千野木の大学時代の友人で東京の新聞社に入った男がいた。ところが彼は一昨年、突然新聞社 を辞めた。作家になるのだ、ということだった。だがどの雑誌にも彼の名前は載っていない。今 うわさ 年の春、大学のクラス会があった時、彼の噂を聞いた。 トツ。フ屋になっている、というのだった。 一流の新聞社に勤めていたのに、何も辞める必要はないのに、と千野木は思ったものだ。 小説を書くなら勤めていても書ける。 だが千野木は今、彼の気持が分るような気がするのだった。 「何を考えているの ? 」 と加江子が尋ねた。 「後で話すよーと千野木は答えた。 考えてみれば、加江子のように、水商売に生きている女も、普通の社会からはみ出た人間かも しれない。 彼女が車を停めたのは、自分が住んでいるマンションの前であった。 標加江子は今夜、自分の部屋に千野木を入れる積りなのだ。加江子は今まで、自分の部屋に千野 木を呼んだことがなかった。 巨今夜が最後だと思い、加江子は一大決心をしたのかもしれない。 矢彊りこのマンションに住んでいるホステスらしい女が帰って来て、エレベーターで一緒だっ た。女はそ知らぬ顔をしていたが、四階で下りる時、加江子にお休み、といった。
悦子の顔から血の気がなくなった。 ふとん 何時か悦子は蒲団の傍に正座していた。 「お願い、そんな馬鹿なことは辞めて頂戴、あなたの気持は分るわ、腹が立っこともあると思 うわ、でも十年以上も勤めた会社を辞めたらどうなると思うの、大きな会社は、もう傭ってくれ ないわ、きっと後悔すると思う」 「一時の感情じゃない、おい、煙草を取って来てくれ」 日曜日、起きる前に、蒲団の中で煙草を吸うのは、千野木の楽しみであった。 だが悦子は動こうとしなかった。千野木は自分で煙草を取った。もう蒲団に入る気がしなくな り、椅子に坐った。 悦子がまた千野木の傍に来た。 「じゃ、会社を辞めて、どうするの、教えて頂戴」 悦子の声は変にもの静かだった。 田最近、悦子との間に、夫婦の対話が行なわれたということは、めったにない。 標二人の間は冷却し、時たま悦子がヒステリーを起す位であった。 千野木は、社を辞めてからのことを話すのは、めんどう臭かった。 大 巨 だが詳しく説明し、悦子を納得させるのは、妻に対する夫としての責任だった。 千野木は、もし悦子が承諾し、自分について来てくれるなら、新しい角度から、悦子を見直そ うと思っていたのだ。 やと
188 食事を終えてから二人はホテルを出た。千野木は真由美に、何処かに飲みに行こう、と誘った。 懐には二百万という大金があるのだ。 千野木の気持は大きくなっていた。 「良いわ、じや私が勤めていたクラ・フにでも行ってみない、お店を辞めてから行くのは初めて そのクラ・フェースの名前は有名だった。 岡田などが行くのはクラ・フコロンだが、コロンは大阪だけである。だが真由美が勤めていた店 は銀座にもあって、日本中に名前がとどろいている店だった。 ホテルから北新地までは歩いて数分だった。千野木と真由美は堂島川そいの道を歩いた。 思えば二人は不思議な関係だった。 真由美と会わなければ、会社を辞めることもなかっただろう。こんな調査に打ち込むこともな かったのだ。それに千野木一人では、不可能な調査であった。しかも真由美は笠原の弱点を握り、 千野木を武野井商事に入社させることも引受けているのだった。 千野木は自分の運命が真由美に握られているような気さえする。 夜の明りに照らされた真由美の顔は優雅でさえあった。千野木はふと女実業家の斉藤千世の顔 を思い浮べた。 斎藤千世にもこういう優雅さがあった。 一度斎藤千世に会ってみる必要があるかもしれない。斎藤千世も河内商事から融資を受けて淡 どこ
