「こいつは面白い。こいつは愉快だ」 その雄介の興に乗った声は、朝子に暗い予感を与える。雄介が「こいつは面白い」を連発し」 じめるとどういう事態が展開されて行くか。朝子には既に幾つかの好もしくない経験がある。 「つまり今までのパチンコは十中九までが偶然をたのんでいる点で面白くないんだ。あまりに 7 単調なんだな。自分の能力を開発するという興味は全くない。そこで考えたのがこの一穴式なノ 朝子はものすごい目で三無を眺め、返す視線で雄介を睫みすえた。三無は穴が一つだけしか くて、しかもその穴が移動する仕くみになっている。ハチンコ台を発明したのだ。つまり穴を移 させて上から落ちてくるパチンコ玉をすくい取るべく操作をするという点に面白さをみつけよ ! というのである。 「うーん、こいつは面白い。こいつは愉快だ」 雄介はいった。 「で試作品は出来たのか」 てこず 「半分まで出来たんだがね。いろいろ厄介な問題があって手古摺っている」 「では是非見せてもらおうじゃよ、 ナ′。し、刀」 れ「見にくるか」 朗「ああ、行こう、すぐ行こう : 気雄介と三無は朝子の表情にも気づかず元日の町へ出て行ってしまった。 「どうせ、お帰りは遅いんでしようね」 いった言葉に返事もない。 はや雄介の頭は一穴バチンコ台でいつばいなのだ。
「ご子息のこともご心配でございましようが、それよりご主人さまのご容態の方も、少しお心に かけてあげて下さいませんと : 坂部夫人はさも心配そうに声を低めた。 「あのう、今朝から、血尿が出ておられますので : : : 」 じんぞう 朝子はひとりで家へ帰って来た。雄介の血尿は墜落のための腎臓破裂であると、往診の専門医 によって診断されたのだ。 「一週間も安静にしとられれば、よくなります。とにかく安静第一です」 医者は腰の痛む部分に張りつける軟膏と飲み薬を置いて、そういって帰って行った。三無と坂 部未亡人は少くともあと五、六日は雄介をこのまま坂部家へ寝かせておくことをすすめた。その 上に雄介もその方が好ましいような顔をして、 「それじゃあ、ご迷惑っいでに、ご厄介になるか」 といったのである。 率直にいって、朝子は面白くなかった。雄介は我が家へ帰るよりも、三無のそばの方がいいの だ。それは空中漫歩機について話が出来るからなのか、それとも : : : 坂部未亡人のいたれり尺、せ りの看病が快いのか : 「ご心配なさらないでも、どうぞ、お任せ下さいませ。わたくしは主人の看病を長いこといたし ましたさかい、看病は馴れております」 坂部夫人はにこやかにそういった。そのにこやかな、目尻のやさしく垂れたおかめ面を、朝子 十 6 、 めじり
かんおけ 機敏な処置。朝子はうっとりと青葉の横顔を眺めた。空中漫歩機から墜落し、軽便棺桶から落ち て、恋人の発明した床中小便取り器を喜々として使っているような雄介とは何という違いだろう 青葉は受話器を耳に当てて頻りに笑いながら何かいっている。その笑いがたんだん消えて行った と思うと、青葉はむつかしい顔をして受話器を置いた。青葉はテープルに戻って来た。 「こいつはどうやら厄介なことになりそうですね、奥さん」 「まあ : : : どんな具合ですの」 「奥さんのところへ行った記者、荒木は休んでいるというんですよ。ばくの知り合いのライター はいたんですが、様子を聞くとどうやら流星では、相当大きく取りあっかうつもりらしいんで 「まあ : ・・ : どうしましよう、青葉さん」 「新時代の家族関係、新しい家庭のありかた : : : そういうテーマで二、三の家庭を紹介するとい うんですがね、奥さんのところが一番面白いので、これをヌキにしたら竜を描いてヒトミを点じ ぬことになるというんです」 「まあ : : : ど , っしましょ , つ、主月 ~ 果き、ん : : : 」 「とにかく、これからばくは谷村ーーー、そのライターは谷村っていうんですが : : : 谷村に会って顛 んでみます。どうしても取り消してもらえないときは、原稿を見せてもら 0 て手を入れますよ、 朗くが : 気青葉は、時計を見て立ち上った。 「じゃ、奥さん、ばく、谷村に会って来ます。後はど電話で報告します」 「相すみません。よろしくお願いしますわね」
