づる 弘枝がチーズケーキを見つめたままいった。 「ねえ、何ものなの ? 彼女・ : ・ : 」 と朝子の膝を突いた。 「知らないわ、はじめて見る人よ」 しんせき 「親戚でもなければ、あなたの家へ出入りしている人でもない。クラプへ来ている人でもない」 すると : 弘枝はまた朝子の膝を突いた。 「何ものなの ? え ? 何なのあの人 : ・・ : 」 とまた突く。弘枝の丸い顔は次第に角ばって三味線型になって来た。弘枝は感情が昂ぶると一 ぜか顎がはり出して来て顔が角ばるのである。 「見たところ、平凡な人妻ね」 くび たんち上 雪が低い冷やかな声でいった。この方は長い頸をすっくと伸ばし、あたかも朝日に向う丹佰 かえ 鶴のように端然と向うの柱を見つめている。どうやら雪は感情が昂ぶると却って冷然となるタ しっせき らしい。朝子はその間にはさまって、叱責されている劣等生のようにうつむいたきりである。 「人妻ーーじや不倫の恋だわ ! 」 弘枝はいった。 「朝子さん、ほうっておいていいの ? 春生ちゃんは前途ある青年よ。これからの日本を背負 ( て立つ人よ。それが、あんな : : : あんな : ・ ひゅ いいたいところなのであろう 弘枝はロごもった。ここであの女について何か痛烈な比喩でも じようじよう しかし痛烈な比喩を使うには彼女はあまりにも垢ぬけしており、嫋々と女らしく、文句のつ あご ひざ あか
やっとその声が聞えたとみえて、足音がして一人の男が玄関に現れた。チチミのステテコをは ひげ いてその上に毛糸の腹マキをしている。色白の小判型の顔の丸い鼻の下にチョビ髭を生やし、頭 にレース糸のお椀帽をかぶっている。 「やあ、失礼しました。いらっしや、 男はーーー彼がこの家の主人、品川鈞一なのだろうーー - - - 気さくにいった。 「青葉君から御紹介の方ですね ? お待ちしていました」 「青木でございます。突然、急なお願いでお伺いいたしましたが」 「あ、ちょっと待って下さい。女房を呼んで来ます」 わずみいろ 品川氏はそういって引っ込むと、入れ代りに鼠色のショートパンツに白い。フラウスを着たい かつい身体つきの品川夫人が出て来た。年は五十を一つか二つ越えた頃だろうか。髪を男のよう に刈り上げて、男のような声でいった。 「青木さんでいらっしゃいますか。ようこそいらっしゃいました。さ、どうぞお上り下さい」 あいさっ 、。品川夫人は玄関脇の応接間に朝子を通した。 挨拶は型通りだが、そのいい方に全く愛想がなし 「失礼いたしました。ちょっと向うで主人と論争をしていたものですから、おいでになったこと に気がっきませんで、お待たせしていました : ど ししえ、こちらこそ、勝手な時にお伺いいたしまして」 朗「青葉さんから大体のお話は伺っておりますが、何ですか、不幸なご家庭からお出になったと 天 : お恥ずかしい次第ですが、色々事情がございまして : : : それで : : : 一人で生活してみ ようと考えたものですから : ・・ : 」 わんばう わき
378 兄貴の作る飯はますくてね」 「そんなことをいったって、夏子 : : : 」 ろうじようはお 朝子は久しぶりで会った娘をつくづく眺めた。何十日もの籠城で頬が落ち、皮膚が荒れて〔 る。眼が鋭く油断ならぬ光りかたをして、朝子を他人のようにじろじろと見返した。 「お母さん、色つばくなったじゃないの」 夏子は笑いもせずにいった。 「うちで頑張ってた時よりよくなったよ。何というのかな、風情が出て来たよ」 「何をいっているんですよ、夏子。風情がわかるんなら、あなたも風情を身につけるようにな亠 「やあ、向うから、へんな親爺がこっち見てるよ、あれ、誰 ? 」 夏子が顎をしやくった方を見ると品川家のテラスに品川画伯がこちらを向いて立っていた。 あいさっ 「ここのご主人よ。絵描きさんですよ。お行儀よくして、ちゃんと挨拶してちょうだい」 みずあめ 「へえ、絵描きなの、ふーん。それにしちや水飴屋のオッサンみたいだね」 品川画伯はクレープのステテコに毛糸の腹巻きをしている。その格好は品川夫人の機嫌をと , うとする時に画伯が好んでする格好である。多分、画伯は昨日も何か夫人の機嫌をとらねばな《 ぬようなことをしたのだろう。その格好をしているときは、画伯の念頭に女の影がないことが ~ 婦の間では暗々裡に通じ合っているのである。 「や、オッサン引っ込んだよ」 夏子はそういってから、また、声を上げた。 めじりた 「や、オッサンこっちへ来る。今度は浴衣なんか着ちゃって : : : 目尻垂らして気取ってる。ス , あご
