杯百六十円だという。 五十年ほども使い込んだという「さわら」材のひと抱えもある白砂糖を入れる桶の、みごと な艶をさわりながら、黒砂糖で顔を洗う方法をたずねてみた。 「簡単だよ。こやって」 ご主人は、黒砂糖の塊をガリガリと小刀でけずり、粉にしてみせてくれた。 「水で溶いてあとは洗い粉とおんなじだ」 ご主人も使っているの ? と冗談を言ったら、 「俺は使わないけど、婆さんが使ってるよ」 て奥からおだやかな声で、 めか 訪「糠とまぜるといいですよ」 名うす暗い奥の茶の間に目をこらして、私はアッと声をあげてしまった。 きり ひとが笑いかけている。年を聞いた 戸顔立ちも美しいが、色白の肌理はもっと美しい品のいい 明ら七十 , ハ。お世辞抜きで十五は若い。 形 人広い板の間には、ご主人の昼寝用の籐椅子が陣取って、砂糖桶がならぶのは隅の半畳ほどの 土間である。正直言って愛想のないガランとした店だが、黒砂糖洗顔の生きた商品見本が坐っ
「テレビドラマのお茶の間って、ほんものよりずっとせまくて汚ないのね」 「寺内貫太郎一家」のスタジオを見学した私の友人の娘さんは、びつくりしたような顔をして ッついっこ。 間おっしやる通りである。「寺内貫太郎一家」の茶の間は、せいぜい四畳半そこそこ。すすば 茶けたタタミに、塗りのよくない食卓が一つ。小だんすに食器棚。それも、安ものである。あと マは小さな電話台に一輪差し。今どきこんな殺風景な茶の間はまずないだろう。 ビところが、ここに、、 林亜星サン扮する貫太郎が坐り、加藤治子サンの里子サンがならんで、 テ周平こと、西城秀樹クンがぶっとばされる。お馴染みきん婆さんこと、悠木千帆サンが入り乱 れると、皆さまお馴染みの「貫太郎一家」の茶の間になってしまうのである。 テレビドラマの茶の間
147 七不思議 はたぶん、局の予算のせいだろう。 さらに、女の目から見ると、使い勝手の悪いしつらえになっているのが多い。客がきてお茶 やお菓子を出すときに、 「お父さん、そこ、ちょっとのいて下さいな」 というような家具の配置になっていたりする。 私は、茶の間というのは、なんだかわけのわからないガラクタがあたたかく雑然と置いてあ ホームドラマの茶の間は、たぶん、主人公のお母さん役がきちょう るところだと思うのだが、 めんで片づけ上手のせいだろう、 いつもキチンと片づいている。まちがっても、食卓の上にカ チカチのフランスパンが転がっていたり、食卓の下に読みかけの「赤旗」があったりしないの だ。つまり、茶の間に住む人の個性が匂ってこない。だから、ホームドラマはおもしろくなら ないのですーーーと書きかけて、待てよ、と気がついた。 個性のない企画、個性のない脚本だから、茶の間にも個性がなくなるのかも知れない。とい ノカ自分の頭の上におちてきたことになる。容れものはどう うことは、天に向けて吐いたンヾ、、 : でもいし 。中身で勝負しますか・ :
からないようなねばけた色にしていただく。ピアノやフランス人形、タレントさんの応接間。 あるような大きな縫いぐるみもカンべンしていただく。そして、洋服ダンスの上には古い洋服 箱を天井まで積み上げて、箱の横側には、「父、夏、背広」とかなんとか書く。ザプトンも、 いま、フトン屋さんから届きました、というのはしまっていただいて、センペイプトンそのま まの、小さくて、お尻の下にオナラの匂いのしみこんだようなのをそろえていただく。 セットがそんなあんばいだから、その中で演技をする役者さんも、モード雑誌から抜け出し たようなガウンや小紋の着物では、なりとセリフがトンチンカンになるのであって、せいぜい カスリの着物かパン。お父さんはステテコやどてらがよろしい。要するに、決して、理想の 家、夢の茶の間にしないことが、愛されるテレビドラマの茶の間になるコツなのである。 考えればフシギなことである。 こんなにマイホームが叫ばれているのに、。 こく手近かに夢の叶えられるテレビのホームドラ 茶マの茶の間に、その実現をのそまないのはなぜなのだろう。 マ もし、あなたに一億円差し上げて、理想のマイホームをつくっていただくとする。 ラ ビまっ白のリビング・ルーム。モダーンなダイニング・キッチン。きっとそういうのをおっく テりになるだろう。しかし、一年たち、二年たつ。あなたは、本当にそこに安らぎをお感じにな るだろうか
146 テレビのホームドラマに登場する茶の間には、共通の不思議な現象がある。 思いつくまま順にあげると、まずテレビがない。い まどきテレビのない茶の間があるなど信 じられないのだが、ドラマの登場人物が「欽ドン」などに見入って、黙々と食事をされたので は、作者はセリフの書きように困るので、置いてないのである。 ただし、どうしても必要なときには、どこから引っぱり出したのか、急にテレビが据えつけ られることになっている。 四角い食卓の三方を囲んで食事をして、かならず一方があいているのも、ホームドラマの食 卓のお定まりである。これは、ただただ、テレビカメラのためである。 暖房や冷房器具がおいてない。そして食卓にならぶ料理が人数分だけないことが多い。これ 七不思議ーー幕あい
