「あの調子だったら、おまえは伊藤忠商事ゆきを保証されているんだろうな」 「そんなことないよ。それより、さっきの西マレーシアの。フロジェクトの話や。おまえ、あれを売る 気ないか。ほかの商社へ」 「売るって おどろいて三宅は市田をみつめた。 開発。フロジェクトはもちろん三宅個人の所有ではない。会社に資金を出させてここまで具体化させ た事業なのだ。一社員の身で他社へ売る売らぬの話ができるわけもなかった。市田はいったいなにを 考えて、身売りの話などもちかけてきたのだろう。 「おれにいい考えがあるんや。今夜七時長ホテルのバ 1 で会おう。まあきくだけきいておけ。絶対損 になる話やないで」 どこか卑しく人の顔色をうかがう表情で、早口にささやいて市田は去っていった。 いやなやつだが、市田は仕事のできる男だ。例のプロジェクトの進行についてなにかいい考えがあ るのかもしれない。。 三宅は話をきいてみる気になった。が、考えてみると、今夜は佐久間リエとデートの約東がある。 六時半の待合せ時刻を変更しておかねばならなかった。 O 三宅は課へもどり、デスクに向かって事務をとるリエの背にかるくさわって、なにくわぬ顔で廊下 の 社へひきかえした。打合せが必要になったときの合図である。しすかな階段のおどり場に立っていると、四 すぐにリエがやってきた。リエは事務服の下にふんわりと薄地の桃色のワン。ヒースをきていて、窓あ
たとき、彼女はいろんなフォークソングをきかせてくれて、三宅をうっとりさせたものだった。 「東京へいくそうだな。あしたからか」 なるべくやさしく声をかけた。 一緒にいこうといわれなかったことを怒っているとは思われたくない。 「ええ。三宅さんは、あんな抗議行動がきらいなんでしよ。だからこんどは私一人でいくことにした の」 ごめんね、とリエはつぶやいた。 相談なしに上京をきめたことが、やはり気にかかっていたらしい。三宅にすれば、彼女のそんな気 持を知っただけで満足である。なにしろライ。ハルの男は若くて、独身の、一流商社マンなのだ。奪い あいを演じる気持は最初からなかった。もちろん彼女の幸福をねがうからだが、最近まで三宅も一流 商社マンだっただけ、相手の男のその肩書に打ちのめされてしまう気分なのた。 「こんどの抗議行動は、銀行やなくて伊藤忠商事が対象らしいんです。私ら伊藤忠商事のビルの前で、 ギタ 1 弾いて歌うんです。さっきまでその練習をしていたんです」 「へえ、どんな歌をやるんだ」 ら「三宅さんは知らんやろな。ボクは呼びかけはしないという歌。伊藤忠商事の労働組合へ皮肉をこめ 西て呼びかけるんです」 ボクは呼びかけはしない、しかしきみを必要としている、きみが出てきてくれたらどんなにうれし〃 いだろう
だといわれていた。有為の人材が、一族の不興を買ったばかりに冷遇された例も多かったそうた。重 役とか本部長の約三分の一がこの安宅ファミリ ーの人々だとみられ、そうした幹部の者たちについて は、だれがそのメイハーであるかを三宅もだいたいみわけることができた。 だが、部長以下のどのポストがファミリー の成員に占められているのかは見当もっかない。創設者 の縁につながる社員が優遇されるのをふせぐため彼らは身分をかくし、社員のあいだに反経営者の空 気が生まれないよう社内各所で目を光らせているとの説もある。うつかり上司の悪口など口に出せな い仕組みになっていたのだ。 「市田がファミリー のメン。ハーだって、まさか 」三宅は笑いだした。「あいつはそんな育ちのよ い顔じゃないよ。みればわかる。たしか三重県の農家の息子だろう」 「でも、安宅一族から奥さんをもらったかもしれへんでしよ。それに、。 へつに姻戚関係でないファミ リーもいるいう話なんよ」 「それは初耳だな。しかし、市田が万一安宅ファミリーだったところで、もうどうってことはないし ゃないか。安宅産業は消減する。一族も例の美術コレクションまで手ばなして経営の第一線から退散 するんだし」 < 「そういえばそうね。いままでの習慣で、つい一族を怖いものに感じてしまうわ」 0 市田のことなどどうでもいい、短い逢う瀬をおたがいもっとたのしまなくては。 社あらためて二人は抱きあった。おかけで三宅は、市田がきようどんな話をもってきたかをリエこ説 明するひまがなかったが、転職とリエとの情事の終りを結びつける考えがあるせいだろうか、説明せ
