌ただしくパフで顔をはたき、長袖をなびかせて朝子の前 走って行ったと思うと、 「あンらア、ダーリン ! 」 と、甘ったるい声が隣室から聞えて来た。 「会いたかったのよウ、ダーリン ! 弘枝の甘える声の下から、ゴシャゴシャと紙でも揉むような声が何かいうのが聞えた。 「お客さんなの、私の親友。ほら、お話ししたでしよう、朝子さんよ」 ゴシャ、ゴシャゴシャとしわがれ声が何かいった。 しいじゃないの、恥すかしいことなんかありやしないわ、朝子さんは祝福に来てくれたんで十 もの : : : 朝子さーん」 ど 弘枝は朝子の名を呼んだ。 「紹介するわ、私のダーリン」 気朝子は出て行った。弘枝の丸まっちい身体のかげから、小男の老人が覗いている。弘枝はあ土 り背の高い方ではないが、その弘枝よりも、更に背が低い。背が低くて痩せている。いや痩せプ いるというより、ひからびているといった方が適切である。白と黒のマダラの髪を後頭部から
賭けた。紫八端の布団の中で、鼻にバンソウ膏をはってヌクヌクと寝ていた夫、目が覚めるなり 「漫歩機は ! 」と聞いた夫、ムリにでも我が家へ帰ろうとしなかった夫、そうして : ・・ : そうだ、 いっかは朝子が夜遅く、青葉と酒を飲んで帰って来ても何もいわず、何も感じなかった夫 : ・ は朝子を空気のように見ているのだ。その夫に対して、朝子もそれと同じように見るべきではか いのか : 青葉は迷うように腕時計を見ていた。 「もうおつつけ一時ですね」 とどろ 朝子の胸は轟いた。そこの横丁を曲ればもう朝子の家だ。 「あ、運転手さん、そこで止めて下さい」 タクシーは止った。 「青葉さん、どうなさる」 「そうですね。じゃあ : ・・ : 」 のぞ 青葉がそう、 しいかけたとき、門の前に立っていた黒い影が近づいて、中を覗き込んだ。 「あらまあ ! 」 朝子は叫んだ。 ど れ「ラクダさんーーーどうしたの ! 」 車を覗いた顔はラクダである。ラクダの前に車のドアが開いた。 気「おばさん、夏ちゃんは ? 家にいないんですか ? 夏ちゃんは : 「夏子はストライキ突入だとかで、布団を抱えて出て行きましたわ。二、三日帰らないけど心配 しなくていいわ、なんていって : : : 」
ないねえ。夢があるよ。夢が : : : 」 その声は久しぶりに聞く友田三無の声である。 「しかし、ばくの夢はね、水の上を歩くことにあるんだよ。水の上の散策。しかも、この自分の 足を交互に前に出して地面を歩くように歩くんだよ。それこそ君、人間の誰しもが幼年時代に描 く夢じゃないかね」 雄介の声がいった。二人は話に聞く水上漫歩機とやらの発明に夢中になっているのだ。庭から 上って来ると座敷に電灯が灯っていることも怪しますに、早速畳の上に図面を広げる音がしてい る。 ゅうちょう 「いや、水の上を歩くなんて君、悠長すぎるよ。それよりこっちのアイデアの方がいい」 のぞ 朝子はそっと座敷を覗いていた。大きな図面には丸みを帯びた縦長の板が三枚並んだ図が書か れている。それが夢の水上漫歩機というものなのか。三無は顔を覗かせた朝子に気がついて、目 を丸くした。 「やあ、やあ、これは、これは、奥さん : : : 」 その声に雄介は図面から顔を上げ、慌てて老眼鏡を額にすり上げた。 ど 「朝子か」 朗一言そう言うと、再び老眼鏡をかけ直し図面に顔を寄せながらいった。 気「いっ来たんだ」 「さっき、三十分ほど前ですよ」 朝子は図面にかがんだ雄介の頭の真ん中が薄くなって来ているのを見下ろしながらいった。
弘枝はまたしてもマダムバタフライのアリアに近づきつつある。「恋 ! 素晴しい恋 ! 」が まると、その後は必ず、 「あーる晴れた日にイ と来ることはも , つわかっている。 しかし慣れぬ品川夫人の前で、マダムバタフライのアリアが始まったらどういうことになるか 「弘枝さん、私の部屋へ行きましよう」 そういった時、既に遅く、弘枝は窓辺に走り寄り、高い秋空に向って声をはり上げた。 「別れる前にあの人は、わたしにこういったのよ、 おお、バタフライ、可愛いものよ、 また私は帰ってくるよ、駒鳥がまた帰る頃 : : : 」 ふる 弘枝のソプラノは窓ガラスを慄わせた。 「あーる晴れた日 遠い海のかなたにイ : しず 弘枝の歌が終り、恋の興奮が漸く鎮まった時、玄関にドャドヤと人の気配がして、息を切らせ ど た車谷夫人と酒井夫人が第き物を蹴飛ばして応接間へ上ってきた。 朗「ああ、おふたかた、恐縮です。早速駆けつけていただいて : : : 」 気弘枝の歌の間、奥へ引っ込んでいた品川夫人が出て来ていった。 「こちらの方ですの、さっき電話でお話しした方は : : : 国井弘枝さん : : : 」 「車谷と申します」 - 一まどり
みかん 朝子は急いで蜜柑の盆を炬燵に置き、い つもの攻撃の姿勢になった。もうこうなっては空気 7 チリゴミもない。空気だって濁れば清めたいと思う。チリゴミも増えればほうっておけない。 「同じ発明をするなら、もう少し現実性のあるものを考えたらどうなんです。洗濯機の排水口〔 つまるゴミをとる方法とか、そうだわ、前に窓をつけた男モノバンツで何千万というお金を儲」 た人がいるんです。あなたは男でしよ。毎日、おしつこするとき、不自由を感じていたにちが、 ところがちゃんとそれに ないんです。それなのに、ちっともそういうことに頭を働かせない。 眼した人がいます。前にワレ目をつけた。 . たいした着想ですよ。ちょっとした頭の働かせよう一 すよ。同じ発明するならそういう意義のあるもの、儲かるもの、人に喜ばれるものを考えたら」 うなの」 すると雄介はいっこ。 「サルマタにワレ目がついたからといって、人生が楽しくなるというものではないからな」 「でも便利ですよ。皆、重宝しています。人類に役立てる ! その証拠に何千万と儲かってい んです」 「ライト兄弟は空飛ぶことを夢みた」 唐突に雄介は呟いた。 れ「今日の飛行機はその夢から始まった。創造というものは夢から始まるべきものだ。夢を忘れ一 は人間は滅びるんだ。必要は発明の母じゃない。夢こそ発明の母なんだ。発明というものはそ、一 気あるべきものなんだ」 天 「ライト兄弟はそれでも若かったんです ! 」 朝子は全身に怒りの血潮が逆流するのを耐えながらいった。