そんな - みる会図書館


検索対象: 幸福の絵
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1. 幸福の絵

まってしまいたくなるのだった。私はこの浮かぬ気持をどんな言葉で表現すればよいのかわから ない。惨めというのでもなく、羞恥でもない。情けないといったようなものでもなく、ただ心が 沈んでいる。桃色のふわふわした布団は、見知らぬ男と女たちの淫蕩の汗や吐息をくるんでいる。 そして私と堂本もこれからその上に同じ欲望を重ねるのだ。布団の色や、何度も水をくぐった・ハ スタオルや、洗剤の匂いが残っている浴衣などを苦にしない年代を遥かに通り越して、湯呑茶碗 の洗い方ひとつにもうるさい生活が染みつく年になってから、こんな所へ来て私は男への欲望に 身を委せている。その情熱のために、風呂場の石鹸にこびりついている、誰のものともわからぬ 毛髪を私は我慢するのだ。我慢を堂本に気づかせないように努力する。しかしそのうちに欲情の 燼がすべての気味悪さ、嫌悪、屈辱、我慢を焼き尽し、私は平気で洗いの足りない浴槽にもう一 度身を浸すようになる。だから堂本はそんな私の我慢を知らなかった。 私は堂本の意に添おうと努力していたが、堂本は何の脈絡もなく唐突に変化して、私をとまど わせた。突然、彼は電話をしてきて、有名ホテルのレストランで食事をしようといい出す。明る はばか い繁華街を肩を並べて歩いたり、一緒に乗り物に乗ることさえも憚っているのに、なぜ急にそん なに変化したのか私にはわけがわからない。 「ほんとうなの ? 本気 ? 」 私は呆気にとられて念を押さずにはいられない。 「本気に決ってるじゃないか。どうしてそんなことをいう」 いんとう

2. 幸福の絵

私の胸に優しさが満ちてきた。 「大丈夫よ。そんなこと叱らない。そんなことで叱る人じゃないわ。耐二さんは : : : 」 「そうかしら : : : 」 「そうですとも。あの人は男らしい人よ。話のわかる人。しようがないなあ、もう一年、しつか り頑張れよ、で終るわ」 「そうかしら : : : 」 比呂子は納得しかねるといった風にロごもった。 「そんなに心配なら、今までどんな時に耐二さんに叱られたかいってごらん。それで判断してあ げる」 比呂子はカのない声でいった。 「叱られたことないもの : : : 叱られるようなこと、したことないから・ その言葉が私の胸を突き刺したとは知らず、比呂子は私が何もいわないので言葉をつづけた。 「私ねえ、自信がないの。医学の勉強が嫌いなのよ。私、お医者って : : : 嫌いなの」 比呂子はいった。 「お医者って、どういうわけだか、自分たち医者こそ、世の中で一番偉い人種だと思いこんでい て、それ以外の人を下目に見てるわ。私、それがいやなの、特権意識っていうの ? あれがとっ てもいやなの : : : 」

3. 幸福の絵

私は疑わしそうにいった。 「でも学生の頃は遊んだって話よ」 「そうかしら ? 信じられないわ」 「そうそう、こんなことがあったわ、洋裁の先生なんだけど、うちに来て昔の写真帖を見てたと きよ。あっ、この人 : : : って突然びつくりするじゃないの。耐二さんの写真見て。どうしたのつ ていったら、洋裁学校の頃、この人と下宿が隣り同士で、誘われてお酒飲んで浮気したことがあ るっていうの、びつくりしてたわよ、こんな所で忘れてた人の写真見るなんて、へんな気持だわ 「へーえ」 鼻白んでいる比呂子を私はちらと見て、すぐに目を反らした。 「いい男だったものねえ、耐二さんは。上背はあるし、野球やってたから、スポーツマンらしく キビキビしてたし : : : もてたのよ」 私はそんな意地悪をした。 比呂子は私に何も質問しようとしなかった。 本当に比呂子は何も訊きたくなかったのだろうか ? 例えば彼女の父親のことについて。それ から、なぜ、どんな気持で、私が彼女を置き去りにしたかということを。自分からいい出しかね

