非鉄金属事業部には、市田のほかにも数名の同期生がいた。だが、一人一人をあらためて吟味して みても、上に向かって同僚を中傷しそうな男は市田しかなさそうだった。 重役とぬけぬけそんな話のできる男も市田だけだという気がする。はっきりした理由はないが 象として彼はそうなのだ。 やはり市田はリエのいうとおり、ファミリ ーの一員なのだろうか。女子社員は根も葉もない噂話は やらない。人事など機密事項についても、彼女らの情報はしばしばあきれるほど正確で豊富である。 市田がファミリーだろうとなかろうと、安宅産業の社員としてはもうどうでもよかったが、一緒に事 業をやるとなると、そのあたりをもうすこし正確に知っておかねばならなかった。 「ちょっと事情があるんだ。市田の女房が安宅一族につながる女かどうか、女子社員サイドからしら べる方法はないかな」 数日後の昼休み、喫茶店で一緒にコーヒーを飲みながら三宅はリエに訊いてみた。 「そうやねえ。 xx さんなら知ってるかな。い っぺん訊いてみましようか」 いそいそとリエは、非鉄金属一課の女子社員の名をあげた。 市田が社長室付になるまでの五、六年、おなじ一課で働き、彼のことならなんでも知っていそうな 女子社員である。たのむ、と三宅にいわれてリエはすぐに調査に出かけ、夕刻つまらなそうに報告し た。市田の妻は大阪住吉区の小さな文具店の娘で、安宅一族とはなんの血縁もない女性だったのだ。 「そうか、ではこちらの思いすごしだったんだな。やつは O —じゃなかった。それだけのうつわで はなかったわけだ」
に適切な組織変えと人事異動を実施し、体質のあらたまった安宅産業をできるだけ高く伊藤忠商事へ 売りつける肚のようだった。 「安宅産業へきた以上、わしはここの人間や。もう伊藤忠の人間やない。安宅の有利なようにことを はこぶのは当然のことやろー 社員の気持を魅きつける言葉を、松井は要所要所で吐いてまわった。 組合はあい変わらず合併反対、人員整理の阻止、自立再建をさけびつづけ、一部の安宅一族がそれ を支援したりしていたが、社の大勢は松井のすすむ方角へ動きはじめていた。女子社員も松井には心 服した。こんな会社、ポーナスもろくに出ないし、もうやめようといきまいていた数人の女子社員が、 たまたま大阪へきていた松井から、 「やあ、きみらも報われなくてさそ不満やろな。もうすこし辛抱してくれよ。かならず改善してみせ るさかい」 と声をかけられ、退社の意志をかんたんに撤回したという話だった。 佐久間リ = は、やめた二人の女子社員の仕事のはんぶん近くを一人でかぶり、ほとんど毎日残業し て働いていた。五人いた女子課員が三人に減り、それでなくとも多忙なのに、リエは繁忙をもとめる かのように毎日あかるく張りつめていた。とくに三宅の仕事を手つだうときは、いじらしいほど根を つめ、松井のように朝八時から出勤して机に向かうこともあった。二人の仲が目立つようなまねはよ せといいきかせておいたのに、三宅のために座布団をつくったり、彼のデスクに花瓶をおいてせ「せ と花をかざったり、だまっていてもデスクを整頓してくれたり、目立とうとっとめているような行動
にとっても自然な感情とされる時代なのに、サラリーマンだけが奇妙にもそれをゆるされていないの である。 女子社員とのトラブルで左遷されたり、社内の信用を落とした男を三宅はこれまで幾人もみてきた。 が、そんなみせしめがなくとも、彼はいままでそうだったとおり、女子社員と妙な仲にはならすにき ただろう。働く男女は恋愛しないという暗黙の規定を、とくに反感もなくうけいれてきたからである。 情事をたのしんでなにがわるい、仕事の能率が低下しなければよかろうとの考えに三宅も異論があ るわけではなかった。だが、会社の規定というやつは、暗黙のものだろうとなかろうと、それが存在 するかぎりサラリーマンにとってなににもまさる正論である。ことの是非とはべつに、それが規定で あるかぎりそれは絶対の正論だった。 三宅は妻子に匹敵するほど会社を大切なものに感じてきた。だから、働く男女は恋愛などしないも のだという暗黙の規定を、じっさいそうだと信じてきたところがあった。左遷や信用失墜が怖くて女 子社員を黙殺したわけではなく、自分は彼女らをけっして好きになったりしない人間だときめて、た とえ好意を示されても知らん顔できたわけである。 だが、リエの場合はべつだった。彼女の気持を無視するどころか、二人のあいだに生まれた親しさ を三宅は積極的に情事にもちこみたい衝動にかられていた。会社の存立が危なくなって、彼の心のう ちにもなにか変化がおこったのだ。独身時代に女子社員をながめたのとおなじ熱心な視線で、三宅は リエの一挙手一投足をながめるようになったのである。 そうした目でみると、リエは容姿だけでなく、人柄もなかなか魅力的な娘だった。
