部屋 - みる会図書館


検索対象: 天気晴朗なれど
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1. 天気晴朗なれど

朝子は弘枝の耳もとに口を寄せていった。 「ン ) に・かノ、、 私の部屋に行きましようよ、ね ? 」 「ええ : : ええ : : : でも : ・ 弘枝は顔を上げて丸まっちい手のひらで涙を払いながらいった。 なかす 「でも : : 私、お腹が空いてるの、昼から何も食べてないの : : : 」 えびやで食事をすませると、三人は品川家へ向って歩き出した。今日という一日は何という沢 山のことがあった日だろう。朝子は思い出したようにときどきすすり泣いているらしい弘枝を横 目で見ながら思った。弘枝と別れたのは今日の昼前のことだ。そのとき弘枝は恋のうま酒に酔い 痴れて、マダムバタフライのアリアを高らかに歌い、そうしていったのだった。 : ピーターがあたしの部屋へ十時半に来 、にミサオを破るのよ : 「朝子さん、あたし、今夜、つし るのよ : : : 」 いま 1 一ろ 腕時計は丁度十時三十分を指している。本来ならば弘枝は今頃、あの天蓋つきのペッドで、鬼 の大王の腕にしつかりと抱かれている頃である。 弘枝は十時半になるのを待ちかねて、ピーターの部屋に電話をかけたのだった。 「丁度、六時だったわ。朝子さんはいないし、美容室でセットはすんだし、退屈で退屈でいられ なかったのよ。だから、ビーターと食事を一緒にしようと思ったの、そうしたら、部屋にいる筈 なのに電話が通じません、って交換手がいうのよ。それで私 : 「部屋へ行ったの ? 」 うなず 弘枝は絶望的に肯いた。 「そ , っしたら ? 」 てんがい はず

2. 天気晴朗なれど

しら ? 」 朝子はグッと詰った。実をいうとその通りである。川崎医博には春生と夏子を産むときに世話 になった。朝子はえらいお医者といえば川崎医博以外には知らぬのである。 「ええ、あの産婦人科にも川崎先生っていらっしゃいますけど、外科の方の川崎先生もなかなか 腕がいいという評判の方で」 朝子は大急ぎでオレンジを食べ、あたふたと立ち上った。 「では三無さんのお部屋へちょっと : 「ど , っそ、いっていらっしゃいまし。、こゆっくり」 しようしゃ コト子に送られて庭伝いに三無の部屋へ行った。庭伝いといえば何か瀟洒な離れ家でも連想 まわ するが、三無の部屋は庭伝いに家の裏へ出て土蔵や犬小屋を廻ったところにある昔の下男部屋で ある。 「三無さん、主人はいったい、どうなってしまったんでしよう ! 」 部屋に上るなり朝子はせつば詰ったような声音でいった。こうして出バナをくじいておかない と、タイミングを逸すると三無の延々たる発明話の中に巻き込まれてしまう危険がある。 「三無さん、私、もう、もう、呆れ返って情けないやら歎かわしいやら : : : 」 ど れ「何ですか、青木がどうかしましたか」 朗「どうかしましたかって三無さん、こんな近くに住んでらして気がっかないんですか」 気朝子はたたみかけた。 「主人は家へ帰るのをイヤがっているんですわ。私が無理に連れて帰ろうとすると、急にめまい が始まったんです : : : 」

3. 天気晴朗なれど

「いいお部屋ねえ。いい所が見つかってよかったわねえ」 弘枝は改めてあたりを見廻していった。 「悪いけど、しばらくこの部屋に同居させてくださらない ? お願いするわ、朝子さん . ・ : ・ : 」 「そうねえ : : : 」 ほとん 朝子はためらった。。 ヒーターにあり金を殆ど貸してしまった弘枝は、家へ帰るほかはここへ来 るよりしようがないだろう。朝子は迷った。つい溜息が出た。弘枝は同志だ。しかし今はその同 わずら 志の存在が朝子には煩わしく重たかった。 表が明るくなってから朝子は少し眠った。眠ったと思うと大きなガラガラ声に起された。 「お早うございます、青木さんーーー」 縁の向うで呼んでいるのは品川夫人だ 「ご一緒に体操をいたしましよう」 「朝の新詳な空気の中で体操をすると、身も心もせいせいします。昨日の憂さなど忘れて、また 新しい勇気が湧き出ます : : : 」 朝子は傍の弘枝を見た。昨夜、品川家から借りた布団を分け合って眠った弘枝は、毛布をお腹 の下に抱え込んで、疲れた小象のように眠っている。 朗「お客さまもどうぞ、ご一緒に・・・・ : 」 気「はあ、・ : ・ : 昨夜、遅かったものですから : : : 疲れてまだよく眠っています」 かわいそう 「お可哀想にねえ。お気持はホントによくわかります。さあ、元気の出る体操をいたしましよう、 起して下さい」 ためいき

