対話集会はのべ五時間にもおよんだ。 : 、 力要するに不毛の集会でしかなかった。 ・好ましい情報はなに一つない。予想以上に切迫した社の内情に呆然として、社員たちが社長の話を きいただけである。訴えをつづける社長の声をきき流して、三宅はホールを出て課へもどった。結局 しょ ) のところ安宅産業は消減し、自分たちは伊藤忠の腹中にのみこまれると考えるべきだろう。、、 もないさびしさ、腹立たしさだった。そして、その感情のせいだろうか、三宅は課で電話番をしてい たリエを、ほとんどその気もなく食事にさそっていたのである。 「ほんまですかア。いやあ、うれしい」 両手を胸のあたりでわななかせて、リエはあたりかまわぬよろこびの声をあげた。 ほんとうに女の子は天下泰平だ。ホールでは七百名の社員が、絶望にうちひしがれて社長と向かい あっているのに。 三宅は苦笑したが、考えてみると、天下泰平の雰囲気こそ、いまの彼がいちばんつよくもとめてい るものだった。 三宅のうちで、たしかに一つの変化がおこっていた。その夜彼は北新地のステーキハウスでリエと 一緒に食事をとり、あと二、三軒バブやスナックバーを飲みあるいた。そして、一軒のバブでおなじ と安宅産業の三人づれの社員と顔をあわせ、自分のうちにおこっている変化に気づいたのだ。 リエは酔って、幸福そうにしていた。ずっと三宅に思いをよせ、一度でもデ ートにさそわれてみた 船 しいや一緒にお茶を飲むだけでいいと念じていたのだという。思いがけないことたが、リエにとっ て三宅は高嶺の花であったらしい。役柄とか年齢のせいではなく、職場で男女は恋愛しないときめた
それとも性の感動がうすれたことに、子供つぼく狼狽しているのか。若い女には多かれすくなかれ、 恋愛を永遠につづく感情と信じていたい向きがあり、自分の情熱がさめてくると、まるで自分がとん でもなくふしだらな女だと知ったようにあわてふためくことがあるのだ。 三宅もやがて昻りにつりこまれ、リエの服をぬがせてさまざまな動作でかわいがった。そして彼女 を横抱きにして浴室へ入り、ゆっくりと体を洗ってやった。若い、よく均整のとれた白い裸身にもう 新鮮な欲望は感じなかったが、肌目を一々たしかめるようにタオルでこすってやるうち、三宅はリエ を手ばなしたくない感情にかられてきた。こんなに魅力的な女性とはもう二度とめぐりあえないので はないかと彼は思った。 「民芸品メーカ 1 の支店長になると、きみと一緒に働けるわけだ。支店の事務員にきみを採用すれば いいんだからね」 思わず洩らしたような調子で、三宅はその言葉を口にしていた。 もし支店長になっても、リエを事務所に入れたりしてはそれこそ泥沼に足をつつこむ羽目になる。 絶対にそれはロにすまいと自分にいいきかせた決心がいまは消えていた。そして、逆に一つの決心が 固まった。 三宅は支店長になるべきだった。吹けば飛ぶような小企業でも、一つの地区をまかされ、会社の業 夜 の績にただちにひびく業務にしたがうかぎり、それは空中の楼閣とはわけがちがうのだ。 0 工芸にとっ て自分は必要とされている。独断でリエを事務員に採用できる程度の自由もゆるされる。大企業の一 角で、いつのまにか一人一億円の損失をつくるたぐいの空しい徒労にまきこまれるよりは、はるかに