「はい、そんなに左遷というわけじゃないですが、僕に居られたら都合悪いんでしよう」 「僕の力が及ばなかった、君には済まない」 「とんでもありません、待塚さんにそういわれると、どういって良いか分らなくなります」 「僕も河内商事を離れたから、私的なことをいえるんだがね、僕は昔から君が好きだったよ、 君には普通のサラリーマンにない何かがある。反骨精神もあるし、人間臭さがある。僕は君のそ ういう人間臭さが非常に好きだったよ、それは、僕が絶えず求めていて、そのくせ僕自身持ち得 マン生活にはマイナスだがね」 ないものだったからだ、その人間臭さは、或る意味で、サラリ 1 「それは良く分っています」 「しかし、貴重なものだな、それで、時東京に行くんだい ? 」 「迷っているんです、この際会社を辞めて、別な仕事でもしようかとも思います : : : 」 「ほう、どういう仕事 ? 」 「それはまだ分りませんが」 待塚は小首をかしげた。 標「今の君の気持は良く分るよ、僕も、君には、何時までも河内商事におれ、とはいえない、し なかしね、これからの将来を決めすに、辞めるというのはどうかな : : : 」 巨待塚は暫く勤めていて、新しい仕事を見付けてから辞めた方が良い、というのだった。 と絶えず呟きながら 「君の気性では、これ以上河内商事にいるのは無理だろう、面白くない、 生きるなんて鹿鹿しい、人生はそれほど捨てたもんじゃないよ」 っ
する気はなかった。 それは千野木のエゴかもしれないし、千野木と悦子の夫婦関係を現わしているかもしれなかっ た。悦子に相談したところで答は分っていた。今更、会社を辞める必要はない、というだろう。 千野木がこの年で課長になっているのは、悦子にとっては自慢だった。 実家に戻り、親類と会い、そしてクラス会の時、悦子はそれだけで、千野木が自分の夫である ことを確認している筈であった。 わび だが考え方によれば、それは何と侘しい夫婦関係だろうか。そこには、妻と夫の精神的な交流 ・、よ、つこ 0 もし千野木が会社を辞めたなら、悦子は千野木を夫として認めるだろうか。 それを思うと、自分が河内商事を辞める場合、悦子との関係にも大きなひびが入るのを千野木 は予想せねばならなかった。 惰性で過して来た夫婦関係に根本的なメスを加えなければならなくなる。 離婚ということも考えられる。 標それを思うと、千野木は解放感さえ感じるのだった。俺は悦子を愛していない、と千野木は今 更のように思った。子供があればまた別だろうが、二人の間に子供はなかった。 大 巨千野木と悦子の夫婦関係は、千野木が大学を出て河内商事に勤めるのと或る点、性質が似てい 7 た。それは大学を出て社会に出た人間の、常識的な形式であった。 サラリ 1 マンと家庭というのは、車の両輪のようなものである。一方が破壊すれば、一方の車
千野木が自宅に戻ると、悦子も戻って来ていた。悦子はもう一度考え直してくれるように千野 木に頼んだ。 「もう辞表を渡してしまった、駄目だよ」 と千野木は答えた。 悦子がいなければ食事一つにしろ千野木は不自由する。だがそういう不自由さは、今の千野木 に取っては何でもなかった。 会社を辞め、悦子とも別れ、一人になって、もう一度自分の人生をんでみたかった。 だから、会社を辞めた以上、千野木としては寧ろ一人になることを望んでいたのだった。 ばく 「君は暫く実家に戻ったら良い、ひょっとすると僕はまた新しい会社に勤めるようになるかも しれない、その時、君に戻る気があったなら、二人で話し合ってみようじゃないか、君と僕は、 どこ ものの考え方で、何処か喰い違っているような気がする、別居している間に、お互、徹底的に考 えてみようじゃないか」 さと っこ 0 山千野木は論すようにいナ そうはく 標悦子は蒼白になり眼を血走らせて、勝手だ、と千野木をののしった。夫婦というものは、こん ななものじゃない、というのだ。 巨 「いいわ、私、明日帰ります、結婚した時、私が持って来たお金も、銀行から引出しますか 「結構だよ、僕は君の金を当てにしたことがあるかい、僕に断らなくても良い」 ら」