た。三宅が技巧をこらすまでもなく、待ちかねてそこにはあたたかい液体があふれていた。 くちびると舌を三宅が駆使しはじめると、リエのそのあたりが急激に三宅へ接近してきた。存分に 撫をうけいれられるようリエが自分の腰の下へ枕をおしこんだのだ。 「ああ、やっと会えた。やっと会えたわ」 毎日会社で顔をつきあわせるのは会ったうちに入らないらしい。つぶやいてリエは両手でかたく三 宅の頭をつかんだ。 そして、体をうねらせはじめ、声をあげ、そりかえった。快楽が盛りあがるたびにリエは呻き、思 わす腿で三宅の頭をはさみつけて、われにかえってあわてて脚の力をゆるめたりした。もとめられれ ば、どんな姿勢にもよろこんで応じた。獣のような姿勢で三宅のくちびるや舌の動きをうけとめたあ と、ぐったりとくずれ落ちてしまいたい全身をはげますようにおこして、愛撫の返礼のため、まだ服 をきたままの三宅のベルトにもどかしく手をかけてくるのだった。 一時間あまり、そうしていた。二人の結びつきの固さをたしかめるように、さまざまな姿勢で二人 は体をつなぎ、あえいだり、呻いたり、心ゆくまで快楽をむさ・ほりあった。こうした仲がいつまでつ づくのかな、と考えながら三宅はリエの体を抱きしめ、つぎつぎに快楽を彼女へおくりこんだ。伊藤 忠商事との合併が実現しても、女子社員のほとんどはそこへ移籍できないだろう。総合商社の女子社 O 員は事実上ほとんどが補助業務の要員だから、一人やめてもすぐに代わりの要員がみつかる。一家の 社柱である男子社員をさしおいてまで、女子社員を新しい職場〈つれてゆくことなどとても考えられな いのだ。
昼休み、大阪本社の女子社員たちは更衣室で通勤用の服に着がえて三々五々外〈出ていくようにな っこ 0 会社のネームの入 0 た事務服を着てビルの外〈出るのを彼女らはいやがるのだ。三カ月前、社の経 営危機が最初に報道されてから、彼女らは「ああ、あの安宅産業のーー」という街の視線を意識して、 通勤用の服装で食事やお茶に出かける。くすんだビルのうす暗い廊下に、色とりどりのスーツやワン 。ヒースはタ闇のなかにひるがえる万国旗のように華やかに映 0 た。窮屈な事務作業から解放され、生 き生きした表情でおしゃべりしながら、女子社員たちは身のすくむ二月の寒さのなか〈出てゆくので ある。 「気楽なもんやな女の子は。そのうち、事務服をぬぎすてるような具合に、つぶれかか「た会社をさ 巨船の沈むとき
三宅は、場内の熱気に溶けこみきれない自分を感じてリエの耳にささやいた。 住友銀行や伊藤忠商事のトップの非情な思考法を知るから東京の労組は尖鋭化するのだとは思うの だが、三宅の感覚では労組側の主張はあまりに一方的、独断的だという気がした。大阪の平衡感覚と はかなりちがう。大阪の商社マンが組合を握っていたら、だれが敵だれが味方の区分けよりも、一人 でも多くの社員を失業させない方向へ交渉をもっていこうとしたにちがいなかった。 「でも、住友銀行が二千億の不良債権を背負ってくれれば、安宅は合併されずに済んだんでしよ。新 聞にそう書いてあったわ」 めすらしくリエは反論した。支援大会の雰囲気に呑みこまれ、組合の論理にすっかり影響された様 子である。 「ばかをいうな。なんの義理があって銀行がそこまでよその会社のめんどうをみるんだ」 「でも、メインバンクなのに」 「それは向うのいうことさ。面倒をみてもらう側がそれをいうのは甘ったれているよ」 リエは三宅の言葉には上の空で、熱にうかされたように演壇をみつめ、演説に区切りがつくと熱心 に拍手を送っていた。 ら三宅はなにか正視に耐えない気分だった。 西 たかが二十二、三の女子社員に銀行と債権の関係を論じさせるような事態はやはり異常なのだ。女 殻性の社会進出意欲がどうあろうと、商社の女子社員はやはり職場の花でいてくれるほうが自然でもあ り健康でもあると、リエをうかがいながら思った。
「うん。同期生の人の送別会やねん。最近、やめていく人が多いやろ。これからもときどき送別会が ある思うわ」 今夜おそくなるということわりの電話を自宅に入れているらしい。 女子社員はみんな・フルーの半袖の事務服をきている。受話器をもったリエの右の二の腕が、内側の 白い肌まであらわにしてやさしくふくらみ、三宅の視線を吸収した。きびしい利潤追求の秩序に支配 リエのや され、ノルマの数字が目にみえない蚊の大群のように飛びまわっているオフィスのなかで、 さしい二の腕だけが三宅の心をふっとなごませる表情をもって動いていた。 リエは生き生きした顔で電話をおき、三宅と目があうと、首をすくめて笑ってみせた。三宅とのと くべつな親密さを、・リエは以前ほど神経質にかくさなくなっている。彼女とホテルへいくようになっ て、もう半年以上たっていた。女子社員はなんといっても恋愛である。この安宅産業がやがて消減す る会社だろうと、希望退職者の募集がはじまろうと関係なく、三宅がいるかぎりリエにとって安宅産 業はすばらしい会社なのだった。 「いいねえきみは、幸福そうににこにこして。きようはデートなのかい」 カモフラ 1 ジュのつもりで三宅がわざと大きな声でいうと、リエはいっそうにこにこして、 「職場の花としては、苦しいときほど笑顔をつくらないかん思うて努力してるんですよ。わかってく ださい」 と、なかなか上手な返事をした。