朝子は無言で品川夫人を見つめた。 わき 「私、とっさにビンカンと来ましてね、脇の男を見れば、どこやら夏子さんに面ギ、しが似ていま す。その男ーーーっまり奥さんのご主人ですわね、ご主人の渋紙色の頬にもその時キラリと光るも のが : 「泣いてたんですか、主人は ! 」 めがしら 「そのようでした。眼頭も濡れていました。そのことは後で酒井さんとも話し合って確かめまし みだ たが、どうやら二人は涙を流しつつ何やら淫らな打ち合せをしていた様子でしたわ」 不しいましたの、なでしこ会という婦人会の者ですが、さる人のご紹介で奥さまにもご参加 願いたくてまいりました : すると坂部さんはこう、 しいましたわ。折角ですが私、婦人会のた 、には入らないことにしております。そこで私、いい ました。この会は夫の浮気に悩む全国の 妻の幸福をはかる会です。どうか趣旨だけでも聞いていただけませんでしようか。するとあの女 ふる の顔色がサーツと変りました。みるみる真赤になって、慄える声でいいました。あのう、私、今、 かえ 気分が悪いものですから、ここで失礼させていただきます : : : これ以上攻め入るのは却ってよく ど れないと思いまして、一応、引きましたの。帰るふりをしてそっと様子を伺うと : 品川夫人はいっそうその顔を朝子に寄せた。 気「二人は黙々と野原を横切り、そうして竹藪の後ろで、かたくかたく : 「抱き合ったんですか ? 」 「手を握ったんです」 たけやぶ
370 老人性恋の病 春生はいった。 「はじめのうち、ばくは気がっかなかったんだけど、どうも親爺の様子がへんなんだな。夜にな ると何となくばんやりしているんだよ。だけど、親爺は前から、空中漫歩機をいじくっている時 以外はだいたいにおいてばんやりしている人間だったろう。だからばくもあんまり気に止めなか ったんだよ。お母さんのこともあるし、そんなことで考え込んでいるんだと思ってたんだ。とこ ろが坂部さんが来なくなったと同時にだね、飯を食わなくなったんだよ。もっともばくの作る飯 だから、坂部さんのよりはうまくない。そのせいかとも思ってみたりしたんだがね、ところが昨 夜、縁側に出て、月を見て、ひとり言をいってるんだよ。お母さん、なんていってたと思う ? 」 春生は朝子を見た。 「『苦しいよ、コト子さん : ・・ : 』親爺はそういってるんだよ : ・・ : 」 「そうして親爺はどうしたと思う ? あの床中小便器をとり出して来てさ、じーっと眺めてるん 時間にして二十五分は眺めていたね。ばくは時計を見てたんだから確かだ」 「ばくはわけがわからなかったんで、家庭医学全書というのを調べてみたんだよ。それで一応老 ちほう 人性痴呆というのに該当するんじゃないかと思ったんだ。それで井上に電話して聞いたんだが、 ほらお母さん、知ってるだろ、高校のときに二年上にいたサッカー部のキャプテンさ。彼、今、 おやじ
飛躍する ) そんなことを考えているから、息子は最低の男になって行く。髪に金の粉をふり、 「ロメオです、よろしく」と甘ったるい声でいう。 「あなた ! あなた ! 」 朝子はついにたまりかねて雄介をゆすった。雄介にはこのことはいうまいと巴っていた。しか のんき し、こう暢気に寝ていられてはやはり、何もかもいって心配させてやりたくなる。 「聞いてちょうだい。話があるんです、あなた ! 」 : うン ? なんだ、 ・ : 今頃」 「春生なのよ、春生が、毎晩、何をしてたと思います」 「何だい、やぶから棒に : : : 春生がどうした」 「どうしたもこうしたも、春生は : : : 春生は大まで行っていて、アルバイトに女の : : : 」 ・ : 機嫌をとって : : しいかけて朝子は気がついた。女の機嫌をとって金を貰う男たちのとこ ろへ、ほかならぬ朝子は機嫌をとられに出かけて行った中年女であったことに。 そのとき、玄関脇の小窓がガタガタと鳴る音がした。この家の玄関には昔なっかしい呼鈴の、 押せばジリリリと鳴るのがついているが、春生は遅く帰ってくるとそのベルを押さすに、玄関脇 の小窓の窓ガラスをゆすって外し、泥棒のようにそこから這いこむのである。 朝子は寝巻きの上にはんてんを着て、大急ぎで玄関へ出て行った。電燈をつけると春生は丁度 その小窓から、下駄箱の上へと這いこんで来ているところである。 「春生 : : : 」 朝子はいっこ。 もら