4. 天気晴朗なれど

みして、逃げ隠れしながら・追、 ちがいない。 だれ ああ、誰も私を阻止してくれない , つぶや ハスに揺られながら朝子は何度か胸の中で呟いた。 私の存在価値というものは、ただその程度だったということなのか。それとも自由というもの はんらん が、それほど氾濫しているということなのだろうか。人を束縛する気力がないほど、現代人は疲 れ果てているということなのか。 ハスを下りると、短い晩秋の日ははや暮れかけ、裸の柿の実に赤々と今日の最後の一筋の残光 わ が光っているのが、侘びしくも寒い。離れの我が部屋へ帰って来ると、靴脱ぎ石の上に見るから に高価そうなピンクのスエードの靴が脱いであった。 「あら、弘枝さん ? 」 縁側の障子は閉っている。そう声をかけながら部屋を開けると、うす暗い部屋の真ん中から、 ムクムクとビンクのかたまりが起き上った。 うたね 「まあ、弘枝さん、そんなところで転た寝してたの、風邪ひくわよ」 みぶる 朝子が声をかけるのと殆ど同時に、弘枝は・フルプルと身慄いをして、 れ「ハ、ハックション ! おお、寒し こたっ 朗「炬燵を買わなければと思いながら、ついつい 気朝子はいいわけをしながら、品川画伯が貸してくれた古風な電気ストープをつけた。 ちそう 「この間はどうもご馳走さま。素晴しい愛の巣ね。部屋や調度も素晴しいけれど、あの方って、 優しそうないい方じゃないの : ・・ : 」 める自由こそ、 の自由なのに

5. 天気晴朗なれど

、こ。ほうっておけば弘枝はいつまで、その大仰なモノローグを女 朝子は弘枝を促して靴を穿しオ 中相手にしていたかわからない そのときからすーっと弘枝は興奮し、主婦の造反パイオニアとしての自負と陶酔が、弘枝に重 重しい身ぶりを与えているのである。 昨日からフロリダ州の団体さまが 「ハイ、部屋は丁度、塞っておりますのですが : : : あいにく、 三十名ほどおいでになったものですから : : : 」 「部屋がないというんですか ! 」 からだ 弘枝は身体中の金グサリをチャリンと揺すった。 「これだけの大ホテルで、私たちを泊める部屋は一つもないと : 「いえ、特等室でございましたら、一つだけ空いておりますのですが」 「特等室 ? 結構よ。それにします」 「そ , つで。こき、いますか ? 」 フロントの男はちらと弘枝を見、それから朝子を見た。 「一泊、四万円ということになっておりますが : 「四万円 ? 」 弘枝の声はやや高くなった。高くなったのは、予想外の金額にギョッとしたためであろう。し かし弘枝はおもむろに金グサリを揺すっていった。 「結構です、それにしましよう」 「よツ、き、いで。こき、い亠ますか」 フロントの男は、気のせいか、急にうやうやしい表情になっていった。 ふさが

6. 天気晴朗なれど

440 朝子は足音を忍ばせて門を出た。その後ろで合唱が聞えた。 「我ら立っとき今ぞ来ぬ」 我ら立っとき今そ来ぬ」 弘枝のアパートは品川家より十五分ほど歩いたところにある。二階へ上りドアのそばのブザー を押すと、 「ハアイ」 と可愛らしい弘枝の返事があってバッとドアが開いた。 「あらツ、朝子さん ! ようこそ ! 」 今日の弘枝はマダムバタフライ式の袖の長いドンスの部屋着を着て、前髪を額の上で可愛ゅげ そろ に切り揃えている。 「丁度いいところへ来てくれたわ、朝子さん、見て ! 」 と大仰に両腕をひろげて部屋の中へ朝子を案内した。 「間もなくカレも来るわ。丁度よかったわ。紹介するわ。ララーン、ラララア : : : ラーン」 弘枝は、ドンスの長袖をひるがえして、オレンジ色のカーベットの上をクルクル廻った。 ロノ、ワ ,. ツ、にー 「どう ? 朝子さん、すてきな部屋になったでしよう ? ロマンチックでしよう ? のスターのようでしよう」 オレンジ色のカーベットに金の飾りのついた純白のソフアとテープル、赤いカーテン、黄色い クッション、プルーのスリッパ、 紫色の電気スタンド、ピンクの壁紙 : はんらん 「すごい色彩の氾濫ね」 ちょう 「華やかでしよう、花園みたいでしよう。私たちはここで蝶になるのよ。蝶になってヒラヒラと

