およそ教育的でないと言ったら、父ほど教育的でない人はなかろう、と思っている。 まず、一度も「勉強しろ」と言ったことがない。 どんな子どもでも、一度や二度は、ハ 乂親に遊んでばかりいないで勉強をするように叱ら れた覚えがあるのではないだろうか。 我が家では反対だった。 勉強していると叱られた。 夕方、父が帰って、晩酌をしているそばで、 しい子ぶって、勉強するところを見せたく て、見てもらいたくて、ノートなどをひろげると、父は一一 = ロうのである。 「酒を飲んでいるときに、勉強なんかするな、酒がまずくなる」 米山甚句
美味しくないな、あんまり好きじゃないな、い つも、そう、思いながら、やはり正月に なると毎年同じお雑煮をつくる。 四角い切餅を焼き、お湯で洗い、清汁の中へそっと入れて温め、椀に盛り、茹でた小松 菜を添えて清汁を張る。 それだけである。それだけ : 清汁の出汁は鰹節でこっくりととったとしても、その他青味も具も、小松菜以外なにも 入れない。 幼い頃から我が家のお雑煮は、この小松菜だけしか入っていないお雑煮である。大体、 ロの中でもちゃもちやするお餅があまり好きでない上に、肉気も魚気もないお雑煮は苦手 お雑煮 108
を祝う」 と、大体、おおよそ、括弧の中に嘘はないが、少々の時間のずれと、少々の省略がある。 前日までの忙しさの疲れが出て、初日はすでに仰ぐに眩しく、シャワーを浴びて衣服を 改める頃は昼に近く、お腹がくうーと鳴るほど空いている。屠蘇散は、良薬はロに苦しな どとつぶやいて敬遠し、屠蘇散抜きの人肌のお屠蘇の手酌。朱塗りの盃になみなみと注ぎ、 宙に向って盃をささげ、父と母に新年の挨拶をする。 しきたりに従ってのお屠蘇は、お燗の塩梅もよく、しきたりとしてのそれにしては量が 多かったか、昼酒はまわりが早いは、まことその通りで、お節料理をつまみながら、めで たくお屠蘇を祝い納める頃には、皿小鉢から箸袋の寿の字、障子の桟まで、毀れたテレビ よろしくチラチラ動いて目まぐるしい そして、それから、〃小松菜だけ〃のお雑煮を祝う。 私がつくる小松菜だけの″我が家の雑煮みは、引き抜きそこねて、取り残った、しつけ 糸に、似ている。 113 お雑煮
ある。盆暮の宿下りや休みをもらうと、親元に挨拶を済ませて、まっすぐ我が家に帰って きた。私は五歳か六歳で、おとめさんが家にいるときは、おとめ姉ちゃんと呼び、姉を節 くぶん威張って、姉や私を「節子お、「順子お、と 姉ちゃんと呼んだ。おとめさんは、い 間伸びした調子で呼んだ。 母はおとめさんが帰ってくると、あれもお上りこれもお上りと、ご馳走攻めにした。奉 公先の食事のことを聞いて母は耐え難く思っていたからである。 愚直で、万事が鈍く、喜怒哀楽を表わすにもおとめさんは、だるく重かった。食事に差 があることの情けなさ、悲しさを母に訴えるのにも、舌足らずに子どものような口調で、 「私には、少ししかくれないんだよ と一 = ロ一つと、ゆっくり泣いた。 お給料はどうしているかと訊けは、伯母さんがちゃんと貯金してくれていると一一一一口うが、 その貯金の額がいくらになっているのかも知らず、お小遣いはと訊けば、伯母さんのロ移 しのように、ちり紙だって石けんだって奉公先のを使っているからお金はいらないのだと 答える。母はおとめさんが帰ってゆくときに、これは誰にも渡さず、欲しいものを買うん だよと言ってお小遣いを持たせた。 174