二年半前に三宅は係長になった。だが、仕事の成績からみれば、その一年前に昇進してもすこしも 不自然ではなかったのだ。 事実、課の同僚たちも、その一年前の時点で三宅が昇進するものとみんな思っていた。 「四月一日付けで三宅くんもエライさんになるやろな。ま、出世しても・ほくとときどきあそんで頂戴 ね」 「あ、お肩にゴミがついとります。払うてさしあげますワ。三宅はんは偉うなる人や。せいぜいゴマ をすっとかんとな」 やっかみはんぶんのそんな声にかこまれて、一カ月前から三宅は辞令を心待ちした。五十名いる同 期生があつまって一杯やったときも、三宅、市田をふくむ四名がまず平社員を脱出するとみんなに祝 福されたのである。 だが、異動が発表になってみると、ヒラ脱出をはたしたのは市田ら三名だけで、三宅は昇進から除 ずにすむことをむしろ好都合に感じたのである。 が、同時に一つの不快な疑念が生まれた。 市田はほんとうにファミリー の一員なのだろうか。もしそれが事実なら、彼と一緒に西マレーシア の資源開発にあたるなんて、三宅にはとんでもない話だった。
た様子もない、白っぽく緊張した面持でリエは向かいあって腰をおろし、お話があるんです、と目を 伏せてつぶやいた。 「私、やつばり 0 工芸へいくのやめます」 三宅はだまってリエをみつめた。 くるものがきた衝撃と、未練と、もう一つ、肩の荷をおろしたという意外な安堵感が三宅の胸のう ちで交錯しあった。そして、安堵の念だけがみるみる大きくふくれあがり、内側から肋骨を圧し、全 身にひろがり、耳や鼻やロから奇妙なガス体となってふきこぼれて出そうになった。 「どうしたんだ、急に 「いろいろ考えたんです。そして、やつばりこの機会に三宅さんとおわかれすることにしたんです。 私、怖くなりました。このままずるすると三宅さんにひきずられると」 「一生をあやまるというわけか。たしかにそうだろうな。わかれるなら、いまがチャンスた。きみの 東京の男友達のためにも」 「私、ずっと三宅さんと一緒にいたいんです。ほんとうです。三宅さんの奥さんになりたい。けど、 それはできないことでしよ。そやから私、希望退職の届をとうとう出さんかったんです」 リエは涙をこ・ほし、すすりあげた。 夜 の とてもかわいそうで、愛らしかったが、三宅はとてもほっとしていた。うきうきした気分を顔に出 れ さぬよう一苦労だった。こんなに肩の荷をおろした気分になるとは、自分でもまったく意外だ 0 た。 本気でリエに愛情を抱いていたから、わかれの場面でこんなにほっとしたのだろう。ともかくこれで
道をあるきつつある男だった。 「会合の準備のために早出しました。松井重役もけさはなにか会議でもー・・ー」 三宅はいそいで彼と一緒にあるいた。 一介の係長にすぎない三宅が松井弥之助と話す機会など二度とないかもしれない。なんでもい 一言でも多く会話するのだと三宅は自分をかり立てていた。 「いや、わしは毎朝八時出勤や、三十何年間ずっとそうしてきた。九時に出てきてすぐ仕事いうても、 頭がばっと働かんさかい、一時間前からぼっ・ほっ頭の体操をしておくのやー 「三十何年も、毎朝ですかーー」 「頭のエンジン : カかかりにくい性分やさかい、仕様ないがな。きみらはまねする必要ないで。それそ れ流儀があるやろしな」 秘書課長があたふたと松井を出迎えに廊下をあるいてきた。八時出社の連絡をうけていたが、早朝 出勤に不馴れで、出迎えが一歩おくれてしまったのだろう。 安宅産業の救済にきた松井弥之助が八時出勤。救済される側は平然と九時出勤。三宅は恥ずかしい 思いをした。それにしても毎朝こんなにはやく出勤するなんて、サラリーマンとして最高の道をある く者は、人生にたいしてそれだけの投資をしてきたのだ。 役員応接室へ案内しかける秘書課長へ、あとでいく、と松井は手をふってみせた。そして、立ち去 りかける三宅を、 「きみ、きみは何課の所属ゃねん」