きり、求人リストに堂々と目を通して、輸出課長の権利を確保せねばならなかった。 だが、その焦燥と併行して、電機への情熱が急速にうすれてゆくのを彼は感じた。自分のカで、 いやリエの世話で輸出課長になったつもりが、もともとは銀行の圧力でできたポストだったのだ。再 就職あっせんを餌に社員をやめさせようとするきたない手口を拒否したつもりで、結局三宅も銀行の 大きな掌のうちでうごめいたにすぎなかった。 しかも、電機で輸出課長はそんなに必要とされていないのだ。いま退職を決行して電機へ入っ ても、へたをすると伊藤忠商事へ寄生する安宅産業の社員よりもめいわくがられる存在になる。それ に本部長に屈したかたちで退職を中しでるのが、なんとしてもなさけなく屈辱的行為に思える。 考えあぐねて、三宅はしばらく辞表の提出をみあわせた。いや、なんとか未練を断とうと、心の底 であがいていたようだった。そして三宅は待っていた。事態の自然な決着がやがておとずれるはずで あった。 待っていたものは翌週のはじめにやってきた。夕刻三宅が外まわりからオフィスへ帰ると、目を赤 くした佐久間リエが彼を廊下へつれだして、他人の目もかまわずにしやくりあげた。 「ごめんなさい。さっき伯父からことわりの電話が入ったの、急に事情が変わったといってーーこ 竸争者が電機をおとずれたのだ。 「いいんだ。気にするな。日本中に会社はゴマンとあるよ。なんとかなるさ」 三宅はリ = をなぐさめながら、肩の荷をおろした気分であり、同時にやはり痛切に残念だった。 だが、後悔はしないつもりである。 110
にとっても自然な感情とされる時代なのに、サラリーマンだけが奇妙にもそれをゆるされていないの である。 女子社員とのトラブルで左遷されたり、社内の信用を落とした男を三宅はこれまで幾人もみてきた。 が、そんなみせしめがなくとも、彼はいままでそうだったとおり、女子社員と妙な仲にはならすにき ただろう。働く男女は恋愛しないという暗黙の規定を、とくに反感もなくうけいれてきたからである。 情事をたのしんでなにがわるい、仕事の能率が低下しなければよかろうとの考えに三宅も異論があ るわけではなかった。だが、会社の規定というやつは、暗黙のものだろうとなかろうと、それが存在 するかぎりサラリーマンにとってなににもまさる正論である。ことの是非とはべつに、それが規定で あるかぎりそれは絶対の正論だった。 三宅は妻子に匹敵するほど会社を大切なものに感じてきた。だから、働く男女は恋愛などしないも のだという暗黙の規定を、じっさいそうだと信じてきたところがあった。左遷や信用失墜が怖くて女 子社員を黙殺したわけではなく、自分は彼女らをけっして好きになったりしない人間だときめて、た とえ好意を示されても知らん顔できたわけである。 だが、リエの場合はべつだった。彼女の気持を無視するどころか、二人のあいだに生まれた親しさ を三宅は積極的に情事にもちこみたい衝動にかられていた。会社の存立が危なくなって、彼の心のう ちにもなにか変化がおこったのだ。独身時代に女子社員をながめたのとおなじ熱心な視線で、三宅は リエの一挙手一投足をながめるようになったのである。 そうした目でみると、リエは容姿だけでなく、人柄もなかなか魅力的な娘だった。
