雄介は黙ったまま、また静かにタバコの煙を吐き出した。 不がいなくてもあなたの腰は直ったし、息子は真面目になったし : そこまでいって朝子は突然、激情が脳天をつき破るのを感じた。朝子は叫んだ。 「何とかいったらどうなんですか , とばけてないでよ , そう叫んだ声が、再び自分の意識の中に戻って来たとき、朝子は甚だしく自尊心が傷つくのを うめ 感じた。それはまさしくヤキモチの叫びであり、妻心の呻きである。昼行燈の夫が何をしたとこ はず ろで、どうということはない筈なのに、身体が燃えてオコリのように手が慄える。朝子はこの家 へ戻って来たわけではないのだ。ナ・ヘ釜などの荷物を一切合財持って行くつもりでやって来たの だ。こんなことを怒鳴って慄えたりしているよりは、さっさと荷造りをした方が早い。今更、雄 介に向って何を要求し、何を批判しようというのか。 はいイ一ら のうり 朝子は慄える手に傍の灰皿を握りしめながら思った。一瞬のうちにそれだけの理性が脳裡を過 ぎたのである。しかし、ヤキモチの火は瞬時にして、その理性を焼き払った。 「あなた ! なぜ黙ってるの ! えつ、なぜなの , って下さい い , つべきことを : : : 隠さな いで、何もかもいったらど , っ , 雄介はゆっくり朝子の方を向いた。そうして手の吸殻を入れようとして、気がついていった。 ど 「その灰皿を貸してくれないか ! 」 朝子が、自分の上に敗色が漂うのを感じたのはそのときである。朝子はある異状が近づきつつ 気あるのを予感した。それを朝子に予感させたものは、吸殻を灰皿にねじ込んで、やおら朝子を見 はとん 上げた雄介の、かっての結婚生活の中で一度も見たことのなかったような、殆どもの悲しげなと 、、ほどの優しい光だっこ。 ↓・よ↓・
「そんなお話、前にも一度、伺いましたわね。でも何度聞いても松にはおっしやることがよくわ かりませんの。あなたはいったい、夏子を愛しているのかいないのか : ラクダは抗議でもするように叫んだ。 「愛なんてなぜ必要なんです ! なぜそんなことを口にするんです ! 」 ラクダはいっこ。 「そんなものを大切にしたがる女が多いから、ばくは悩むんです。女はすぐにいう。愛してい たちま る ? 愛しているといって , : ばくはそれを聞くと、忽ちペニスが萎えます。 - どんなに昂まっ ている時でも、萎縮する。なぜ性交に愛が必要なのか ! 」 「ラクダさん、もう遅いわ。話は次にして今夜はお帰りなさい」 「帰れというんですか、ばくに : ラクダはギラギラ光る目で朝子を見た。 「ばくはここで一夜を明かしますよ。、い己 . 酉いりません。迷惑はかけません。ばくはひとりで勃起 した。へニスを月に向って突き立てよう。月に向って我が精液を噴射しよう : : : そうして夏ちゃん の名を呼ぶ」 ど れ「ラクダさん、お願い、そんなに興奮しないで : : : 」 朗ラクダはズボンのチャックを引き下ろした。 気「ラクグさん : ・・ : 何をなさるの」 朝子は後すさりして叫んだ。ラクダは引き下ろしたチャックの中に手を入れ、怒張した桃色の ペニスを取り出した。 ばっき
一、親に心配をかけぬこと、 一、先生のいわれることをよく聞く、 一、兄妹仲よく喧嘩せぬこと、 まじめにそういうことを誓い、書いたものだ。冷水摩擦の励行。八幡さまの境内の掃除。年よ りをいたわる : 元日の朝は一家が六時に起きて物干台に上って初日を拝み、それから東に向って皇居を遙拝し かみだな 神棚には灯がともり、父はよく響くたのもしい柏手を打って、国家の興隆と一家の健康を祈 あんたん そろ ったものだ。それから一家揃って雑煮を祝う。時代は戦争に向って落ち込んで行く暗澹とした時 すがすが 代だったが、しかしまさしくそれは正月子ゐものであり、年の初めにふさわしい清々しくもめで たい一日であったのだ。 ところがどうだろう。この正月は。娘や息子は雑煮が嫌いだという。正月だというのでいい着 物を着るなんて「ナンセンス ! 」と娘は叫ぶ。娘が年頃になったときのために、戦後の苦しい たんす 筍生活の中でも売らすにとっておいた訪問着と帯は、簟笥の底にしまい込まれたまま、虫干し ちょうしよう のたびに娘の嘲笑を買っている。 頭の上でドラムが鳴り響いている。ときどき、ものの怪のような叫びが聞えるが、それは息子 れが歌を歌っている声だ。朝子は家鳴震動するこの音響の中で胸底からジワジワと湧き上ってくる 朗怒りを感じた。いや、正確にいうならばそれはもはや怒りとは呼び難いものだったかもしれない ぐれんほのお 気かっての朝子の怒りはこんなジワジワしたものではなかった。かッと燃え立ち、紅蓮の焔となっ 天 て天を焦がして後、鎮火した。空襲、食糧難、敗戦、インフレ、夫が戦地から持って帰って来た マラリヤ、失業 : : : そうした現実の障害を朝子はその怒りの燃焼力によって切りぬけて来たとい たけのこ あかし かしわで