「昨夜はあれから腰が痛まれましてねえ。ようお休みになれませなんだんです。ようやっと今し ; た、お眠りになられたんですから、もうちょっとこのままに・ おしろい 坂部未亡人の白粉は、気のせいか昨夜より濃い 「昨夜のお医者さんではたよりのう思われますので、今日は専門の先生をお呼びしようと思うと りましたのですが」 「それなら帰りに病院へ寄ります」 「でも : : : お連れ出来ますやろうか。ひどいお痛みのようで : : : 」 「かといって、いつまでもここにご厄介になるわけにはまいりません」 朝子は少しむっとしていった。坂部未亡人のねたりねたりとまつわりつくようなもののいいカ たが朝子にはじれったく、 いやらしく思われる。そのとき、雄介が身じろぎをした。 「奥さん : ・・ : 奥さん」 と坂部末亡人を呼んだ。 「お目がさめましたか。奥さまがお見えでございますよ」 「そうですか : 雄介は一向に感情のこもらぬしわがれ声でいった。 「すみませんが、奥さん、友田を呼んでいただきたいんですが : : : 実はあの空中漫歩機の失敗の 朗一つの原因がですな、今、うつらうつらしている間に、夢とも現実ともっかぬ形で、突然、頭に 気ひらめきましてな。それを友田に話したいんですが : 「ハイハイ、じきにお呼びしてまいります」 坂部未亡人は目にしみるような白足袋の、小さな足をチョコチョコと運んで部屋を出て行った。
「早かったわね。丁度よかった。クロネコでタニが待ってるの」 「夏子、どなたなの」 そう訊く朝子に、夏子は面倒くさそうに紹介した。 「 >- 大の樺山くんよ。大紛争のリーダー。これからいろいろ指導してもらうの」 樺山はややャプニラミの大きな目で朝子をジロリと見、ジャンバーのポケットに両手をつつこ あいさっ んだまま顎をしやくって挨拶をした。 「よろしく」 真黒に日焼けした長い大きな顔に、鼻が異様に大きく盛り上っている。 「樺山くん。別名ラクダよ。 >* 大のラクダっていったら有名なの」 おおまた 夏子はラクダと肩を並べて、男のような大股で角を曲って行った。 その夜、夏子は家へ帰って来なかった。今までも遅い時はあったが、十一時を過ぎたことは一 度もなかった。 「よに、そのうちに帰ってくるだろう」 こま朝会った いつものことながら雄介の言葉は、朝子のカンにさわるばかりである。朝子の頭レ。 ラクダの顔が浮ぶ。 「もしかして : : : あのラクダとかいう人と : : : どこかで泊っているんじゃないかしら : : : 」 いうまいと思いながらも、やはり雄介に向っていうよりしようがない。春生は例によって出か いないよりはマシという気になっ けて行ってしまった。こうなるとどんなにたよりない夫でも、 てくる。 あご
140 ぎら 朝子は雄介の背広を持って家を出た。一昨日、雄介が着て出た背広は、空中漫歩機から墜落し たために汚れ破れた。朝子は背広の包みと、ケーキの箱を持って坂部末亡人の家へ向った。 雄介に向っていいたい一一一一口葉、いわねばならぬ言葉が、まるで食べ過ぎ胃もたれのように胸いっ ばいになっている。こういうことになったのも、雄介がしつかりしていないからだ。朝子は何よ あるじ りもそれを雄介にいいたい。父親として、一家の主として、雄介はどんな権威をもって、家族を 統率したか。息子を導いたことが一度でもあったか。いや、息子や娘のことを心にかけたことが 一度でもあったか。雄介のしたことはただ、黙々と月給袋を運んで来るという、そのことだけで よ、つこ、。 まくらもと 雄介の寝ている奥座敷には、今朝はみごとな紅バラが活けてあった。枕許にメロン、ガラス 皿にアイスクリームが半分、溶けかけている。アイスクリームといっても、朝子がときどき牛乳 コーヒー色をした部分とストロペー 屋で買ってくるような、二十円の紙箱入りではない。 部分と、バニラとが段になっている。そうして雄介は例の紫八端の布団の中に、フンワカと横た わり、さも気持よげにスャスヤと眠っているのだ。 「あなた ! あなた ! 」 朝子は乱暴に雄介をゆり起した。 「さあ、迎えに来ましたよ。起きて下さい。失礼しましよう」 「奥さま、せつかくおやすみになっておられますのてすから、どうぞ、そのままに : おびじめ 傍からハラハラしたように坂部末亡人がいった。昨日と違う柄の着物を着て、帯も帯〆も変え ている。朝子はす早くそれらを見た。坂部未亡人はゆったりした調子で、
いったい何をどう考えているんだか : それなのにあの連中ときたら、 ふんまん と憤懣がつづく。朝子の日常を低迷するこの想念が強まって来たのは、どうやら雄介が停年退 職になった時からのことなのである。 元日だというのに夫も息子も娘もまだ起きて来ない。元旦の朝日は高く上って、日射しはもう 昼近い。雄介は昨年十二月に二十年勤めた大正信用金庫を停年退職して以来、思わしい職もない ままに家にいる。いや、正確にいうならば思わしい職がないというわけではなく、雄介には働く 気が少しもないのだ。雄介は大正信用金庫の足立区の方の支店の支店次長まで行って停年になっ た。大学を出て間もなくから戦争に二度もかり出され、通算五年四か月の歳月を戦場で過してい たために、雄介の信用金庫での在職年月は他の停年者に較べて遙かに少いのである。従って彼の 退職金は朝子の胸算用よりも遙かに少額だった。 