外された。内示まで得ていながら、大逆転で平社員にとめおかれたのだ。 「理由はようわからんのや。が、本部長の西島さんあたりが、きみの昇進に反対をとなえたらしい。 しいが、なんかきみの考えかたが未熟やとかで」 勤務成績ま、 課長の大崎は事態の急変に困惑しきってそう説明し、すまん、わしの力が足らなんだ、とまっ赤に なって頭をさげた。 後日、人づてにきいたところでは、西島というその本部長は三宅を九州へ転勤させろと主張し、大 崎の必死の抵抗に会ってかろうじてそれを撤回したそうである。西島はその後常務となって非鉄金属 本部長の職をはなれ、翌年三宅はぶじに係長に昇進できた。会社がだめになって以来すっかり元気を なくした大崎に、三宅がむかしとおなじ敬意をはらっているのは、本部長へ抵抗した話をおくびにも 出さぬ彼の人格に魅かれたせいである。 ーの内 の中心的な存在だった。だから、もしも市田がファミリ 西島という人物は、安宅ファミリー 密の成員だとした場合、西島があのとき急に三宅を遠ざけようとした理山についてはうまく説明がっ くのである。同期生の集まりの席で、三宅は内輪話のつもりで、西島本部長の強引な売上拡張策をか なりはっきりと批判した。土地ブームに便乗し、不動産担当部門でもないのに土地をほうぼうで買い あさって事業部の利益にする方針に、当時から大反対だったのだ。労働組合のない企業がトツ。フの独 O 走でしばしば経営危機におちいるのを例にあげて、労組必要論も熱っぽく説いた。考えてみると、あ 社の同期会のときばかりでなく、昼休みの雑談などで、市田の前で三宅はしばしばそうした言葉を吐い てきたおぼえがあるのだった。
髮をつつみ、バスタブのなかに立って、石鹸で体をこすりながらシャワーをあびているところだった。 三宅もバスタブのなかへ入った。そしてリエをうしろ向かせ、ぬるま湯をあびてなまなましく光る リエの体をみつめながら、掌でていねいに洗ってやった。豊満ではないが、若々しく活力にあふれた 体である。肩や背中は肉づきがうすく、脆そうな感じだが、ヒッ。フの盛りあがりはたくましいし、 つみてもおどろかせるほど見事に胴がくびれている。わずかな草むらの下に、愛らしい花のようなセ ックスがあった。三十三歳の三宅よりひとまわり下のリエの体をみていると、男女の仲にいっかは破 局がくるというさっきの考えがひどい取越苦労に思われてきた。 丿工のほうから去ることはあっても、三宅のほうが逃けだしたくなる気づかいはない。 この素敵な 体がうっとうしくなるなど、考えられないと彼は思った。輸出課長の話をことわる必要はなさそうで ある。三宅はパスタブのなかにしやがみ、リエの美しいヒップや、前のほうの草むらに石鹸を塗って 大切に洗いながら愛撫をつづけた。リエはシャワーの雨をとめ、声をあげて泣きながらシャワーの。ハ イプにしがみついている。恥も外聞もなく、はげしい時間がながれはじめた。三宅はやがてリエを抱 いてべッドへもどり、さまざまな姿勢で彼女を抱いて、リエの声がすこし大きすぎるのではないかと、 となりの部屋や廊下に気をつかわねばならなかった。 あくる日、いつものように目覚時計で起こされ、歯ブラシを使いながら三宅がキッチンで新聞をひ らくと、妻の百合子が炊事の手をとめ、そばへきて新聞をのそきこんだ。 「いよいよなのね。希望退職が九百人にみたないときは、人員整理なんでしよ。私もう覚悟をきめて いるわ」
しない、離籍勧告をうけても拒否するなど、生活をかけてのたたかいだけに、本来は利己的な商社マ ンが課長以下女子社員まですんなり一つにまとまって、泥繩式に生まれた労組を盛り立てていた。 三宅もむろん組合員である。だが、代議員になる気はなく、何人かの者に推されたときも懸命に辞 退して、ストやぶりこそしないものの、組合にあまり深入りしないよう注意しながら行動してきた。 合併がほば既成事実になったいまも一徹に合併反対、自主再建に固執する執行部の姿勢がいかにも空 虚なつよがりにみえたし、進退の自由を組合に拘東されたくないという気もあったからだ。 