そして、あの往復はがきに書いた、 ″その節は一方ならぬお世話になりましてほんとうにありがとうございました〃 を、心の中で繰り返し言っていた。 二十年の歳月は、″おかげをもちまして〃と素直に続けさせてくれる。 亡くなった母を想うとき、悔いと切なさで未だに臉が熱くなる私にとって、梶谷先生が 手術をして下さったという、そのことは、どんなに大きななぐさめだったことか。親子と もに先生の恵みをいただいた。 癌の研究が進み、次々に新しい治療法や新薬が発表されている。医学雑誌の中に″癌に 関する研究報告〃が載ってないことはない。 だが、癌の死亡率は相変らず高い。 今でも、あの往復はがきは続いているのだろうか。 〃その節は一方ならぬお世話になりましてほんとうにありがとうございます〃のあとに、 〃おかげさまで元気で〃と書きつぐことが出来ず最後の項に、切ない想いで、数字だけを復 記入している人がいるのだろうか。
〃その節は一方ならぬお世話になりましてほんとうにありがとうございました〃 したた と、認めてから、次に、 ″おかげをもちまして、元気で〃 と、書きつぎたかった。 そう書けたら、どんなに嬉しかったろう。 ( 復はかきを持ったまま、こらえきれず、子どものようにせくりあげて泣いた。 母が亡くなってから、一年ほどして、癌研から母の予後を問うアンケ 1 トが送られてき た。乳癌の手術をしたときから数えれば、およそ三、四年ぐらい後だったか。 この往復はがきを受けとるときまで、生きていてくれたらの想いは強かった。 往復はがき 128
いつも私が、一方的にしゃべるばかりだった。 〃対話〃と言えるような形ではなかった。 相手は母で、話題は外での出来事の報告から、それに対しての意見や感想。また、もっ と身辺のこまごましたことのあれこれ。勤めから帰って、食事をしながら、お茶を飲みな がら、毎日、ほんとうによく話をした。 だが、その話題に関して、母がどんな意見や感想、受け答えをしたかということになる と、言葉としては、ほとんど無にひとしいほど少ないのである。 母はいつも穏やかな顔付きで、私のおしゃべりを聞いてくれた。話したいことが多くて、 ついつい早口になり、声も高くなる私に、もっと静かに、もっとゆっくりと、話の合間合 態話 197 態話
「もう、ほんとうに、よく似ていて」 半ば諦め、半ば呆れたように言う母は、いつも少しばかり口元が笑っていた。 父に似ている、と、言うのである。 母が忘れてしまっていた、生前の父の癖を私の仕草で思い出し、はっとする、と言う。 それがどんな仕草か、私には言わなかったが楽しい嬉しい記憶ではないらしい。母という 人は、自分の心の中をあれこれと話す人ではなかった。特に、嫌だと思ったことや辛かっ たことはロにしない人だったから、私も深くは訊かなかった。 似ているということの中でも、食物の好み、それも″ほんのちょっとしたこと〃、例え ば漬物の漬け工合の文句など、まるで父が生きて、そこに居るようだと、溜息をついた。 雛形
加減なのだと言う。 家の込み合った東京の町なかで暮す智恵とも言えるし、思いやりとも言える。 現在「マンション」で暮している私にはよくわかる。高級そうに、マンションと呼ぶが、 なんの、昔のハモニカ長屋とさして違いはない。、 ノモニカ長屋なら横つながりだけだが、 今は、縦横十文字長屋で、両隣と上下とくつついている。否も応もなく、もろもろのこと が密着した暮しがある。このような生活の中では、気持の上でも、暮しの上でも、付かず 離れず、ほどほどのところでの、さりげない思いやりは、ほんとうにありがたし そう、あのとき、母は最後に、 「わざわざ、お礼を言われるような、そんなやり方は、粋じゃない」と言った。 およそ野暮の見本のような母の口から、粋じゃないと聞いたとき、何とも妙な気分だっ た。母は真面目な顔で、そう言った。 63 粋な
これを読んだとき、ほんとうに嬉しかった。医学的な理解はさておき、母親の愛の、染 み透り方がはっきりわかったような気がしたからである。 言葉もわからず、おむつをしたまま、ただ人形のように眠ったり起きたりしている赤児 に、優しく話しかけずにいられない、母親の気持と、その子をいとおしむ心の柔らかさを、 である。この優しい、柔らかい温かさは、母が亡くなってのち、何年たっても、子の胸の 中に、残っている。胸の中を寒風が吹き抜けて行くようなときも、砂がぎっちり詰まった ようなときも、そこだけは、いつも、柔らかく温かい 母が歌ったことがあった。 戦争の終りの年、まだ中学生だった兄が、予科練へ入隊する前夜、のことである。 父母は若く結婚したが、子は、生まれても次々と亡くし、まったく最後に兄と私の二人 だけ残った。私は子どもでそのときの父母の切ない気持はわからず、七つボタンは素敵だ と思っていた。父はたった一人の男の子を失う辛さで、少し荒れ気味であったし、母は夜 もよく眠ってないらしく、病気のようにやつれてしまっていた。兄は、親にかくれて印鑑 を盗み出し、志願をしたのである。 〃お祝い〃のための夕食にはご馳走が並べられ、父から順々にお酒がまわされてきた。お