赤黒くなり、手をふるわせている。だが、視線は若い社員の顔ではなく、その胸のあたりを睨みつ けているだけだった。 、やめたほうが身のため、みんなのためと知りながら、やめ 贅沢いうな。ここをやめたほうがいし てゆくあてのない人間が仰山おるのや。そういう人のことを考えたことがあるのか、とやがて大崎は つぶやいた。泣きだしそうな、かすれ声だった。そういう人、とはまさに彼自身を指す言葉であるこ とが、だれにもわかる口調である。 三宅は正視できずに席を立った。そしてリエを目顔で廊下へ呼びだし、今夜また一緒に飲みにいこ うとさそいをかけた。 「課長さん、かわいそうやわ。ほかの人もそうやけど」 いまの光景におどろいてリエは表情をくもらせていたが、デートの中しこみをきいて、ばっと表情 をかがやかせた。 その夜、二人は前回とおなじように食事のあと、スナック・ハーやバブを巡回した。リエは幸福そう に酔って、ほてった顔をつねに三宅へすりよせて飲んだり話したりした。 歌をうたわせる一軒のスナックパーで、二人はビアノにあわせて上機嫌でユーアーマイサンシャイ とンを合唱した。不器用な三宅としては、できばえ上々の合唱だった。 沈歌い終わったとき、ほかの客の拍手にまじって、思いがけない弥次がとんできた。 船「ようし安宅さん、安心して歌うてくれ。きみらの面倒はちゃんとみてやるでエ」 いつでも養うたるー 「伊藤忠商事にまかしといてくれ。安宅産業の一つや二つ、
なすのか。それほどの義理を感じねばならぬわけがあるのか。おまえは自分自身のことを、そんなに 結構な人物だと思ってきようまでやってきたのか。 思いがけない吐き気を三宅はおぼえた。きたならしい大崎の皮膚をみていると、吐き気がほんもの になりそうで、もうがまんしていられなかった。彼は廊下へ走りでて、うす暗い水飲み場で吐いたが、 胃液がわずかに口から出ただけである。何杯か水を飲むと、やっと気分がおちついて、自分がなぜ大 崎の意向を尊重するたぐいの空虚な礼儀にこだわったかを理解できた。商事へ移籍する権利を大崎 に奪われるのがあまりに口惜しくて、商事へいけなくなるのがあまりに残念で、美徳の手を借りよ うとしただけなのだ。 おれは先輩に道をゆずった、恩義ある先輩に恩をかえしたという満足を、せめて彼は得ようとした。 一人ではなく大崎と一緒に並商事の話をきいたことが、残念で残念で仕方なかったのである。あのプ ロジェクトはおれ一人でやってきました。課長はめくら判をおしただけですと、本部長に向かって三 宅はさけびたかったのだ。その醜悪な行動をおさえるために彼はいくらか過剰に礼儀を尊重した。大 崎が三宅の申し出にとびつくことを予想しながら、その場合の手ひどい後悔に打ちのめされないため にも、三宅はいさぎよくふるまってみせなければならなかった。 「冗談じゃねえよ。おれはアホだ。妻子を路頭にまよわすかもしれないのに」 佐久間リエと一緒に酒を飲んで、その晩三宅は大荒れに荒れた。 「ほんまにアホゃねえ。けど、そのアホなとこが私は好きゃねん」 ホテルでリエは三宅にひざ枕をさせ、あやしながら歌をうたった。
。フロジェクトの買いとりと事業化をすすめたのだ。伊藤忠商事への移籍が実現しなかったり、伊藤忠 商事へ移っても向うで冷飯を食わされたりした場合、市田はさっさと辞表を出して、重役や三宅のや っているその会社へとびこんでくる気なのである。 市田も入社以来ずっと非鉄金属部門で働いてきた男である。おなじ小企業へとびこむなら、勝手知 った亜鉛や銅やニッケルの世界をえらぶのは当然のことだった。 わけや。将来もし一緒にやるときのために、おまえに仁義切っとこう 「お察しのとおりや。そうう 思うてな」 「わかった。もし小さい会社で一緒になったら、仲よくやろうぜ」 「それなら、なるべく大崎さんも行をともにさせてやろうやないか。われわれが会社をやるときは当 然やけど、おまえがプロジェクトごとほかの商社へ移る場合もなるべくつれていってやれ。なんせ彼 の企画立案でここまできた事業なんやからな」 昼間の大崎の態度を思いうかべて、三宅はまたやりきれない気分におそわれた。 