232 方は色が黒く精悍な感じだった。 マダムの登美と話をしていた。 けんか 登美が若者に説教していた。若者はどうやら新地のく / ーに勤めていたが、マネ 1 ジャーと喧嘩 して店を辞めたらしい 「あなたは正直だけど、気が短いから駄目なのよ、今のままじゃ何処に勤めたって同じよ、良 い加減に大人になりなさい」 「後で後悔するんだけど、腹が立っと直ぐ暄華してしまうんだ、しかし、あのマネ 1 ジャ 1 は やることが穢いよ、女の子に客を紹介してかすりを取っているんだから」 「良くあることよ」 と登美はいった。 おとな 大人しそうな顔をしているが、登美は新地でスナックを経営しているだけに、水商売の世界を 良く知っているらしい 「僕は水商売に向かないのかもしれないな」 若者は呟くようにいっこ。 おさな 良く見ると横顏にまだ稚さが残っている。 千野木はカウンターの真中に坐った。 千野木を見ると登美が会釈した。 「でもあなたは暴力はふるわないんでしよ」 ぎたな せいん どこ
真面目に会社に勤めて来たのが、今更のように馬鹿馬鹿しく思える。 千野木と真由美は笠原の部屋を出た。 地下のレストランに行った。真由美はステ 1 キを注文した。レストランには外人客が多い。千 野木は若鶏の網焼を喰べることにした。 「笠原さんとは、、 力なり前からの知り合のようだね」 「そうよ、前といっても二年位になるかしら、私がクラ・フェースに勤めていた時のお客だった クラ・フェースは一流の店で、千野木は行ったことはないが、名前は聞いていた。 「そうか、君はホステスもしていたの ? 」 「そうよ、或ることがあってね、普通に生きるのが馬鹿らしくなって水商売に飛び込んだのよ、 ぎげん でも矢張り駄目だわ、性格的にお客の機嫌を取ることなど、出来ないのね、辞めたいと思ってい た時に、笠原さんが建材新聞に紹介してくれたの : : : 」 上 「ホステスから業界紙の記者とは変り種だな」 標 「そうなの、笠原さんが、君は何になりたい、というから、本当は新聞記者になりたかった、 といったのよ、でも今更一流新聞に入れないでしよ、それに家は建材店だし、丁度良いと思った 巨 のよ」 「そういう事情なら、笠原氏と親しいの、当然だね、ただ今度の調査だがね、これは、笠原氏 個人の意向じゃないかな」 まじめ だめ
のかもしれない。 サラリー マンの千野木などには、縁のないような種類の金が、簡単に加納の手に入っているの だろう。今度だってそうなのだ。千野木を口説き落したなら、武野井商事から五十万という金が 出るのだった。 社会の仕組はおかしなもんだ、と思う。 舗装された道の外では、闇の金が乱舞している。少々の危険を覚悟すれば、幾らでも損めるか もしれない。 「どうしたのかしら」 と加江子がいった。 「何が ? 」 「私、酔ったのかしら、今夜のあなたの眼が燃えているように思えるの、何時もと違う、何時 もは何処か冷たくって、虚無的で、傍観者のような眼だけど、何故なの ? 」 「君は酔っていないよ、君の眼は正しい、僕は会社を辞めようと思っている、或るチャンスが めぐって来た、それに賭けてみよう、と思っている」 加江子は首を横に振った。 「君は反対なのか」 「分らないわ、ただね、お客がよくいうの、女って得だって、一応の容姿さえあれば、人なみ 以上の生活が出来る、だが男は一度失敗すれば、余ほどの根性と運がなければ喰いつめるって、 やみ っ
あなたはもし生活出来なくなったら、別な会社に勤めるでしよう」 「勿論だよ、当然じゃないか」 「ところが、当然と思わない人が案外多いのよ、直ぐ女を頼りにするの」 「そういう意味か、僕はそんなことは、考えたこともないね」 「あなたの魅力ってそれよ、あなたが会社を辞めてから、それが良く分ったわ」 「じゃ、君は僕に迷惑を掛けられるんじゃないかと、警戒していたのか」 「しなかった、といったら嘘になるわね」 と加江子はいった。 千野木は梅田で加江子の車から下りた。 一人になったが帰る気がしない。サラリ 1 マン時代と違って夜になると、飲み歩く癖が出来て いた。それに家に帰っても何もすることがないのだ。 田千野木は斎藤千世が経営するモン・フランに行った。 標食事も出来るのだ。 な客は余り入っていなかった。リンダもいないようだった。 巨 ポーイに、斉藤千世を呼んで欲しいといったが、まだ店に出ていないという返事だった。 千野木はもう一度後から来ようと思し 、、、モン・フランを出た。 雨は降っているが梅田で傘を買ったのでそれをさした。 かさ うそ