要するに三宅は、自分の役に立っ範囲で組合員であろうとし、組合のためにすすんでなにかを犠牲 にする気はなかった。交渉や集会、ストなどでは一つに結集する組合員たちの多くも、内心は三宅と おなじような考えで、九カ月前の結成時三千人にたっした人員も、反対闘争の激化につれて一人二人 と脱落し、希望退職の影響もあって、いまでは千五百人に減っているのである。 それでも組合は合併反対、自主再建要求の態度をつらぬきつづけた。そうした強硬な姿勢をくすし、 現実的な条件闘争に方針を切りかえようものなら、もともと利己的な組合員が雪崩を打って会社の圧 力に屈するだろうとの心配がそうさせていたようである。全商社の応援を得た上、年末のポーナス交 渉がからんで、その姿勢はさらに強力に保持された。三宅が東京ゆきを承諾したのも、東京本社の情 ら勢をさぐりながらリエとの小旅行を楽しなことのほかに、 炳「いったんあげた生活水準を切りさげるのって、たいへんねえ。これから子供たちの教育費がかさん 没でくるというのに」 という妻の嘆きにも原因があった。 2
で人を律さず、ありのままの人の姿をみとめる余裕をもっている。 二度と代議員の身替りで上京する気はなかったから、三宅はそれきりこの話を忘れていた。が、午 後になって、佐久間リエの態度から彼はそれを思いだしたのだ。 三宅が外まわりから帰ったとき、リエは電話をとって話していた。仕事の電話ではないらしく、受 話器を耳にあてながら、彼女は華やいだ幸福そうな様子だった。 三宅が甯につくと、反射的にリエは横向いて、声をひそめて話をつづけた。三宅にきかれたくない 力すぐにリエは正面を向き、三宅にきかせようとするかのような、はっきりした声 会話のようだ。 : 、 で、話をはしめた。 ・六カ月。フラス一律二万円。ええ。たったそれだけなんです 「ええ、こないだ回答が出たんです。一 よ。三十歳男子の平均で三十六万円ぐらいかしら。商社なら平均九十万円ぐらいはありますのにね 年末一時金のことらしい。電話の相手はだれだろう。華やいだ幸福そうな様子からみてあの商事 の男だろうと直感したが、そう考えるのは不愉快なので、思いすごしだと彼はむりに自分へいいきか せた。 ら が、リエはやはりあの商事の男と話をしていたらしいのだ。その翌日、笠松がまた三宅のそばへ 西きて、リエが女子の代議員の身替りで、あさってまた東京へいく予定になっていると教えてくれた。 没彼女がいくなら、三宅も当然同行するだろうと、笠松は再度都合をききにきたのである。 「なんや、あんたら打合せずみやなかったんか。おれはまた、あんたらが示しあわせて東京へ x x x
課長の大崎へ相談をもちかけた若い社員がいた。 いったほうがいいかもしれんな。伊藤忠へ入ってもどうせ下積みや。それより鶏頭牛尾の線がいい やろ、と大崎は答えた。人員をなるべく減らせと指示されている課長の立場としては当然の返事であ る。 だが、口調はお座なりだった。その若い社員は仕事ができ、給与も安い。課としてはやめさせたく ない人間である。やめさせたい中年の社員がこの課には三人もいるのに、彼らからは転職の話がまっ たく出ないのだ。 「しかし、伊藤忠のようなビッグビジネスでやってみたい気もあるんです。ぼくら安宅系の人間は、 向うではほんまにうだつがあがらんのでしようか。なんぼ実績をあげても、全然みとめられんのです か」 「常識からいうと、そんなとこや」 「けど、そらおかしいやないですか。出身がちがうだけで差別されるやなんて、現代の企業でそんな ことあるわけはない」 「そう思うんなら、ここにのこりやええ」 「課長、まじめに答えてくださいよ。これはぼくの一生の間題なんですから」 「やかまし、。こ : 、 しナカカ一課長になにがわかる思うとるのや。人生相談冫 こ応じられる甲斐性があったら 苦労ないわ。贅沢いうな」 課の全員がおどろいて顔をあけるほど、ものすごい声で大崎は怒鳴った。