と弘枝はマダムバタフライの声で叫んだ。 「なんてことを : : : 青葉さん : : : あまりにイあたしのキモチが、わからなすぎるウ : 朝子は憤然と立ち上った。弘枝も弘枝だが青葉も青葉だ。あんな大海亀の背中を撫でて機嫌を とっている。青葉はいったい、何のためにここへ来たのか。朝子の脳みを聞き、朝子の相談に乗 ってくれるために来たのてはなかったのか。 朝子は台所に立ってガチャガチャと音を立てて皿を洗った。こんなことなら弘枝が酔っ払う前 に朝子の方で酔ってしまえばよかった。弘枝に機先を制せられて、朝子は酔うにも酔えない気持 である。奥から青葉の困ったような声が朝子を呼んだ。 「奥さん、すみませんが、ちょっと、手を貸していただけませんか : 朝子が行ってみると青葉は尻モチをついた格好で、弘枝の大きな身体にのしかかられていると ころである。 「弘枝さん、しつかりなさいよ、弘枝さん ! 」 朝子は思わす叱咤する調子でいった。 「何よ、だらしない、弘枝さん : : : 」 朝子は思いっきり、弘枝の尻を抓った。しかし弘枝の大きなお尻は抓られたことさえも感じな ど 盟いで、子供のような声で叫んだ。 朗「だって工、朝子さーん、あたし、かなしいのよウ、辛いのよウ : 気 天 青葉はタクシーを拾って来て、弘枝を家まで送って行った。時間はいっか八時を過ぎている。 雄介はまだ帰って来ない。颱風が通って行った後のような静けさが乱雑な座敷に沈んでいた。気 たいふう さら
ああいうのをスケベ面というんだわ、 と胸に呟いた。女の目にはとりたてて美人とは思えない顔だが、男の目にはある魅力を持って いる顔だ。つまり男のスケベ心を呼ぶ顔なのだ。 朝子は我が家の格子戸を開けた。と、それを合図のように階段からドラムの響きがなだれ落ち て来た。 「まツ、春生 ! 」 玄関を駆け上った。 「春生、帰っていたの、春生 ! 」 階段の下から叫んだが、その声はドラムの音にかき消されてしまう。朝子は階段を駆け上 0 た。 「春生 ! 」 春生は部屋の真ん中に据えたドラムを前に、髪ふり乱してスティックをあやっ 0 ているところ である。 「春生ったら、春生 ! 」 朝子は地団太を踏んだ。 「おやめなさいっ " れ ドラムはやんだ。そうして春生のケロリとした顔が、 朗「何だい、お母さんーー」 気と朝子を向いた。 「何だい、お母さんだ 0 て・・ : ・・何だい、お母さん、だなんて : ・・ : とばけて : : : ケロケロして、そ の態度は何です ! 」
「まあ , : 結婚ですか」 「結婚ね、いや、我々はあえて結婚という一言葉は使うまいとしています。あくまでもばくらはこ の状態を連繋という言葉で呼びたいですね。我々の連繋を便宜ならしむるために、共同生活を営 むということです」 どうせい 「では同棲ではありませんか ! 」 朝子は叫んだ。 「そんなこと、私は許しません」 「許さない : あわ ラクダは憐れむように朝子を見た。 「やはりおばさんのような人でも、そういう古めかしい言葉を使うんですね」 ラクダま、つこ。 「ばくと夏ちゃんの連繋に、、、 とうしておばさんの許しが必要なんです ? 今日はばくは許しを求 めに来たんじゃなくて、報告に来たんです」 「報告に ! 夏子の言伝というのはそのことなんですか」 ど 「夏ちゃんは立て籠っていた学校の講堂から引き上げました。学校側の退学処分と立退要求を受 諾したんです」 朗「主人はそのことを知っているんでしようか」 気「夏ちゃんについてばくが報告に行きました。そうしたら」 「そ , っしたら ? 」 「挈つかレ J 」