正月の支度は、年毎に自分流になっていったが、それでもお節料理の決まりものだけは 少しずつ揃えた。好きでないお雑煮も止められなかった。 ひとりの身軽をいいことに、旅行に出た正月もあった。 念願の、具たくさんの美味しいお雑煮も食べることができた。確かに、何も入ってない 小松菜だけの我が家のお雑煮よりも美味しかったが、不思議に、″雑煮を祝った〃という 気がしない。あんなに具たくさんの、肉やかまばこの入っているお雑煮ならいいのにと思 っていたのに、可笑しなことだ。 旅先での正月は、その土地、土地の風習、習慣など、めずらしく興味深いことが多かっ たが、やはり、余所者が見物しているだけのことで、年の始め、節目としての正月の感じ は薄く、単に冬の休暇に過ぎなかった。周りの賑わいや華やかさ、家族連れの団欒の楽し そうな様子は、それを失って久しい身には、旅愁ともいえぬさみしさがあったし、何より 帰ってきたときに、清々しい新年の始まりの気分がなく、連休明けの月曜日みたいで、納 まりが亜かった。 この頃は、毎年、家にいて正月を迎える。 父母と暮していたときと同じように 「年の始め、元日、身を清め、衣服を改め、初日を拝み、父母に新年の挨拶をし、お屠蘇 112
戦争が始まり、空襲が激しくなって、おとめさんの消息が絶えた。我が家も戦災で焼け た。父も亡くなり住居も転々とした。 戦後、やっと小さな家を買って落ち着いた頃、私がおとめ姉ちゃんはどうしているだろ うと言ったとき「あの子のことは、もう諦めている。おとめは身動きが鈍いから逃げ切れ ないで死んだかも知れない」と、母は寂しそうにそう一言うと話を打ち切った。 おとめさんの消息がわかったのは、母が亡くなる二週間位前だった。 諦めているとロでは言っていても、母がおとめさんのことを気にしているのはわかって いる。心残りのないようにと、知人が手分けで探してくれたのである。 おとめさんは元気でいた。 知人に連れられ、おどおどと母の枕元へ坐ると、「お母ちゃん、と頼りない声で言って、 ぐすりと泣いた。ゆっくり泪が流れている。 もう四十に近い年齢のはずだが、二十年前と変らず、小柄な身体は固太りで健康そうだり 残 った。狭い額に皺が目立ったが色黒でちんまりした目鼻立ちは相変らず子どもつばかった。 一応小ざっぱりとしていたが、どことなく貧しげで幸せそうには見えない。 今までどうしていたかと訊いたところで、筋道立てて話が出来る人ではない。母もよく
その後、裏庭のある小さい家を手に入れたが、そこでも母は相変らず、貼ったり磨いたり していた。 焼跡の防空壕やバラックで暮す人も多かった時代である。中のポンプは空襲時に引き出 されて燃えてしまい 、小屋だけ残った消防ポンプの小屋に住み着いた家族を、防空壕に住 む人たちが羨ましいと言ったのは、笑えない話だった。そんな時代だったから、四帖半で も、二階の間借りでも部屋があって暮せるのは、ありがたいことと思わなければならない し、貸す方にしても、貸したくて貸したわけではないから、双方共に暮し方にいろいろ遠 慮もある。だから小さくとも我が家に落ち着けたときは、ほんとに嬉しかった。 母が、順子は呑気で、と言ったあと、言葉には出さなかったが、父が生きていてくれた らと、どんなにか思ったことだろう。少女だった私も、そのことはロにしなかった。それ を言うと、不遇な生活が辛いと思っていると、母に気付かせたら、母は私より辛かろう、 母が悲しむだろう。苦労している母が可哀相と思ったからである。このことは母が亡くな るときまでロにしたことがない。 今はマンション暮しで、雨の音がしない。 外の他家の屋根に降る雨の音や、樹々の葉にさわさわと当る雨の音、と一 = ロうより雨の気 1 ) 0