市田も苦笑している。部下の手柄を横どりしたがる管理職が多くてうんざりや、大崎さんはそんな 男ゃなかったのに、と彼はつぶやいて ( ンカチで顔の脂を拭った。 「危急存亡のときやからな。みんななりふりかまっておられんのや。大崎さんもとんだ地金を出して 0 しもたんやな」 社「会社が消減するというのは、ま 0 たくいやな事件だな。市民社会の崩壊という感しだ。きのうまで いい人間だったやつも、きようは醜悪な顔むきだしで這いずりまわる」
非鉄金属事業部には、市田のほかにも数名の同期生がいた。だが、一人一人をあらためて吟味して みても、上に向かって同僚を中傷しそうな男は市田しかなさそうだった。 重役とぬけぬけそんな話のできる男も市田だけだという気がする。はっきりした理由はないが 象として彼はそうなのだ。 やはり市田はリエのいうとおり、ファミリ ーの一員なのだろうか。女子社員は根も葉もない噂話は やらない。人事など機密事項についても、彼女らの情報はしばしばあきれるほど正確で豊富である。 市田がファミリーだろうとなかろうと、安宅産業の社員としてはもうどうでもよかったが、一緒に事 業をやるとなると、そのあたりをもうすこし正確に知っておかねばならなかった。 「ちょっと事情があるんだ。市田の女房が安宅一族につながる女かどうか、女子社員サイドからしら べる方法はないかな」 数日後の昼休み、喫茶店で一緒にコーヒーを飲みながら三宅はリエに訊いてみた。 「そうやねえ。 xx さんなら知ってるかな。い っぺん訊いてみましようか」 いそいそとリエは、非鉄金属一課の女子社員の名をあげた。 市田が社長室付になるまでの五、六年、おなじ一課で働き、彼のことならなんでも知っていそうな 女子社員である。たのむ、と三宅にいわれてリエはすぐに調査に出かけ、夕刻つまらなそうに報告し た。市田の妻は大阪住吉区の小さな文具店の娘で、安宅一族とはなんの血縁もない女性だったのだ。 「そうか、ではこちらの思いすごしだったんだな。やつは O —じゃなかった。それだけのうつわで はなかったわけだ」
この時期に惚れ 求愛されたと考えてよいのだろう。三宅はわるい気分ではなかった。が、同時に、 たはれたを語れるなんて、女とはたくましい種族だと感嘆していた。 経営危機の会社のなかで、男子にくらべて彼女らが気楽な立場なのは事実だろう。だが、男子・せん ニュースに神経を ぶが前途の不安におびえ、暗い噂をささやきあい、たえず他人の顔色をうかがい 尖らす環境のなかで、相当に図太くないと新しく恋愛をはじめる気にはなれないはすだった。 三宅はけっして道徳的なほうではなく、さっきからのリエの様子に胸がときめいてもいるのだが、 自分のおかれた立場を思うとやはり女どころではなかった。パンを得る道が確保されてこその色恋な のだ。というより、みんなの苦しんでいるこの時期に女子社員とことを起こすなど恥知らすたとする、 われながら古風な自戒の念にとらわれていた。 やがて午後一時である。二人は喫茶店を出て会社へ帰っていった。 会社のビルの前に鉢巻きをした労組の幹部が数名立って、合併・提携反対のアビールのビラをくば っている。銀行は合併問題から手をひけ、社員はみんな団結して自力再建をかちとろう、となかの一 人がメガホン片手にわめきつづけた。業務不振でありながら、ビルの玄関のあたりには、埃つぼい、 さむざむとした、殺伐な活気がみなぎっていた。 き と「ねえ三宅さん、私も一緒につれてって」 沈思いがけぬことをリ = がささやいた。 船 もし三宅が貿易会社へ移るなら、自分も一緒にその会社へ入りたいというわけだ。 巨 「冗談じゃない。とてもまだそんな話のできる段階ではないんだ」