7. 天気晴朗なれど

ぎるよ」などという悲鳴のような声がはさまるが、その声はあっという間に弁舌の奔流に押し流 されてしまうのである。 「ごめんください : : ごめんください : 玄関の男の声がいっている。朝子が出て行くと青葉が立っていて、朝子を見て、 「やあ」 「やってますね。相変らす : : : 」 青葉は苦笑した。 「さっきから五回も六回も呼んだんですが」 「丁度いいところへいらして下すったわ」 朝子はほっとしていった。 「お夕飯もまだなの。ねえ、早く仲裁してちょうだい」 むだ 「いや、無理ですよ。無駄です」 青葉は脱ぎかけた靴をまた穿いた。 「奥さんの部屋へ行きましよう」 ど 「えつ、私の部屋へ ? 」 朗「ええ、就職口が一つあるんです。そのことをお話ししたいんです」 気「じゃ、離れへ ( 何キ、ましよ、つか」 朝子は青葉を連れて離れへ行った。 Ⅷ「どうそ、お上りになって。お掃除をしただけでまだ何も揃ってないのよ。お茶も出せない

8. 天気晴朗なれど

と国井氏はいつものような高笑いをし、 「造反の方はどうですかな、アッハッハア」 とからかった。国井氏は弘枝の家出以来、ますます元気が泓って陽気な高笑いばかりするよう になっている。 「弘枝さんが大へんですの。熱が出て下らないんです。三十九度八分 : : : 」 朝子は少しむっとしていった。 「今、私の部屋に寝てるんですけど、看病も十分とは行きませんし、私も部屋借りの身だもので すから、そのことについてご相談したいと思いましてお電話したのですけれど」 「病気 ? 弘枝が ? へえ、鬼のカクランですな」 国井氏は呆れたような声を出した。 「今まで、病気などしたことのない女でしたがね」 「やつばり色々の心労が重なったんだと思いますわ。か弱い女の身でここまで奮闘して来られた んですもの : : : 」 「奮闘ね、なるほど」 国井氏の声は笑いを含んでいる。 ど れ「あのう、国井さん・・・・ : 」 朗朝子は改まっていった。 気「弘枝さんをお引き取り願えませんでしようか。とにかく原因不明の高熱が下りませんの」 「引き取る ? 」 国井氏はいった。 あき みなぎ

9. 天気晴朗なれど

448 弘枝はじっとピンキー老人を見つめた。 「私たちの最初の夜よーー」 「 , っ・ん」 と老人はいって弘枝を見返した。 「ごらんになる ? 向うの部屋を : : : 」 「、つ′ル ? ・ , っ , ん」 老人の小さな黒い目に、急にポッチリと灯がついたような感じになった。と思うと、黄色くひ からびた皮膚が突然、湿り気が浸み出たようなかすかなダイダイ色となった。弘枝は立ち上った。 と同時に老人も立ち上り、二人は次の間へ消えた。 と田 5 , っと、 「こいつは、すンばらしい という老人の感極まったような大声が聞えて来た。それはこの部屋に老人が現れて以来、彼が 初めて出した元気のいい声といってい すンばらしいねッ ! 」 「こいつは ! すンばらし、 どうやら彼は感激すると故郷の東北弁が出てくるタチらしい。朝子は帰 と老人はくり返した。、 り支度をした。 「弘枝さん、失礼するわね」 隣室に声をかけたが返事はない。朝子は黙ってドアの外へ出た。

10. 天気晴朗なれど

ックス恐怖症の症状の一つだったのだ。 朝子は足音を忍ばせて離れへもどって来た。庭を隔ててスキヤキ鍋を囲んだ品川夫妻が何やら 口論しているのが見える。今夜はビールが入っているせいか、品川画伯の方もなかなか善戦して いる様子である。 「奥さん、おられますか」 青葉の声がした。 「あ、青葉さん、どうぞ、お上りになって」 びもく 朝子は部屋の障子を開けて縁先の青葉を眺めた。眉目秀麗の青葉の顔が、急に別人のように、 生気のない人形のように朝子には見えた。これこそ現代を象徴する顔なのか。しかしその顔は朝 ほほえ 子を見て、優しげに微笑んだ。 「さっきのことですが、奥さん : : : 」 朝子は青葉を見つめた。 「別の部屋を探しましよう。明日にでも早速、探します。品川さんの習癖のことなど考えると、 やはりここには長くおられない方がいいと思います」 青葉はためらいがちにいった。 「ですから、奥さん、今夜のところはどうか気持を落ちつけて : : : 」 「わかっているわ、青葉さんーー私も今、丁度、そう思っていたところなの」 朝子は微笑した。なぜ微笑するのか、自分でも意味がわからぬままに微笑んだ。 ( おそらく、 青葉の微笑も同じものだったろう ) 「さっきは興奮していたのよ、私」