もし朝子に父から譲られた若干の株券がなかったなら、雄介はどうする気だろう、と朝子は思 う。しかし朝子がそのことについて質問すると、雄介はふてぶてしく ( と朝子は感じる ) こう答 えるだけなのである。 「もしも、という仮定の話はわしは好かんね」 雄介は停年と聞いて方々から持ち込まれてくる話に耳も傾けすにいった。 れ な「わしはもう働くのは飽きた そうちょう 晴雄介は最高学府を出て二等兵で応召し、五年四か月目に曹長で帰って来たという男である。 天その成績から見れば、二十年で次長になったのはまだいい方かもしれない、と朝子は思い直す日 もある。朝子は雄介が第一回目の召集が解除になって、北支の戦線から帰って来たときに、父方 はる
朝子は布団の下に手を入れて、雄介の腕をいやというほど抓り上げた。 「あツ、あ、あ ? 」 まばた 雄介はかすかに目を開き、朝子を見てバチバチと目瞬きをした。 「朝子か : : : あれはどうなった ? 漫歩機は : 雄介が最初にいった言葉はそれである。三無がそばから沈痛な声を出した。 「青木君、失敗は新たな前進のもとだよ。今回の失敗は更に明日の希望へとつながる : : : 」 「漫歩機は ? 漫歩機は ? 」 雄介はいった。 ギ一んがい 「残骸はオレの部屋に運んだよ」 三無がいった。 「さあ、あなた帰りましよう。青葉さんにも来ていただきましたのよ。歩けますか」 その朝子の言葉に雄介は答えず黙って眼を閉じた。 夜半過ぎて朝子と青葉はタクシーに乗った。結局、雄介は坂部夫人の家に泊ることになった ( 雄介は起き上ることが出来なかったのである。 ど 朝子の胸には固いものが詰っていた。その固いものの正体は起き上れなかった雄介への鈍い てきがいしん 朗りと同時にあのおかめの面に似た、やわらかな声を出す後家さんに対する敵愾心である。しか , 気なぜ、あの親切な後家さんに敵愾心が生れたのか、そのわけは朝子自身にもよくわからないの一 ある。 「奥さん、疲れたでしよう」
142 朝子は雄介の顔のそばへにじり寄った。 「あなた ! 」 声が慄えたのは、何ものに対してともわからぬ怒りのためである。 「今朝の新聞をごらんになって ? 」 「いや、新聞は読んでないが : : : オレの墜落が記事になったのかね」 「何をいってるんですよ、あなた : ・ たた 朝子は思わす八端の布団の上から雄介を叩いた。 「春生が、女の格好をしてコンクールに出て、一等になったんですよツ」 朝子はハンドバッグから新聞の切りヌキを取り出して雄介に見せた。 「すまんが読んでくれ。老眼鏡は昨日の事故でこわれてしまったんだ」 怪人物 と雄介は唸った。 それが大事な息子が、女の格好をしてコンクールで一等になったと聞いたときの、父親の返事 である。それから雄介は黙った。黙って目を閉じ、暫くして目を開いた。何かいうかと思ったが 何もいわない。たまりかねて朝子はいった。 「あなた、・ 雄介は天井を見ていた目を、またゆっくり閉じた。 ふる
の日々でございました。 私は何も彼も忘れて雄介さまのみ腕に抱かれ、この恋に身も心も灼き尽したいと幾度願ったこ とど おもか とでしよう。しかし、その度に私を止まらせたものは、奥さまの俤てございました。ああ、妻 のろ ある人を慕うこの身を、幾度私は呪ったことでございましよう。いえ、私ばかりでない、雄介さ まもまた、苦しみ遊ばされ、そうして雄々しく止まりなさいました。 なにとぞ 奥さま。私たちはついに一線を守りました。何卒、それをお信じ下さいまし。そうして何卒、 雄介さまのためにお家へお帰り遊ばして下さいませ。 お願いいたします。奥さま。雄介さまのみ心は、やはり奥さまのものでございます。雄介さま は何もおっしやらずとも、私にはわかります。私たちが一線を踏み越えませんでしたのは、雄介 さまの雄々しいご決意のたまものでございます。長い間、奥さまのみ心をお悩ませ申しましたこ とをお詫び申し上げると同時に、何卒、草々のことご海容の上、雄介さまのみ許にお帰りいただ きますよう伏してお願い申し上げます」 朝子は薬局の小窓から名を呼ばれていることにも気がっかないで、二度、三度、手紙を読み返 した。読み返すたびに、ふン ! と思い ヘン ! と思い、そうして「一線を守りました」の箇 所を二度くり返して読んだ。 れ「ついに一線を守りました。何卒それをお信じ下さいまし」 朗それを読んで朝子は突然、怒り出したいような、笑い出したいような、情けないような気分に 気襲われた。コト子と雄介が " 一線を守った。ように、朝子と青葉の一線も踏み越えられぬままに あんど 終ってしまった。それが朝子にはよかったという安堵よりも、無念さのようなものを感じさせる。 その無念さはもしかしたら大正ロマンチシズムの無念さかもしれない。