「有難う、嬉しいわ」 「それから、これなんだけどね」 老人は背広の内ポケットを探って紙にひねったものを取り出した。 「あなたへのプレゼントだよ」 「まあ、プレゼント ? なあに ? 」 「指輪だよ」 「化輪 ? まあ ! 」 老人は犬に似た目をパチパチさせて「わしの」といいかけて「ばくの」といい直した。 あか 「ばくの愛の証しだよ」 ああ日本の空明けて 「まあ ! ダイヤモンドい 弘枝のソプラノは感動の慄えを帯びた。・ タイヤモンドと聞いて朝子は目を瞠った。ダイヤモン ドならば、もう少し上等のケースから出て来そうなものだが、子供のおやつじゃあるまいし、ひ ど ねった紙からダイヤの指輪が出て来るとは ! 朗「まあ ! ダーリン ! 」 気弘枝は叫んだ。叫んでピンキー老人にとびかかると、ビンキー老人はよろよろとよろめいて朝 レ」 子にぶつかってくる。それをやむを得す朝子は受け止めたが、その前でチュッ ! チュッ , 音を立てて弘枝は老人の両方の頬に一つすっキスをした。 ふる
お茶の支度に立ったらしい坂部未亡人の坐っていたあたりにも同じ図面がもう一枚置いてある。 「お二人で ? 研究してらしたの ? 」 朝子の語調が鋭さを増したことにも気づかす、雄介はノンビリといった。 「いや、研究というほどではないが、コト子さんが興味を持っておられるのでね、少しすっ説明 していたところだ」 コト子さん : その名は朝子の耳を射た。コト子さんとは何か、コト子さんとは : 雄介は坂部さんとか奥さんとか呼んでいた。それなのに今はコト子さんだ , 朝子はじっと雄介を見つめた。 かしわもち くちびる 朱塗りの丸盆にお茶と柏餅を載せて、坂部末亡人であるコト子さんが入って来た。唇がさっ きよりも赤いのは、朝子が来たので化粧直しをしたものと見える。 つまり私にハリ合っているというわけ ? わ 朝子は次第に湧き上る闘争心を感じながら、コト子に向って最上の笑い顔を作った。 「主人がひとかたならぬお世話になりまして、本当に申しわけございません。なにぶんにも家で ど 子供たちがゴタゴタしておりますものですから、気にかかりながら、ついつい奥さまのご好意に 朗甘えてしまいまして : ・・ : 」 しいえ、どういたしまして。どうせ気の利かぬ者の集りでございますよって、十分な 天 ことは出来しませんのですけれど : コト子はやわらかな大阪弁でそういうと、雄介の方を色つばくチラと見ていった。 : この前朝子が来たときは、
弘枝はまたしてもマダムバタフライのアリアに近づきつつある。「恋 ! 素晴しい恋 ! 」が まると、その後は必ず、 「あーる晴れた日にイ と来ることはも , つわかっている。 しかし慣れぬ品川夫人の前で、マダムバタフライのアリアが始まったらどういうことになるか 「弘枝さん、私の部屋へ行きましよう」 そういった時、既に遅く、弘枝は窓辺に走り寄り、高い秋空に向って声をはり上げた。 「別れる前にあの人は、わたしにこういったのよ、 おお、バタフライ、可愛いものよ、 また私は帰ってくるよ、駒鳥がまた帰る頃 : : : 」 ふる 弘枝のソプラノは窓ガラスを慄わせた。 「あーる晴れた日 遠い海のかなたにイ : しず 弘枝の歌が終り、恋の興奮が漸く鎮まった時、玄関にドャドヤと人の気配がして、息を切らせ ど た車谷夫人と酒井夫人が第き物を蹴飛ばして応接間へ上ってきた。 朗「ああ、おふたかた、恐縮です。早速駆けつけていただいて : : : 」 気弘枝の歌の間、奥へ引っ込んでいた品川夫人が出て来ていった。 「こちらの方ですの、さっき電話でお話しした方は : : : 国井弘枝さん : : : 」 「車谷と申します」 - 一まどり
「はじめね、ステテコに腹まき姿だったのを、浴衣に着かえてノコノコやって来たろ ? あん からこいつ、 ーンと思ってたんだ。あのオッサンは、ゲテモノ趣味だね、お母さん : : : 」 「ゲテモノ趣味 ? 」 「うん、夏子に目をつけるんだもん、これゲテモノ趣味でなくて何ぞや : : : アハ 「酔っ払ってるのね、困った人ねえ、さあ、顔を洗っておやすみ」 「 , つん、眠いことは眠いんだけど、一フクダ、ど , っしょ , っ ? 」 「ラクダど , っしょ , つって ? なあに ? 」 「ラクダ、表にいるんだよ」 「ラクダ ? ああ、あのラクダさん : : : まだっき合ってたの、あの人と」 「つき合うつもりはないんだけど、向うでくつついて来るんだよ」 「じゃあ、今夜も一緒だったの ? 」 「うん、だって友達も連れて来いっていったろ、あのオッサン」 夏子はクスクス笑った。 「ラクダとオッサンと張り合っちゃってさ、面白かったよ」 「で、ラクダさん、ここまで来たの ? 」 ど れ「うん、ついて来て帰らないんだよ」 朗夏子はいっこ。 せいよく 気「相変らず童貞のまま性慾抱えて悩んでるんだよ」 「ラクダ、ん、どこにいるの ? 」 「表さ。門の外」