ようにリエが追ってきて、ほんまにどうかしたの、心配そうに呼びとめる。ビルの外の喫茶店へ三宅 はリエをつれだし、 「鉱業へいけっていうんた。例のマレーシアの資源開発を手がけるためにね」 と、くわしく事情を説明した。職場の事情をよく知っているだけ、こんなときリエは妻よりもずつ といい話し相手だった。 「鉱業ーー。すると三宅さん、伊藤忠にはいかないんですか」 リエはまた目を大きくして三宅をみた。 頭のなかでなにかあわただしく思案にふける表情だった。おどろいてはいるが、打ちひしがれたり 悲しんだりしてはいない。むしろ重荷をおろしたような、ほっとくつろいだ気配で頬の線がなごんで が、リエはすぐに泣きそうな顔になって、 「いややそんなん。三宅さんのいない伊藤忠へいっても意味ないわ。私、なんとかして一緒に鉱業 へいきます」 と、しおらしい台詞をいった。 非鉄金属部門の女子社員はすでに退職したり希望退職を中しでた者が多く、のこった二十何名かは ほ・ほ全員伊藤忠の同部門へひきとられるだろうとみられている。きようまでねばってよかった、とひ そかに祝福しあっている娘たちもいるようだった。伊藤忠へ移籍すれば給与水準は上がるし、有能な 大勢の独身男性と知りあうことができるからた。
が多かった。 「おい三宅くん、きみ、あの子とできているそうなが、ほんまの話かー 男女の仲にはまるでうとい大崎が、あるタ刻デスクのそばに三宅を呼び、残業するリエをあごで指 して声をひそめた。 大崎が知るくらいなら、二人の仲はかなり噂になっているのだろう。だが、三宅は平気だった。っ ぶれかけた会社で男女のモラルを云々してもはじまらないし、情事が他人に知れようが知れまいが、 この重大な時期にはほんの些事たとしか思えなかった。 肯定も否定もせすに立っていると、大崎はべつに咎める面持ではなく、 「なるほどなあ。そういうことやったんか。ほかの女の子はだましだまし使わなあかんのに、あの子 だけはだまっててもよう働いてくれる。ふしぎやと思うとったんやー 他の女子社員は一一言目には会社をやめると いいだすので、ご機嫌とりがたいへんだが、リエだけは その必要がなかったのだ。 「こうなるとなんやな、 xxx するのも会社のため、いうことやな、三宅くん」 「課長もがんばってみられたらどうです。物がよみがえるかもしれませんぜ」 駐「あほぬかせ。わしの立場としてそれはようせん。課のモラルが崩壊する。もっとも、いつまで存続 スする課かわかれへんけどな」 ともかく非難はされなかった。 男女の間柄への拘東カを会社がうしなうとともに、大崎も、課員たちの不道徳をいましめる気力を
どは他へ移るほうが筋目なのかもしれなかった。 「いまの話、ともかく考えといてくれ。返事はなるべく早うな。きみにいく気がなかったら、ほかの 者にもちかけてみるよって」 話のながびくのをおそれるように、大崎はコーヒーを注文せずに席を立った。 午後の部課長会の下準備があるので、まっすぐオフィスへ帰るという。三宅は彼とわかれ、淀屋橋 に近いいきつけの喫茶店へ足を向けた。店の前で臙脂色のスーツを着た若い女に声をかけられ、顔を みると、おなじ課の佐久間リエが笑いながら立っていた。 「リエちゃんか。へえ、しゃれた格好だな。みちがえたよ」 三宅はまぶしく、まばたきした。 青い事務服のリエをみなれていたので、目の焦点が合いにくかった。気立てのいいだけがとりえの 平几な娘と思っていたのに、臙脂のスーツとハイヒールの彼女はあかるい利発な表情で、かたちのよ い体つきで、全身に都会の感覚をみなぎらせている。反射的に三宅はリエを喫茶店へさそった。女子 社員と二人きりでコーヒーを飲むなど、結婚してからは年に幾度もないことである。小遣いがとぼし くなったので、お金を出しにこの近くの銀行へいってきたところだとリエはいった。 、ことあったんですか。あんなににこにこしてあるいてはっ 「どうしたんですか三宅さん、なにかいし 自分もうれしそうにリエがたずねた。 「そんなにうれしそうだったか」 0