4. 幸福の絵

「お父さんは私をお嫁にやらないっていうの、お医者のお婿さんをとって、一緒に暮すんだって 「お婿さん貰うの ? だって貴志ちゃんがいるじゃないの」 刃を返すように、いわでものことをいった。私が、私の胸奥の暗がりに深海魚のように淀んで いる、隠徴な嫉妬に気がついたのはその時だ。比呂子の楽しそうな笑顔は、「お父さん」がそれ ほど自分を可愛く思っていることへの満足で輝いていた。 「どんなことがあっても、ゼッタイ、よそへやらないっていうの。お婿さんをとるんだって」 その満足を強調するように比呂子はくり返した。 「病院を一族で固めたいのね、耐二さんは : : : 」 本当はそんなことではない。耐二がどんなに比呂子を愛しているかを比呂子はいおうとしてい る。私にはそれがわかっているので、だから却って私は、 「耐二さんは比呂ちゃんが可愛くてしようがないのねえ」 とはいわないのだった。 絵 比呂子がよく口にする家族の話といえば、耐二のことに決っていた。そんなとき、比呂子の声 の 福は弾んで、まだ話が核心に人らないうちから笑み崩れている。 「この前、うちの屋上でビキニ着て、日光浴をしてたのよ。そうしたら、診察室から丸見えだっ 皿たんだって。あとでお父さんに叱られちゃった。患者さんが診察を受けながら、みんな窓の外の ゃいば

5. 幸福の絵

間は迫るし : : : 」 私は笑った。今度は本当におかしかった。大男の堂本が時計を見い見い、人気のない電話を探 し廻っている真剣な顔を想像すると、私は幸福になる。おかしいというより、私は嬉しかったの 「よく笑う人だねえ」 それから堂本は唐突に、 「じゃ、気をつけて帰りなさい といって電話を切った。事務所に誰か人って来たのにちがいない。 うめこ 私の顔が壁に填込まれた鏡に写っていた。その顔に、突然打ち切られたために、とっさに表情 を変えることが出来ず、とまどいながら残っている笑いを、私は照れくさいような気持で眺めた。 私たちの恋は始まったばかりだった。四十四歳の女と妻のいる四十七歳の男の恋は、人目を忍ば なければならなかった。男の妻のためばかりでなく、俳優として彼が生きている「世間」のため に。 「そんなに世間が怖いのならこんなこと、しなければいいのよ。ね、茶飲み友達になりましょ ホテルのべッドの中で私はいったことがある。そんなとき、私は大袈裟に笑い立てて、堂本を からかった。その笑いの中に、私は言葉に出せない不満を籠めていたのだが、堂本はただ、

6. 幸福の絵

とは、私はそれまで思ったことがなかったのだ。 「ぼくなら、家も金も女房にやって、家を出るがね。しかし、堂本のようなのが普通なんだ。、ほ くや君が特殊なんだ。みんないろんなことを怖がって生きてるんだよ。それが普通だ。ぼくらは 毒草なんだよ」 「普通の男が、なぜ新劇の役者でいられるの ? あの人たちは人間の真実について考えつづける 人間ではないの ? 」 「そんな女子学生みたいなこと、いうなよ」 男友達はなだめるように私の頭に手を置いた。私は眼尻の涙を押えた。私はいった。 「あなたと恋愛すればよかったかもしれないわね」 「君は男を見る目がないよ」 しかし私は思っていた。この人と恋愛をしても同じことだと。私は今、堂本を罵っているが、 罵りながら私にはわかっていた。私の烈しさはどんな男と恋をしても、やがていっかは破壊して しまうだろうということが。 さなか 絵 二月、私はまた札幌へ行った。札幌は暗鬱な長い冬の最中にあって、暗い雲の下に雪を被って の 福凍てついていた。黒いプーツに黒い長マントを着た大柄な女が、遅い午後の舗道に魔女のように 立っているのを、私は空港からホテルへ向う車の中から、荒涼とした気持で眺めた。まだ夕暮に は早いのだが、灰色に沈んだ街角の窓に、ぼーっと黄色く灯が滲んでいて、コーヒーショップと