118 汚れやすい白い壁。何かこばすとすぐシミになるフカフカの淡色のジュウタン。 晩餐会のように、背スジをまっすぐにしないと納まりの悪いダイニング・セット。あなたは、 少々くたびれてこないだろうか。 足の裏が汚れていても、気にならない、少しいたんだタタミにあぐらをかいて、足の爪を切 る楽しみ。鼻クソをほじって、チャプ台の裏にこすりつけるひそかなよろこび。手をのばせば、 耳カキでも栓ヌキでもすぐに出せるせまい茶の間。そして、ひざのぬけたパンと着馴れた去 年のセーター。ついでにいえば、欠点だらけでお互いあきているのだけれど、気のおけないだ レしいや、といったわが家族。どうみても美男でも美女でもない、同じような形の悪い鼻と小 さな目 : 小汚ないせまい茶の間は、そういう気楽な人生の休息時として、一番ふさわしいのではない だろうか。 ( 「家づくり」 4 ・ 1 いつも正式
テレビドラマ ライター泣かせ ホームドラマの嘘 テレビドラマの茶の間 名附け親 家族熱 胃袋 一杯のコーヒーから ノドバッグ 有眠 クラシック 128 124 103 115
116 考えてみると、私は十年前の「七人の孫」に始まって、「きんきらきん」「時間ですよ」「だ いこんの花」「じゃがいも」など、随分沢山のホームドラマを書いてきた。そして、いま気が ついたことは、皆さんに多少なりともおほめにあすかったドラマの茶の間は、申し合せたよう に、せまくて小汚ない日本式のタタミの部屋だったということである。 ひと頃はやった、小 坂明子さんという若い方の作詞作曲の歌で、「あなた」というのがあっ た。その中で、将来「あなた」と住みたいと夢みている理想のうちがでてくる。記憶に間違い があったらお詫びするけれども、たしか赤い屋根、青い芝生の白い家で、居間には暖炉があり、 「私」はロッキング・チェアかなにかでレースを編んでいるのではなかったろうか。 いかにも若い、無垢なお嬢さんの考えるスイートホームらしくて、あのひたむきな歌いかた と相まって、私も好きな歌だったけれど、これをそのままセットにしてテレビドラマを書いた ら、多分、失敗するに違いない。 よっぱどうまい設定で、人間臭い役者がやらない限り、何となくコマーシャルフィルムじみ て、切実な感じが少ない。泣いても笑っても絵空事になってしまいそうな気がするのだ。 だから、私は新しいドラマの企画をつくるとき、まず、茶の間はなるべくせまく、汚ないタ タミの部屋にする。間違っても皆さんが憧れるような、ステキな家具は絶対に入れない。カー テンも、インテリアの雑誌から抜いたようなモダンなデザインはやめて、あるのかないのかわ
な人たちが、ご覧になっているのです。 おまけにホームドラマは、現実とそっくりな、「本当らしさ」の中で進行します。セットも お宅と変らない茶の間です。震えがくるほどの美男美女も出てきません。お豆腐は一丁六十五 円だとか、「おみおつけの実は何だい」だの、「東京の新聞は活字が違うね。あ、背中、掻いて くれよ」なんていう下世話なセリフのすぐとなりに、恋愛、夫婦、結婚・ーー・なんて生きる死ぬ の大問題とサンドイッチのようにはさんでお話をすすめてゆかなくてはならないのです。小さ な嘘もすぐ見破られてしまいます。 この場合辛いのは、「省略」「誇張」「飛躍」「戯画化」と嘘をごちゃまぜにされてしまうこと なのです。当方の技術のったなさもありますが、まあまあうまくいったな、という場合でも、 省略日もっとキチンと描いて下さい 誇張日現実は、あんなもんじゃありません 飛躍Ⅱご都合主義ねえ 戯画化Ⅱマジメにやれ。軽薄 , という批評になって返ってくるのです。わが大和民族は、生マジメなんでしよう、丁寧と実 直がこの上なくお好きのようです。ではホームドラマを省略なし、飛躍なし、原寸大に描いて いたら、昔の歌舞伎じゃありませんが一日かかります。「寺内貫太郎一家」だけのために一日
しかし、嘘つきはホームドラマだけではありません。ドラマはみんな嘘つきです。メロドラ マの女主人公は、収入、ゝ がいくらか存じませんが、高価な衣裳を取っかえ引っかえ。掃除洗濯一 切せず。何を食べていっトイレに行ったやら。それでも皆さん寛大なのは、見る前からすでに 「酔わせて頂戴」という、半分身をまかせた雰囲気でご覧になるからでしよう。 刑事もの然り。歴史ドラマまた同じです。 ところが、かくもお情け深いお茶の間が、プラウン管にお父さん役者とお母さん役者が並び、 子供役のタレントがまじって、ご飯を食べるーーーホームドラマになると、一瞬にして、ドラマ の嘘発見機と化するのです。 これは何故でありましようか。 答は簡単です。視聴者全員が、ホームドラマの「経験者」だからなのです。 人間の体験なんて、タカが知れています。浅丘ルリ子さんの「冬物語」のような大恋愛を体 嘘験した人は、何万人に一人でしようし、人を殺したり殺されたりも滅多にあるもんじゃありま 【せん。「勝海舟」の脚本を書いておいでの倉本聰さん以上に幕末のことをご存じの方は、そう ムいないでしよう。なるほどねえと感心しているうちにドラマは終って、よかったわねえで、ま ホた来週になるんでしようがその点、ホームドラマはまったく不運です。 へタすると、脚本を書いている私よりも、演じている役者よりも、家庭については体験豊か