驚いた顔はしたが、反対はしなかった。 なんでそんなに我慢するのだろうと思うほど、忍耐強く、何事も父や子どもたちが先で、 母は自分というものが無いような生活をしていた。 日常の食物で言えば、食道楽の父の気に入るように食卓にのせる品々には苦労していた。 父が亡くなって年月がたった頃、父の思い出として好物だった食物の話になった。母は愚 痴を言わない人だったが、たった一つだけ辛かったことがあったと話し出した。 活きたなまこを料理するように言い付けられたが、見ただけで身震いするほど気味が悪 薄黒くてぼつばっ疣があって、ぬるぬるしていて、と言いながら首を振った。 なまこの二杯酢が好物、このわた大好きの私は、母がそんな思いで作っていたとは知ら ず、父といっしょになって、なまこのこりこりした歯ざわりをたのしんでいたのを思い出 した。母は、順子も子どものくせになまこの二杯酢が好きだったけど、私は食べるのはも ちろん、見るのも嫌ななまこを握んで料理をするときは、辛くて泣いたと、泣き笑いのよ うな顔をした。 秋田という米どころで育って、折々の祝い事には、米粉を蒸して砂糖を練り込み、型に 入れ、さまざまな形にした餅菓子のようなものが出て、子どもの頃それがほんとうに美味 しかったと言っていた。和菓子とも言えないそのあまり甘くないお菓子が懐かしいらしく、 184
っていた。ここは救急病院に指定されていて、二十四時間体制。先生はお父さんの院長先 生のもとに三人兄弟の先生がいらして、上の先生、中の先生、下の先生と患者は呼びなら刀 わしていた。どの先生も親切で細やかで、癌研へ行くたびに感じる、事務的で心の中が寒 くなるような思いをしないで済むので、母も私もこの加藤病院が好きだったし、信頼もし ていた。 と言ったときすぐに、加藤病院へ相談に伺った。院長先生はじめ皆 母が「家にいたいー さんが、そうさせてあげなさいとすすめて下さった。いつでも、どんなときでも、すぐに 遠慮なんか一 行ってあげる。毎日往診をするし、看護婦も向けるから心配しないでいい。 切せずに、と、繰り返し言って下さる。 ほんとうにありがたかった。 母のことばかりでなく、心配と看病で、ガリガリに痩せてしまった私を、食事に連れ出 して下さったり、病人にでなく私に見舞いを届けて下さったり、四人の先生方にはそれま でもたくさんお世話になっていた。若くて、世慣れず、家事さえ充分にこなせない私にと って、それがどんなにありがたく、力強く頼りになったことか。 くれぐれも心配しないで、お母さんに返事をしてあげなさいとカづけられて、家に帰り、 加藤病院の先生方が、入院するほどではないでしよう、うちでみんなで診てあげるからと
日に仕舞う。早く飾り始めるのはよいが、仕舞うのが遅れると婚期が遅れるといわれ、よ くないこととされているからだ。 けれども、我が家では十日にお雛さまを仕舞うのが習いになっていた。仕舞うと言うと、 もう一日飾っておいて、もう一日と泣き出す私に閉ロして、日が延びた。少し大きくなっ て、自分の誕生日が三月九日とはっきりわかるようになると、今度は誕生日をお雛さまと いっしょにしたいとぐずって、とうとう十日に仕舞うのが習いとなったわけである。 女客などあって、あら、まだ ? などと言われると、母は少し弱った顔になって、順子 の誕生日が済まないものでと、わけのわからない言訳をしていた。 母は、年中の決まった行事、そのための支度やご馳走をきちんと調えて行なっていたが、 決まりの行事の他に母の年中の大きな行事は、子どもの誕生祝いであった。何人も子ども を産んだが、生まれた子どもを次々と亡くし、わずかに残った子どもの誕生日は、母にと って、一年無事に過ぎて、一年分成長した子の姿を見るよろこびであったし、次の一年ま た無事に丈夫で育ってゆくように祈る日でもあった。 誕生日の母は、ほんとうに嬉しそうにしていた。おめでとうを言ってくれるときの笑顔 は、並日段の倍も明るく、にこにこと、とろけるような笑顔が続いた。 いつだったか、雛まつりの日に、母のお雛さまはどのような雛人形だったか、小さい頃 124
着物などの縫物もこまめで手早かったが、母は布団作りも驚くほど早かった。夏の終り から秋にかけて家中の布団を仕立替えるのだが、その他の季節にも掻巻やら合の掛けやら まめに仕上げた。 新しい仕立上りの布団に寝るのは、ほんとうに気持がいい 。二枚重ねた敷布団の上に手 足を伸ばすと、身体の下の柔らかい綿の感触が滑らかに伝わってくる。掛布団の甘い軽さ を足で蹴り上げて確かめてみた。 気持がいいと喜ぶ私たちを見て、母も嬉しそうに笑う。そして、人間、一生の三分の一 は寝て暮すのだもの、夜具は気持よく柔らかくなくてはね、と言った。 仕立てるのもこまめだったが、布団干しはもっとまめで、天気がよければ干し場いつば 毎日のように干した。おかげで私たち家族は固い布団や重い布団を知らずに過ごした。 みの 戦後、物が不足して新しい布団地も綿も手に入らない頃、今までの三幅布団を二幅半に いつの よのはん 縮め、掛布団も五幅を四幅半に作り替えた。敷布団を二枚敷くために幅を細くして、余っ 団 た綿で敷布団を一枚余計に作り出した。そのとき、母は珍しく私をからかった。「布団の 布 幅が狭くなったから、寝相をよくしないと布団の外へ出てしまう、と、言いたいところだ 9 けれど、順子の寝相ではどんなに大きな布団でも転がり出してしまうね」とくすくす笑い かいまき ふたのはん