なかす 「ご主人はお腹が空いていらっしやるんじゃないかしら」 夫人はふり返り、テラスの奥の居間をすかし見た。 「あっ , そう叫ぶなり、あたふたと夫人は母家へ走って行った。 夫人が品川氏を呼ぶ声が母家から聞えて来る。品川氏はチャンス到来とばかりに逃げ出した一 ちがいない 「青葉さん、出かけましよう」 朝子はいった。 「私、お夕飯まだなのよ。どこかそのへんで簡単にすませたいわ」 「そうですか、じゃお供しましよう。このへんはばく、悉しいんですよ。何が食べたいですか 「そうねえ、軽いものがししし 、ゝ、、ナど、でも久しぶりでビールを飲みたいわ」 「じゃあ、店は小さいがわりにおいしい魚を食べさせる店があります」 朝子と青葉は品川家の門を出た。 「あなたア、あなたツ ! ど 品川夫人の声が聞える。その声は家から出て庭のまわりをうろうろし、どうやら門を出て道 朗出たようである。朝子と青葉はその声から逃げるように急いで横丁を曲った。角のアパートの 気け放った窓から、テレビの女の声が何やらしゃべっているのがかん高く流れて来る。その声の〈 間を縫って、近く、遠く品川夫人のガラガラ声が夫を呼んでいる。その男のような勇ましい太、 かえ 声には、女らしい細い声よりも却って哀れがある。やはり品川夫人は夫を愛しているのだ。夫 (
たまりにたまっていた情熱が狂乱となって奔っている。それを思うと朝子は、一概に弘枝をやり こめる強さを失うのである。 「とにかく、ロメオを呼びましょ , つ」 だんこ 弘枝は断乎とした口調でいうと、突然、あたりを圧する堂々たるソプラノで叫んだ。 「ローメオ ! ローメオ ! ローメオ ! 」 ようや その声は三度目に漸く春生の耳に届いた。まわりの客たちが驚いてふり返っているのに、春生 と連れの女だけはじっと目と目を見合せたまま、そのソプラノにさえもなかなか気づかなかった のである。 春生はふり返って母親と二人の女を見た。そうして格別驚いた様子もなく、席を立って近づい て来た。 「やあ、こんにちは」 。いった。雪と朝子と弘枝の組合せに驚いた風もなく三人揃ってどうしたんですともいわ 「ロメオ、あなた、昨夜、家へ帰らなかったんですってね」 弘枝がいった。 「お母さんが心配して、わざわざうちへ相談し こ見えたのよ、それでこうして三人で探していたと 弘枝はけろりとウソをいし すわ 「まあ、お坐りなさいよ、そんなところに立っていないで」
と音を立てて、弘枝は朝子の身体に仔犬 ( といってもセントバーナードの仔犬 ) のようにぶつ かって来た。 「朝子さーん、あーん、あーん、あーん」 やまびこ 弘枝は山彦のように語尾を引っぱって叫んだ。 「あたし、あたし、あたし : あふ いうなり弘枝の小さな双の目から涙が溢れて丸い頬を流れた。 「あたし、もう・ : ・ : 死に 「どうしたのよ、弘枝さん」 : ピーターは : 「ビーターがど , つかしたの ? 」 朝子ははっとして聞いた。 : ビーターのべッドに : 「あの女が : : : あの : : : カマキリ女が : 「やつばり : ぶぜん つぶや 朝子は憮然として呟いた。やつばりそうだったのだ。朝子が心配し、忠告した通りのことが起 ったのだ。 ど れ「だから、私、あのとき : す 朗 いったでしよう としいかけて、朝子はロをつぐんだ。いつの間にか青葉の椅子をプン取っ ふる 気て、カウンターに泣き伏している弘枝の小山のような背中が小刻みに慄えている様を見ると、哀 れが先に立って何もいえない。 「弘枝さん、気持はわかるけど、ここで泣くのはおよしなさいよ」
134 に金を使ったりはしたくない。また女と肉体の交渉を持ったために、感情生活が乱されるような や、そう ことはごめんです。あくまでも理性的に、合理的に、事務的に性慾の処理をしたい。い するべきであるとばくは考えているんです。夏ちゃんはそのイミで、ばくの共鳴者だった。情緒 的なものを一切排除した性関係を結ぶ。生殖器の結合はハートとも物質とも関係ないんです。快 感は生殖器の攣あるいは収縮、あるいは精液の放射によるものです。情感と快感はからみ合う ものではない筈です : : : 」 「ちょっと待って : : : ラクダき、ん : : : 」 朝子は頭が混乱して来た。 「私、・とても疲れてるんです。また今度にして下さらない」 「いえ、もう少し聞いて下さい。おばさん」 ラクダの色褪せた鼻は、少し色づき興奮して来た。 えいち 「ばくは夏ちゃんとそういう性関係を結びたい。夏ちゃんは実に叡智あふれる女性です。未来の 女性の理想像です。ばくらは生殖器を結合させる ! しかしばくらは一心同体ではない。あくま からだ で二つの身体、二つの心として別個に存在する。それこそ理想です。あるべき人間の姿です。ば くらは生殖器の連繋を通してのみ、お互いの存在を確認し合うんだ ! 」 ラクダの興奮は絶頂に向って上りつめた。ラクダの鼻は焼けすぎたフランクフルトソーセージ のようになり、彼は叫んだ。 「新しい男女の結合 ! 末来の男女像をばくらは世に示す ! それにはばくの相棒は夏ちゃんし : そうだ、ばくは恋人とは呼ばすに、相棒と呼び合う かなく、夏ちゃんの相棒はばくしかない : のだ けいれん れんけい