で、正月三カ日の朝、お雑煮を祝わなければならないのは、″我慢初めみのようなものだ っ一」 0 お客が多かった我が家では、正月、特に賑やかで、お節料理のほか食道楽の父の注文で お勝手は小さな料理屋ほどの支度がしてあった。い ささか贅沢と思えるほどなのに、何故 かお雑煮だけが素気なく、小松菜少々。 東京風でもあるし、また父が育ってきた先祖伝来の〃武家みの習慣でもあったらしい ほかのご馳走に比べて、お雑煮だけが質素なのはうなずけない話で、何故かと父に訊ねて その由来を聞いたことがあったが、忘れてしまった。何だか、徳川家康が江戸入府のとき にど一つのこ一つのと : お雑煮はともかく、幼い頃お正月は嬉しかった。暮から待遠しい思いで迎えたお正月。 お正月になったらと我慢させられていた身の周りの物が、新しい物に変って現われた。普 段着まで新調でしつけ糸がかけてあった。 折目をきちんとつけ、馴染ませるため、白い糸でしつけがかけてあるわけだが、そのしつ煮 雑 け糸を、つうー つう 1 と引き抜いて、仕立おろしの着物を着るのは気分のいいものだっ お た。引き抜いたとき、取り切れなかったしつけ糸が袂の下の方に少しばかり残ってついて いるのも、新調の感がして嬉しかったものだ。
いつも座敷で「お帰り」と迎えてくれる母が、玄関に立って待っていた。あの泣きそう になった顔は、心配し、気を張り詰めていたのがほどけたからだ。母の心配の大きさは、 痛いほどわかった。 勤め帰りに、映画に誘われても食事に誘われても、家に言ってないからと断った。ずい ぶん躾が厳しいんだね、もう一人前の大人じゃないか、自立してないねと、皮肉半分から かい半分の嫌味を聞くことになるが、母が心配するからは、心の中でつぶやくだけで、一 = ロ 訳も説明もしたことはなかった。 あのときの母の、ほっとゆるんだ泣き顔を、他人にうまく伝えることが出来ない。よし んば話したとしても、くわしく話せば話すほど空々しく、大袈裟に聞えるだけで、母娘の 間で受けとめ合った、微妙で、緊密な手応えを伝えるのは難しい 勤め先ではさまざまなことに出会う。聞きたくないことも沢山聞く。仕事の量や忙しさ は苦にならなかったが、上役や同僚の弱い者いじめを見るのは嫌だった。我が家ではそれ は恥とする行為である。それに抗する自分のカのあまりの小ささが腹立たしかった。 疲労とともに、諸々の出来事を引きずって家に帰る。仕事上でのトラブル、不条理なこ とがあったときなどは、余計に重く感じられる。話せば母の心配の種になると思うと、ロ 201 態話
勉強は、夕食までに済ませておけと言う。だって宿題だからなどと言おうものなら、帰 ってからなぜすぐに片付けてしまわなかったと雷が落ちた。 「酒がまずくなる」 この科白は、我が家の中では、大きな重味を持って通用した。勉強のことだけではなく、 っしょの食卓に出そうものなら、 女子供の好きな甘い煮豆や、さつま芋の煮物を、父がい いつもの「酒がまずくなるーが出てきて、さつま芋は引っ込む。 煮豆やさつま芋の煮物なんぞは、昼の間に食べて、夕食の卓上にはのせるなと一一一一口うので ある。母はそのような不注意なことは絶対にしなかったが、家の者たちはうつかりやって しまって、父に叱られた。 っしよくたに小言の種になる家は珍しいのでないかと、 勉強とさつま芋の煮たのが、い 思ったものである。 勉強とさつま芋が出なかった父といっしょの夕食はとても賑やかで楽しく、先にご飯を 済ませた私は、父の膝にのって、お酌をし、お酌の見返りとして酒の肴をせしめた。 飲むほどに機嫌がよくなった父が、小声で歌を歌い出すことがある。 父はいい声だった。のびのびと艶のある声は自慢でもあったようだ。その父が好んで歌 った歌に、米山甚句があった。長くのばす節まわしは、何だかちっとも面白くないものだ 71 米山甚句