7. 幸福の絵

「一応、応接間には通しておいたけどね」 私は原稿用紙の上に万年筆を置いた。 「会うわーー」 そういって立ち上った。 私は部屋を出て、階段に向って歩いて行った。歩きながら自分の表情を意識した。むっとカん だ顔になっているにちがいない。私は十数年ぶりに我が子と会うのだ。嬉しいのか嬉しくないの か、よくわからなかった。むしろ気持は重かった。私はどんな風にして捨てた娘に会うのか ? 最初の一言のむつかしさが私を億劫にしていた。この数年、私は比呂子のことを忘れて生きてき たのだ。比呂子が何歳になったのか、そんなことも指を折って数えなければ、すぐには思い浮か ばない。比呂子に会いたいと思ったこともなかった。比呂子を含むすべての過去を忘れていた。 驚くほどきれいに忘れているので、時たま人に問われたときは、過去はまるで、私の前世の出来 こんとん ごとであったかと思えるほど遠い混沌の中に漂う風景として、少しずつ浮かび出てくるのだった。 こんな時、子を捨てた母親は、どういう言葉で捨てた子と再会するのだろう。十何年も昔に呼 んでいた「ひイちゃん」という呼び方でその名を呼べば、後は熱い感情の波が自然に言葉を運ん できてくれるのかもしれない。おそらく別れていた母と子は、激情に身を委せることによって、 二人の間に穿たれた溝を越えるのであろう。 だが私は「ひイちゃんーと呼ぶことが出来なかった。その名を私はあまりにも長い間口にしな

8. 幸福の絵

持って、洗いざらいしゃべったんだ」 「女っておしゃべりねえ。古い友達だからって信用出来ないわね」 「女は正義の士だよ、みんな。あいつだって、よその亭主の浮気沙汰に首を突っ込んで走り廻っ てたことがあったからね」 彼の前で冷静を保っていたその分だけ、ひとりになると私の中で憤怒の焔が燃え立った。私は 杉枝に電話をかけずにはいられなかった。 「ねえ、お杉、どう思う ! ねえ、どう思う ! 堂本はあの女房になめられてたのよ。ねえ、女 しかもなめてる女房というのが、頭がいいとか、生活力があるとか、 房になめられていたのよ ! 何か取柄があるのなら別よ、何の生活力もなくて、亭主の人気におんぶして、でかい顔して浪費 して浮気してる ! そんな女にとっちめられて閉ロしてたのよ、あの人は : : : 」 杉枝は私への愛情から、何かことがあると、私と同じようにすぐに気持を昂ぶらせる。 「情けない人やねえ、堂本さんも。そんな女、なんで叩き出さへんの ? 」 私はかっとして杉枝に噛みつく。 絵 「そんなこと私に訊いてもわかるわけないでしょ ! 」 の 福「けど、シャクやねえ。そんなワルがのさばって、何も悪いことしてへん私みたいな女が主人の 浮気に苦しめられるなんて。ほんまに神さんも仏さんもいはらへんのかいな。あのね、この間も ねえ : : : 」

9. 幸福の絵

「何に使ったの ? 」 「知らんーーー」 「知らんって、そんな : : : 」 「いくら訊いてもいわないんだ。剛情な奴だから、いうまいとしたら絶対いわない」 「絶対いわないんじゃなくて、あなたにいわせる迫力がないんじゃないの」 「あすこまで・ハ力とは思わなかった。もうロを利くのもいやなんだ」 「じゃあこれからどうなるの」 「働き口を探して、生活のメドがついたら出て行くっていう。それまで置いてくれっていうから、 そうさせてやることにしたんだ」 「家のことはどうするの ? 」 トのおばさんがやってくれてるんだ。飯だけあいつが作ってた。勤めから 「今までだって、。ハー 帰ったら作るだろう、子供の分は。俺は表で食ってる」 「外食なんてつづかないわ」 絵 「あんな女の作ったものなんか、汚くて食えるかい」 の 福「何を子供みたいなことをいってるの。つづきませんよ、そんな不自然なことは。下宿人が食べ たいものを食べて、主人公は外食するの ? 変ってるわねえ」 「立ちゃんとこへ食べに行こうかな」

10. 幸福の絵

堂本の小心さを、その時は私は可愛く感じる。時によっては、その同じことが私の怒りを呼び 起すのだが。 「最終の新幹線で帰らなくちゃならないんだ」 「わかってるわ」 私は機嫌よくいう。 「一緒に帰りたいなんていいません。私は明日帰ります」 「明日、まだ用があるの ? 」 「ないけど、別々に帰った方がいいんでしよう 「いいんだよ、用がなければ一緒に帰ったって、ぼくはかまわないよ」 「あんなこといって : 。それがあなたの悪い癖よ。私が真に受けて、じゃあ、一緒に帰りまし ようっていったら、困るくせに」 あなたは私がそんなことをいわない女だということを知っている。だから、安心していってい る。私は執拗にそういいかぶせる。 絵 「そんなことないよ、じゃあ、一緒に帰ろう。さあフロントに電話して今日帰るといいなさい」 の 福「あなたって、コドモみたいなところがあるのねえ」 これ以上いい募ると、だんだん真剣勝負になってくる、そう思って私が口を噤んだ時、堂本は 急に改まっていった。